トレーナーはまだ諦めなかった。
私の言葉を飲み込むように首を縦に振る……。
「また、よろしくお願いします」
スタートラインは少し違うけど、初めましての時のように。
私は勝ってみせる。
……
まだ私は走れない、骨折が治ったわけではないから。
幸い、次はどうすればいいかはトレーナーが書いてくれていた。
私はこれを信じるし、トレーナーはさらに細かく修正や補填をしていく。
走れるようになるまではリハビリがメインだ。
ウィンタードリームトロフィーまでは三ヶ月……はっきりいって短い。
とにかく走れるようにして体を元に戻さねば。
時間をかけてはいられないが、時間をかけなければしっかりとは戻らない。
やっぱり私ができることは少ないようだ……。
だからといって何もしないなんてつもりもない。
菊花賞前の怪我の時にトレーナーに言われたことを思い出す。
『怪我の復帰が難しいって言われる理由ってわかるかい?』
『……治るまで時間がかかるから、勘を取り戻すのが大変とか?』
トレーナーは静かに首を横に振る。
『怪我の状況にもよるけど、怖くなるんだ』
『怖く……なる』
『次も起きたらどうしようって思っちゃう、すると今までできたことが途端にできなくなってしまう』
『じゃあどうすればいいの?』
彼はパソコンをこちらに見せてくる。
一つのファイルを開くと、そこには日付と走ったレース、そして注目すべき選手の名前が書かれていた。
『俺はここに多くの情報を保存しておく、これをみてイメージトレーニングをするんだ……このレースに参加していたら自分ならどう展開するか、どのタイミングで仕掛けるか』
『それって何か意味あるの?』
『私は走れる、そう思わないときっと頭でわかっても足が動いてくれないから』
……
トレーナーからパソコンを借りて寮に戻る。
記憶の手順を辿って……あった、このファイルだ。
最後に更新されたのはトレーナーが記憶を失う数時間前だった。
「トレーナーは……私のことばっかり優先するなぁ」
涙脆くなっている気がする……。
動画を開いて瞼に焼き付けるように見る。
そして自分ならどうするかを考える。
菊花賞前の怪我の時はトレーニング中の違和感からだったけど、今回のはレース中、なおかつ私の武器であるコーナーで起きたことだ。
……確実に障害になる。
少しでも、ほんの少しでも走れるようになるために。
深く瞑想していく、幸い私の部屋は一人部屋だ。
いくら瞑想していても邪魔はされない。
……ここまで足を溜めて、ここからスパートをかけて、コーナーを最短で抜け、走り切る。
良くも悪くも私の走りは単純だ、極力インすれすれを加速しながら抜ける、コーナーを曲がるために広がったところに無理やり差し込む。
対策されると詰んでしまうような走りだが、最終コーナーでインを取り続けるやつはいないといっても過言ではない。
それこそルドルフやマルゼンスキークラスだろう。
あの二人は確実に壁になる……。
イメージトレーニングを数回繰り返して疲れてきたのでパソコンの電源を落として布団を被る。
眠るにしては早すぎるほどの時間だが……今日だけでかなり疲労していたのか瞼は重く、あっさりと眠りに落ちる。
……
目を開けるとターフの上だった。
きょろきょろと周りを見渡す……あぁこれは覚えてる、怪我をしたあのレースだ。
ゲートが開く、スタートは上々、位置取りも先行集団の先頭で悪くない。
位置とペースをキープする。
あと少しで最終コーナー……加速するならここからだ!
横に私自身が現れて、語り掛ける。
『お前はもう二度と走れない』
一度あったことだ、私は折れない。
『お前は期待に応えられない』
私は期待も羨望もすべて背負って走って見せる。
『お前は失ったまま終わる』
私は自分の足で勝つし、トレーナーの記憶も戻して見せる。
『お前のその足では、もう歩みよることすらできない』
止まった時が動き出すように、最終コーナーに入る。
ぐんぐんと加速してコーナーを曲がる。
呼吸は荒く、ペースが乱れる。
足から力が抜ける感覚がして……やっぱり駄目なのかな。
「俺は記憶を失った、でも彼女は俺を信じた……例えわからなくなっても信頼には答えたい、きっとここは失う前から変わらない……俺は彼女を支えてみせる、そこは譲れない信念だ」
トレーナーの声がする。
あたたかくて安心する声だ、私の好きな声だ、記憶を失って遠慮がちになった声じゃない……。
自信を持たなきゃ出ない声。
足に熱がこもる。
「諦めない、絶対に!」
踏みしめようとして……目が覚める。
「痛っ……」
足の鈍い痛みで目が覚める。
まだ走れない、でも何かをつかめたような気がする。
眠り初めてから時間はほぼたっておらず、時計を見ても短い針は同じ時刻をさしたままだった。
一度ベッドから足を降ろしてなでる……。
ギプスも松葉杖も必要なくなった足は怪我する時よりも少し細い程度で見た目にあまり違いはないが、熱がこもり痛みをもっているあたり、やっぱりまだ走ることはできないだろう。
再びベッド上に寝転がる。
今度はコーナーを走れますように……そう願って瞼を閉じた。
……
カーテンの隙間から朝日がさす……。
結局なんの夢も見ずに朝まで眠ったようだ。
あの夢の走りは、多分忘れない。
私は一人じゃない、昔も……今も。
「悪夢は振り払ってなんぼよね」
トレーナーに会いに行こう。
……
かなり早い時間のはずなのに、あの空き部屋はもう明かりがついていた。
男性の影がウロチョロと歩き回っている。
ドアノブに手をかけて……力強くあける!
「おはよ!トレーナー!あっ」
しまった、と思ったころにはもう遅かった。
時間がゆっくりと進むようにトレーナーに突っ込む……。
「!?危ない!」
バサバサと紙が舞う音が聞こえて抱きとめられる……。
え?抱きとめ???
トレーナーの腕に包まれるが、受け止めきれなかったのかそのまま倒れて……私が上に乗っかる形になった。
「ごごごめん!すぐどくから!」
「いてて……大丈夫だ、俺のことはいいが足は大丈夫か」
「大丈夫!大丈夫だから!」
顔が見れない、沸騰しそうだ。
「さ、先に紙拾おう!」
「そうだな」
ごまかすようにいそいそと紙を拾う……。
トレーナーに顔見られてないよね?絶対真っ赤だからみせたくない……。
「あれ……これって」
集めた紙はほとんど私の資料だった、怪我前のレースからデビュー時代まである。
「俺は記憶をなくしたからな、全部確認してかないと今の君に合わせられない」
目線をあげてトレーナーを見る……トレーナーの目はつきものが落ちてすっきりとしたようで、頼れる顔つきに戻っていた。
「なにか……あった?」
「マルゼンスキーに叱責されてな、自分の思いを確認した……って感じかな、記憶がなくても俺は君のトレーナーだ」
目と目があう、彼の眼は火がともっているように真剣だった。
「君を必ず勝たせてみせる」
力強い一言だった。
やっぱりトレーナーはトレーナーだ、私のトレーナーなんだ。
「……うん」
すこし照れくさかったけど、それ以上に嬉しかった。
期待してくれてるんだ、応えないとな。
……
トレーナーと資料を確認していく。
勝てたレース、負けたレース……勝因と敗因を書き出し、まとめていく。
足が治っていなくて走れないからなんて理由で時間を無駄になんかできない。
ドリームトロフィーを勝つなら、なおさらだ。
イメージを繰り返し、より正確に、より洗礼に……。
どこで息を入れるのか、どこで足を溜めるのか、どこで差しにかかるのか。
一レース一レースを思い描いていく。
トレーナーと勝つために。
……
そうやって一週間たつころには走れるようになっていた。
靴を履いてターフの上に立つ……つま先でジャンプして具合を確かめる。
想像じゃない、夢でもない。
足から伝わる確かな感触に胸が躍る。
また走れる、トレーナーと一緒に。
「今日は軽く走ってみるだけだぞ」
「わかってる、治る前みたいには走れないしね」
まだ終わりじゃない、まだスタートラインに立っただけだ。