「……管理?」
自分で言い直した声が妙に小さかった。椿がいつもの調子で頷きかけ、俺の顔を見て途中で止まる。桜も何も言わずにこちらを見ていたが、今はどちらとも目を合わせたくなかったので、携帯を机に伏せた。
あの家を出るまで、口座の数字が増える度にもう少しだと思っていた。これだけあれば生活できる。学費も払える。世話になった家にもこれ以上迷惑をかけずに済む。俺なりに計算して、時期を選んで、ようやく出ていったつもりだったのだ。
その計算の土台から何から、こいつらが下から支えていたらしい。俺が自信満々に数えていたゼロの幾つかは、そもそも俺のものですらなかった。頭を下げずに生きていけると思った金で、いったいどれだけ頭を下げなきゃならんのだ。
「俺が出ていくための金を、お前らが出してたのか」
「……兄さんが一人で暮らしたいなら、困らないようにしたかったの」
「で、困らずに暮らしてたら、今度は管理が必要だと」
「だから、そういう意味じゃなくてー」
椿が机に残した手を引っ込める。指先を袖の中へ隠す癖は昔からあったが、隠したところで、さっき俺の携帯へ伸ばしたことまで無くならんだろ。
「お兄さん、勉強とか喧嘩とか、できることいっぱいあるじゃん。お金が苦手だったら、そこは私たちがやればいいだけでしょ。全部一人でやんなくてもさ」
「俺に一言も言わずにか」
「言ったら、絶対受け取らないじゃん」
「そうだな。受け取らんだろうな」
「だったら――」
「俺が嫌がるから、俺にわからないようにやったんだろ」
そこで椿の口が止まった。金を入れたのも、携帯を弄ったのも、俺が見ている数字を変えたのも、やったことだけならさっき聞いた。だが、何でそれをやったのかという説明を聞く度に、さっきまで座っていた畳が少しずつ狭くなるような気がした。
こいつらは俺が困らないようにしたかったと言う。それは多分、本当なのだろう。実際に俺は困らなかったし、今こうして茶を出している部屋だって、その金がなければ借りられなかったかもしれない。礼を言うべきことはある。あるのだが。
「……お前ら、俺にどうしてほしいんだ」
「一緒にいたい」
椿が即答した。さっきまで少し揺れていた声が、それだけはやけにはっきりしていた。
「お兄さんといたい。それだけだよ」
「だったら普通に来ればいいだろ」
「来たら、帰れって言うかもしれないじゃん」
言った。そりゃもう何度も言った。宿題をしている俺の背中に乗っかった時も、昼寝しようとした俺の枕を二人で占拠した時も、帰れだのどけだの散々言ったのは覚えている。覚えているが、あれとこれは同じか。
「今も、そう思ってるんでしょ。出ていけって」
「……まだそこまで考えてない」
「じゃあ、ここにいてもいい?」
すぐに返事を求められて、言葉が出なかった。椿の目が俺から動かない。俺が頷けば、それを持って全部終わりにしたがっているように見えた。違うのかもしれない。だが、今の俺にはそう見える。
桜が椿の袖に触れ、それから俺の方へ身体を向けた。淡い亜麻色の髪が肩から落ちる。俺の部屋へ来た時と同じ顔なのに、こいつが何を考えているのか、急にわからなくなった。
「兄さん、そんなに何もかも自分でしようとしなくていいんだよ」
「……」
「私たちがやるから。兄さんが大事だから、兄さんのために――」
背中が固まった。
目の前にあるのは見慣れた机で、その端には三つの湯呑みが並んでいる。サメは畳の上でいつもの間抜けな顔を晒していた。それなのに、桜の声の途中から、あの屋敷で座らされていた床の冷たさが足に戻ってきた。
読む本も、出歩く場所も、朝起きてから夜寝るまでの一言一句まで、親父の決めた通りにしかできなかった。少しでも別のことをすれば、俺の身体で間違いだと教えられた。俺のためだと何度言われたか。そんなもんのために、俺は何度倒れたか。
「親父と同じことを言うな」
声に出してから、しまったと思った。桜の顔から表情が抜け、椿が大きく目を開いた。さっきまで必死に俺へ伸びていた二人の言葉が、一遍に止まった。
「……同じじゃない」
「あぁ」
「同じじゃないよ、お兄さん」
椿の声が引っ掛かった。こいつらは俺を殴らない。倒れるまで鍛錬しろとも言わないし、俺が眠いと言えば、寝ていていいと隣へ座っていた。わかっている。そんなことも忘れているわけではない。
「全部同じだとは思ってない」
「今、言ったじゃん」
「……言い過ぎた。ただ、俺が何て答えるかまで、先にお前らで決めるな」
椿が何か言いかけ、桜に手を握られた。その桜の目も赤くなっていたので、俺は顔を逸らした。こういう顔を見ると、もういいと言いそうになる。昔、母の前で笑った時みたいに、俺が平気な顔をすればいいんだろうと考えてしまう。
ここで二人を泣かせてまで怒る必要があるのか。助かったのは事実だし、損をしたことに気づかなかったのも俺だ。俺が間抜けだった。悪かった。そう言って済ませれば、また椿がくだらんことを言って、桜が笑うかもしれない。
だが、それを言ったら、次に俺が何か失敗した時も同じだ。俺だけが知らない間に二人が片づけて、俺だけがうまくいったと思い込む。その後で、ほら一人じゃ駄目でしょと笑われたら。
俺は伏せた携帯を手元へ引き寄せた。画面はまだ見たくなかったが、机の上へ置きっ放しにするのも嫌だった。
「何をしたのか、全部見せてくれ。金のことも、携帯のことも」
「……うん」
「ただ、今日はもう無理だ。帰ってくれ」
桜は少しして頷いた。椿はその隣で、座ったまま俺の携帯を見ていた。
「一人で触っても、わかんないところあるよ」
「わからなかったら聞く」
「私に?」
それにはすぐ答えられなかった。こいつがやったことはこいつに聞くしかないのだろうが、こいつに全部任せていいのかどうかを確かめようとしている最中でもある。自分でも面倒な話だと思う。思うが、面倒だからと飛ばせる話ではない。
「……誰に聞くかも、少し考えさせてくれ」
椿が俯いた。桜がパソコンを閉じて鞄へ入れ、机の脇にあった教科書も片づける。俺は何も手伝わなかった。手を出したら、そのまま鞄を引き止めてしまいそうだった。
玄関で桜が振り返った時、いつもなら椿が先にサメを撫でに行くことを思い出した。今日は見ただけだった。自分の物を俺に置いていったくせに、取り返すこともしない。
「資料、送ってもいい?」
「あぁ。全部頼む」
「うん。……帰るね、兄さん」
椿も靴を履き、迎えを呼ぶ携帯を握ったまま俺を見た。「お兄さん」と一度だけ呼んで、後が続かなかった。ねぇだの遊ぼうだの構ってだの、俺が何をしていても次々出てきたあの口が、今は何も言わない。
「おやすみ、兄さん」
「……おやすみ」
桜が椿の手を取り、扉が閉まった。少しの間その前に立っていたが、足音はもう階段の方へ遠ざかっていた。今呼べばまだ戻ってくるだろう。だが、戻ってきた二人に何を言うつもりなのか、俺にはわからなかった。
机へ戻ると、三つとも茶が残っていた。二人の湯呑みを流しへ運び、自分のを手に取って、そこでようやく喉が渇いていたことに気づく。冷めた茶は思っていたより渋かった。
何もしていないのに、ひどく眠い。
そう言えば、さっきまでいた二人は、寝てていいよと言ったんだろうなと思った。湯呑みを置いて、俺はまた閉まった扉を見ていた。