土曜日。起きたら昼に近かった。
いつものように誰かが扉を叩いたわけでもなく、携帯が鳴ったわけでもない。ノッポたちには昨夜のうちに休日は来るなと念を押しておいたし、双子にも来いとは言っていない。むしろ帰れと言ったのは俺だ。実に静かで、実に平和な休日だった。
布団を畳んで顔を洗い、台所に立つ。使う鍋も皿も、作る飯の量も二人が来る前と同じだが、横から覗き込む頭が無い。味見だと言って箸を伸ばしてくる奴も、今取ったそれ全部食うつもりかと訊きたくなる奴もいない。うるさい二人がいなければ、飯なんぞあっという間に済む。
済んだ。
時計を見ても、まだ昼だった。食器を洗っても、さっきからたいして進んでいない。俺の休日というのは、こんなに暇なもんだっただろうか。
椿から届いていた資料を開いた。取引の日付、実際の損益、補填された金、俺の画面に出ていた数字との違いまで、綺麗に並んでいた。説明を読むとわかるようになっている。今までわからなかったことまでわかってしまう。やろうと思えば最初から俺にも説明できたんじゃないか、とその親切な一覧に腹が立った。
補填の合計は一千二百万円。日付を追うと、家を出る前にも出た後にも金が動いていた。迷惑を掛けずに済んだと思っていた二年間まで、この一覧に載っている。妹が兄を心配している、なんて一言で済む金額ではなかった。
携帯についての資料もあった。どの情報を見て、どこに手を入れたかが書かれている。ここまでされて一つも気づかなかった俺の方にも腹が立ち、途中で一度画面を閉じた。もう知らなかった時みたいに使えないが、俺一人でどうにかできるものでもなさそうだった。
連絡先を開いて、養父の番号を選ぶ。二度目の呼び出し音が終わる前に、いつもの声が返ってきた。
『春くん? どうしたんだい』
「……相談したいことがあります」
『うん。聞こう』
勢いをつけたまま話した。途中でいつもの大丈夫ですを出してしまったら、今日はもう掛け直せない気がしたのだ。自分で金を増やしたつもりだったこと、その金には双子からの補填が入っていたこと、携帯を使って知らないうちに居場所を見られていたこと。資料にある数字も、そのまま読んだ。
養父は途中で口を挟まなかったが、一千二百万のところで長く息を吐いた。
『そこまでやっていたとは、知らなかった』
「二人の金だそうです」
『祖母からあの子たちへ渡された資金があってね。そのことは私も妻も知っている。ただ、春くんのために、そんなに使っていたとは……』
続く言葉がなかなか出てこなかったので、手元の一覧をもう一度見た。俺の口座へ入っていたのは確かに金だが、その前に誰の手から誰の手へ渡ってきたのか、考えたこともなかった。
『春くんに頼まれて、運用の管理を手伝っていると聞いていたんだ』
「頼んでません」
『そうだね。今の話なら、頼んでいない』
声が低くなって、少し身構えた。だが、怒られたのは俺ではなかった。二人の話を聞いてそれで済ませ、俺に一度も確認しなかったことを、養父は自分のこととして話した。
『金を扱わせた以上、こちらで確かめなければいけなかった。私たちが見ていなかったせいでもある。二人には私からも話を聞くよ』
「……俺も、勝ってると思い込んでたんで」
『その取引は、記録を見て確かめよう。ただ、勝手にされたことまで、春くんが一緒に背負わなくていい』
うまい返事が思いつかず、はいとだけ答えた。自分が知らなかったことを話したら、もっと知らないことを並べられて終わるかと思っていたのに、話は端末を確認に出す段取りへ進んでいった。連絡用の携帯は別に用意する。口座は椿の一覧だけで済ませず、実際の記録と照らし合わせる。俺にも見たいものをまとめておくよう言われた。
電話を切ってから、ノートを出した。覚えている取引を書いて、資料と比べて、電卓を叩く。負けていた。もう一度計算しても負けていた。親父に叩き込まれた理屈を覚えているのと、その理屈で金を増やせるのはどうやら別物だったらしい。
勉強代にしちゃあ、高すぎる。
夕方には端末の確認と交換の手配について連絡が来た。俺は返事をして、誰かに説明できるよう資料とノートをまとめた。その後でふと目をやると、サメが布団の端からずり落ちていた。拾って定位置へ戻す。椿の物だからといって、こいつまで放り出す必要は無いだろう。
日曜も二人は来なかった。机を拭いて、資料を読み直して、湯呑みは一つだけ出した。別に隣を空けておいたわけではないが、床に物を広げる時も、いつも二人が座る辺りを避けていた。気づいてからも、そこへ移すのは何となく嫌で、そのままにした。
……。
週明け。廊下で小野寺に呼び止められた。
両手で紙袋を持ち、こちらを見上げている。顔色はもう悪くなかったが、俺の前へ出るまでに随分勇気が要ったらしい。一度口を開いて閉じ、改めて深く頭を下げた。
「先日は、ありがとうございました」
「あぁ。もう平気なのか」
「はい。診てもらって、今日から学校に来ていいって言われました」
「そうか」
「写真を撮ろうとして、危ない所に立ってしまって……先生にも、両親にも叱られました」
紙袋の持ち手がきゅっと捻れた。あんな高さから落ちてきたのだ。周りだって相当驚いたんだろうが、本人も思い出すとまだ怖いらしい。俺は袋を持つ手から顔へ目を戻し、次は気をつけろよとだけ言った。
「助けてもらった後も、何も言えなくて、すみません」
「気を失ってたんだから仕方ないだろ」
「でも、お礼は自分で言いたかったので。これ、よかったら」
差し出された袋には菓子の箱が入っていた。気にしなくていいと言おうとしたら、先に「気にします」と返ってきた。早い。俺もまだ最後まで言ってないんだが。
「嫌いな物だったら、ごめんなさい」
「……いや。そんなことはない」
「よかったです」
受け取ると、そこでようやく肩が下がった。逃げずに俺の顔を見て笑うので、何と返せばいいのかわからず、ありがとうと小さく言った。小野寺はもう一度頭を下げ、それから教室へ戻っていった。
「兄貴、お菓子」
「やらん」
「まだ何も言ってないッスよ」
いつの間にかチビが横へ来ていた。言っていなくても欲しそうな顔はしている。二年間も無駄に付き纏われていると、それくらいはわかるようになるのだ。嬉しくもない特技が増えてしまった。
「今日は妹さんたちと帰らないんスか」
「……あぁ」
「そうッスか」
それだけ言って俺の横へ並び、袋をもう一度見た。事情を聞かないのかと思ったが、聞かれたら話すつもりもなかったくせに、俺も随分勝手なもんだ。
「兄貴、そんな顔して歩いてたら、廊下の人が逃げるッス」
「お前は逃げんのか」
「付き合い長いんで。今さらッスね」
チビが肩を軽く叩いた。生意気なことを言う奴だが、その手を払う気にはならなかった。ついでに袋へ手を伸ばしかけたのは止めた。だからやらんと言っただろ。
放課後、部屋へ戻ってから、新しい携帯に番号を入れた。前の端末は資料と一緒に確認へ出してある。口座の照合も始めてもらっているが、まだ終わったという連絡は来ていない。電卓を一回叩けば決着のつく話でもないらしい。
養父と養母の番号を入れ、その下に桜、その次に椿と打った。前の携帯をそのまま引き継いだわけではない。名前も番号も、俺が自分で入れた。
桜へ送る文を開いて、何度か閉じた。椿の方も開いた。電話帳の二つの名前を見比べているうちに、外が暗くなっていた。
ここでどっちから来るか考えてどうする。
来いと言うのは、俺の番だった。