「……ねぇ椿。それ、さっきも見てたよね」
「んー」
「さっきのさっきも」
「……見てただけだよ」
椿は白いノートパソコンの蓋を閉じた。閉じる寸前まで映っていたのは春のアパートで、最後の位置情報はそこから動いていない。更新が止まった理由も知っている。父から、春の端末を確認に出すという連絡があったのだから、今さら三度も四度も開いたところで新しい情報が出てくるわけがなかった。
わかっているが、開く。それをまた閉じる。ここ数日の椿がしているのは、たいていそれだった。
別邸へ持ってきた荷物はまだ整ったままだった。向かい合わせのベッドも、同じ形の机も、制服を掛ける場所も、二人で過ごす分には何一つ足りない。ただ、春の部屋へ置くつもりだったクッションだけが行き場をなくし、椿の膝に乗っていた。
「今日、今どこにいるんだろ」
「学校にはいたでしょ」
「それは知ってるってば。今の話」
桜が隣へ座った。今どこにいるのかを尋ねるくらい、電話を掛ければできる。できるのだが、それで「お前らには関係ない」と返されたらどうするのか。その言葉をまだ聞いていないうちは、聞いた後のことも考えなくていい。
椿はクッションに顎を埋めた。桜の携帯には春へ資料を送ったと伝えた文が残っている。会いたいと打ちかけた方は、送る前に消した。昨日も一昨日も、消す前には同じ文だった。
「お父さんから、また確認きた」
「お金の?」
「それと携帯。送った分で、今わかるのは全部って返したよ。お兄さんにも同じの送ったし」
「うん」
「ちゃんと読んでるかな」
「読むよ。兄さんだもん」
「そうじゃなくてさ。読んで、どう思ったのかなって」
椿はクッションの端を握り、携帯へ目をやった。桜の指も、裏返した携帯の角に触れていた。春に送った資料なら、二人とも何度も読み返している。
「……あんな顔、するんだね」
椿が言った。金の話をした時に怒られることは、さすがに覚悟していた。お前ら勝手に何をしてるんだ、と低い声で言われるくらいは。そうなったら、どれだけ困らずに済んだかを順番に見せて、最後にいつものようにお兄さんってばと笑うつもりだった。
春は笑わなかった。笑わないのは珍しくもない。なのに、携帯を引き寄せて机から指を離したあの動きだけが、椿の中で何度も繰り返される。
「あの人と同じだって言われるとは、思わなかった」
「……私も」
「知ってるじゃん。お兄さん、どんなことされてたか」
桜は頷いた。春が全てを話したことはない。それでも、初めて家に来た頃の傷も、誰かが声を掛ける前から身体を固くしていたことも、二人は覚えている。その春が、自分たちを見ながらあんな声を出した。
「困らないようにしてたんだよ」
椿がクッションの端を握り込む。春の取引がうまくいかないことに気づいた時も、金が足りなくなるのを見ていた時も、眺めているだけにはなれなかった。本人に知らせれば、今度は自分たちの分まで生活を切り詰めるだろう。そういう兄だと知っていたから、知られないまま済む方を選んだ。
「助けてなんて言わないもん、お兄さん。いつも自分でどうにかするって、こっちを見ないでさ。だから私がやったのに」
「うん」
「桜姉さんだって、一緒に見てたでしょ」
「見てたよ。困ってほしくなかったし、あの学校へ来てほしかったのも私」
桜は椿の膝のクッションへ手を置いた。春のアパートは狭い。その狭い部屋へこれも置けば、座る時に春との距離がまた少し近くなる。買う時は二人でそんな話をしていた。部屋に置く物くらい自分で決める、と今の春なら言うかもしれない。
「でも、兄さん、元気になってたね」
「……うん」
久しぶりに会った春は、二年前よりよく話した。チビという同級生に文句を言い、黒服の男たちを追い払い、狭い台所から茶を出した。誰の顔色を窺うでもなく、面倒だとうんざりした顔をしていた。以前、二人が春の部屋で騒いでいた頃は、あんな顔さえ滅多にしてくれなかったのに。
「よかったって思ったよ。本当に」
「うん」
「だけど、私たちがいなくてもあんなふうに暮らしてたんだって思うと、ちょっと嫌だった」
椿が顔を上げた。桜は携帯を裏返したまま見つめている。
「兄さんが元気なのは嬉しい。でも、もう私たちがいなくてもいいって顔、してほしくなかった」
「私が見てたから、できたことだってあるのにね」
その言葉がすぐ出てきて、椿は口を閉じた。桜も咎めなかった。言っていないだけで、同じようなことを思ったことがある。自分たちが知らない相手と、知らない場所で春が笑う。知らないままなら、それを見せてもらうことすらできない。
会えなくても春の行き先は毎日見ていたし、二人でいる時も、次に会う時の春の話ばかりしていた。一人で暮らさせていたつもりではある。手放した覚えは、どちらにも無かった。
椿が桜の手を探した。指が触れると、桜の方から握ってくる。二年前、春が家を出た朝もこうしていた。桜は父へ、椿は母へ、いつもの呼び方で春の居場所を訊いた。大人たちの顔を見た時点で、何があったのかは大体わかった。
だから二人で見つけた。住んでいる場所、通う学校、毎日通る道。あの兄なら一人で平気だと言い張り、今追いかけていけばまたどこかへ行きかねない。だったら、その暮らしが続くようにしておいて、自分たちも同じ学校へ入る。
誕生日が来る度に、送れなかった文を見せ合った。今度は会って言おう、あと一年したら、あと半年したら。春の名前が出ない日は無かったし、椿のパソコンを桜が覗かない日もほとんど無かった。待つことなら、わりと得意なつもりでいた。
その待つ間に春の居場所を確かめられなくなる、というのは二人とも考えたことが無かったが。
「……この前、寝てていいって言ったら、本当に寝てくれたのに」
桜が呟いた。眠いと言い直した春が、横になる前に一度だけこちらを見た。目を閉じた後も二人を追い払わなかった。あの時は、もう少しここにいていいのだと思った。
「椿、寝てる兄さんの携帯、また見ようとしてたでしょ」
「だって、いつもの……」
「私も、今はここにいるからいいでしょって言った」
二人は、春がここにいなければ見るつもりだった。本人に聞くことは、どちらの頭にも無かった。椿はクッションを脇へ置くと、閉じたパソコンの角へ手を伸ばした。
「開いても、変わらないよ」
「知ってるってば」
蓋は開けず、そこへ指を置いたまま、椿は携帯を見た。桜の携帯も、自分の携帯も鳴らない。
「聞いて、嫌だって言われたらどうするの」
椿が尋ねた。桜も、そんな返事を聞きたいわけではない。袖を掴んでしまいたいし、逃げる先を二人のいる方へ変えてしまいたい。春の部屋へ行けない日くらいあってもいい、なんて、今も思えない。
「……兄さんから呼んでほしい」
「答えになってないよ、姉さん」
「だって、それがいいんだもの。私たちが行ったから会った、じゃなくて。兄さんが私を呼んだって、そう思いたい」
椿は桜の手を見た。自分が握ったままの手を、さらに少し引き寄せる。
「私は、わかんないことがあったら私に聞いてほしい」
「うん」
「ほかの人より先に。お金だって携帯だって、私がやったんだもん。お兄さんのこと、私が一番知ってるのに」
桜がちらりと椿を見た。一番、というところを聞き逃すはずもなく、椿もそれを見て少しだけ笑った。
「……二人で一番なら、いいでしょ」
「今直したね」
「だって桜姉さん、そういう顔するから」
その時、桜の携帯が震えた。見覚えのない番号から短い文が届いていたので、画面を開く。続いて椿の携帯も震え、同じ文字が映った。
『春。話したい。明日来られるか』
二人は顔を見合わせた。桜がすぐに返事を打とうとすると、椿がその袖を引いた。
「時間。先に時間聞こ」
「……うん」
月曜の夜だった。明日、と言われただけで、何時に行くのかも、何を話すのかもまだわからない。それでも椿は閉じたパソコンを机の奥へ押しやり、桜は打ちかけた文を頭から打ち直した。
知らない番号を、二人とも同じ名前で登録した。
春から呼ばれた。たったそれだけで、まだ何も許されていないのに、明日のことを考えずにはいられなかった。