翌日、約束した時刻より少し早く扉が叩かれた。開けてみれば、そこには小さな袋を持った桜と、封筒を両腕で抱えている椿。俺が何か言うより先に二人ともこちらの顔を見て、それから一歩だけ近づいてきた。
「……入れ」
「お邪魔します」
「しまーす」
いつもなら真っ先にサメを拾い上げる椿が、今日はその横へ座っただけだった。桜も勝手に台所へは来ず、鞄を膝に載せて俺の方を見ている。俺がそうしてくれと言ったようなものなのだが、いざ大人しくされると、どうにも落ち着かない。少し前まで来るな帰れと文句を言っていたのはどこの誰だったか。
茶を入れて戻ると、桜が机へ袋を置いた。中身は菓子らしい。椿も封筒を差し出して、送った物と同じだけど紙の方が見やすいところもあるから、と説明した。その几帳面さをあと二年くらい早く俺の前で発揮してほしかったが、そこから言い出したら話が終わらない。礼を言って受け取り、向かいへ座った。
昨夜は何から話すか、ある程度考えていた。金のこと、携帯のこと、二年前のこと。順番を決めておけば何とかなると思っていたのに、二人の顔を見た途端、用意した言葉がひとつもそのまま出てこなくなった。茶ばかり飲んでいるわけにもいかず、俺は湯呑みを置いた。
「この前、親父と同じだって言ったことなんだが」
二人の目が上がった。椿は封筒の端を押さえ、桜は膝に置いた手を重ねる。やはり、最初に言うならこっちだと思った。
「全部同じだとは思ってない。……言い過ぎた」
「うん」
「ただ、怖かったのは本当だ。俺が何をするか、俺だけ知らないみたいで」
声にすると情けない話だった。自分でやっているつもりのことを、実は妹たちに見られて直されていた。しかも自分が見ていた数字まで違う。いくら助かったと言われても、じゃあ良かったなと茶を飲むには、少々俺の頭が追いついていなかった。
「金で失敗してたことは、確かめてる。お前らに助けてもらったこともわかった。ただ、先に言ってほしかった」
「言ったら、受け取った?」
「……最初は嫌だって言ったと思う」
「ほらー」
「でも、負けたことを知ってりゃ、その後どうするかは考えられただろ」
椿が唇を尖らせたまま黙る。俺は封筒を指で押さえ、できるだけ目を逸らさずに続けた。
「俺が答える前に、決めないでくれ」
「受け取らないって言ったじゃん」
「だから、受け取らないところから話してくれ。負けたのも知らないままじゃ、話もできん」
「……それで足りなくなったら?」
「電話する。何を言えばいいかは、まだ知らんが」
桜はまだこちらを見ていた。信用しろと胸を張れればよかったのだが、これまで俺が繰り返してきたのは、大丈夫だ、問題ない、何もない、の三種類くらいだ。困ったから電話した時にまでそれを言ってしまったら、何のために掛けたのか向こうにもわからんだろう。
「父さんに掛けた時も、途中で大丈夫だって言いかけた。こっちから電話しておいて、何が大丈夫だって話だ」
「用は、あったでしょ」
「あぁ。だから、金がわからなくなったって、そっちを言った」
言ってから、自分の呼び方に気づいた。桜も気づいたようだったが、椿の方へ一度目を向けただけだった。椿は封筒の端を指で撫でている。俺は茶を飲み、少し口を離した。まだ熱い。金曜日には冷めて渋くなるまで、飲むのも忘れていたというのに。
「二年前のことも。何も言わずに出ていって、悪かった」
椿が封筒から手を離した。桜は菓子の袋を開こうとしていたが、結び目に指を掛けたままこちらを見ている。謝ることと家を出たかったことを一緒にしてしまうと、また適当なことを言う羽目になりそうで、俺は少し間を置いた。
「家を出たかったのは本当だ。ただ、お前らがどう思うか、聞かなかった」
「……寂しかったよ」
椿の声は、いつもの半分くらいの大きさだった。
「知ってるって言わないでね。お兄さん、知らなかったでしょ」
「知らなかった」
「嫌われたのかなって思った。追いかけたら、もっと嫌われるのかな、とも」
「嫌いじゃない」
考える前に言っていた。二人が揃ってこっちを見るものだから、俺は視線を机へ落とす。
「……うるさいとは思ってたが」
「それは知ってる」
椿が少し笑った。桜も口元を緩め、鞄を膝から下ろした。気を遣われっぱなしだった部屋に、ようやくいつもの二人が戻ってきた気がした。
「私たちは、好きだったよ。兄さんが出ていってからも、ずっと」
「……家族だから、ってことだろ」
桜は首を横に振った。
「それだけじゃないよ」
「お兄さんが他の女の子を好きになったら、私、絶対嫌だと思う」
椿の方を見た。桜の方も見た。いつもなら、椿ったら、とか、あらあら、とか、そういう具合に間へ入ってくるはずの姉は、ちっとも妹を止める様子がなかった。
「私も、嫌」
その声は、妙に落ち着いていた。
冗談だと思えば、いつものうるさいで済ませられた。けれど、二人とも俺の返事を待っている。椿でさえ、こちらをからかって笑おうとはしなかった。
「兄さんだから大切。それも本当。でも、兄さんじゃなくても、私は好きになったと思う」
「私は、見つけると思う。どこにいても」
俺は、湯呑みを置いた。
俺がいなければ、あの家はもっと普通に暮らせる。そう思って家を出た。こいつらは、俺がいなくなったら困ると言っている。それも、俺が想像していたような、兄がいないと少し寂しい、程度の話ではないらしい。
桜の視線を感じた。椿も、机の向こうからずっと見ている。昔はその視線を無視して勉強していた。今、それを同じように無視していいとは、どうしても思えなかった。
「……どう答えればいいか、わからん」
「今、返事を決めてほしいわけじゃないよ」
「でも、聞かなかったことにはしないで」
桜と椿が続けて言った。俺は二人を見て、頷いた。
「しない」
それ以上は言えなかった。湯呑みへ手を伸ばしたが、口へ持っていくのを忘れたまま、二人の方を見ていた。
そのあと、携帯と金には勝手に手を入れないでほしいこと、部屋に来る時も先に聞いてほしいことを話した。椿は来ていい日まで駄目になるのかと心配し、桜は今日は駄目と言われたら聞けると思う、と少々頼りない返事をした。
「思う、なの?」
「絶対平気って言ったら、嘘でしょう」
妹に問われても、桜はそこだけは言い直さなかった。俺も、絶対に上手くできるとは言えない。今までの自分を考えると、そのくらいの返事の方が信用できた。
「俺も、離れたい時は言う。黙って消えない」
「……うん」
「金は、すぐ全部返せない。どうするか、父さんたちも入れて話したい」
「私たちが出したから言うこと聞いて、って思ってるわけじゃないよ」
「そうか」
「でも、頼ってくれたら嬉しい」
椿はそう言って、サメのひれへ少しだけ触れた。俺はようやく湯呑みの残りを飲んだ。桜も椿も、帰る支度を始める様子はない。
「今度の休み、家に顔を出そうと思う」
二人の顔が上がった。椿は俺を見てから姉を見る。桜は膝の上で妹の手を握り直した。
「……家?」
「あっちの家だ。父さんたちにも、ちゃんと話したいから」
「連絡、する?」
「俺がする」
桜が頷いた。その返事は、さっきより少し揺れていた。椿が机越しにこちらへ手を伸ばし、途中で止める。
「触ってもいい?」
何に、とは聞かなかった。俺が机へ手を置くと、椿の指が重なった。その隣から桜もそっと手を置く。二人の手は俺が覚えていたより少し大きく、握る力は、相変わらず妙に強かった。