家に帰るだけで、ここまで面倒なことになるとは思わなかった。別に乗り換えが十回あるとか、途中で遭難するような山を越えるとか、そういう話ではない。列車へ乗って、降りて、知っている道を歩けば着く。切符を買う金も、一晩分の服もある。ないのは、どういう文面で連絡すればいいのかという知識だった。
今度の土曜日に行きたい。日曜日には戻る。その二行を書いたところで、俺は携帯を見たまま動けなくなっていた。元気にしているかと先に聞くべきだろうか。突然帰るなどと言って迷惑にならないだろうか。そもそも俺の使っていた部屋はまだあるのか。考えたことを全部書いてみれば、宿を予約する際の問い合わせみたいな文章が出来上がっていた。家だと言われたばかりなのに、何をやっているんだ俺は。
消して、電話を掛けた。これ以上一人で考えていたら、土曜日が来る。
『春くん?』
「今度の土曜日、そっちへ行ってもいいですか」
『……もちろん』
「日曜に戻るつもりです。一晩、泊まれれば」
『うん。何時頃になる?』
養母の声を聞いて、とりあえず用意していたことを言った。調べた列車の時刻を伝えると、電話の向こうで何かを動かす音がする。多分、手帳か何かだろう。駅まで迎えに行こうかと聞かれ、歩けるから大丈夫ですと答えた。養母はそれなら家で待っているね、と言って、今度は夕飯に何が食べたいかを聞いてきた。
「何でも……」
反射でそう答えかけ、俺は口を閉じた。食べられれば何でもいいというのは本当なのだが、聞かれたことへの答えとしては、毎度あまり役に立たない。
「前に作ってもらってた、卵のやつ」
『卵?』
「肉と、野菜も入ってたやつです」
『オムライス?』
「あぁ。それです」
名前を聞いてやっと思い出した。赤い皿に、黄色い卵。椿がケチャップを掛けすぎて、桜が皿の端を拭いていた。あの時は食卓をうるさくするくらいなら別々に食えばいいだろうと思っていた気がする。今思い返してみても、なんでそこまで黙って食わせたがっていたのか、いまいちわからない。
『いいわよ。覚えていてくれたんだね』
「……はい」
電話を切り、俺は携帯を机へ置いた。もっと何か、こう、色々聞かれるものだと思っていたのだが、時刻を伝えて夕飯を決めたら帰ることになった。先に書いていた妙に長い文章は、一体何だったのか。
翌日、チビに手土産を買えそうな店を聞いた。本人が妙なことを言うのも面倒だし、聞いたことをノッポやガリに話されると更に面倒なので、あまり大げさにはしないでくれとも付け加えた。
「兄貴がお土産……? 帰省ッスか」
「あぁ」
「なるほど。で、お母さんの好きな物は?」
「……茶」
「お茶」
「紅茶だ」
「最初からそう言ってほしいッス」
俺が渋い顔をしている間に、チビは店を一軒教えてくれた。思ったより普通に済んだので、帰りに寄ることにする。しかし店へ入ったところで、紅茶にこんなに種類があるという余計な知識を得てしまった。飲んでいたのは覚えているが、茶葉の産地やら名前やらまで眺めた覚えはない。仕方なく店員に聞き、出してもらった中から一つ選んだ。予算に収まる値段で、綺麗に包んでもらえた。誰かに物を聞くと案外早く終わる。最近、そんなことばかりやっている気がする。
店を出たところで、椿から連絡が来た。今日は行っていいか、と。進路の資料を一人で読むつもりだったので、今日はやめてくれと返す。すぐに、邪魔しないよ、と返ってきた。そう言われれば確かに、ただ座っているだけなら邪魔にはならん。しかしこいつらが座ったまま何もしなかったことが、今まで何度あったか。
『今日は、一人で読みたい』
送り直してから、紅茶を鞄へ入れた。駅まで歩いても返事は来ず、切符を出す時にも俺は携帯を見てしまった。代わりに桜から連絡が来る。夕飯だけでも、と書いてあったので、明日にしてくれと返した。数分経って、わかった、と一言だけ届く。
これで部屋へ帰って資料を読めるはずだったが、電車の中でまた携帯を出した。今から来ていいと言い直せば、二人ともすぐ来るだろう。ただ、それを言うと、一人で読みたいと言った方の俺は何だったのか。見ていた画面が暗くなったので、そのまましまった。
部屋へ戻ると、椿から明日は何時かと聞かれた。夕方なら大丈夫だと伝えると、何時の夕方、と続く。六時、と送ってようやく話が決まった。
『明日は会えるんだよね』
『あぁ』
『約束だからねー』
最後の一文を読んでから、俺は資料を机へ広げた。先へ読み進めるまで、思っていたより時間が掛かった。
翌日、六時ちょうどに扉が叩かれた。椿が時計を見せてから俺を見る。俺が入れと言っても、まだ見ていた。桜まで鞄の持ち手を握ったままだったので、二人を通しながら、今日は飯も作ってある、と伝えた。ようやく椿がサメの方へ行き、桜が靴を揃える。
食べ終えると椿が帰る支度はできたかと聞き、まだだと答えれば、手伝っていいかと畳みかけてくる。
「服を出すだけだ」
「じゃあ、見ていい?」
桜が衣類を入れている箱を指す。頷くと、二人はその前へ座った。俺なら上から二枚ほど取って終わりだったのに、こいつらが見ていると、どうもそうはいかないらしい。
「お兄さん、暗闇に帰るの?」
「家に帰るんだが」
「全部黒じゃん」
「汚れが目立たない」
「そういう理由だったんだ……」
何か問題があるのか。黒い服を着ていると俺が余計に怖く見えることは、これまでの経験で薄々わかっている。ただ、だからと言って派手な色を着ればいいとも思えない。少なくともあのチビに相談したら、絶対にろくな物を選んではこない。
桜が箱の下から灰色の薄い上着を出し、これなら、と言った。中へ着る物を白にして、俺はそれを畳む。椿が昼間にも見つけられると喜んでいる。誰が俺を捜すつもりなんだ。
切符はもう取っていたので、携帯で時刻を見せた。二人も一緒に帰ることになり、桜が自分たちの分を調べ始める。椿は画面と俺の畳んだ服とを交互に眺めていた。
「この上着にしたんだね」
「今選んだだろ」
「うん。覚えとく」
「そんなことまで覚えるな」
「無理」
「無理だねぇ」
ほぼ重なった二人の返事を聞き、俺は鞄を閉めた。聞いてから物を触るようにはなったが、俺のことを覚えていく分には遠慮するつもりがないらしい。そういう部分まで一度に変わるとも思っていなかったが。
そのあと、椿が机の脇の紙袋を見つけた。小野寺から貰った礼の菓子だと答えると、携帯を見ていた桜の指まで止まった。あぁ、これか。前ならそんな顔をされても意味がわからず、変なところに置いたのかと思って片付けていただろう。
「ちゃんとお礼、言ってもらえたんだね」
「あぁ。まだ開けてない。食うか」
箱を取り出して聞くと、椿は一度だけ桜を見た。それから二人とも頷く。俺が皿を出している間、袋を折り畳む音だけが妙にはっきり聞こえた。
「……美味しい」
「そうだな」
「ちょっと悔しい」
食べたばかりの椿を見てしまった。桜は小さく笑ったが、否定はしなかった。これは、どう返したらいいんだ。小野寺が作ったものではなく買ったものらしいぞ、と説明すれば済む話でもないのだろう。結局、俺はもう一枚を皿へ出した。椿は食べた。悔しくても菓子は減るらしい。
土曜日、駅で待ち合わせた。双子の鞄は俺より少し大きく、家へ置いてくる物も入っているのだと言う。俺の荷物は着替えと紅茶だけだった。身軽なはずなのに、包みが潰れないかをさっきから何度も確かめてしまう。
列車では椿が窓側、桜がその隣、俺は通路を挟んだ席へ座った。三人並びたかったと椿が文句を言うので、次は早めに取ればいいと答えたら、二人してこちらを見てきた。
「……何だ」
「次も帰るんだね」
「そういうことも、あるだろ」
窓へ顔を向けた。その程度で喜ばれても困るのだが、椿はもう機嫌を直して桜の肩へ寄りかかっている。いつ帰るかも決めていないくせに、二人は早速何かを小声で相談し始めた。
西へ流れていく景色を眺めながら、前にこの列車へ乗った時のことを思い出した。あの時は、反対へ向かっていた。俺がいなければ済むと思っていて、家へ帰るための切符など調べもしなかった。
駅を降りると、知っている道の先に知らない店が一軒できていた。昔、椿が寄りたがった店の看板はまだ残っている。桜が道を渡る前に俺を見たので、わかる、と答えた。二人とも頷き、それから俺と同じ方へ歩き出す。
道は覚えていた。あの角を曲がった先に門があって、その向こうに玄関がある。特別な準備も許可証も要らず、買ってきた茶さえ渡せばいい。そう頭の中で繰り返していたくせに、扉の前へ立ったら少し足が止まった。
呼び鈴へ手を伸ばすより先に、中で足音がした。俺が横を見ると、桜が笑っている。椿も、今日は俺の袖を掴まずに待っていた。
鍵の開く音がした。