扉を開けた養母は俺を見上げて、少しだけ口を開いた。俺も何か言おうとしていたのだが、その顔を見たら忘れてしまった。久しぶりですだったか、急に来てすみませんだったか。いや、来ること自体は連絡したのだから、急というのも変だろう。こういうところでいらないことを考えるのは、俺の悪い癖だと思う。
隣で椿が靴の先を揃えた。桜は俺より半歩後ろにいる。二人とも普段ならさっさと先へ入るくせに、今日は俺が動くまで待つつもりらしかった。
「……ただいま」
「おかえり、春くん」
養母はそう答えて、身体を横へ寄せた。入って、お父さんも待ってるから、と言われてようやく、俺は玄関へ足を入れる。
廊下の奥から食べ物の匂いがした。棚には見たことのある小物が並び、靴を脱ぐと、椿がその隣へ自分の靴を置いた。続いて桜の分も並ぶ。前にここを出ていった時は、自分の分だけ履いて、そのまま扉を閉めた。出ていく方の支度は早かったのに、戻ってくるのにずいぶん掛かったものだ。
「お土産です」
「ありがとう。後でみんなで飲もうね」
養母が紅茶の包みを両手で受け取った。それを見て少し息を吐く。ここまで潰さず持ってこられただけで、随分な仕事を終えた気になっていた。居間へ入ると、養父が立ち上がる。
「おかえり」
「……ただいま」
今度は、さっきより簡単に出てきた。養父は俺の鞄を見て、先に荷物を置いてきたらと言った。部屋は使えるようにしてある、と。俺は礼を言って階段へ向かった。
後ろから双子がついてくる。廊下の端にあった部屋は、やはり同じ場所にあった。当たり前だ。家の中の部屋が勝手に引っ越すわけがない。しかし、扉を開けるまで変に心配してしまった。
机と窓。持っていかなかった本は棚の片側へまとめてあり、以前こいつらが運び込んだぬいぐるみが一つ、上の段に座っている。床には何も積まれておらず、俺の荷物を置くくらいの場所は十分あった。
「お母さん、時々ここで服を直してるんだよ。窓、明るいから」
「そうか」
「お兄さんは、いつもそこ向いてたよねー」
椿が机を指した。俺は椅子の背へ触れ、それから鞄を下ろす。二年間誰も手を付けず、俺の帰りを待っていたわけではない。そのことに、少しほっとした。俺のせいでこの部屋まで使えなくなっていたと言われたら、多分またどうしたらいいかわからなくなる。
階下から、三人とも手を洗ってね、と声がした。双子が揃って返事をするので、俺も少し遅れて答えた。昔は言われる前に済ませて、別に呼ばれなくても一人で食卓へ行けるのに、と思っていた。今日はその二人の後ろについて洗面所へ向かった。
食卓には五人分の皿が並んでいた。手伝うことを聞くと、水をお願いしていいかと言われたので、棚からコップを出す。場所は覚えている。ただ、そのうち一つを置く時に傾けてしまい、少し水がこぼれた。
「すみません」
肩に力が入った。横から布巾が出てきて、ここだけ拭けば大丈夫よ、と養母が言う。受け取って水を拭いたら、それで終わった。俺のせいで汚れたことは間違いないのだが、いつまでもテーブルを擦っていても仕方ないので、布巾を戻して席へ着く。
赤い皿に、黄色いオムライス。頼んだものがちゃんと出てきて、俺は少しだけ落ち着かない気分になった。椿がケチャップへ手を伸ばし、桜がその手首を軽く押さえる。
「もう掛かってる」
「少し足すだけー」
「先に食べてから」
俺が思い出していたのと、ほぼ同じやり取りだ。二年間で背も手も大きくなっていたが、食卓に座っていると変わっていない部分も多い。桜に止められた椿は俺の皿を眺め、そっちの方が大きい、と言い出した。俺の身体までお前らと同じ大きさなら、同じ量で済むんだろうがな。
養父が学校の話を聞くと、椿が喋り、桜が横から少し訂正した。俺は二人の話を聞きながら食べていたが、やがて三年になってどうかと自分にも聞かれた。
「授業は、今のところ問題ないです」
「うん。進路の方は?」
「まだ決めてません」
双子がこちらを見た。資料を読むから来るなと言った分、何か決まったと思ったのかもしれない。あれはまだ机へ広げたままで、絞るどころか気になる紙が何枚か増えていた。俺はスプーンを皿の端へ置いた。
「決める前に、話します」
「聞かせて」
養父が頷いたので、俺はまた食べ始めた。椿は今日はきのこがないから全部食べる、と宣言し、桜に普段も食べてと返されている。お前はオムライスへ何を入れるかまで心配していたのか。
皿を空にすると、まだあるよと声を掛けられた。少し考え、お願いします、と答える。横で椿が嬉しそうな顔をした。何故お前が喜ぶ。聞こうとする前に、桜が俺の皿を台所へ運んでいった。どうも、俺が食べるところをこいつらは昔から気にしていたらしい。
食後、持ってきた紅茶を淹れてもらった。俺が買った物を五人で飲んでいる、というのも妙な感じだ。少なくとも、その味に文句を言う人間はいなかったので、店員には感謝しておこうと思う。
養父が封筒を持ってきて、今、少し話せるかと聞いた。俺は頷き、自分で書いてきた疑問を机へ置いた。口で話していると忘れそうだったので、ここは紙に頼ることにしたのだ。
「ここまでの数字と、こっちの記録がまだ合ってないんです」
「その分も含めて、確かめてもらっている。すぐに全部わかったとは言えないけど」
椿の出してきた紙と、実際の取引の記録。祖母から双子へ渡った金のうち、俺の方へ動いた分。そのあたりを順番に確かめているらしかった。俺自身がこれから何を扱えるのかも、調べた結果を見てから話すことになった。俺は紙の端へ日付を書き足し、引っかかっていた金額を指した。
その分がどう動いたのかを椿が説明したあと、養父が二人を見た。
「春くんに頼まれて手伝ってるって、お父さんたちには言ってたよね」
「……うん。そう言った」
「頼まれたわけじゃ、なかったんだね」
「私たちが、勝手にしたの」
桜が答えた。椿はカップへ目を落としていたが、少しして顔を上げる。
「聞いたら、嫌って言うから。だから、言わなかった」
養父はすぐには答えず、紙の上で組んでいた手を解いた。「春くんに一度聞いておけばよかったな」と小さく言う。養母も、二人の顔を見ていた。椿は何か続けそうに唇を動かしたが、またカップへ目を向けた。
「全部返せば、いいと思ってました」
俺が言うと、養父は紙から顔を上げた。
「返し方は、まだ決めなくていい。まず金額を確かめよう」
「……はい」
養父が紙を封筒へ戻した。養母は茶のおかわりが要るかと聞き、俺が頷くと立ち上がった。桜がカップを寄せ、椿も自分の分を出す。俺は封筒の上へ置いていたノートを鞄にしまった。
「そういえば、電話の時は慌てていて、聞かなかったね。春くん、普段は何時頃なら話せる?」
養父に聞かれ、俺は少し考えた。帰る時間は大体同じなのだが、そのあとやっていることが日によって違う。夕飯のあとなら、と答えると、養父はわかった、と言った。次に何を話すのかは、聞かれなかった。
「二年前は、すみませんでした。何も言わずに出ていって」
茶のことでも、金のことでもなく、それを言いに来たのだった。迷惑を掛けないようにするつもりだった、連絡もろくにしなくて、と続けた。言っている自分で聞いていても、ずいぶん勝手な言い分だ。
「寂しかったよ」
養父がそう言った。俺は頷いた。養母が淹れ直した茶には、まだ手を付けていなかった。
「困った時だけじゃなくて、何もない時にも声を聞かせてね」
「……はい」
養母の顔を見た。少し歳を取っていた。養父もそうだ。俺が二年間この人たちを見ずに暮らしている間、向こうも当然二年間を過ごしていた。
「来て、よかったです」
「うん。よかった」
養母が笑い、椿が俺のカップへ茶を足した。もういいという前にいっぱいになり、桜に今度はカップを見て、と言われていた。
夜、部屋に布団を敷いたところで扉が小さく鳴った。入っていいかと聞く桜へ返事をすると、二人が顔を出す。椿は棚のぬいぐるみを持ち上げ、サメも連れてくればよかったねと言った。
「一晩だろ」
「一晩でも、寂しいかもしれないじゃん」
「そいつは喋らん」
「お兄さんも、寂しいって喋らないでしょ」
またサメと同列にされてしまった。返事を考えている間に、ぬいぐるみは棚へ戻されていた。俺は布団の端へ座り、双子も床に腰を下ろす。椿は部屋をもう一度見回し、桜は俺の畳んだ上着を見ていた。
「……今日は、いてくれて助かった」
言うと、椿がこっちを向いた。桜の口元も緩む。こいつらのことで悩んで帰ってきた面もあるのに、途中でこいつらがいなければ多分困っていた。俺一人なら、駅からここまで歩く間にいらないことをいくらでも考えていたと思う。
「私たちも、嬉しかったよ。兄さんが自分で帰るって言ってくれて」
「でも、これで満足したわけじゃないからねー」
椿の声はいつもの調子だった。ただ、見ている目は真剣だった。もっと一緒にいたい、と言って、俺の返事を待っている。
「好きは、あの時言ったままだよ。忘れないでね」
桜もそう付け加えた。数日大人しくしたのだからもう安心してくれ、とは言うつもりがないらしい。俺も、あれを聞かなかったことにはできなかった。
「……覚えてる」
そこまで答えて、窓の方へ目をやった。明日にはまたあの部屋へ戻り、月曜日には学校がある。進路もまだ決めていないし、二人へどんな返事をするかだって、考えている途中だ。それを全部決めてから帰ると言っていたら、また二年くらい経ってしまいそうなので、とりあえず今夜は寝ることにした。
おやすみ、と言うと、二人は立ち上がった。扉の前でもう一度俺を見て、それぞれにおやすみと返す。昔は二人が出ていくとようやく静かになったと思っていたのだが、今日は出ていった方から足音が遠ざかるまで、なんとなく聞いていた。
翌日、玄関で靴を履いた。双子も鞄を持って並び、養父と養母が見送りに出てくる。着いたら連絡すると言うと、養父が頷いた。養母は俺の上着へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。襟が少し折れているらしい。
俺は身体をかがめた。直してもらってから、顔を上げる。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
門を出て振り返ったら、二人はまだそこにいた。俺が手を上げると、養母が振り返してくれた。今度は間に合った。
駅へ向かう道では、双子が俺の半歩後ろを歩いていた。少し足を緩めると並んでくる。椿は桜の手を握ったまま俺を見て、次はもっと早く、と言った。
「二年は、長すぎるから」
「わかってる」
「本当に?」
「……着いたら連絡する」
答えると、桜がそれなら、と頷いた。椿はまだ何か言いたそうだったが、繋いでいない方の手で俺の上着の裾を指した。掴む前に止まっている。
少しだけなら、と言ってしまった。二人が早速笑うので、歩きづらくするなよと付け加えたが、椿の指はもう掛かっていた。