「失礼しまーす。先生、いるッスかー」
チビが保健室の扉を開けると、机に向かっていた女の先生が振り返った。俺を見て、それから俺の背中にいる少女を見て、椅子から立ち上がる。ここまで運んでくる間に何人か同じ反応をされたので、もう驚かん。先生まで逃げ出さなかっただけで十分ありがたかった。
「どうしたの、その子」
「上から落ちてきたのを、こいつが受け止めたッス」
「……落ちてきた?」
先生の顔つきが変わった。早くこちらへ、とベッドに案内され、少女を下ろそうとしたところで肩口が引っ張られる。落ちてきた時から握られていた俺の制服を、まだ離していなかったらしい。気絶するほど怖いなら離してくれた方がお互いのためだと思うのだが、意識のない人間にそんなことを言っても仕方がない。
「大丈夫。保健室よ。名前、言える?」
「おの、でら……あかり……」
「小野寺さんね。そのまま横になっていて」
先生の声に少女は薄く目を開け、また目を閉じた。俺とチビは落ちてきた場所から受け止めた後まで順番に説明する。俺の説明だけだとどうにも物騒になりがちらしく、チビが横から色々付け足していた。普段から人を散々おちょくってくるくせに、こういう時は役に立つのがまた腹立つ。
「受け止めた後、どこかにぶつかった?」
「いや。それはない。俺の顔を見た後に気を失って……」
先生が俺を見た。チビも俺を見た。別に誰も何も言わなかったが、言わないなら言わないで傷つくものがある。俺は何もしてないぞ。
とにかくきちんと診てもらいましょう、と先生は救急と保護者へ連絡を取り始めた。待っているように言われたので、少女の指を外し、先生に断ってから廊下へ出る。背中から一人分の重さがなくなって、ようやく息がつけた。重かったわけではない。気を遣っただけだ。
「ちゃんと人助けしたって伝わって良かったッスね、兄貴」
「最初からそう言ってる」
「僕がいなかったら、説明する前に通報されてたかもしれないッスよ」
「……」
否定しようとして、不動産屋で警察を呼ばれた時のことを思い出した。あの時だって俺は部屋を探していただけで、別に何もしていなかった。どうして普通のことを普通にやるだけで警察沙汰になるのか。俺にだってわからん。
壁に背を預けた俺の肩を、チビがつまんだ。制服がしわになっているという。放っておけと答えると、せっかく女の子が握ってくれた記念ッスもんね、などと言い出したので手を払おうとした、その時だった。
「ハル兄さん」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、廊下の向こうに二人の少女が立っていた。腰まで伸びた淡い亜麻色の髪に、どことなく眠そうな目。お揃いの鞄を持ち、空いている方の手をお互いに繋いでいる。顔も仕草も似すぎていて、初めて見る人間ならどちらがどちらか区別できないだろう。俺にはわかった。わかるが、ここにいる理由については全くわからん。
「……桜」
「うん」
「椿」
「なぁに、ハルお兄さん」
桜が一度唇を結んでから笑い、椿は手をひらひらと振ってきた。二人とも最後に見た時より少し背が伸びている。そりゃそうだ、二年も経っているんだから。頭ではわかっていたつもりなのだが、どういうわけか俺の中では、あいつらは俺の部屋を占領していた頃のままだった。
「……なんでいる」
「ひどーい。二年ぶりの妹に、最初に言うことそれ?」
「おはよう、ハル兄さん」
「……おはよう」
桜に言われるまま朝の挨拶を返してしまった。違う。聞きたいのはそういうことではない。だが俺が言い直す前に二人は手を繋いだまま近づいてきて、目の前で止まった。見上げてくる角度は昔とあまり変わらない。そこから二人揃って、やけにじっと俺の顔を見ている。
「何だ」
「顔、ちゃんと見てるの」
「そんなに見るもんでもないだろ」
「二年見てなかったんだよ?」
椿の口ぶりは軽かったが、言われてみれば返す言葉がなかった。久しぶり、と今更言うのも変だし、そうだったなというのも何か違う気がする。考えているうちに黙ってしまい、いつもの俺に戻った。二年経っても進歩がない。
桜の指が袖に触れた。引っ張るわけでもなく、そこに俺がいるのを確かめるように生地をなぞっている。やがて顔を見上げ、少し痩せたんじゃないかと言い出した。
「変わってない」
「ご飯、ちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「昨日の夜は?」
「うどん」
「一昨日はー?」
「……うどん」
双子が顔を見合わせたので、具は違うと先に言っておいた。椿は、そこじゃないんだよなー、などと大げさにため息をつく。人の部屋に勝手に入り、人の生活に勝手に口を出し、桜はそれを止めるふりをしながら隣に座っている。昔からそうだった。俺が机を諦めて教科書を持って移動すれば二人ともついてきたし、放っておくと移動先まで占領された。なんなら、最初からどいてもらった方が早かったんじゃないか。
「あのー、感動の再会中に悪いッスけど。妹さん?」
「……あぁ」
「二人とも?」
「見りゃわかるだろ」
「兄貴に妹がいること自体、初耳だったんスよ」
そこで初めて双子の目がチビに向いた。顔を見て、まだ俺の肩口をつまんでいた手を見て、それからまた顔へ戻る。チビは何故か指を離した。椿が代わりに制服のしわを伸ばしている間に、桜がにっこりと笑った。
「お友達?」
「同級生だ」
「仲良しなんだねー」
「こいつが勝手に絡んでくるだけだ」
「あ、ひど。毎朝迎えに行ってあげてるのに」
「毎朝?」
「来るなと言ってる」
桜の指が今度は袖をつまんだ。痛くも何ともないが、そこだけ妙に気になった。彼女は「兄がお世話になっています」と丁寧に頭を下げ、椿も並んで同じようにする。普段と違う対応をされると弱いのか、チビまで慌てて頭を下げ返していた。こいつが大人しくなる方法など初めて見た。
保健室から小野寺を呼ぶ先生の声が聞こえると、桜が扉へ目を向けた。女子が上から落ちてきて、俺がここまで運んだ、と説明する。二人は一度俺の肩を見ただけで、何も言わなかった。チビのように人攫いだなんだと言われるよりは良いが、何も言われないのもどうも落ち着かない。
「そういえば、朝、電話したんだけどなー。桜姉さんが」
「あぁ。履歴は見た」
「気づいてたんだ」
桜に言われ、ポケットにある携帯が妙に邪魔になった。後でかけようとは思っていた、と答えると、彼女はただ頷いた。実際そう思っていたのだから嘘ではない。気が向いたら、という余計な一言が頭についていただけで。そもそも向こうから電話が来るまで、俺は一度も自分からかけていなかった。
「……悪かった」
「今、会えたから」
「とりあえず、今日はそれで許してあげる」
「そうか」
「今日は、ね」
なぜ念を押す。桜は袖を離したものの、今度は手首の横に指を添えていた。椿も隣から覗き込んでくるので、どこを見ればいいのかわからず、そこでようやく二人の服をまともに見た。紺のセーラー服。白い線の入った襟。この学校の校章。
「……待て。お前ら、その制服」
「似合う?」
「そういう話じゃない」
「似合わない?」
「いや、似合ってるが」
答えてから後悔した。椿が嬉しそうに桜の肩へ寄り、桜も今度は隠す気もなく笑っている。俺は一度息を吐き、この学校の制服だよな、と聞き直した。
「うん。高等部、一年生」
「私たち、今日からこっちの校舎なんだー」
「……聞いてない」
「言おうと思って、電話したの」
俺は口を閉じた。これでは何も言えん。横でチビが声を殺して笑い始めたが、お前まで笑うな。つい今しがた保健室に人を運んだばかりなのだ。二人目を運ぶことになるぞ。
予鈴が鳴り、桜は俺から一歩離れた。椿がその手を取り、二人はまた肩を並べる。
「またね、ハル兄さん」
「放課後、会いに来るからね」
「待て。俺は別に――」
「今度は」
「黙って帰らないでね」
続けようとした言葉が出なかった。二人は笑ったまま一年の教室の方へ歩き出し、廊下の角を曲がる前に揃って振り返る。昔はいつも俺の後ろからついてきた足音が、今日は遠ざかっていた。小さく振られた手に何か返そうとして、俺の右手が少し持ち上がった頃には、もう二人とも見えなくなっていた。
こういうところだぞ、俺。