救急の人が来るまで、俺とチビは保健室の前で待った。小野寺はもう名前もちゃんと言えるようになっていたし、先生の問いにも答えていたが、上から落ちてきた以上は診てもらう必要があるという。それは俺にもわかる。俺が受け止めたから大丈夫だ、なんて言えるわけもないので、聞かれたことには覚えている限り答えた。
ようやく教室へ戻っていいと言われた頃には、授業は始まっていた。先生から遅刻の理由を書いた紙を渡され、ついでに助かったよ、ありがとうとも言われたので頭を下げる。チビは隣で、いえいえ、と妙に愛想の良い返事をしていた。お前もそれくらい普通の口調で喋れるんじゃないか。
「兄貴、褒められたんだから返事くらいしたらいいのに」
「……礼は言った」
「頭下げただけッスよ」
「伝わるだろ」
「先生には伝わってたと思うッスけどねー」
チビは俺の半歩前を歩きながら振り返った。余計なことを言う顔だったので無視したかったが、もうこっちを見ている。気づかなかったふりをするには近すぎた。
「妹さんたちにも、その方式?」
「何の話だ」
「手くらい振ってあげればよかったのに」
「……うるさい」
何も言えなくなってから手が上がったことまで見られていたらしい。見なくていい。俺にくっついている暇があったら、とっとと教室へ戻れ。そう思ったが、俺も同じ教室へ行くところなので言うだけ無駄だった。こういう時に限って同級生なのが腹立つ。
席についてからも、朝のことが何度か頭へ戻ってきた。桜の声と、椿の昔と変わらない軽口。二人とも俺と同じ学校の制服を着ていて、これから普通に通ってくるという。どうもそこが、まだ頭の中でうまく収まっていなかった。
教科書の内容はわかるし、黒板を見れば今何をやっているかもわかる。授業についていけなくなるほど困っているわけではない。ただ、ノートに書く手が時々止まった。止まる度に続きを探す必要があって、そのうち面倒になってきた。数学なら式を解けば片がつくのに、こっちは考えたところで何が問題なのかもはっきりしない。
放課後、会いに来る。
そう言われたわけだが、会って何を話せばいいのだろうか。いや、妹と会うのにわざわざ話の準備が必要なのか。家にいた頃を思い返してみても、二人が勝手に喋って、俺は大体無視していたことしか思い出せなかった。全く参考にならん。
昼休みに携帯を見てみたが、桜からも椿からも新しい連絡はなかった。放課後に来ると言っているのだから、そりゃ連絡する用もないだろう。俺は何を確認したかったんだ。わからないまま画面を消し、携帯を机の中へ押し込んだ。
……。
放課後、教室を出ると、双子は廊下の窓際にいた。俺が出てきた途端に二人の身体がこちらを向き、椿が少し胸を張る。待っていたぞ、と顔に書いてあるようだった。早いな、と言うと、まだ何も聞いていないのに桜が鞄を持ち直した。
「一年は今日は説明が多かったから。兄さん、もう帰れる?」
「あぁ。お前ら、学校には慣れたのか」
「まだ一日目なんですけどー」
「椿。……大丈夫、教室の子とも話したし、場所も教えてもらったよ。兄さんは?」
「俺は二年いる」
「場所の話じゃなくて」
桜に笑われた。じゃあ何の話だと言いかけて、やめた。俺がこの学校に慣れているように見えるなら、それでいい。二年も通っていていまだにチビ以外とろくに喋らない、なんて説明しても仕方ないだろう。
「ご飯、今日はどうするの?」
「買って帰る」
「うどん?」
「違う」
「そば?」
「麺から離れろ」
椿が笑い、桜までつられて笑っていた。俺が歩き出すと、言われなくても二人は両側へ来る。左が桜で、右が椿。別に腕を組まれたわけでもないのに、二人が昔と同じ距離にいるだけで歩幅が小さくなる。以前もそうしていたのかもしれん。いちいち気にしたことがなかったから、わからないが。
階段で椿の鞄の紐が手すりに引っ掛かった。進もうとした身体だけが少し先へ行き、椿が「あ」と止まる。俺は足を止めて紐を外した。見ていて放っておく理由がない、それだけのことなのだが、椿は鞄より俺の手をじっと見ていた。
「何だ」
「……別にー」
口元が緩んでいる。桜もそれを見て、何故か自分の鞄を抱え直した。そんなに嬉しいことだっただろうか。俺は紐を外す程度のことしかしていないし、こいつらが生まれて初めてそれをしてもらったとも思えない。まぁ、落ちなかったのならそれでいい。
校門の外には今日も黒塗りの車が停まっていた。ノッポとガリが俺を見つけ、揃って背筋を伸ばす。後ろに双子がいる以上、変なことを言われる前に通り抜けたかったが、あいつらはそういうところだけやたら気が回った。
「兄貴。お帰りなさいませ」
「……帰ってない」
学校の門の前を家みたいに言うな。ノッポは双子と俺とを交互に見て、いかにも何か勘違いした顔で口を開いた。
「お二人とも、兄貴の――」
「妹だ」
「説明、早ーい」
「こいつらは放っておくと変なことを言う」
「なるほどねー」
椿が笑う隣で、桜の手が一度俺の袖へ伸び、それから鞄へ戻った。何をするつもりだったのか聞く前に、ノッポがまとめて車へ乗せようとしてきたので、そっちを断ることになった。
「いい。歩く」
「では、我々も後方から――」
「今日はいい」
ノッポがガリを見て、ガリが頷く。珍しく承知しましたの一言で引いた。どういう風の吹き回しだ。こいつらが毎回こうなら俺も平和に帰れるのだが、妹を連れていないと駄目なのだろうか。そこまで考えて、二人を黒服除けにしようとしている自分に気づいた。やめろ。何のために家を出たんだ。
駅とは反対の道へ歩きながら迎えはどうしたと聞くと、桜は連絡してあるから時間は大丈夫だと言った。大丈夫と言われても、いつまで俺についてくるつもりなのか。聞こうとしたところで、椿が俺の前へ回り込んだ。
「ね。二年分」
「何だ」
「まだ返してもらってない」
「何を」
「二年分のお兄さん」
返せるものなのか、それは。桜を見ても笑っているだけで、椿を止めようとはしない。こういう時の二人は大体同じことを考えている。だから片方だけ相手にしていれば済むわけでもなく、以前は面倒になって二人とも無視していた。
「急にいなくなるから、最初、どこかで倒れてるのかと思ったんだよ」
「……悪かった」
「ほんとだよ。せめて、行ってくるくらい言ってくれたってよかったじゃん」
椿の足が止まったので、俺も止まった。道路の向こうの信号は赤だった。ちょうどいい、と一瞬思ってしまったが、別に渡れれば話が終わるわけではない。
「言ったら、止めるだろ」
桜は鞄の持ち手を握っていた。椿が何も持っていない方の手を重ねる。二人とも俺から目を逸らさず、桜が、止めたと思う、と言った。
「でも、止められるのが嫌だったんでしょ」
「あぁ」
「じゃあ、何て言えばよかったのかな」
責めるような声ではなかった。それでも答えづらかった。行かないでと言われれば、俺は困ったと思う。困って、そのまま無視したのかもしれないし、出ていけなくなったのかもしれない。だから何も言わなかった。それでいいと思っていたのだが、口に出そうとすると妙に言い訳くさくなった。結局、別のことを言った。
「……一人でやれるようになったんだ。学校も、生活も。お前らに面倒かけなくても、大丈夫だから」
「それで?」
「家でも、俺に構ってる時間が多かっただろ」
「うん」
「だから、もう俺に構わなくていい」
信号が青になり、周りの人が歩き出した。俺たちだけが横断歩道の手前に残っている。椿の口元から、いつもの笑みが消えていた。
「それ、私たちが決めることじゃない?」