「私たちが決めることじゃない?」
椿は俺を見たまま、横断歩道を渡ろうとしなかった。さっき青になった信号がもう点滅している。こんなところで話すことでもないだろう、と二人を歩道の端へ寄せたが、場所を変えたくらいで続きを忘れてくれるような奴らではなかった。
「……お前らにも、やることがあるだろ」
「あるよ。学校も、家のことも」
「なら、そっちを――」
「兄さんのことも。私たちには、あるの」
桜が椿の手を握ったまま言った。何をそんな当然のような顔で言うのだろうか。昔も、俺が静かに勉強をしていれば遊べだのかまえだのと言ってきて、無視していると勝手に隣へ座っていた。一度部屋へ帰っても、しばらくすればまた来る。俺がいなくなればそのうち飽きると思ったのだが、どうも二年くらいでは駄目らしい。
「……今日は何時までいられる」
「夕食の時間まで、大丈夫」
「じゃあ、それまでだ」
「どこ行くの?」
「買い物。食う物がない」
椿が瞬きをしてから桜を見た。桜は小さく頷く。今度こそ信号が青になったので、俺は二人を連れて横断歩道を渡った。飯を買って帰るだけのつもりだったのに、いつの間にか二人分増えている。別に今更二人くらい増えたところで困りはしないが、こういうところで曖昧な返事をすると好き勝手にされるのだ。俺は以前それを十分に学んだはずなんだが。
……。
スーパーで俺が取った弁当を、椿が横から棚へ戻した。人が食べようとしている物を勝手に戻すな、と言う前に、椿がその空いた手へ買い物かごを持たせてくる。昔からこれである。やたら手際が良いせいで、気づいた時には言うことを聞かされている。
「それだと、食べたら終わりじゃん」
「飯はそういうもんだろ」
「一緒に作れば、食べる前も一緒にいられるでしょ」
平然と言いやがった。桜はもう野菜売り場で玉ねぎを選んでいて、俺の方を見ながらフライパンと包丁の有無を確かめている。ある、と答えれば、じゃあ焼く物にしようかと決まってしまった。一人で二人を相手にするのは不利である。昔も今も、そこだけは変わっていない。
「椿、きのこは入れないからね」
「お前、それ嫌いだろ」
「……今は、食べられるかもしれないじゃん」
「なら、自分の分だけ入れろ」
「今日はやめとくー」
椿は手に取っていた小さなパックを戻した。桜が棚越しに、覚えてたんだ、と言うので、三年も避けてりゃ覚える、と返す。俺がわざわざ覚えようとしたわけではない。食事の度にきのこだけ俺の皿へ移されて、桜がそれを見つけて叱っていた。そんなことを何度もやられれば、嫌でも覚えるだろう。
会計の時には桜が財布を出したが、俺が払うと言ってしまわせた。私たちの分もあるよ、と言われても、飯くらい払える。そこまで面倒を見てもらうつもりで誘ったわけではないのだ。
「……じゃあ、ごちそうになります」
桜が頭を下げると、椿まで真似をした。大げさな奴らだ。俺は食材を袋へ詰め、二人が持とうとした分もまとめて持った。
アパートの近くまで来ると、椿が携帯を取り出し、迎えをこっちへ変えてもらうと言った。大通りで待ってもらえと頼む。このアパートの前に車を並べると迷惑なのだ。並ぶ? と聞き返されたので、気にするなと答えた。黒服どものせいで毎朝どうなっているのか説明すると、飯を作る時間がなくなる。
階段を上がって鍵を開けると、二人は扉の外に立ったままだった。俺が先に入り、袋を下ろしてから振り返っても、まだそこにいる。
「入れ」
「お邪魔します」
「しまーす」
靴まできちんと揃えて入ってきた。昔は俺の部屋に入るのにいちいち挨拶などしなかったし、なんなら俺が部屋に戻る前から中にいた。それを思うと妙な気分になる。家の中の一部屋と、俺一人が借りているアパートとでは違うのだろうが、そこまで遠慮されるほど立派な部屋でもない。
桜が辺りを見回している隣で、椿は部屋の奥を見ていた。布団の端にサメが転がっている。今朝、俺が抱いたままドアを蹴り開けたやつだ。
「……いた」
椿は鞄を置くと、まっすぐサメのところへ行った。ひれをつまんで持ち上げ、元気してたー? と顔を覗き込む。そんなことを聞かれてもそいつは答えんぞ、と言うと、椿は膝へサメを乗せて座った。
「お兄さんも大体答えないから、似たようなもんだよ」
失礼な。そう思ったが、実際に返事をしなかったことの方が多いので言い返せなかった。椿は両手でサメの背を撫でている。あれは元々こいつの物で、ある日俺の部屋へ置いていき、そのままになった。返そうとしたら、ここに置く場所を決めたから、と言われたのを覚えている。勝手に決めるなと思ったものの、結局置いたままにした。
捨てる理由もなかったし、そこまで邪魔になる物でもなかった。引っ越す時だって、持っていく物が大してなかったのだから、サメ一匹くらい荷物に入れたところでどうということもない。二年も経ってから、なぜ持ってきたのか考えさせられるとは思っていなかったが。
「置いていってよかったのに」
「忘れた」
「持っていくのを?」
「置いていくのを」
桜にそう返し、買い物袋を台所へ置いた。椿はサメに顔を埋めていたが、肩が少し揺れている。何がおかしい、と聞くと、おかしくないよー、というくぐもった返事が来た。なら普通にこっちを向いて言え。桜も何か言いたそうだったが、結局、皿の場所を聞いただけだった。
小さい台所へ二人で入れば、それなりに狭くなる。椿まで来ると当然もっと狭いので、お前は向こうにいろと言っておいた。何もしてないじゃん、と不満そうだったが、何かしようとしているのはわかる。
「……味見とか」
「早い」
桜が笑いながら椿を部屋へ押し戻すと、椿はまたサメを抱いて座った。俺は玉ねぎを切り、横で桜が肉の下ごしらえを始める。包丁、ちゃんと使えるんだねと言われたが、それくらい使える。刃物を振り回す以外にも用途は知っているぞ。
「前は台所に来なかったから」
「……邪魔になると思ってた」
「狭い?」
「いや。今の話じゃない」
「うん。わかってる」
桜の手が一瞬止まった。だがそれについては何も言わず、身体を少し横へ寄せ、俺が切った玉ねぎを受け取った。俺も続きを話す必要がなくなったので、余った袋を片づける。
「ここなら、二人は入れるね」
「三人はー?」
「狭い」
「ほら、今のはそういう話じゃん」
向こうから椿が文句を言い、桜がフライパンへ向き直ったまま肩を揺らした。何も間違ったことは言っていない。この台所に三人も入れば、飯を作るどころではなくなる。
……。
低い机へ皿を三枚並べると、もう他に物を置く場所がほとんどなくなった。椿は横へサメを寝かせてから箸を持ち、桜と揃っていただきますと言った。俺も遅れて同じことを言う。一人だと食い始めてから思い出すこともあるのだが、隣で二人に言われると忘れようがなかった。
食べている間、桜は今日の教室の話をし、椿は先生の口癖を真似していた。俺は聞きながら時々返事をする。出てくる名前の大半は知らない。今日初めて会った同級生もいれば、前から仲が良いという奴もいた。俺が一人で暮らしている間にも、二人は普通に学校へ通っていたのだ。当たり前のことだが、聞かないままなら、俺は誰の名前も知らなかっただろう。
「……で、その隣の席の奴は」
話が途中になったので続きを聞いた。椿は口へ運びかけていた箸を止め、桜がすぐに膝を軽く叩く。
「飲み込んでから」
椿は急いで口を動かして、それから、さっきより長い話を始めた。そこまで勢いよく喋らなくても、今度は黙って聞いているぞ。迎えが来るまでの時間は、思っていたより早く過ぎた。
玄関で靴を履いた椿が振り返り、サメを連れて帰っていいかと聞いた。お前のだろ、と答えれば、それで終わるはずだったのだが、椿は何故か桜を見る。桜は俺を見ていた。そんなにこっちを見られても、返すなとは言っていないぞ。
「持って帰るなら、袋が――」
「ううん。やっぱり、ここにいてもらう」
「……そうか」
「うん。また会いに来るから」
どっちにだ、と聞こうとしてやめた。二人を見送って扉を閉め、部屋へ戻ると、サメは机の向こうに座らされていた。さっきまで椿が飯を食っていた場所だ。俺はそれを布団へ戻した。サメと向かい合って座っていても、どうも落ち着かん。