「……迷惑じゃ、ない」
どうにかそれだけ答えると、桜が目を伏せた。椿は俺の袖を握り直し、じゃあ覚えておく、と言った。何を、と聞けば今のお返事、と返ってくる。そう何度も言える話ではなかったので一度で覚えてもらえるなら助かるが、こいつの口から言われると、何かの証拠を押さえられたような気がする。
とはいえ、それ以上からかってはこなかった。普段なら聞こえなかっただのもう一回だのと延々やられるところなので、むしろ落ち着かない。そろそろ立とうと思って二人の手元を見たら、桜が先に気づいて指を離し、椿も少し遅れて袖から手を引いた。
「……帰るか」
「うん」
中庭を出たところで桜の携帯が鳴った。画面を見た桜が、お母さん、と言って俺の方を向く。少し話す、と聞かれて、あぁ、と答えるまでに間が空いた。断りたいわけではなかったが、いざ話せと言われると何も思いつかなかったのだ。
元気にはしているし、学校にも行っている。金にも困っていないので生活も問題ない。聞かれるとしたらその辺だろう。いつも連絡が来た時と同じように答えればいいと考えている間に、桜が、今一緒にいるよ、兄さんに代わるね、と電話に話していた。
差し出された携帯を受け取り、耳へ当てる。向こうから声がするより先に名乗るつもりだったが、いつもの間の悪さで先を越された。
『春くん?』
「……はい」
『声、久しぶりね』
「すみません」
『忙しかった?』
「いえ。普通です」
電話の向こうで小さく笑う声がした。俺を引き取ってくれた人は、相変わらずこんな返事にも怒らない。もう少し何か言うことがあるだろうと自分でも思うのだが、別に忙しくもなかったし、普通は普通だったので、嘘をつくよりはましなはずだ。
最後に声を聞いたのがいつだったか、すぐには思い出せなかった。連絡をもらえば返していたし、体調や学校のことを聞かれれば、問題ありません、と送っていた。その後で向こうが何を話したかったのかまでは、あまり考えていなかった。
『二人、迷惑をかけてない?』
桜と椿は少し離れたところで待っていた。聞こえないはずなのにどちらも俺の口元を見ているので、悪口を言ったら一発でばれそうだ。まぁ実際、いきなり同じ学校に来られたり、部屋へ押しかけられたりはしているのだが。
「……昨日、飯を作ってもらいました」
『まぁ。二人で?』
「俺も少し。台所、狭いので」
『何を作ったの?』
献立を答えると、あの人は楽しそうに笑った。椿がきのこを避けたでしょう、と言うので、最初から入れていませんと答える。そう、春くんのお皿に移さなかったのね、と返されて椿を見たら、そいつは何の話かわかったらしく口を尖らせた。桜がその肩を抱いて、声を立てないように笑っている。
昔も、椿は食いたくないものを当然のように俺へよこしていた。知らないうちに皿に載っていることさえあったので、別に預かったつもりはなかったが、あの人もちゃんと見ていたらしい。何でもないことまで覚えているのは、どうやら娘たちだけではないようだった。
『ちゃんと食べられているなら、よかった』
「大丈夫です。生活も問題ないので」
『うん』
「学校も行ってます」
『うん』
返事が短いと、まだ何か言わなければならない気がした。食事の話をしていたはずなのに、気づけばまた生活の報告になっている。学校のことなら娘たちに聞けばいいというのに。
あの家にいた頃も、困ったことはないかと何度も聞かれた。俺が何もないと言う度、次はもう少し慎重な言い方になった。別に責められたわけではない。ただ、俺が無言で居座っているせいで、普通に話せるはずの人にまで言葉を選ばせているのだと思うと、余計に何も言えなくなった。
『春くん、今、外?』
「学校を出たところです」
『それなら、気をつけて帰ってね。私は声を聞けたから、それだけでも嬉しかったわ』
返事が遅れた。ここまで大丈夫ですだの問題ありませんだのと並べ立てていた俺の報告は、一旦それでおしまいらしかった。向こうで椅子を引く音がして、お父さんも今度は自分にも代わってほしいって、と声が続く。
「……わかりました」
『じゃあ、またね』
「はい。……また」
また掛けますと言いかけて、そこだけは飲み込んだ。いつ掛けるかも決めていないのに、そんなことだけ調子よく言ってしまうのはどうかと思ったのだ。通話を終え、桜へ携帯を返しながらありがとうと言うと、桜は受け取った手元を見て、うん、と頷いた。
「今日も一緒に食べていい?」
横へ来た椿にそう聞かれ、俺は昨日の台所を思い出した。狭いし、騒がしいし、あっちへ動けこっちへ立つなと三人で散々揉めた。普通の夕飯にしてはやたらと手間がかかったが、断る理由を考えるより、冷蔵庫に何が残っているかを思い出す方が先だった。
「昨日の、まだ残ってる」
「じゃあ、なくなるまでだねー」
「どれだけ食うつもりだ」
椿が笑い、桜まで笑った。俺は先に歩き出したが、どうせ二人ともついてくるのはもうわかっていた。
……。
部屋へ戻ると、昨日の食器が水切り籠に並んでいた。椿はサメへ挨拶しに行き、桜は手を洗っている。その間に炊飯器を覗いてみたが、俺一人ならともかく三人分は少し足りなかった。
「私、少なくていいよ」
「炊けばいい」
「時間かかるよ?」
「待てないのか」
隣に来た桜は一度黙って、それから首を横に振った。待てる、と言うので米を出す。後ろで椿が、今日は桜姉さんもサメと待ってる番ー、と騒いでいた。別に順番を決めた覚えはないのだが、一人用の台所へ三人並ぶよりはいいので放っておいた。
結局、食い終わる頃には外が暗くなっていた。洗い物へ手を出そうとすると、狭いから座っててと言われる。昨日俺が言ったやつだ。言い返しにくいところを覚えているものである。
部屋へ戻って壁に背を預け、携帯を取り出した。家族との連絡用に渡されたものだ。それで金を増やしてあの家を出たのだから、考えてみると随分とひねくれた使い方をしたことになる。画面を消して目を閉じると、今度は電話の向こうにいた人とは別の、もう声を聞けない母の顔が浮かんだ。
母には出来るだけ笑っているところを見せていた。大丈夫だと言うと、少しだけ安心したように笑ってくれたので、次も同じように言った。痛かろうが、眠かろうが、立っているのがしんどかろうが、とりあえず顔だけはどうにかした。母まで悲しい顔をしていたら、俺はもうどうしたらいいかわからなかったのだ。
我ながら、他にやりようがなかったのかと思う。今よりずっと小さかったとはいえ、勉強だの稽古だのはあれほど出来たのに、母に眠いと言うことすら出来なかった。
「……兄さん、疲れた?」
「いや」
目を開けると桜がそばに座っていた。椿も少し離れたところで膝をついている。答えは考えるより先に出たが、それで二人が安心したような顔をすることはなかった。俺は壁から少し頭を離し、しばらくしてから言い直した。
「……少し、眠い」
「寝てていいよ」
「迎えは」
「まだ。来たら起こすから」
椿が畳んだ布団をずらし、桜が鞄を自分の方へ寄せた。寝るほどでもないと言おうとしたのだが、二人して場所まで空けられると、そこでまた意地を張るのも馬鹿らしかった。俺は携帯を机へ置き、少しだけ、と断って横になった。
椿が枕元にサメを置いたので、こいつはいらんと言ってやった。はいはい、と返事をしたくせにどけない。相変わらずだと思いながら、俺も手を伸ばしてどけようとはしなかった。
「おやすみ、兄さん」
桜の声に、目を閉じたまま頷いた。起きたらまだこいつらがいるだろうかと考えた辺りで、台所にいた時からずっと眠かったのだとようやく気づいた。
*
春の呼吸がゆっくりになると、椿は机の携帯へ目を向けた。伸びた手に桜が触れ、今日はいいよ、と言う。確認だけ、と小さく返したが、桜は春の方を見たまま、今ここにいるから、と答えた。
椿は手を引き、代わりに枕元のサメを少し起こした。寝顔の横へ並べてから、私たちの前で寝てくれたね、と姉に囁く。桜は頷いた。窓の外よりも携帯の画面よりも近くに、ようやく春がいた。
「今度は、ちゃんと起こしてあげようね」
「うん。黙っていなくならないように」
二人は指を繋いだまま、眠っている春を見ていた。