ハイゴ様   作:欺瞞

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痛定思痛

 

 

 茹だるような熱と風。耐え難いそれに萎えるのは何も自分だけではなかった。天高く闇に腰掛ける月もまた、その身を細く窶れさせている。

 不平不満など意味はない。何も考えず歩みを進めることこそ最善である。しかし理解はしていてもできはしない。

 大口を閉ざすシャッターの群れ、頼りなくも縋るしかない街頭、デコボコと靴底を擦り減らすアスファルト。そのどれもが心を苛み、昂せたからだ。

 

 …否。それだけであるはずもない。成績への不安、学友への不安、進学への不安、自身そのものへの不安…これらすらも一例に過ぎない。

 思春期特有の不安。そう言われてしまえばそれまでだが、こちらとしてはそう一言に切り捨てるわけにはいかなかった。

 なにしろ当人だ。身に危険が迫れば不安になるのは必然。解決する知恵も胆力もない現状に頭を抱えて何が悪いのか。

 

 意味のない思考で脳漿を満たし、焼ける足場で己を押し出す。なんの事はない、塾帰りの日常風景だった。

 いつも通りの最悪の普通。それに待ったをかけたのは、時分に似つかわしくない涼やかな声だった。

 

「こんばんは」

 

「…こんばんは」

 

 横手の路地裏から声をかけてきたのはいわゆる美少女という奴だった。月明かりに冷たく照らされ、平均より白いであろう肌を一層輝かせるその姿はどこか遠い冬を想わせる。長く伸ばされた髪は肌とは対照的な濡羽色。闇に溶けて見えない瞳は、それにしても黒すぎる様に思えた。

 

「…なにか御用ですか?」

 

 正直、これほどまでに美しい人は初めて見た。緊張に口調は硬くなり、声もどこか低くなる。親しくなることもないだろうに、俺はなにをやっているのか。

 

「…うーん」

 

 やはりいつも通りの希死念慮を弄ぶ己を他所に、彼女は何やら悩んでいるようだった。

 こちらとしては当然用もない。叶うならばすぐにでも別れ、放射熱のない自室に帰りたかった。しかしながら口を開く様子はなく、ただただ何かを悩んでいる。

 足を止めたが故の無風と纏わり付く熱気に焦れ始めた頃。その艶やかな口はようやく言葉を吐いた。

 

「…あのさ。ストーカーに悩まされてない?」

 

「…はぁ?」

 

 何言ってんだこいつ、そんなセリフが理性と奥歯に噛まれて消えた。唐突ではあったがそれは間違いではなかったからだ。何故知っているのか、こいつもなんだか怪しいのではないか、一瞬のうちに逡巡し──

 

「…はい、そうですね」

 

 頷く事にした。やっぱりね、彼女もまた頷いた。

 

「教えてください。ひょっとして後ろにいましたか?」

 

「んー?…まぁ、いるっちゃいるかな」

 

 煮えきらない態度。しかし勿体ぶっている訳ではなく、説明をしてくれようとしている気配があった。言葉に困っているのだろうか。…迷っているところ申し訳ないのだが、こちらはとにかく情報がほしい。

 

「あの…どんな人でした?俺が見ようとするとすぐ消えてしまって…ほら、性別とか年齢とか…背丈とか服装とか!」

 

「へぇ、姿を見せないんだ。珍しい手合だね」

 

「…何が!」

 

 噛み合わない会話に声を荒げる。ストーカーが姿を見せないのが何がおかしいのか。だいたいそういうものじゃないのか?

 当然納得がいかない。更に追求しようとするが、その唇に細く長い指が翳された。

 

「中川くん、提案があるんだけどさ」

 

 名前を、把握されている。初対面のはずなのに、どこまでも正確にこちらを把握されている。恐怖を覚え一歩下がる。震える唇で、どうにか一言だけ絞り出した。

 

「………なんなんですか、貴方は」

 

 ぷっ、と彼女は吹き出した。何がおかしいのかくすくすと笑い、俺の胸を指差す。

 指先では学校指定のネームバッジが月光を鈍く照り返していた。外すのを忘れていたのだ。思わず顔が赤くなる。ストーカーがいるからと過敏になり過ぎた。

 

「ごめんなさい…疑ってしまいました」

 

「いやいいよ。そういう状況なんだし無理ないって。それより話を戻すけどさ…」

 

 親切心で声をかけてくれたにも関わらずかなりの失礼を働いてしまったが、いたずらっぽく微笑むだけで許してくれるようだった。なんと優しい人だろう。罪悪感に包まれつつ言葉を待つ。

 

「家まで一緒に帰ったげよっか?」

 

「え」

 

 …驚きはしたが、正直願ってもない事だった。アレがどんな人間なのかは知らないが、少なくとも人数不利の状況で妙な真似はしないだろう。それにこんな美少女と同道なんて役得…とまで考えてまた死にたくなった。恩人相手に失礼があってはならない。

 

「その、お願いしても…いいですかね…?」

 

「そのつもりで声かけたしね。もちろんだよ」

 

 にこり、そんな擬音が聞こえてきそうな笑顔だった。

 

 

 

 

 

 自分が先導する形で歩き始めて数分後、あの涼やかな声が再び耳に入った。

 

「中川くんはさ、坂高だよね?」

 

 県立坂崎高校。歴史ある進学校であり、田舎特有のライバル校の不在から学力の低下が叫ばれる。端的に換言すると俺の在籍する高校である。

 

「はい、そうですね。………えーと、貴女も?」

 

「え?ああ、自己紹介してなかったっけ」

 

 既に話していたつもりだったのか動揺した表情が見える。そしてそれを誤魔化すように立ち止まり、真面目な表情で敬礼してみせた。

 

「坂崎高校一年!三枝 深雪(さえぐさ みゆき)であります!…なんてね」

 

 可愛らしく微笑み、姿勢を崩す。怜悧なルックスとは違ってお茶目な性格のようだ。

 

「一年なんですか?同じです、俺も」

 

「お、そうなんだ。じゃあ1組かな?普段見ないし2組でも見たことないし」

 

 言語が圧縮されているが、読み解くに三枝さんは3組所属で2組によく立ち寄るということだろうか。我が母校は少子化の煽りを受け、一学年を通常学級の1、2組、特進学級の3組、合計たったの3クラスで活動している。つまり消去法は可能だが…いささか会話が飛躍している。やはり頭がいい環境にいると推察が前提の高度な会話になるのだろうか?

 

「正解です。流石は3組ってことですかね?」

 

 聞くや否や彼女は顔を歪めた。…褒めたつもりだったのだが、言い方が嫌味っぽかっただろうか。

 

「…そういえば、住んでる部屋までどれくらいなの?」

 

「あと2分くらいです。もうちょっとお付き合いください」

 

 露骨に話題を逸らされた。不快な思いをさせるのは本意ではないので大人しくそれに乗る。

 しかしここで沈黙が続くと心が痛い。どうにか次の話題を探すうちにある疑問が浮かんだ。本当なら最初に考えつくべきだったそれを、実際に聞いてみることにした。

 

「…あの、三枝さんはどこにお住まいなんですか?冷静に考えたら俺が帰ったあと一人になるのでは…」

 

 真夏の深夜0時。幼少期からこの土地でそういう輩を見かけたことはないが、それでもああいう手合いは湧いてくるものだ。可憐な少女一人で歩くには不安を感じないはずがなかった。

 その可憐な少女は虚をつかれた様な表情をしたあと、けたけたと笑う。

 

「あはは、いまさらなの?…やっぱ中川くんって面白いね」

 

「す、すいません…テンパってて思いつきませんでした…」

 

 本当に今更である。自分の身を危ぶむ余りに恩人のリスクを考えていなかった。彼女は男ではなく見麗しい女性なのだ。夜半を出歩くリスクは桁違いである。最近の俺では、どっこいかもしれないが。

 

「大丈夫。私、これでも強いから」

 

 そう戯けて何かを投げる真似をする三枝さん。俺も武道に心得がある訳ではないが、その動きは素人にしか見えなかった。

 

「やっぱ俺が送ったほうがいいんじゃ…」

 

 困った様に、しかし笑みを崩さない彼女はやはり戯ける。

 

「それじゃ送った意味がないでしょ。…それとも、私の住所が知りたいの?」

 

 瞬間、背筋が凍った。内臓が強張り、自然と足が震える。フラッシュバックに意識を奪われ、視界が赤に染まる。俺はきっと、酷い顔をしている。

 例え善意で申し出ていようと今日が初対面では分かるはずもない。送り狼を狙っていると想定するのが自然だろう。…するべき事など決まりきっていた。

 

「…配慮が足らず申し訳ないです。…あの、ありがとうございました。もう着いたので失礼します」

 

「あっ…」

 

 ちょうどよく自室のあるアパートについた。絞り出すように声を出し、礼もそこそこにその場を離れる。

 

 彼女の瞳に自分がどう映っているか、考えるだけで恐ろしかった。

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