ハイゴ様   作:欺瞞

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嚆矢濫觴

 

 

 ラップ音。

 原因の分からない音が発生する怪奇現象である。多く寒暖差による壁の膨張や収縮を正体とされるそれは、数々のホラー作品や怪談において場を盛り上げる名脇役と言える。

 …しかし、実際に体験してみれば印象は変わるものだ。例えただうるさいだけで物理的な損傷を受けないとしても、それは十分に恐怖の主役足り得る。

 

 そう、体験しているのだ。現代人ですら寝静まる夜遅く。丑三つ時に、最も安心できるはずの自室で。

 ドンドンドン。扉の向こうで乱暴に来訪を知らせる"誰か"は、俺の視界に映る存在ではなかった。

 

 

 

 

 

 憩いの時間となるはずだった昼食を終え、胡乱のままに授業をこなした俺は塾に休みの連絡を入れると早々に帰宅した。超自然的存在、異様な気配を纏う彼女、差し出された妖しげな白い手、考えるべき事が多すぎたからだ。

 洗濯物を取り囲み、見せかけ程度に掃除を行い、ふやけたカップ麺を胃に流し込む。歯をブラシで磨き上げたらトドメにシャワーをたっぷりと。やるべき事をやった俺は、迷うことなくベットに飛び込んだ。

 

「ふー…」

 

 予定や不足は考えを曇らせる。将来どころか明日すら左右しかねない程の問題ならそれだけに取り組みたい。マルチタスクなぞできた試しがなかった。

 だが万全の状態で挑めたとてそもそも俺は頭が良くない。全てを解決する自信はないので予め一つの問題…「今後の身の振り方」について考えるつもりだった。これならば具体的な解がない代わりにベターな選択肢が無限にあるからだ。

 

 まず欠かせないのは警察に駆け込むことだ。俺が相談しないよう思考を誘導されているのが真実ならば、つまりそれは相談すれば相手方にとって望ましくない展開になるということである。

 どういう理屈で超自然的存在が警察を嫌うのかは分からないが、数少ない対抗手段なのだから利用しない手はない。それにストーカーが人間であるという可能性もまだ捨てていない。どう転んでも有効に働く一手だと思う。 

 

 そして次。三枝さんをどこまで信用するかという問題だ。昼は怒涛の展開に考えが追いつかなかったが、彼女はあまりに詳しすぎる。幽霊の実在を知り、あまつさえ対処は容易であるという態度さえ見せた。創作などではその正体は霊媒師である!となるのだろう。しかしここは現実である。一連の事件はすべて彼女の手引であり、自分はマッチポンプにかかろうとしている、というのが自然か。

 

「…自然、か?」

 

 ストーカーが自分を狙う理由がわからない、というのと同じ問題が帰ってくる。自分は学生の独り暮らし、特にバイトなどは行っていないので仕送りは生活費に消える。つまり搾り取れるだけのリソースを持たない。ストーカーや大がかりな霊媒商法の対象に選ぶには魅力に欠ける、というわけだ。頭の悪い感想だが、現実的に考えると現実的にあり得ない。やはり彼女は俺を陥れようとしている訳ではないのだろう。

 では幽霊は実在し、三枝さんは純粋な善意で俺を助けようとしてくれているのだろうか。前者は半ば認めざるを得ない。しかし後者は疑問が残る。そう考えさせる原因は彼女が放った強烈な圧だった。あの蛙を睨む蛇のような呼吸すら忘れさせる気迫。善意で人を助けようとする人間が相手を威圧するような真似をするだろうか。根拠と呼ぶには確証に欠けるただの所感だが、言いがかりではないはずだ。

 しかし先ほど結論付けた通り、自覚している範囲で魅力的な返礼は不可能だ。聡明な彼女がそれを察していないはずもない。では自覚していない範囲では?幽霊を知る彼女に自覚できて俺に自覚できないなにか。それを返礼に引き出そうとしているのならどうだろうか。例えば…なんらかの特異体質?強大な魔力?エネルギー量の多い魂?

 

「わかんねぇ…」

 

 うつ伏せになって枕に顔を埋め、零れ落ちた声もまた埋めていく。

 わかるわけがない。というかこれが分かるなら幽霊関連もわかる気がする。そもそも仮定と推論が多すぎる。ここからどう指標を導きだせというのだろう。いや、導こうとしているのは自分なのだが。体をぐるぐると回転させながらうだうだと時間を浪費する。ふと時刻を確認すれば、午前一時を回るところだった。あほくさ、寝るか。

 

 起き上がり、電灯を切る。1R故にスイッチ類は玄関横に集中しており、それまでの道のりにけだるく熱された空気をかきまぜた。

 電気代を案じながらも扇風機をつけ、足にだけ風がかかるように調整する。顔にかかって呼吸器が乾燥しては事だ。頭寒足熱については努めて無視する。

 最後にベットに身を投げ出せば寝る準備は完了だ。頭蓋に詰まった低スぺPCをシャットダウンし、暗闇に身を任せる。十分もすれば眠れるだろう。

 

 …しかし予想に反して中々寝付けない。さっきまであれほど暑かったというのに肌寒い気すらする。ベットの隅に追いやっていたタオルケットを足で手繰り寄せ、羽織る。放射冷却だろうか?日が出ればまた熱くなることを予想して、扇風機はそのままにしておく。なんせ明日は土曜、午後までぐっすり眠るつもりだ。

 

 ふと、なにか聞こえた。例えるなら、硬質な物体同士がぶつかる音。発生源は外の廊下と思われる。隣人が帰ってきてふらついたのだろうか?時間を考えるに飲みにでも行っていたのかもしれない。

 先より冷えた空気が首を伝う。思わず身震いした時、ドンという更に大きな音が鳴った。発生源はまさかのうちの玄関扉である。こんな夜更けに来客だろうか。そんな気やすい関係を築いた友人はいないので、夜遊びの誘いということはない。

 今は○○時ですよ、そう文句をつける為にデジタル時計を見る。AM2:16。想定通りの時刻だ。しかしもう一つの文字列は、信じ難いものだった。

 

 "気温 29°"

 

 熱帯夜の基準、摂氏25度を四つ超える室温。新生活に合わせて買ったこの時計はまだ新品。乱暴に扱った記憶はないので壊れているとは考えにくい。ではこの寒風はいったいなんだ?

 粟立つ鳥肌を咎めるように再度金属音が鳴る。向こう側で扉を叩くそれは、果たしてニンゲンなのだろうか。

 

 できるだけ音を立てないようにそっと足を床に滑らせる。今はとてつもないピンチだが、逆に考えればまとないチャンスとも言えた。扉を叩く以上、外にいるナニカは内部に侵入する手段を持たない。ならばドアスコープを覗けば安全に姿を確認できるという訳だ。

 

(今まで一方的に観察しやがって…正体を暴いてやる…!)

 

 音も気配も努めて消し、覆いかぶさるようにしてドアにもたれかかる。指でそっと体重を支え、限界まで開いた片目をレンズにかざせば───

 

 

(誰も…いない?)

 

 広がるのは既知の光景。暗く、シルエットだけを見せる大きな山。鈍くくすんだ手摺。古い蛍光灯から放たれる不健康な黄色。隠れた物音もなかったというのに、その中に人影はなかった。

 

(じゃあ…じゃあ…!)

 

 立ったはずの鳥肌が更に粟立ち、体が恐怖に震えだす。吹き出す冷えきった汗が彼女の言葉を思い出させる。認めたはずだった。受け入れたはずだった。でも。ずっと気になっていた視線は。扉を叩いていたのは。そこにいるのは。やはり、やはり

 

 

ガン!

 

 一際強い衝撃が金属越しに顔を殴る。見られている。見えないのに。あちらは、確実にこちらを捉えている。

 

 音を殺すことも忘れ、弾ける様に駆け出した。ベットまで戻り、充電プラグを強引に剝ぎ取ってスマートフォンを、LINEを起動する。三枝の名前を見つけると、迷惑など考えもせず通話ボタンを押した。

 調子のいいコール音が酷く耳障りで、端末を握る手に力がこもる。

 

「かかれかかれかかれ…!」

 

 その間も扉を叩く音は止まない。むしろこちらの恐怖を煽るように強く叩き始める。

 

『中川君!無事!?現在地教えて!』

 

 こんな時間帯の電話だというのに、もしくはこんな時間帯の電話だからか。三枝さんは文句もなく、何も言わずとも察してくれた。その声は怜悧で鋭く、こちらに頼もしさを感じさせてくれる。

 

「い、いえで、そと、そとに」

 

 急に舌がもつれて上手く話せない。とにかく状況を伝えたくいのに、意思ばかり先行して行動が追い付かない。

 

『分かった!すぐ行くから絶対に部屋を出ないで!』

 

 それだけ言うと彼女は通話を切ってしまった。

 再び激しい金属音だけが空間を満たす。少しずつ音の間隔は狭まり、その大きさも増していた。音は幾度も鼓膜から脳を貫くように通り抜け、精神だけでなく肉体までも追い詰めていく。

 恐怖に凝り固まる思考の中で、根拠のない確信があった。あれは入れないから扉を叩いているのではない。きっと入ろうと思えばすぐにでも入れる。ただ俺を追い詰める為。それだけの為にあの場で扉を叩き続けているのだ。

 あれが満足すれば、この音が止んでしまえば。きっとその時、俺は死ぬ。不可視の怪物に抵抗も許されず殺される。簡単な事実がどこまでも脳に染み込み、恐怖という名のインクを広げていく。

 

 肺が暴れ、過呼吸を起こした頃。一切の音が止んだ。辺りに響くのは浅く歪な自分の呼吸音ばかりで、あれほど震えていた扉も何事もなかったかのように静止している。

 

「───聞こえなかった?」

 

 高く、夜闇に響き渡る澄んだ声。

 

「消えろって言ったのよ」

 

 彼女が、来た。

 

「…そう、それでいいのよ」

 

 壁越しでまるで見えないが、確かに声が聞こえる。彼女が、三枝深雪が助けに来てくれたのだ。争う様な音は聞こえない。言葉から察するに、上手くあれを追い払ってくれたのだろうか。

 

「こんばんは。中川くん、助けに来たよ」

 

 今度は声が扉の前から聞こえた。あれがまだいるならそこから声がするのはありえない。そして異様な寒風も消えた。つまり本当に追い払ってくれたのだ。

 

「中川くん?おーい」

 

 なのに。だというのに。

 

「私だよー。三枝深雪ー」

 

 声が出ない。

 

「…え、もしかして意識ない!?」

 

 不味い。勘違いされている。せっかく助けてもらったのにお礼も言えずこのままなどありえない。ありえないが、声が出ない。先程までの過呼吸は何処へやら、今度は呼吸がままならなかった。

 原因は覚えのある強烈な圧だった。食堂で体験したあの気迫。しかも前回の比ではない。更に力を増したくびきがこの身を苛み、無慈悲に気力を奪っていく。筋肉が無理な緊張を続けている為か、強く痛む。だが、それは言い訳だ。

 震える体に鞭を打ってどうにか右足を地面に突き立てる。そのまま両手で支え、つんのめる様にして扉へ張り付いた。最後の力を振り絞って鍵を開け、体重をかける。

 

「ちょっと!大丈夫!?」

 

 ふわりと華やかな香りと共に、柔らかな何かに受け止められた。恐らく三枝さんに抱きとめられている。申し訳ない、申し訳ない、申し訳ない。早く離れないといけない。だが体は更に固まっていく。圧の大元に接しているのだから当たり前か。

 

「あっやべ。ごめん、しまうね」

 

 罰が悪そうな謝罪の後に、体を押し固めていた圧が消えていく。そして同時に、視界の端に舞う白が黒へと変わっていく。

 

「…び…ぇ…」

 

 すみません。そのつもりで送り出した声が、意味をなさない音となって消えた。恩を受けておきながら礼すら返せぬ、なんと情けないことか。

 抱きかかえられ、そっとベットに寝かされる。彼女はそのまま横たわる俺の横へ座った。

 

「ん、よしよし。私が来るまでよく耐えたね。偉いぞ〜」

 

 そして俺の頭を撫で始めた。恐慌状態にあるこの身を案じて慰めてくれているのだろう。スキンシップがリラックス効果を産むというのは有名な話だ。もうそんな年齢ではないと思っていたが、精神がゆっくりと安らいでいく。命の危機から一転した落差がそうさせるのか、尋常ではない多幸感が脳髄を満たした。心が解れ、身体が解れ、暖かな気持ちが血液に乗って全身を巡っていく。

 ふわふわとした熱に浮かされる中で、おやすみ、という声が聞こえた気がした。

 

 

 

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