正直すまんかったと思ってる。 By書き終わった作者
あ、2まで病み成分は皆無です。
――思うに、権力とは勝ち取るものだ。
名門の出であるからとか、親が優秀であるからとか、そういった色眼鏡よりも、実際の働きぶりを見た方が余程信用できる。
そう思うからこそ私は一度も己の身分に驕ることをせず、今まで努力を欠かさなかった。
幼いと侮られるなら、働きで見返す。
女の身をひ弱だと言うなら、大男すら倒す剣技を身につけるまで。
研鑽の為には如何なる労苦も厭わない。そうして突き進んで、行き着いた先では必ずやそれらが報われ、私の夢を叶える一助になるだろうと信じていたから。
帝君や仙人の庇護を離れ、人によって治める璃月を作るという荒唐無稽な話でも、私が皆から認められれば実現する、そう思って、今日まで頑張ってきた。
なのに、
『――発言を撤回し給え、刻晴君』
『いえ、ですがこのままでは・・・』
『撤回し給えと言ったのだ、儂は。――これは命令だぞ』
『っ・・・!』
『幼いとはいえ名家の才媛だからとこうして時間を空け、入室を許したというのに。それで話すことといえば岩王帝君や仙人様の庇護を離れるべきだなどと妄言ばかり。――これ程に不遜な女とは思わなんだ』
『・・・私は、ただ』
『同じ事を三度言わせるな、青二才。己の言は岩王帝君や仙人様方のみでなく、この璃月全体への愚弄であると知れ』
『・・・はい。申し訳、ございませんでした』
私の夢は、思わぬ所で躓いた。
璃月に根付く数千年の『伝統』の認知度、そして強制力は、その時の私でどうこうなる程度のものではなかったのだ。
片や何十代にわたって受け継がれた国としての在り方。片や生を受けて十数年の小娘の世迷い言。
こう表されてしまえば、異端なのはむしろ私。あの時の上司は物言いこそ倨傲に満ちていたけど、決して間違いを言っていたわけではない。
何故なら彼にとって、そして今の璃月にとって帝君、そして仙人の面々とは守護の要であり、信仰の対象であり、この港を此処まで繁栄させてきた超然たる神秘だから。そんな存在に異を唱えるなど出来るはずもないし、しようと思うことさえ烏滸がましいのだろう。
だが、私はそれを変えたかった。
彼らの存在が理解の埒外にあるからこそ、そのような不確かな存在に我々の将来を預けて本当に良いのか。彼らの機嫌を損ねてしまったその時、璃月はどうなるのか。
私が璃月の運営に携わったのは私欲のためではない。その疑問を、自分の手で解決しようと思ったから。
『・・・いいわ。理解されないなら、私は独りでも成し遂げてみせる』
あの時の上司とのやり取りは確かに不満の残る結果に終わったが、決して無駄なものではない。
あの時認められなかったのは未だ自分の能力が足りなかったから、上司に自分はそれが可能であると思わせることが出来なかったからだ。実力不足と言い換えてもいい。
時期も良くなかった。初対面で話すにはあまりに踏み込んだ内容だし、会って直ぐに話してしまったから、上司と私との間に十分な理解がないまま本題に触れてしまった。結果を焦るあまり、この国で最も重んじられている『機』というものを軽視したのは、あまりに重いミスだ。
だが、仮にそれら全てをなしたとしても、きっと上手くいかないというのも何となく解る。
――力が、必要だ。独りで大局を動かせるだけの、圧倒的の力が。
それも求められるのは学問でも武力でもない、第三の力とも言える、完全に別分野の能力。
世を見極め、時に国を、人を動かす、為政者としての指導力。それが私には必要だ。
『・・・大丈夫。私なら、やれるわ』
その為に私は上り詰める。何、やることは今までと同じだ。どんな労苦だろうと耐え、自分という存在を認めさせる。あの上司が認めれば、次はその更に上の役職の者に、そしてそれも叶えば更に上へと。
野心家と思う者はそう思えば良い。独りで進むと決めたあの時から、固より楽な道ではないは覚悟の上。未だ幼い私には、権力という薄暗いものに縋るしか道はないんだ。
幸いあの上司の男との会合から暫くすると、私はある部署の責任者を任ぜられた。
聞き覚えのない部署だったが長は長。部下を持つことになる以上、其処で人々を動かすための能力だって育てることは出来る。
鶏口牛後、凡百の役人達と共に働くよりも余程機会には恵まれる筈。
そして、記念すべき部下と初顔合わせとなるあの日。
『――へえ。仕えて二分の部下の身分としちゃあ、上司サマにお褒め頂いて光栄で』
私はあの男に、この世を舐め腐ったかのような態度を取る二回りも年上の部下に、初めて出逢ったんだ。
――こうして人に拳を振るわれたのは、幼少以来かしら。
「――この馬鹿がッ!」
鈍く、それでいてしっかりとした破裂音。
あの男から叱責と同時に飛んだ張り手は手加減こそされていたようだが、それでも焼けるような痛みを伴っていた。
殴った彼の顔は酷く険しい。理由はわかっているけれど、それでも目を醒まして早々に手を挙げられたことに、私は我慢がならなかった。
「・・・確かに今回は眠っていた私が悪いけれど。それでも上司に手を上げるなんて、貴方余程命知らずみたいね」
「命知らずはどっちだ。――お前、さっきまで心臓が止まってたんだぞ」
「・・・え?」
「何だ、もっと噛み砕いて言ってやった方が良いか?
――お前は一瞬、死んでたんだよ」
思考が止まる。一瞬冗談かとも思ったが、真っ直ぐ此方を見据える彼の目を見てそれが本当だと悟った。
――確かに最近は無茶が祟って不調の日が多かったが、私がそんな過労如きで斃れるなどあるはずがない。
「・・・嘘よ」
「ハッ、自分はそんなひ弱じゃねェってか。おめでたい奴だな。
――いいか、人は神サマじゃないんだよ」
まるで親が無茶をした幼子を叱るように、ゆっくりと言い聞かせるようなその口調。平素であれば何処までも子ども扱いする彼に腹を立て、間髪入れず噛みついていたかもしれない。
だが私はそれよりも、彼が放ったその言葉に何か引っかかるものを感じていた。
このテイワットに於いて神とは七神を意味し、特にこの璃月で神といえばこの地を治める魔神――岩神モラクスその人だ。だが璃月に生きるものがその名を呼ぶことは少ない。
街の興りから数えて三千余年、悠久の時、幾度もの災いからこの街を護ったのは岩神と彼と契約した神仙達だ。更に岩神は民達と千岩牢固、岩の契約を交わし、己が身を削りモラという万物の物差しを与えた。
だから璃月の人々は彼に敬意を表し、岩神という存在に畏怖と感謝を込め、敢えて真名ではなく、こうやって呼ぶ。
岩の契約の主にして、この地の統治者、岩王帝君と。
・・・だが彼は今、ハッキリと『神様』と口にした。他の国なら解らないが、少なくとも璃月では聞かない呼び名だ。
「まさか」
違和感から加速度的に生まれたある可能性は、こんな状況にも関わらず僅かな希望となり私の胸に灯った。が、直ぐに消す。
――あり得ない。それに仮にあり得たとして、相手がこの男であるなど許容できるはずがない。
私の不可解な様子を見てか、やや彼の目から怒りが僅かに薄れ、応じて振り抜いた手がゆっくりと下ろされる。
代わりに滲み出るのは・・・自責、だろうか?
「――別にお前には恩も義理もないがな。お願いだから、無理して潰れるような事だけはしないでくれ」
「・・・貴方、もしかして」
――もう、親父みたいな奴は見たくないからよ。
蚊の鳴くようなか細さで発された彼の言葉に、私は何も発することが出来なかった。
普段は厚顔無恥を地で行く彼が、今は酷く弱々しく見える。だが此処で私の今の疑問を優先したり、これ幸いと彼の傷口を抉り返せば、私はきっと人として大事な何かを失うだろう。
「・・・ごめんなさい」
結局私の口から出たのはその一言だけ。それ以上は言葉になる前に胸につっかえた。
彼は何も言わない。その口端を何か堪えるかのように引き結び、腕はだらりと力なく卸されたままだ。だがそれでも暫くすると、ゆっくりと言葉を紡ぎ出し始めた。
「・・・お前が何の為にそうやって生き急いでるのか、俺は知らん。
――だが、俺はそうやって無駄に自分の命を削るほどに努力をして、そして手前勝手に潰れた馬鹿を知っている」
「・・・さっき言っていた、お父様、かしら」
「ああ。親父はお人好しの努力家で、自分が頑張れば誰かの助けになるって信じてた――その結果自分より偉い奴らに散々使い潰された挙句、最後は俺が成人するより前にぶっ倒れてよ。・・・勝手に逝っちまいやがった、とびっきりの大馬鹿野郎だ。
――丁度、総務司の下らねェお偉方にこき使われてる、今のお前みたいにな」
一言一言を噛みしめながら話しているかのような、かと思えば厭わしいと吐き捨てるような、安定しないその口調。だが彼の言葉は、私の中に巣くっていた
それは、私が今まで彼に抱いていた評価からすれば到底不可能な芸当だった。
確かに、私の働きが上に言いように使われている事は薄々気付いていた。この部署に就き、此処に他部署のあらゆる皺寄せが集まっているという実情を知ってからは、その疑念は半ば確信に変わったと言って良い。
だが、まさかその事に彼も気付いているとは。確かに仕事に無関心なくせして妙に優秀なのもそうだし、変に鋭い所があるとは感じていたけれど。
「・・・貴方のお父様については気の毒だと思う。でも私は違うわ。誰かに使い潰されて一生を終えるなんて真っ平御免だし、何より私の夢を叶える為には必要な工程なの。貴方みたいに今が楽しければいい怠け者とは違うのよ」
「は、現に実際死に掛けておいて良く言う。知ってるか? そう言うのを過猶不及っていうんだぜ」
「・・・貴方ね」
思わず詰め寄ろうとするが、一歩も歩かない内に大地が傾いたような感覚が襲い、頽れてしまう。多少横になれたとはいえ、身体には依然疲労が溜まったままらしい。
そんな私の様子を睥睨し冷たく鼻を鳴らす彼を、精々睨み付けることしか出来ない自分が酷く情けなかった。
「ホラ見たことか。幾らお前が優れていようが、今の状態じゃ仮に俺がお前を襲おうとしても勝てないだろうぜ」
「・・・下衆な考えね」
「ほざけ、仮定の話だ。兎に角、今日の所は――いや足りない。今週一杯、お前は休め。お前がこの部署のトップなんだから、総務司への報告は忘れるなよ」
「誰が、するもんですか」
「なら代わりに俺がしてやるよ。――ただし、その行き先はお前の実家だがな」
「ッ、何ですって?」
「何で俺がお前の家を知っているかか? いや、お前の家アホほどの名家だろうが。流石に名前だけなら俺でも知ってるぞ。・・・さて、お前の親御さんがどんな御仁かは知らないが、手塩に掛けて育てた娘さんが過労死しかけましたなんて言った日にはどうなるかね?」
「・・・解ったわ。私の負けよ」
此処まで粘ってみたものの、手詰まり。非常に癪だが、遂に私は折れざるを得なかった。やがて疲労感から見上げることすら億劫となり、ゆっくりと項垂れる。
「・・・っし! 勝った! 散々掛かったが、遂にこのメスガキをわからせる事に成功した!これでやっと年上の威厳も保てる!」
・・・まあ、成人もしていない齢の私との応酬で勝利し、大人げなく小躍りしている中年男の醜態をこれ以上見たくない、という思いもあったけれど。
ちなみに年上の威厳なんて大層なもの、初対面の時点でもうなかったわよ。
項垂れたのはその思い半分――いや七割、疲れ三割からといったところかしら。
「――あ、そうそう。刻晴様――いや、刻晴クンかな? 君が休んでいる間は私が仕事やっておいてやるから、安心し給へよ。ハーッハッハッハ!!」
「・・・」
・・・やっぱり、九割くらいあったかもしれない。
先程の思い詰めた雰囲気は何処へやら、私に一泡吹かせたことでこれ以上にないほど調子に乗っている彼の声を聞きながら、私は復帰したらその鼻っ面に一撃見舞ってやると心に誓うのであった。
何、家にいてもやれることは多くある。流石に書類仕事は無理だが、これからのスケジュールの整理やいち早く終わらせる業務の選定など、思いつくだけでも枚挙に暇はない。
・・・別に怠け者な彼には負けていないという反抗というわけじゃないわよ。
そんなことないったらないんだから。
ああ、でも、まあ。
一応彼が言っていた事も、片手間くらいには考えておかないと。
こんな屈辱は二度と味わいたくないし。
今までの業務のパフォーマンスを落とさない範囲なら、休息も問題ない。そう思っただけよ。
・・・
刻晴が私用で仕事を休んだ、という事実は、総務司全体に少なくない衝撃を与えた。
左遷先の『あの』部署に勤めているということもあり、別に他の者達の業務に大きな支障があるわけではない。だが彼女の身目麗しい姿、そして同時に仕事の鬼とも言うべき勤勉さに常人の数倍に迫る能力は、まだ彼女が此処の労に携わり間もないにも関わらず、総務司の殆どの者が知るところだったのだ。
自身が良くも悪くも有名であることに彼女が気付かなかったのは、左遷先の場所の都合上、共に働く男以外関わりが希薄なことが大きいだろう。過労にしても、当時他者から『次代の新星』とまで謳われていた彼女への評価を聞けば起こらなかったかもしれない。だが、今更過ぎたことを穿るのは詮無いことだ。
――では、刻晴殿が休んでいる間の業務はどうなるのだ。
――渡した仕事の中には期限の近いものも多い。遅れてしまえば我らの責になってしまうではないか
だが、それから暫くしたある時。
ある数人の役人達からこんな声が挙がったのである。
始めから結論を言ってしまえば、何のことはない。彼らは全て、彼女の部署に業務委託を任された者達だったのだ。
彼女が着任する前から、男二人(或いは一人)のみで構成されたその部署には、他部署から多くの業務が委託、という形で横流しされている。
名目上は他部署の情勢を記録するという監査部署となっているが、その実態は総務司全体の雑用を一挙に担う雑用部署だ。
故に正式な名称とは別に、その部署には誰が呼んだか、『跑腿部』という別称が生まれた。
『跑腿』は雑用の意であり、『部』が部署を示すなら、文字通り『雑用の部署』を意味するその語はそのまま部署の蔑称であるという意も含まれよう。
・・・まあ、当の今まで働いていた男達は意に介していないか、そもそも知らなかったようだが。
問題はこの後だ。
日常的に仕事の丸投げが後を絶たず、期限が過ぎればその責任を全て被らされていた闇の部署に刻晴が勤め始めてからというもの。
提出の目処なく黴が生えるのを待つのみだった書類達がものの一週間で駆逐され、更にその部署が本来の業務である他部署の監査までし始めたのを、役人達が不思議に思ったのは言うまでもない。
そして彼らは刻晴の存在、そしてその働きぶりを目にするのだが――そのうちの何人かが、このような事を考えたのである。
即ち、彼女に自分の個人的な仕事も任せてしまえば楽なのでは、と。
璃月は商業の街であり、民の気風の中には『機を逃さざるべし』というものがある。
故に、たまたま見つけた有能な彼女の勤勉さにつけ込み、自身に利を齎そうとした彼らの考えは非道でこそあれ、余人に全く理解出来ないものではない、というのが正直なところだ。
幾ら義侠を重んずるとて、人は欲深きもの。騙され、利用される方が悪いのだ。――そう考えた彼らは、これ幸いと自分の仕事の分まで横流し書類の山に混ぜるようになった。
そして今回、何時までも返却されない仕事に危機感を覚え、今更になって口々に騒ぎ出したのである。その結果が言わずもがな今回の事に繋がったのだが、それは因果応報。これ以上口にするのは野暮というものだ。
私欲のため他者を利用した彼らには漏れなく、それ相応報いがある。そうなって然るべきだろう。
――だが。
それから暫くして、彼らには元通り完遂された仕事達が返還された。
無論部署全体から委託されたものも同様である。それが幾日も続き、その間幾許か期限が危なかった事も有ったとはいえ、遂に期限を過ぎて返されたものは何一つとしてなかった。
確かに刻晴が勤めてからというもの、それは当たり前のことだった。だが彼女のいない今、元から膨大だった従来よりも更に嵩を増したその仕事を、一体誰が成しているのだろうか?
内容は刻晴のものと比べると幾分筆跡も粗く、細かい誤字、脱字もそこそこ散見される。更に紙面の一、二枚には、擦り墨だろうか、固まり雫となった黒い何かがへばりついている始末。
いずれも殊更に取り上げる必要もない初歩的な誤りだが、若干完璧主義の嫌いがある刻晴ならば、このような手合いはどれほど疲弊しようと許さないだろう。
では隔離されたあの部署の扉の先で筆を執っているのは、一体誰か?
事情を知っているとすれば、あの部署に長年勤めている怠け者の男一つくらいのものだが、さて。
・・・
「――ちょっと! 何やってるの?!」
「・・・・・・・・・・・・ぁ?」
やきもきする程長い休みから明け、意気込み新たに扉を開けた先。いきなり飛び込んできた凄惨な光景に、私は図らずも大声を上げた。
――まず目につくのは、床に転がる夥しい数の紙玉。
一体どれだけの書き損じなのか見当も付かない。申し訳程度に設置された屑籠から溢れ、今や床を覆い尽くさんばかりになっているそれらは、目につく限りではどれも墨に汚れ、例外なく丸められている。
次にそれを生みだしたと思しきあの男の顔を見て――
「・・・ちょっと貴方、一体何があったってのよ!!」
彼の顔は、およそ生きた人間の顔色を留めていなかった。
土気色という言葉が最も似合うその様子は、幽鬼や妖魔の類と言われても遜色ない。一日二日寝ずにいた程度ではこうはなるまい。
年の割には整っている、と言っても良かったその容姿も今やその面影はなく、眼窩は深く窪み、唇は硬く罅割れている。
髪も四方に飛び跳ね、肌も荒れ放題。『オジサンなったら、女の子と同じくらい気ィ使わなきゃ駄目なの!』と、清潔感に少々口うるさかった彼を知っているだけに、変わり果てたその姿は余計に信じがたかった。
唐突な私の大声にも驚くどころか、一言掠れた声を返すのみの彼だったが、此処に来て漸く反応らしい行動を取った。ゆっくりと振り返り、此方の姿を認めると力なく頬を緩める。
――まるで、回復した私の姿に安堵したかのように。
「・・・ぉー。こクぜイ様か。おはよゔざン」
「そんな悠長なこと言ってんじゃないわよ! 貴方、こんなになるまで何を・・・一体本当にどうしたのよ!?」
所々掠れて音にすらなっていなかった彼の言に構わず駆け寄る。
この男のことは好きになれないし、出来ることならお近づきになりたくないとも思っているが、死人と間違えそうな程に憔悴している彼を見て、それを見殺しに出来る程の恨みはない。
近寄ったことでその凄惨さはより詳細に、より実感を伴って飛び込んでくるが、その全てを無視して絶えず動いていた彼の腕を掴み、作業を一旦止めさせた。彼の手元が大きくぶれ、下に敷かれた紙が端から破れる。
「・・・嗚呼、またガ」
すると、今まで遅々とした動きしか見せなかった彼の身体が突如なめらかに動き出した。
何やら書きかけだったその紙を丸め、一瞥もせずに屑箱の方へと放る。だが放り投げられた紙玉が元より山盛りのそれに収まることはなく、それはそのまま山を転がり、力なく床に転がるだけだった。
「――全ぐ、出来が悪いガらって破るの゙はあんまりだろう、刻晴ざマよぉ」
「・・・何を、言っているの?」
「おイお゙い、休んでル間に随分どボケちまっダみてぇだな。あの時俺、言っただろうが。
・・・お前が休んデる間は、俺がお前ノ仕事を引き受げるって」
――まさか!
あり得ない。
この男は、私が何度注意しても幾度となく職務を放棄しては遊び歩くロクデナシだ。
油断した私から一本取っただけで、子どもも引くレベルで喜ぶ大人げない中年のはずだ。
自分以外極論どうでも良い、そんな事を公言している男が、あんな軽い勢いで宣ったことを覚えているあまりか、それを律儀に履行していたなど。
いや、その前にだ。一日に此処に送られる書類が一体どれだけあると思っているのだ。今までも私も多少無理をした上で、彼と二人でかなり厳しいところだった筈。
それを承知の上で引き受けたと。
そしてそれを今までこなし続けていたと、彼はそう言っているのか。
「・・・そノ調子じゃ、俺がそんな殊勝な男だどは思ってなかっだようだナ。へへ、まだお前に一杯食わゼてやった」
「そんなの、そんなの良いから・・・解ったから黙りなさい!」
「いんや黙らねェよ。それに、あとコレざえ終われば今日の仕事まで完全に終わるからな。だがらちと悪いが、もう少しだけ・・・って。あレ?」
ぐちゃぐちゃの心情で叩きつけた私の制止を振り払い、尚も筆を持とうとする彼。だが叶わず、そのまま前屈みになった勢いのまま顔から机に激突する。そのままびくり、と大きく身体を強張らせたきり、彼はそのまま動かなくなった。
――流石に眠ったのだろうか。微動だにせず、突っ伏した姿勢から起き上がる気配もない。
肩も上下していないし、その姿はまるで死んでいるかのようで――
「・・・ちょっと、起きなさい。起きなさいよ! こんなとこで死んでるんじゃないわよ!?」
呼吸すらしていない彼の身体を抱え大声で叫ぶが、反応はない。
此処に来て、私は彼がとうに限界を超えていたことを漸く理解したのだった。