胡桃、誕生日おめでとう(時既遅)
許して()
――ふと、暖かな風を感じて目が醒めた。
目を開けると、其処にはいつも通りのかび臭い古書。先程まで突っ伏していた机に山と積まれ、今にも崩れかかっているそれは、半ば眠りかけの意識を現実へと完全に引き戻すのに充分だった。
倒壊一歩手前の本の山を解体しながら磨りガラス越しに外を見れば、空はまだ夜明け前。
最後に見た時は日が変わるかどうか、といった時間だったから、居眠りでは済まない間寝入っていたことになる。
――まずい。
『往生堂』始業の時刻はまだ先だが、まとめ役の俺が一番先に準備をしておかなければ下の者に示しが付かない。だから何時もこの時刻の少し前には、既に起きるようにしていたんだが。
しかし、さっきまで随分懐かしい夢を見ていた気がする。でも詳細は思い出せない。なら深く考えることもないだろう。
軽く身体を伸ばしてやると、バキバキと嫌な音が至る所から鳴る。いくら若いといっても、机で寝たのだから当然か。
――はは、いやあ最近は運動不足のせいか、身体が全く動かんでな。『天枢』ともあろう者が情けなかろう?
ふと先人の言葉を思い出したので、遅れを取り戻そうと逸る気持ちを抑えながら、何時もより念入りに柔軟をこなし、汗を流す。
最近籠もりっぱなしだったし、今度の休みは運動をしよう。ここのところ身体を大きく動かすような力仕事はしていないが、身体を錆び付かせるような真似はしたくない。
もし堂主を出先で俺が止められず暴走してしまえば、以降彼女を止めるまでに結構な被害が出てしまうのは確実。他の者に任せても何とかなるだろうが、その後の処理を考えると、未然に俺が防げるに越したことはない。
その程度で看板に傷が付くほど『往生堂』と璃月民との関係は弱くない。しかし要らぬ波風など立てないのが一番だ。
仕事着の黒い唐衣に身を包んだ後、玄関の門の下から差し込まれた『依頼』を拾い上げると、扉を開ける。
日も長くなってきたところだが、まだ空は水平線が薄らと白む程度。出てすぐ脇の掲示板を確認し、其処に堂主の書いたと思しき『
これを非情と言うなかれ。まともな内容なら残す価値もあろうが、彼女の張り紙は決まってロクな物じゃ無い。葬儀屋の宣伝に『まとめて送るともう一つおまけ』という文言は不謹慎以外の何物でも無かろう。
その後は中に戻り、卓上で『依頼』の束に目を通していく。
――はぁ。
今に始まったことではないが、最近本来の『依頼』が全く関係ないもので埋め尽くされようとしている。
彼女が堂主を務めると決まった時から解っていたことではあるが、とりわけ今回は特に酷い。
『依頼』――葬儀の相談以外で、往生堂への文は大きく分けて二つ。一つは『往生堂』そのものへ、恨み辛みの負の文言が綴られたもの。
人の死を預かる葬儀屋の看板を背負う以上こういったものは避けては通れないと知っているから、これについてはあまり問題無い。そも比率からすれば微々たるものでしかないし、そうそう此方に舞い込むものでもない
問題なのはもう一つの方だ。
それは乃ち、現堂主の奇行に対しての苦情。
現状往生堂の扉にねじ込まれる九割五分を占めるそれらは、目下堂主を除く往生堂職員全員の悩みの種になっている。
昨日は彼女一人だけ休日を取っていて、かつ一日往生堂の何処にもいなかったので予想はしていたが。
“うちの従業員の七七を見つける度、誘拐しようとするのは止めて頂きたく――これは『不卜蘆』の桂様――いや白朮様だろう。
“慰魂という名目で夜中槍に灯を付け、舞を行う女の目撃例”――なんと、今回は千岩軍からも来てると来た。
成る程、昨日はこんなことをしていたのか。
――始業前に言っておくか。
まあでも、もう慣れた。
今までの経験上、彼女への忠告は岩に説法と同じくらい無駄なことだと解っている。手帳に追加要項を小さく書き留めると、次はそれら一つ一つに返事を丁寧に書いていく。
書き手に心当たりが無いものはどうしようもないが、それ以外なら出来る限り返事を返すようにしている。彼らとて定命の生持つ者。往生堂の顧客であることには変わりない。
どんな文面であろうと誠意を欠かさず返答するのが、『往生堂』式の対応だ。
一枚一枚、丁寧に。
全て返事を書き終えた時、通りに面した磨り硝子の窓から柔らかな光が出ているのに気付く。
朝。
いつの間にか日は昇っていた。
・・・
「――堂主」
「ッ、やぁっ! 君から私を呼ぶなんて、どうしたの? 寂しかったの?」
「何か期待させたみたいで悪いけど、違う。――昨日の堂主が起こしたトラブルの件だ。全部対処しておいたから、心配するな」
「・・・うん。で、他には?」
「別に。以降するなと言ったところでお前は聞かんだろう。無論控えてくれるというなら、俺としても楽なんだが」
「・・・あー、そっか。ありがとね、感謝してるよ」
「ああ。――じゃ、本題に入るぞ」
何事もなく、機械的に今日届いた仕事の話をする彼を見て、私は作戦の失敗を悟った。
・・・昨日わざわざ休みまで取って、街中であれだけ無茶苦茶した。なのに彼の表情一つ変えることが出来ないなんて。
「――どうした堂主。何か気になるものでも見つけたか?」
「・・・ううん、別にー?」
私が追求を曖昧に流したことを怪訝そうにしつつ、尚も話を続ける彼。心配してくれてるのにも関わらず、心が更に沈んでいくのを感じる。
――きっと彼は今、私のことを誰より知る存在だ。それこそ、顔に貼り付けた笑顔の奥、僅かな気持ちの浮き沈みすらも容易く看破し、案じてくる程に。
「気になるものがあるなら遠慮せず見に行くと良い。問題が起きても、いつも通り俺が何とかする」
「・・・」
でも違う。
これは。彼の岩のように冷たいこの在り方は、私が求めていたものじゃない。
彼と出会って、ぶつかって、友となり、共に遊ぶようになって。
少しだけ成長して、彼と共に居る中、自分の中に淡い色を自覚して。
それからは竹馬の友ではなく、生涯の相棒として想い焦がれた筈の彼。
今に至るまで多くを共に話し、歌い、駆けた。喧嘩も一度や二度ではない。
でもその全てに彼は真摯に向き合ってくれたし、その度に様々な表情を、反応を見せてくれて、お陰で私は退屈なんて感じなかった。
彼がいなければ、世界の灰色はもっと多くなっていただろう。
だけど今の彼はどうだ。
私がどんな事件を起こそうと、眉一つ動かさずに粛々と片付けて。
思いつく限りの言葉も、からかいも、今の彼の心に波風を立てること能わず。
詩を歌えども、彼の詩にあの時の出鱈目さ、奇抜さなんてもうない。口から紡がれるのは非の打ち所のない、つまらない詩ばかり。
まるで心ない人形と話しているようで。
今の私にはそれが酷く、息苦しい。
『――そうだ胡桃。俺、『往生堂』に就職することにしたから』
『・・・え?』
彼が変わり始めたのは、私が彼への想いを自覚した頃だった。
その時は疑問よりも嬉しさが勝って気にしていなかった。何かと私と競いたがる彼が『往生堂』で――私の部下として働きたいだなんて言うはずがないのに。
『ちょ、止めろ恥ずかしいだろ!』
『ふっふーん、ヤダネー!』
『はーなーれーろー!!』
それでも嬉しくてつい彼に抱きついてしまった時、その頬は赤かったし、恥ずかしそうに私を押しのけようとしていた。
だからまだ、彼は私のよく知る『彼』だったんだと思う。
『胡桃、今日、講義のため客卿でいらっしゃっている鍾離先生なんだけど――』
『んー? 鍾離さんならついさっき渡し守の娘を連れて市に出て行ったよー。ここに来る途中良い青磁を見つけたんだってさ』
『そっか。困ったな・・・』
『最近よく鍾離さんのところに行ってるみたいだけど、どうしたの? まさかとは思うけど今になって勉強したい欲でも出来ちゃった、なーんて・・・』
『あー。まあそんな感じだな』
『ダヨネー。学校じゃあれだけ不良してたんだし、今更そんなキャラじゃ・・・エエッ!?』
突然勉学に励むようになったのも変だ。
学校じゃ数える程しか筆も執らず(私が学校で勉強していなかったから、それに対抗していたのかもしれない)、結果散々な成績ばかり取っていた彼には、間違っても学問の趣味はない。なのに彼は往生堂に入って暫く、書物を食い入るように見ている事が増えた。
最初は働き始めに食らった、先々代――私の爺様の雷が余程堪えたんだと思ってたんだけど、彼が往生堂の仕事、理念を理解した今も、彼の読書癖は続いている。
今じゃ堂主たる私の助手を務めるばかりか、往生堂のまとめ役を兼任する身だ。そんな彼ほど、往生堂の精神を知り、体現する者もそういないというのに。
「――主。聞いてるか堂主」
「ッ! う、うん。聞いてるよモチロン。当たり前でしょ」
と、上の空だった意識で辛うじて彼の声を認め、半ば反射的に返事をする。
自分としては比較的自然に返事できたと思うし、周囲から自分がどう思われているかくらいは知っている。だから多少話を聞いていない事についても、他の往生堂の人くらいならごまかせる自信はあった。
「・・・やはり本調子ではないな。一体何があった。お前が気に病む事柄など相当のことだと思うが」
でもそんな杜撰に繕った程度じゃ、彼には通じない。
誰より私を理解している筈の彼は、しかし決して私の欲する言葉を掛けてくれることはなくて。
「・・・仕方ない。堂主が上の空の状態で、これ以上お客様に会う訳にはいかん。後は俺がやっておくから、堂主は一度往生堂に戻れ」
「ッち、違う。私は――!」
「違わん。――それにそんな状態で『往生堂』の看板を背負ったとして、一番後悔するのはお前だろうが、
冷たく、それでいてそれ以上の文句は言わせないという意思を孕んだ目。それを見てしまった私には何も返すことは出来なくて。
「・・・うん。解った」
何より、久々に呼ばれた自分の名前がひどく冷たい響きだったのを聞いてしまったから。
中途半端な想いを抱え、私は元来た道をとぼとぼと歩くしかなかった。
「――何でだろうなぁ」
彼が私と競うことをしなくなったのはいつからだったろう。
長らく試したことがないから何とも言えないけど、実際に腕力や立場などを比べても、今も昔も、彼が私に勝つことは難しいと思う。
でも、今の彼はそれに殊更目くじらを立てる事が無くなってしまった。だから此処で私を従えさせられたからって、彼は昔のように喜ぶことはない。
それがとてもつまらなくて、気に入らない。
私の性格は私が一番理解してる。いつもならどんなに興味を惹かれた人であっても、一度こういった失望を抱いたら私の興味は消え失せる。その筈なのに。
なのに、彼からはどうやっても目を逸らすことができない。いざ彼のいない日々を考えると、説明できない恐怖に押しつぶされそうになる。
「“夏の夜空に蝶一つ。若き身空は穴二つ”。――なんてね」
情か、今までの縁か、それとも他の要因によるものからか。
私の中で明確な答えは、終ぞ出ていない。
往生堂に戻ると、丁度
「む、
「やー。うん、ゆっくりしてってよ」
彼のような美丈夫が椅子に腰掛け、自分で淹れたと思しきお茶を口にする姿はいつ見ても絵になる。あのお茶、確か『
その上博識で器量よしと来ているので、彼は誰もが認める完璧超人――いや、そういえば絶望的に金銭感覚がおかしいっていう欠点があったか。
「それで、今日は何の用? 確か鍾離さん、今日の講義役はお休みだった気がするんだけど」
「ああ、契約ではその通りだ。今日訪れたのはそれとは別件でな。――しかし胡堂主、俺は渡し守の者から堂主が戻るのは夕刻を過ぎると聞いていたんだが。随分と早く戻ったな」
「あー・・・まあ、ちょっと仕事中に助手君に怒られちゃってね。仕事に集中できないなら帰れってさ」
「君がか? まさか――いや、助手の彼が言うなら事実、そう見えていたのだろう」
「そ。だからちょっと頭を冷やそうかなーと思って、此処に戻ってきたわけ。いやー、優秀すぎる部下を持つのも困りものだよ。近いうち、もしかしたら堂主の座も取られちゃうかもー」
「それ程の野心家には見えないがね。それに彼は――いや、何でもない」
? あの何でも知ってる先生が言いよどむなんて珍しい。気になったけど、まあでもそんなこともあるかと追求はしなかった。
「・・・あ」
と、ここで私の頭にある考えが浮かぶ。
『なんでも知ってる先生なら、彼をなんとか出来るかもしれない』。――うん、即興にしては良い考えだ。
「鍾離さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何だ? 俺に答えられる範囲で答えよう」
「いやー、大したことじゃないよ。
ただ、子どもの癖に一丁前に大人ぶった馬鹿の面の皮を崩したい時、鍾離さんならどうするかなって思って」
「・・・ふむ」
すると鍾離さんは口元に手を当て、深く考え込んでしまった。
よくよく耳をすますと『難しいな・・・』とか、『我が身に置き換えて考えた方が・・・』とか、『仏頂面の降魔大聖、もし俺なら・・・』とか色々言ってるのが解る。
――というか先生、凄く気軽に降魔大聖ってワードをポンと出した気がするけど、その辺大丈夫なのかな。
そのまま待つこと暫し。
上半身を横に突っ伏し、机の傷を五十くらいまで数えたところで、ようやく先生が顎から手を離す。
「済まない、結論が出るまで少し時間が掛かってしまった」
「いーよ別に。それで、鍾離さんならどうするの?」
「ああ。俺なら、その者に盛大な
「・・・ふーん」
うーん。
言いたくないけど、正直発想としては平凡、と言わざるを得ないような気がする。
どれだけ博識でも、流石に画期的な答えが返ってくるとは限らないか、と当たりを付けかけたその矢先。
「勿論多少驚かせる程度のものでは足りない。――そも、彼は多分滅多な――例えば、俺が死んだとか、そのくらいではさして取り乱さんだろう」
「・・・へえ」、
だけど、続く先生の言葉でその認識を改める。
死。私にとって、それは敬いこそすれ恐れるものではない。
だけどそれは此岸に住まう生者にとって一、二を争うほどの恐怖の筈。それより衝撃的な出来事なんてそう無いと思うけど。
「じゃあどうするの? 知己が死んでも驚かないような堅物なんて、そうそう取り乱させることなんて出来なさそうじゃない?」
「はは、サプライズは何も驚かせるだけが芸ではない、というだけだ。
――彼が持つ労苦を、俺が一時でも和らげる事が出来れば、さしもの仏頂面も容易く砕けよう」
そう言って力なく微笑む先生に、いつもの凜とした雰囲気はなくて。
あるのはまるで老人のように枯れた達観と、言いようもない寂寞。
――少しだけ、考え無しに尋ねてしまった自分を恥じた。
「・・・すまない、空気を悪くしてしまったな。俺が言いたかったのは、人の意表を突くのに必ずしも
「・・・むー、もしかして、最初から全部お見通しだった?」
「はは、伊達に長く知見を深めているわけじゃないさ」
どうやら先生には全部お見通しだったらしい。
往生堂に来てからずっと、私と彼のやり取りを見てきた人だ。驚きはないけど、何だか悔しい。
――それにしても、私が彼の手助け、ね。
「・・・散々助けられてばっかりだし、今更彼の何を手伝えば良いのかって話じゃない?」
「む、それもそうか。そも、今の彼に重荷となっているものとすれば――いや、何でもない」
「? まあそれに、私って言ったらやっぱり奇想天外!ってのが売りだし。・・・やっぱりドッキリの方面で何か良い案無い? 鍾離さん」
押して駄目なら引いてみろって感じの、先生の案は素晴らしいと思う。
でも今の彼は多分、私の助けを必要としてない。そんな予想が出来てしまって、そしてそれを確かな物にしてしまうのが怖くて、先生の案はどうしてもやる気になれなかった。
「そうだな・・・ではさっきの案から汲んで、こんな物はどうだ?」
結構無茶ぶりだなぁと思ったけど、意外なことに先生はさして時間を掛けずに代案を出した。
そして、
「それだぁっ!! ――アイタっ」
「煩いです堂主ッ!!」
あまりに大きな声を出しすぎて、渡し守に引っぱたかれた。
いたかった。ぐすん。
・・・
時間は夜半。よく晴れた満月の夜。
「・・・ぁ゙ー、疲れた」
そんな時分に、何故か汗だくで山登りに興じる男。
間違いなく不審者だが、悲しいかなそれは俺である。
こんなことをしている理由は簡単、堂主からお呼びが掛かったのだ。
要件は知らん。少なくとも事務的な呼び出しでないことは確かだ。何時も突拍子のないことを言う堂主だが、仕事関係についてだけはしっかりしてる。だから仕事の話なら、俺の机に墨でデカデカと時刻と場所だけ書いて呼び出す、なんて方法はとらない。
しかしまあ、あの呼び出し方だ。まず間違いなくロクな要件ではない。
たしか以前似たような感じで呼び出された時は、四六時中交互に詩を詠まされたっけか。休憩一切無く、文字通り丸一日。気合いでやり遂げたが、あの時ばかりは本気で死ぬかと思った。
今回は次の日に響かない物であれば良いけど。――まあ、考えるだけ無駄か。
今回の呼び出し場所は天衡山。堂主が昔『秘密基地』と称して遊んでいた場所だ。高所を泣いて嫌がる俺を引きずって、ひょいひょいと崖に沿うように建つ玉京台の屋根を伝い、胡桃に連れてこられたのをよく覚えている。
あれから玉京台に大きな建て替えもないし、今もあの時の屋根コースは使えるんだろうが、今それをすれば千岩軍にしょっぴかれるのは確実。
だからこうして疲労でパンパンの腿と手を気合いで動かしながら、切り立った崖に等しい斜面を上る他ないわけで。――下を見ないで此処まで来たけど、帰りどうしよう。
彼女は昔の感覚でこの場所を指定したんだろうが、付き合わされる身としちゃたまったものではない。
無心で上ること暫し。
「やっ、随分遅かったね。――ナニナニ、もう身体にガタが来ちゃったの?」
切り立った崖の途中に出来た小屋一つ分ほどの野原と、古木が一本。
ようやく見覚えのある場所が見えたと思ったら、其処には既に堂主がいた。
最近で一番元気そうな姿に何となく嫌な予感を覚えるも、敢えて深くは尋ねない。十中八九はぐらかされるに決まっている。
――こんな場所まで呼び出したのは一体何の了見だ。
結局、荒れた息で口に出来たのはそれだけだった。
堂主は何も答えなかったが、それを聞いた彼女の笑顔が一段階深まったのを俺は見逃さない。
――ああ、これはもう逃げられないな。
これまでの付き合いは伊達じゃない。あの目は最高のオモチャを見つけた目だ。
昔から彼女は考えを己のみで完結させてしまう。そして一度そうと決めてしまえば最後、誰の意見も主張も、彼女の意志を曲げることは出来ないだろう。
端的な話、人の言うことを聞かないのだ、堂主は。
傍目では興味深く耳を傾けているように見えて、その者が立ち去った後、隣の俺に『ねえ、あの人って私に何て言ってた?』と尋ねてくる、なんてことが何度あったか。
どうしてもって場合は、そうさな――彼女の考えを予想しながら喋るしかないんじゃないか? 最初は意味不明でも、付き合いが長くなれば何となく解るようになるだろう。
しかしそれにしたって手がかり無しじゃ厳しい。今回も、多分俺が幾ら尋ねたところでこの先の出来事を知ることは出来ない。
俺が此処に来た時点で――いや、もしくはそれすらも織り込み済みかも知れないが――彼女の頭の中では、既にこの先起こる光景が出来上がってるんだから。
――降参だ。俺は何をすれば良い。
「うん! じゃあ早速なんだけど、これ着けて!」
そう言って勢いよく渡されたのは、親指ほどの幅の黒い帯。長さは大体俺の片腕ほどか。
「・・・?」
帯にしては些か幅狭で、タスキにしては短すぎる。どう着けるか考えあぐねていると、早々にしびれを切らしたのか彼女にそれをひったくられる。抵抗権など無い。
「えいっ」
それであっという間にそれで両目を塞がれてしまった。成る程目隠しかと納得する間もなく、今度は手を掴まれ、ずんずんと前へ前へと引っ張られる。
待て堂主、場所を思い出してくれ。崖、ココ崖。
「良いから良いから。私が前に居るから安心してってば」
これ以上無いほど安心できない。
今すぐその場に座り込んで全力で抗議したい。が、子どもの時ならまだしも、大人になった今それをするわけにはいかない。彼女の前であれば尚のこと。
結局彼女に引きずられるまま、暗闇の中でどこかに立たされる。そして眼前の暗闇が取り払われ、次に目にしたのは――
遙か下に位置する大地であった。
「・・・ッ!!」
立っていたのは崖のふちもふち、足先数センチがもう崖という絶望的な場所。
楊枝ほどの大きさしかない木々、下から吹き上げる風が肌を撫でる度足が竦み、鳥肌が立って泣きそうになる。先々代堂主直伝の鉄面皮を習得していなければ本当に泣いていたかもしれない。
こんな所に立たせるって、堂主、本気で何をするつもりだ?
――いや、まさか。
「んー、やっぱりこれ位じゃ効果は薄いか。・・・何となく解ってたけど、仕方ないなぁ」
恐怖で耳も遠く聞こえる中、それでも堂主がそう言っているのは聞き取れた。何くそと言い返すより先に堂主が動く。
後ろにいた堂主は、そのまま背から俺をかかえるように手を回すと、きゅっと抱きしめ、
「そぉい」
――俺諸共、何の躊躇も無く崖から飛び降りた。
頑張る。