「義勇、明かりもつけずどうした。気を落としてばかりではいけないよ」
夜になり、義勇は外を見て立っていた。あの蔦子を亡くした夜と同じで、月が出ている。
「ここ最近若い女を探しているお婆さんがいたことを知っていますか」
呉舟は義勇の言葉の意味が理解できず、首をかしげた。そして思いついたように頷いた。
「何のことだい…ああ、先日徘徊している老人がいると言っていた件かい」
「あの老人は俺と姉さんがどこにいるか知っていた。野方村の俺たちの家まで。老人が野方に来た日、俺たちは襲われた」
義勇の顔が月明かりに照らされる。
「なぜあの老人は俺たちを尾けていたんだ? 俺たちの居場所を知っていたんだ?」
「義勇、何を言っているかわからないよ」
呉舟はやれやれと肩をすくめた。まだ疲れているのだろう布団を敷いてあげようと、押入れの襖に手をかけた。
「呉舟さん。この家はどうしてこんなに片付いているのですか」
押入れの布団に手をかけた呉舟の手が止まった。
「六人家族で、職人も使用人も住み込んでいるというのにこの家には物がほとんどありません」
呉舟はふっと笑った。
「蔦子と君が来るはずだったからね。人ひとり増えるのだから、掃除をしておくのは当然だ。嫁入り道具も入れねばならなかったしね」
「食べ物も、ですか」
呉舟の顔が固まった。
「仮にもここで式をあげようとしていたのに、この家の台所にも蔵にも宴席の準備らしきものが一切ない。酒樽すらない」
「君は、三日寝ていたから」
「村中の人を呼ぶ、と姉さんからは聞いていました。普通何日もかけて準備するものを、今日昨日ですべて食べきってしまったとでもいうのですか。喪に服しているというのに。ここにあるのは、祝言で着るはずだったあなたの着物だけだ。これはいったいどういうことですか。まさか祝言をあげるつもりがなかったとでもいうのか」
呉舟は瞼を閉じて、義勇の言葉を受け止めた。
呉舟はうなだれて、大きく息を吐いた。
「鬼を連れた老人が俺のところにきて、家族を殺すと脅した。村中の人間もだ。人質に取られた。仕方なかったんだ」
義勇は息を飲んだ。
「お前が、お前が姉さんを売ったのか」
「仕方なかったんだ。鬼が女を差し出さなければ見殺しにすると言った。この村には我が家以外にもう若い女などいない。次に殺されるとすれば、年端もいかぬ俺の妹たちだ。あの婆さんに俺が女の情報を渡して、鬼が殺しにいくというわけだ。最初は遠くの村の知り合いの女について教えた。教えても、奴らは日毎に次の贄を差し出せという。船木の家はこのあたりの村に顔が効くからずっと利用された。やがてもう知っている女は蔦子以外いなくなった。。俺は蔦子より妹を取った。他にしようがなかった家族もすべて承知だが、決断したのはこの俺だ。この罪は俺が背負うものだ」
義勇は歯を食いしばる。キリリと歯茎の奥が鳴った。
「お前の思いなどどうでもいい!」
義勇は呉舟の首に掴みかかった。呉舟は畳に倒れ、拍子に押入れから布団がわっと飛び出した。義勇は呉舟に馬乗りになった。
「姉を返せ。蔦子姉さんを返せ!」
呉舟の首がぎりぎりと絞められていく。
義勇自身、弱っていたはずの身体のどこからこんなに力が出るのかと思うほどだった。それほどまでに憎かった。押さえつけられないほど、もっともっと力がでてくる。呼吸が早くなり、全身が熱くなる。
呉舟は首を絞められ苦悶に顔をゆがめていたが、口元はかすかに笑っていた。まるで死を受け入れているかのようだ。死に際の蔦子のようだ。
──人の心には鬼が住む。
ではこいつは何か。自分の妻となるべき人間を売るなど、こいつも人の姿をした鬼か。いや鬼よりもなおたちが悪いのではないか。
姉を鬼に売っておいてのその勝手な振る舞いに、義勇はさらに力が入った。
ふいに義勇の腕は掴まれた。
「少年、もうやめろ。そいつが死んでしまう」
拝島だった。いつの間に入ってきたのか、呉舟と義勇の間に割って入っていた。
「止めるな。こんなやつ死ねばいい。悪いのはこいつだ。こいつが姉を見殺しにした」
「見殺しにしたのはこいつだけか? 悪いのはこいつだけか?」
義勇の腕からすっと力が抜けた。いつの間にか泡を吹き窒息寸前だった呉舟は畳に倒れ、悶絶した。
昨晩、義勇は拝島から『あの婆さんを追っていた所、鬼と会っていたのではないかと思う。あの婆さんは鬼ではないようだったが鬼の臭いがした。近隣の村の家々にも、あの老婆と鬼の臭いがした。婆さんといくつかの家族が鬼を手引きをしたのかもしれん。この船木家にも鬼の臭いが微かに残っていた』と教えられていた。
拝島からすれば、呉舟以外にも脅されていたのだから、一人ばかり責めるなと言いたいのだろう。
しかし、義勇はまったく別のことを思っていた。
「悪いのは鬼だ。人の心は脆く弱い。相手を間違えるな」
畳が開かれ、船木家の家族が呉舟に覆いかぶさった。呉舟の両親も祖父母も四人の妹たちも、皆が泣いていた。皆、隣で息を潜めて聞いていたらしい。義勇が呉舟を殺しかけても、じっと涙で声をあげるのに堪えていたのか。義勇はまた怒りが湧いた。
「兄ちゃんを殺さないで」と呉舟の妹が泣きじゃくった。弟は呉舟にただしがみついていた。両親は義勇の両肩を守るように抱いた。祖父母は義勇に土下座して「お願いしますお願いします」としわがれた声をあげた。
呉舟は家族に守られていた。
「もういいだろう」と拝島は義勇の肩に優しく手を置く。言う通り、義勇は呉舟の家族にもう興味は失っていた。
自分の掌をただ茫然と見つめた。
見殺しにしたのは。
姉が喰われる様を見ていたのは。
姉を守ると約束していたのに破ったのは。
一人ほうほうに逃げていったのは。
鬼が心に住み着いてたのは。
他でもない自分だった。
一番心が弱かったのは、俺だった。
○
翌日早朝、遠縁の医師が訪ねてきて、義勇は早々に船木家を出た。久しぶりにあった親戚はいたわる様子もなく、「はやく準備しろ」と義勇に憮然として言った。親戚からすると、突然ひとり引き取れと言われて、困惑しているのかもしれない。義勇としても、異論はなかった。拝島はまたいつの間にかどこかに行ってしまった。
「それだけか?」
義勇が持ったのは、蔦子の臙脂の着物だけだった。父や母の形見を持ってくる気もなかった。親戚は気味悪そうに血糊がついて破れかかった着物を見たが、深く追及することはなかった。
船木家の人達は義勇が見えなくなるまで、ずっと家の前で頭を下げていた。
義勇が彼らのことを振り返ることはなかった。
親戚は道すがら、冨岡の家に一度寄るという。
冨岡家に残った遺産が幾ばくかあるので、これからの義勇に必要だろうということだった。
また、養子にできる人を探していると義勇に言った。そちらの方が幸せだという。なんでも親戚は一時的に家におけるが、義勇をずっと引き取れる余裕はないらしい。遺産はうまく義勇が大人になるまで預かっておいてくれる。
義勇は、過去に父が亡くなった時に言い寄った人間たちと同じように、この親戚が義勇から遺産をうまくとって、厄介ごとだけ他人に押し付ける気なのだと悟った。
「俺は家には帰らない」
親戚は首をかしげたが、「まあ辛い思い出を見るのもな」とひとり納得した。家には銀行の通帳も、金子になるものもいくらかあると義勇は親戚に教えた。すると、親戚は義勇にここで待っているよう言って、野方村へと歩いていった。おそらく半日は戻らないだろう。
義勇は野方村とは反対の方へ歩き始めた。すべてがどうでもよかった。遺産もくれてやる。このまま一人野垂れ死ぬのもいい。生が尽きるまで鬼を探し回ってもいい。
蔦子の臙脂の着物を握りしめた。すると、着物の袖先から手紙が一つぽとりと落ちた。
蔦子のものだろうか。それにしては血がついておらず、紙は真新しい。手紙には『冨岡義勇殿』と宛名があった。
最初に『このまま親戚に引き取られ、幸せに生きることを願う』とあった。
『もし、万が一、親戚の元を離れ姉の敵を討とうと思っているのならやめておけ。今のお前では鬼を見つけることもできないし、見つけてもすぐ殺されるだろう。その野方から西にいけ。狭霧山に住む鱗滝左近寺という男が、鬼を殺す術を教えてくれる、かもしれない。だが、俺は勧めない。その道はきっと幸せになれない。俺はお前の寿命が少しでも延びるように、敢えてこのことを教える。俺にはお前の姉は救えなかった。俺はそれしかしてやれない』
義勇の顔に、瞳に生気が戻ってくる。足の指先に感覚が戻ってくるのがわかる。手紙には最後、『お前の姉がお前にしたことを忘れるな』とあった。義勇は目を通したものの、それは頭に入らなかった。
臙脂の着物を握りしめた。
西へ。
姉を置き去りにして逃げた思い出を振り切るように、その後悔を力にするために。この先、ただ前に走ることしかできない。
少年は振り返らない。