鼻先にひやりとした空気を感じ、義勇は夜中に目を覚ました。
障子の向こうでは、風が雨戸を叩いていた。まだ秋の口だからと、義勇が眠る前には雨戸が開いていたはずだが、蔦子があとで閉めたのかもしれない。実際、夜になってからは随分冷え込んだようだった。
閉じ切られた屋内は、外からの光が刺さないものの、障子の右隅がうすぼんやりと灯っていた。縁側の廊下の奥から灯りは漏れ出ているようだった。義勇が光を追って廊下に出ると、隣の蔦子の部屋で灯りがあった。
障子の光の輪郭から、蔦子が座っていることがわかった。床に入る前に、灯りをつけてあまま、うたた寝をしてしまったのだろうか。義勇が障子をそっと開こうとすると、開くより前に「義勇?」と蔦子が呼びかけた。
「まだお休みになられないんですか」
蔦子はガスランプを横に置いて、針仕事をしていた。蔦子の髪は丁寧に櫛ですかれており、寝間着姿に半纏をかけていた。
部屋にかけられた時計は、零時を過ぎている。
「うん。これが終わったらね。もう遅いから、あなたも早く休みなさい」
「それ、どこか破れてしまったのですか」
蔦子が縫っているのは、蔦子が普段から愛用している臙脂色の紬だった。もとは義勇たちの母が使っていたものであり、蔦子が小さい頃から大きくなるにつれて何度も直したものだ。母は義勇が幼い頃に早く亡くなってしまったので、母よりも蔦子の方が臙脂の紬の印象があった。
「ちょっと直しているだけよ。ちょうどいいわ。義勇、立って後ろになって頂戴」
首を傾げつつ立った義勇の背に、蔦子は臙脂の着物を合わせた。
「姉さんの着物に、俺を合わせても仕方ないでしょう」
「あなたのも後で直すからだいたいわかればいいのよ。あなたのはもうボロボロになっていたから、いい加減変えないとね。いくら勿体ないと言っても、何代使っているかわからないもの。おじいさんのだっけ?」
「曽祖父さんからのです」
着物や羽織は多少の破れや寸法が合わなくなっても、縫い直したり余った布で縫いつないで大事に使って兄弟・子へと受け継いでいく。冨岡家は決して貧しくはなかったが、存命のときの父は倹約をしてこそ栄えてきたのだと常々言っており、簡単に買い替えたりしなかった。それに長く使っているからこその愛着もあり、義勇のものも継ぎ接ぎだらけだったが、特に気にならなかった。
「今となっては着物はいくつも残っているもの。死んだお父さんのも、兄さんのも」
「…」
「義勇の身長もぐんと伸びだしたし、そろそろ変える年頃でしょう」
竹尺で義勇の裄と身丈のおおよその大きさを測ると、義勇の肩を両手でぽんぽんと叩いた。
「うんうん、おっきくなったねぇ」
「俺ももう十一です。昔ならもうすぐ元服している頃です」
義勇は憮然として、胸を張った。男の子の意地を見せる弟の姿に、蔦子はうんうんともう一度微笑んだ。
臙脂の着物を広げ直し、まち針を止めて、仮糸を通した。義勇に藍色の紬を持ってこさせ、臙脂の着物と比べてみた。義勇もだいぶ大きくなったが、まだ蔦子の方が少し大きい程度だった。これならば、少し裾直しをする程度で良いかもしれない。男の子はすぐ大きくなる。
義勇は寝間着のまま蔦子の隣に正座して、縫い仕事をじっと見ていた。蝋燭の灯りが一つしかないから、義勇の顔はうすぼんやりとしか見えない。ただ、蔦子の手元から目を離さず、一挙一動を観察しているようだった。蔦子がもう寝るよう言っても、義勇は「いえ」と動かなかった。自分の着物を直してもらうのに、姉を置いて寝るのは気が引けてしまうと考えているのかもしれない。
どう言っても聞かない子だということは知っている。けれど。
「寒いね。お茶を入れて来ようね」
「手伝います」
廊下を歩く時も、義勇は蔦子の前に立って我先にと歩こうとした。蔦子を守ってくれているのだろう。
二人で台所へ行き、湯を沸かしていると、勝手口の窓が風に揺られてガタついた。野犬が騒ぐ声がした。しばらく騒いでいたがやがて音が止み、犬の悲鳴が最後聞こえて、それきり静かになった。犬同士の喧嘩のように聞こえた。やがて断末魔のような、女の悲鳴のように甲高い鳴き声が聞こえた。最後はどちらかが噛み殺して終わったのか。
蔦子が外に出て、道の往来や畑の方を確かめたが、何もいなかった。月は雲に隠れ、いつの間にか虫の音も消えていた。
風は冷たいはずなのに、なぜか肌にじっとりと汗がつく。義勇は嫌な感じがした。
野犬はどこにもいない。しかし、蔦子に絡みつくような、こちらの様子を伺っている気配をどこかから感じる。夜の闇の中に引きずり込もうと、息を潜めているものがなにかいる。
「姉さん」
義勇が中から呼びかけると、蔦子は我に帰った。蔦子も固まっていたらしい。いつの間にか、湯が湧いてモクモクと煙をあげている。蔦子は勝手口の扉を堅く閉じて、茶をいれ居間で義勇と座った。
「野犬でしょうか」
「きっとなんでもないわ…。ねえ、それより、義勇。昼間の話だけれど、やはりあなた、船木の家に一緒にいらっしゃい」
「またその話ですか」
「お聞きなさい」
蔦子はピシャリと言って、目の前の床の畳を指差した。義勇は渋々相対して座り直る。
背を伸ばし正座して、握った拳を膝に置き胸を張って、人の目を見る。それが、小さい頃から、蔦子が亡き母の代わりとして、義勇に対していつも叱るときの姿勢であった。幼い弟を子ども扱いしようとしないのだ。いまは義勇が長男だから、家を守る心構えを養おうとしてくれているのかもしれない。
もっとも義勇は悪さをする方ではなかったから、どちらかと言えば男子としての消極的な心構えを直す部分が多かった。喧嘩して殴る子ではあってはいけないが、殴られるだけして帰ってくるような子でもいけないのだ。
「船木の家の方とは、もう話がついているし、呉舟さんも承知してくれています。むしろ、あなたが来ることを向こうのお家は歓迎してくれているくらいです。今や冨岡の家に残っているのは私とお前だけ。私達はいったんは船木の家に身を寄せるんです」
「俺は冨岡家に、ここに残ります」
「いい、義勇? 冨岡家はなくなりません」
蔦子は義勇の方に座り寄った。
「呉舟さんは冨岡に婿養子として来てくださると言ってくれてるしね。けれど、閉じた冨岡商店と野方のここでは距離が遠く離れすぎている。だから私達は冨岡の名前を持ったまま、商店に近い船木の家に一度身を寄せましょう。あなた一人を置いてはいけないわ」
父が存命のときは店の方で家族で過ごしていた。だが、父がなくなってからは、義勇たちの生家でもあり父方の実家でもある野方に居住を移したのだった。店を女一人と子供一人ではやれないためだ。家族をなくしすぎた義勇たちに、店を置いてある人通りがおおい町は騒がしすぎた。
「いやだ」
蔦子が目を見開いた。
「俺は姉さんの邪魔になりたくない。兄さんや父さんが死んでから、誰にも彼にも気を遣って生きてきた。姉さんはようやく自由になる。俺も一人で生きていくことができる。それではいけないんですか」
「一人で生きていく、って具体的にはどうするの。お父さんたちが残した財産だっていつまでもあるわけじゃないのよ」
「どうとでもやって生きていきます。冨岡の家はもともと乾物を手始めに、塩や煙草を中心に手を広げて総合商店にまでなれたんです。父や先祖にできたなら俺にだってできます。剣術も得意です。誰もおれに敵いませんし。道場の師範代にかけあって指南役として下働きさせてもらっていい」
義勇は早口にまくしたてるように喋った。意地で話しているのは、蔦子にも伝わったらしい。いかに幼稚なことをいっているかも自身が一番わかっていた。
「うまくいくと思ってる?」
「…なんとでもなります。俺にだってツテはあります」
もはや根拠はなかった。幼く働いてもいない義勇にツテなどあろうはずがない。蔦子を送り出してから考えるしかなかった。
蔦子はため息をついた。
「でも、義勇。道場にお友達はいるの? お話したりしてる?」
「…史郎が」
「史郎さんが?」
「昨日、話しかけてきました。竹刀のツルが緩んでいるぞ、と」
「それだけ?」
「稽古が終わってから皆で掃除の際に、義勇は水くみを頼む、と」
「一緒に遊んだりしないの?」
「打ち合いの稽古はしています…」
蔦子は黙った。義勇は他に言葉が続かなかった。義勇と蔦子は二人でしばらく沈黙を保つ。
蔦子はだんだん困ったように眉を下げ、また吹き出しそうな口をして、なんともいえない表情をしていた。義勇は蔦子の視線にたえられなくなった。
「とにかくなんとかします。船木の家にいくのは嫌です。嫌なものは嫌なんです」
義勇が吐き捨てるように言った。
「義勇。もしかして…私が呉舟さんと一緒にいるのを見たくない、なんて思ってないでしょうね」
義勇は横を向いた。「もう寝ます」と立ち上がると義勇の袖を、蔦子が勢いよく引っ張った。義勇は重心がぐらりとゆらぎ畳に尻もちをつく…と思いきや、そこは蔦子の膝の上だった。義勇の背中は後ろから蔦子に抱き包まれていた。
「うんうん、強がっちゃって男の子だねえ。甘えん坊だねえ。かわいいかわいい」
蔦子はわしゃわしゃと義勇の頭を撫でた。義勇の髪は無造作でぼさぼさだが、子供らしくしっとりとした髪ツヤをしている、と蔦子はよく羨ましがる。そのせいか撫でるのをやめようとしない。義勇は蔦子の腕の中で離せというように小さくもがき暴れた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ」
蔦子は義勇の頭の上に自身の顎を乗せた。
「きっとこれ以上悪くはならないわ」
「…ひとは簡単にいなくなります」
義勇は顔を伏せた。蔦子からは義勇の表情は見えない。見えたとしても行灯の灯り程度ではよくは見られないはずだ。たとえ蔦子が横から覗きこもうとしたとしても、義勇は今の顔を見せたくなかった。
「だとしても繋がりを自ら絶つのは違うことでしょう。大丈夫よ、結婚しても義勇への愛情は変わらないから」
「俺は平気です。子ども扱いはやめてほしい」
「なら、道場の子たちとまずは仲良くすることね。そうしたら、またお話して考えましょう。」
「そんなの」
「史郎さん以外も、よ」
「…」
義勇は言葉を窮した。蔦子は行灯の灯りを消すと、義勇を蔦子の布団の中に引っ張り込んだ。義勇は恥ずかしがり部屋を出ていこうと、また小さく暴れたが、結局すっぽり蔦子の腕の中に収まったままとなった。
「それまではあなたが船木の家に行くことは決定です。ええ、ええ。姉の命に逆らえる弟などおりませんとも。まずは明日一緒に船木の家に挨拶にいくこと。いいわね」
義勇は布団の中でうずくまるように膝を丸めていた。
義勇は小さくうなずくほかなかった。蔦子がそれに気づいたかはわからないが、蔦子の呼吸はすぐに穏やかな寝息へと変わった。義勇は蔦子の袖を握って眠りに入る。
家の外のどこか遠くの方で、犬がまた吠えていた。
煙草...煙草への課税は1876年(明治9年)1月に煙草従価印紙税法が施行され、印紙の貼付という方法で煙草税が課せられたことに始まる。日清戦争後に財政収入を増やすために、煙草税則が改められ、葉煙草専売法が1896年3月28日公布され、1898年(明治31年)1月1日施行され、葉タバコの専売を開始した。(Wikipediaより)
塩...塩専売法は1905年1月1日公布、6月1日施行。1997年廃止(塩専売法廃止、塩事業法施行)。日露戦争の戦費調達のため、塩に課税する案が出された。課税に反対する側が塩の専売制を主張し、専売制が法制化された。塩専売法実施による塩価の急激な高騰は世論を喚起し、非難は少なくなく、1906年(明治39年)以後議会ごとに廃止論議が行われたが、政府はこれに応じることはなかった。(Wikipediaより)
つまり、日露戦争では生活必需品が課税の煽りを受けたわけですが、その一つが塩と煙草です。もともとは利益をあげていたが日本専売公社が独占することにより商品がなくなって打撃をうけて、その折に父や兄を亡くすといったとても不幸な家族という独自設定になっています。
他にも酒や油も課税の対象になりました。
ただ、塩と煙草を扱う総合商店ってどんな店?って感じなんですが、色々商品を扱っていて「かつてはそれも扱っていて売れてたよね」という意味合いで使っています。時代背景が入ると面白いので無理やりって感じです。冨岡商店はなんでも屋という独自設定です。そんな店が存在したかは適当です。
ちなみに東京都墨田区錦糸町に「たばこと塩の博物館」があります。