水柱に至るまで   作:よゐち

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一幕 少年は振り返らない 3

「やあ、義勇くん。久しいな、元気にしていたか」

 

「どうも…」

 

 義勇は呉舟(ごしゅう)に頭を下げた。

 

 義勇はこの日、蔦子と共に隣村の呉舟の村に来ていた。隣村といっても山一つは隔てているほどの距離なので、朝早くからでかけた。蔦子は空色の晴れ着に身を包み、義勇は着慣れない正装を着ていた。

 

 家を出ると蔦子は義勇の手をしっかりと握った。義勇も最初こそ蔦子と手を繋ぎ歩くことを恥ずかしがったものの、最終的には隣村につくまでしっかりと手を握った。それというのも蔦子の手は少し震えていたからだ。緊張しているのかもしれない。

 

 この日は結納を執り行うことになっていた。

 

 呉舟の生家、船木家は蔦子と義勇が住む野方の家よりもはるかに大きかった。代々醤油醸造を商いとしているのもあり、醤油を仕込む樽や住み込みの職人が寝る場所をとるため、屋敷ほどの広さがあった。それなので、隣村では船木の家を知らぬものはおらず、また近隣の名士として親戚筋は村長についているものもいた。ただ、呉舟は船木の次男坊だったため、冨岡の家に婿養子でも良しとされた。

 

 結納の儀は滞りなく終わり、両家の宴席が執り行われ酒と肴が振る舞われた。通常は結納は両家が向かい合うものである。ただ、両家といっても、冨岡家側は蔦子と義勇しかいない。対して船木の家は六人家族で大所帯で、また村長である親戚というのも来ていたものだから、船木家の人間が冨岡家側の列に座っていたりと宴席の並び順はもはやあって、ないようなものになっていた。

 

 宴会が進むと職人が膳を運んできて余興をしたりと大変にぎやかなものになった。

 

「義勇くん、この酒も我が家でつくっているものでね。よかったら一杯飲みなさい」

 

 呉舟と蔦子は主役ということで床の間の奥に座っていたが、義勇の近くへとどかりと座った。

 

「あ、お義母さん、ちょっとすみません。やめてください、呉舟さん」

 

 向こうを向いて船木の両親と談笑をしていた蔦子が、呉舟が義勇に酒を勧めようとしていることを目ざとく見つけ顔をしかめた。

 

「なに、酒といってもお屠蘇(とそ)だよ。乾杯の際に、もうすでに一口飲んでいるじゃないか。もう少し味わってほしくてね」

 

「義勇はまだ子供です。早いです」

 

 姉の言になぜか苛ついてしまった義勇は、すかさず盃を呉舟の方に出した。呉舟は「おおっ」嬉しそうに笑みをこぼすと、屠蘇器から屠蘇をとくとくと注いでいく。

 

「義勇」

 

「大丈夫です。せっかく、あ…、呉舟さんが勧めて下さっているのを無碍に断ることもできません。それにこのくらいでは酔いません」

 

 あに、と呼ぶのに抵抗があった義勇は、呉舟と言い直した。

 

「いやあ、嬉しい。うちは大所帯なんだが、僕には下が妹しかいなくてね。四人全員、女なんだぜ。四人とも元気なのはたいへん結構なことなんだが、僕は弟が欲しかったんだよ」

 

「そういうものですか」

 

 義勇にも三男の弟がいたが、すでに病気で死んでいる。小さくかわいかったことは覚えてはいるが、一緒に遊んだ記憶もほとんどないので、とくに実感がわかない。

 

「兄貴は長男で家を継ぐために厳しく育てられて、また年も離れていたせいか、弟の僕とは遊んでくれない。それに下に妹四人もいると、こう言っては悪いがかしましくて言うことはきかないしどうも立場が弱くてね。一緒に悪さをしてくれ共感してくれる弟が欲しかったんだ」

 

 家族が減った義勇としては、下の兄弟の性別はどうでもよく、ただいるだけで十分に思えた。

 

「だからぜひ仲良くしてほしい。蔦子、義勇くんも我が家に来るんだろう」

 

 蔦子は困ったように微笑むと首をかしげた。

 

「さあ、どうでしょう。尾張の叔父さんは働き口を見つけてもよいと言ってましたが。この子次第です」

 

 義勇は目を見開いた。尾張の叔父にツテがある話など初耳だった。てっきり姉は船木の家になんとしても連れていこうとしているものだと思っていた。

 

 蔦子はまっすぐと義勇の目を見ていた。それは、もちろん弟を見放したものではなかった。ただただ優しい笑みを浮かべていた。姉は口でどう言っていても、結局は義勇のこれからの人生の選択肢を残してくれていた。

 

 姉の目が静かに訴えかける。

 

 どうしたい?

 

 これで義勇の心づもりはほぼほぼ決まってしまった。義勇は後ろに下がると、畳に手をつき頭を下げた。

 

「ご迷惑でなければ、ぜひご厄介になれればと思います」

 

「そうか、よかった!」

 

 呉舟は膝で手をポンと叩いた。

 

「なあ蔦子、義勇は来てくれるそうだ。ぜひ僕のことも本当の兄のつもりで手伝ってくれ。一緒に冨岡商店を再興しような」

 

「本当にいいの? 義勇」

 

 蔦子は慎重にたずねた。

 

「はい、蔦子姉さん」

 

 義勇は頷いた。

 

「どうぞこれからよろしくお願いします。呉舟義兄さん、船木の家の皆々様」

 

 義勇はもう一度頭を下げた。「よかった」と他で談笑していた船木の親戚や職人たちも喜んでくれた。義勇の背中を皆がばんばんと叩く。暖かい家族に違いなかった。これから自分はそういった人達と生きていく。悪い気はしなかった。

 

 だが義勇は頭を上げると、自分へ集まってしまった視線がなんだか気恥ずかしくなってしまった。そこでキョロキョロと周りを見回すと、傍の膳に盃がなみなみと注がれた。義勇はそれをぐいっと煽った。呉舟がそれは屠蘇ではなく酒だと、とっさに止めようとしたが間に合わなかった。

 

 義勇は喉の奥から顔にかけて熱くなるのを感じて、そのままぐらりと畳に倒れ込んだ。

 

 義勇は遠のく意識のなか、皆の顔がゆっくりと見えた。呼びかける呉舟、子供が酒に酔っ払ってひっくりかえっているというのに真っ赤な顔で大笑いして酒盛りを続ける親戚や職人たち。

 

 そして慌てて駆け寄ってきた蔦子の顔。その目はしっとりと濡れていた。

 

 これで良かったんだとわかった。

 

 義勇の意識はそこまでだった。

 

 ○

 

 鈴虫の鳴き声が聞こえる。顔にふわっと涼やかな風を感じて、義勇は目を覚ました。

 

 宴席が開かれていたはずの大広間には誰もおらず、義勇は部屋の隅で布団に寝かされていた。たくさんの膳や、座布団、散らかっていた銚子や徳利、それらはきれいに片付けれており、チリ一つ落ちていない。畳に手を触れると人肌もなく冷たかった。

 

 障子がほんの少し空いており、庭が見えた。庭といっても低い生け垣と竹で簡単に囲まれているだけで、その先には田んぼや畑が広がっていた。ここは醤油醸造であるから、きっと大豆畑だろう。稲のように金色とまではいかないが、黄色くよく実った大豆が秋風に揺られ、夕陽に照らされ輝いていた。

 

 いつの間にか夕暮れ時になっていた。

 

 姉はどこだろう。

 

 ふすまを開けて廊下の様子を伺ったが、誰かいる気配もない。皆どこに行ってしまったのか。

 

 縁側には庭に出られるように草履があった。義勇は黄色の畑に誘われるように、近所を歩いて蔦子を探すことにした。

 

 田んぼや畑の間に点々と家がある。近隣の家を通ると、農作業を終えた年配の者たちが挨拶をしてきた。義勇がおじぎを返すと皆が厳しい顔をして「子供は早く帰りなさい」と注意してきた。たしかに義勇の他に出歩いて遊んでいる子どもは見当たらなかった。

 

 大人の言う通りに子どもは皆ちゃんと家に帰っているのか、それとも子どもが少ない村なのか。

 

 義勇は年配の者たちの忠告に頷きはしたが、村から出なければ少し暗くなっても大丈夫だろうと気にせずそのまま歩き続けることにした。

 

 道の途中に男が突っ立っていた。若い男だった。義勇は「なんだ、船木家以外も若い人もいるじゃないか」と思ったが、とっさに立ち止まった。男は黒い詰め襟に灰色の斑の羽織をはおるという変わった出で立ちをしていた。口元には黒い布を巻いている。黒詰め襟は官憲か軍隊など固い職業の者しかあまり着ない。こういった村にいるのは珍しい。

 

「少年、ちょっといいか。道に迷ってしまってな」

 

 立ち止まった義勇に男が気づき、声をかけてきた。

 

「どこへ行きたいのです」

 

「どこというわけでもないんだが…、この辺であるものを探している。近くに宿はあるか」

 

「俺はこの村のものではありません」

 

 男は「ん?」と義勇を見下ろした。

 

「姉の結納があったので、結婚相手がいるこの村に今日来ただけです」

 

「姉? 君の姉さんは今どこにいる」

 

 男が急に興味を持ったので、義勇は警戒心を高めた。

 

「失礼だが、あなたに教える義理はない」

 

 もとより、自分も探している最中だ。

 

「そうか…、それもそうだな。いや、めでたい。おめでとう」

 

「どうも」

 

「宿が見つからないとなれば、今日は野宿をするしかないな。ちなみに少年、きみはこの村の者ではないと言ったが今日自分の村に帰るのか」

 

「今日は義兄の家に泊めていただくことになっています」

 

「それがいい。何が起きるかわからないからな。決して夜は出歩かないようしなさい」

 

「…」

 

 男は何がしたくて義勇に話しかけてきているのか。義勇に質問しながらも、自身の素性を明かそうとせず、また質問の目的も言おうともしない。聞いているあなたが一番怪しそうだ、と義勇は思ったものの流石にそのまま口に出すほど頭が回らないでもなかった。

 

「女かあ」

 

 背後からどこかで聞いた甲高い声がした。義勇が振り返ると、そこにいたのは先日出会った腰が曲がった老婆だった。

 

「女ではありません」

 

 義勇は律儀に返した。日もだいぶ暮れてきて視界が悪くなっているし、義勇は髪をあまり手入れしないので髪が伸び放題であるから間違えたのかもしれない。

 

「なんだふたりとも男か」

 

 老婆は舌打ちをして、通り過ぎようとした。義勇は横切るに声をかけた。

 

「女であったらどうだというのです。この前も聞いてきましたね」

 

 対する老婆は顔を動かさず、ぎょろりと片目を動かして、義勇の上から下まで舐めるように見た。

 

「お前はこの前の坊か。姉はどうしたね」

 

 てっきりボケた老婆が徘徊しているとでも思ったが、記憶ははっきりしているらしい。しかし、老婆まで姉の行方を聞いてくる。義勇は苛立ちを感じて、怒気を強めた。

 

「どうでもいいでしょう。なぜそんなことを聞くのです」

 

「なに、若い女子が夜道を歩くと危険でしょう。この婆が家まで送ってやろうと思ってな」

 

「危険とはこの前おっしゃっていた女性が家族もろとも殺されていた、という話ですか。場所も離れているから大事ないと思われます」

 

「気をつけなさい。人の心にゃ鬼が住むからな」

 

 老婆は義勇の言葉を聞いていないのか、それともやはりボケているのか。

 

「狼もでるぞ」

 

 義勇は呆れてしまった。この老婆は適当なことを並び立てて、単に子どもを怖がらせたいだけではないか。大人が言うことを聞かせるために、恐怖心をわざと煽るような。

 

「この明治に、人里にですか」

 

「とびきりでかいのがな。出会ったらすぐ殺されるぞ」

 

 狼がこの辺に出る話は聞かない。野犬か何かだろう。危険なことには変わりないが、それはこの辺りの村ではどこでも一緒だ。

 

「この前も言ったが、無用な気遣いです。おばあさん、あなたこそ早く帰ったほうがよい。家族が心配する」

 

 老婆は答えず、ふぇふぇと笑うとゆっくりと歩いていった。途端に強く風が吹いて、義勇は思わず目を閉じた。再び目を開けた時には、もう老婆はいなかった。近くに隠れられるようなところはない。横の田んぼの稲穂の中に紛れてしまったのだろうか。だとしたらもう日が暮れたので危険だが。

 

「妙だ」

 

 男は厳しい目をしていた。

 

「たしかに気配が感じないというか、不気味な人です」

 

「こんなに接近されるまで俺が気づかないというのは…、いやいい。それにしても狼…か。ニホンオオカミは絶滅したと新聞に出てたが」

 

「そうなんですか」

 

「少年、俺はあの老婆が、…心配だからあとを追う。君も早く世話になっている家の人のもとへ帰れ」

 

 そう言うと、男は走り去った。男の足は老婆ほど一瞬で消えるほどではないが、驚くべき速さだった。すぐに夜暗の中に消えてしまった。

 

「義勇」

 

 提灯を持った二人が向こうの畦道から歩いていくるのが見えた。蔦子と呉舟だった。宴会で義勇が寝込んでしまったあと、二人は村の者たちに挨拶まわりに行っていたらしい。

 

「灯りを持たないまま、歩いていては危ないわ」

 

 蔦子が差し出した手を義勇は素直に握った。この手で守るべきものを確かめるように、義勇はしっかりと握った。

 

「そうだぞ、義勇。田んぼのぬかるみに落ちて死ぬ者もいるのだから」

 

 危ない。死ぬ。その言葉に、さきほどの老婆が思い出された。

 

「呉舟兄さん、この辺で徘徊する変わった老人はいますか」

 

「老人はたくさんいるなあ。なにせ若い人が少ない村だから。皆、都に出稼ぎに出てしまうんだよ。もちろん僕たちも冨岡商店を出すつもりだから、そういった者の一人ではあるのだけれど。村が寂しくなるのは心苦しくはあるよ」

 

「では狼が出るという噂は聞いたことありますか」

 

「狼? まだ日本にいるのかい? 野犬はまだこのあたりもいるが」

 

 呉舟はケラケラと笑った。

 

 ちょうど山の方から野犬の遠吠えが聞こえた。

 

 狼はいない。義勇もそう思う。ならばあと老婆が言っていたことといえば。

 

「鬼は…いますか」

 

 馬鹿げたことを聞いている。義勇は自分でそう思ったが、なんとなく落ち着かずつい聞いてしまった。鬼など御伽話であり、「鬼が来るから良い子にしろ」という話がこのあたりの村にも多く残っている。なんとも子どもっぽいことを言ったと義勇は言ってから後悔した。すぐに二人に大笑いされるだろうと思った。

 

 蔦子は笑わなかった。ただ、首をかしげていた。

 

 呉舟も笑わなかった。代わりに、行灯を持って先を行く呉舟がチラリと振り返り、行灯の灯りに照らされたその顔が見えた。不思議そうな顔もしていなければ、笑みも浮かべていなかった。義勇の顔をうかがうような、じっとりとした目だった。しかし、それは一瞬のことで、すぐに笑みを浮かべて振り返ると、呉舟は義勇の頭をよしよしと撫でた。

 

「鬼が怖いか。蔦子、義勇くんもまだまだ子どもだな。そうさ、悪さをしたら食べられるから気をつけないといけないぞ」

 

 わははと呉舟が先を歩いていく。

 

「どうしたの、義勇。狼や鬼だなんて。怖い夢でもみたの」

 

「いえ…、なんでもありません」

 

 義勇は蔦子の手を強く握りなおした。

 

 ―人の心には鬼が住む。

 

 あれはどういう意味だったのか。

 

 鈴虫の鳴き声はいつの間にか消えていた。静かな夜だった。

 




ニホンオオカミ... ニホンオオカミは明治38年(1905年)に奈良県で捕獲されたのを最後に絶滅したとされています。現代の環境省の規定上は、絶滅認定されるのは最後の発見から50年経過した場合とされるので、本作を設定している明治40年(1910年)の時代はまだ絶滅したと断定されていません。ただ数が減っていることは認知されていたはずなので、新聞の見出しで「ニホンオオカミ絶滅か?」のような記事が出てもおかしくなかったという想定をしており、とはいえあくまで想像の範疇です。

醤油醸造... 歴代首相の家は造り酒屋が多いというのは有名な話ですが、米自体が財産だった時代にわざわざ加工するというのは資金とコネに余裕がある家でないとできません。醤油屋が政治に関わるという確かなソースは見つけられませんでしたが、醸造は地域の生活に密接に紐づく分、江戸時代から続く野田(キッコーマン)やヤマサ然り、それなりに財力があり影響力があるケースは少なくなかったのではという想定でお金持ちの家の家業として独自設定しました。醤油や味噌、酒を一緒に作るケースもたまにあるようなので、船木家は本格的に酒屋ではなくとも、地元の酒を作る分くらいには影響力があることにしています。
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