水柱に至るまで   作:よゐち

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一幕 少年は振り返らない 5

 いよいよ祝言が今週に迫り、義勇は蔦子と最後の二人の夜を過ごしていた。

 

 膳には白米と漬物、菜っ葉の味噌汁、それに義勇の好物の鮭大根が添えられていた。半月に切られた大根は鮭の煮汁と出汁をよく吸って、噛むとたっぷりの汁がこぼれ出る。脂ののった鮭の切り身は口に入れるとホロリと崩れ、濃い味付けで白米が進む。

 

 義勇は夢中になって言葉を発さぬまま、飯をかっこんでいた。もっとも義勇は口数の多い方ではないから、食事中はあまり言葉を発さない。

 

「椀をお貸し。よそってあげるから」

 

 蔦子は義勇の椀に二杯目の飯をよそった。米、鮭、米、大根、米、鮭。交互に義勇がぱくぱくと口に入れる様子を、蔦子は楽しそうに見た。

 

「明日はもう船木の家に行くから、ここも引き払わないとね」

 

 家の荷物はあらかたがもう片付いており、必要な嫁入り道具のうち箪笥や鏡など大きいもののいくつかは船木の家に運び終わっていた。明日は母から継いだ化粧道具と晴れ着を持って、この家をしばらく空けることになる。留守の間は同じ野方村の知人に管理を任せることになっていた。

 

 蔦子はふと箸を止めた。

 

「姉さん?」

 

 義勇は椀から顔をあげた。

 

「いえね、いつだったか。私たちが家に帰る時におばあさんに会ったことがあったでしょう。今日もこの村で見たのよ」

 

 以前、急に「女かあ」と話しかけてきた老婆のことを言っているらしい。

 

「そのおばあさんなら俺も以前見ました。呉舟義兄さんたちの村にもいました」

 

「腰も曲がっていらっしゃるほどのお年なのに健脚な方ね。いったいどこに住んでいるのかしら」

 

 詰め襟に羽織姿の男も、あの老婆を気にしていたことを義勇は思い出す。

 

「なにか言ってましたか」

 

「この村に住んでるのかとか」

 

 姉はどうしたと聞いた老婆のあのぎょろりとした目つき。なぜそこまで執拗に聞いてくるのか。

 

「それで、なんと答えました」

 

「はい、とだけ。そうしたら、早く家に帰るように、とだけまた言われたわ」

 

「呉舟さんの村の人たちにもやたらと早く家に帰れと言われました。そんなに物騒なのでしょうか」

 

 蔦子は頬に手を当てて考え込む。

 

「なにかしらね。この前ある一家が殺されてたという話があったでしょう。最近も野方の近くの村の一家が襲われたって尾張の叔母様が言っていたわ」

 

「…」

 

「まあ大丈夫でしょう。私達は明日には呉舟さんの村に行くし、向こうは職人さんをはじめ男手も多いから安全よ」

 

「早く食べて寝てしまいましょう明日は早いから」と蔦子は止まっていた箸を再び進めた。

 

 二人は夕餉を早々と終えると、念の為雨戸までしっかり閉めることにした。こうすれば、簡単に人は入ってこれないからだ。雨戸の板は最近手入れをしていなかったせいか、滑りが悪く戸を引くとひどい音がした。二人がかりでようやくすべての戸を閉じた。

 

 寝間着に着替え、義勇と蔦子は布団に入った。いつも二人して川の字で寝ている。この家でこうして寝るのもこれが最後だろう。

 

 二人の枕元には蔦子の白無垢が飾られていた。日に日にとうとう姉が結婚すると思うと義勇は毎晩なんだか面白くない気持ちになっていたのだが、

 

 義勇は今晩だけは布団の中であの老婆と男のことをずっと考えていた。

 ―人の心には鬼が住む。

 

 老婆の言葉がなぜか思い出される。人の心に鬼が住む。何をしたら鬼が住み着くのか。では鬼が住みついた人間は一体どうなるのか。それは人なのか。果たして鬼か。鬼になった者は一体どうなってしまうのか。人としての理性はあるのだろうか。血に飢えたりするのだろうか。西洋には吸血鬼という妖怪がいると本に書いてあったのを読んだことがある。水を求めるように喉が渇くのだろうか。血を求める鬼になったら、もうそれでは人ではなく獣のようになってしまう? それこそ狼のような―。

 

 どれくらい時間が経ったか。蔦子の穏やかな寝顔を見ながら、義勇はずっと考え込んでしまった。

 

 どうにも眠れない。なぜか腹のあたりがぐるぐるとして落ち着かなかった。義勇は蔦子を起こさないように布団を出ると厠に行った。

 

 寝室に戻る前に瓶に貯めてあった水を飲む。ひしゃくですくい、もう一杯もう一杯と。夏の夜でもないのに喉が渇いて仕方ない。冬の寒さが答えるほどの季節でもないのに、肌がひりつくような感覚がある。なにかが変だった。

 

 ギィっと音がした。つんざくような音は、寝る前に閉めた雨戸の方からだった。先程雨戸を閉めたときと同じ音がしている。

 

 義勇は急ぎ寝室に戻ると、蔦子は布団にはいなかった。

 

 はっと義勇が息を飲むと、ふすまの横から袖を引かれた。「義勇」と蔦子はふすまの影に隠れていた。

 

「あなた、雨戸を開けた?」

 

「いいえ。…強盗かもしれません。見てきます。姉さんは隠れていてください」

 

「馬鹿なことを言わないで。私が行くわ」

 

「ちょっと見てきてすぐ戻ってきます。もしかしたら風が叩いただけかもしれない。念の為、行灯に灯りはつけないよう」

 

 義勇は蔦子が掴む袖をそっと引き剥がし、すり足で雨戸がある縁側の客間側に向かった。そこは元々は父の部屋があるところだった。縁側の廊下にでると、雨戸が少し開いていて、月明かりが差し込むのが見えた。

 

 義勇はその隙間から、外の様子をうかがった。月が出ていて明るく、風は吹いていなかった。小さな隙間からは誰も見えなかったので、義勇は安堵した。

 

 そして、それと目が合った。

 

 それは獣の目だった。

 

 咄嗟に義勇は後ずさった。その瞬間、雨戸が弾けた。義勇は雨戸もろとも、父の部屋へとふっとばされた。厚い雨戸の板がバキバキに割れていた。義勇は畳に頭を打ち付けてしまい、視界がぼやける。何が起こったかわからない。

 

 外に目を向けると、黒い影が一瞬のうちに義勇の方に飛びかかってきた。それを義勇はすんでのところでよけた。黒い影はそのまま奥の襖をぶち破る。

 

 義勇は急ぎ立ち上がると蔦子がいる寝室に急いだ。

 

「姉さん!」

 

 部屋には義勇と蔦子のめくれた布団があるだけだった。蔦子はどこかに隠れたのだろうか。

 

 何が起きたのかはよくわからないが、何か恐ろしいものが家の中に入り込んだのだけは確かだ。

 

 蔦子はどこへ行ったのか。急いで蔦子と逃げなければいけない。

 

 辺りを見回して義勇は硬直した。

 

 閉めたはずの襖の奥の闇から、こちらを見つめるものがあった。それは先程の獣の目立った襖に描かれた梅の花弁の一つひとつがまるで眼のようで、紛れるように闇から二つの微かな光が揺れていた。

 

 気配を消す気がないのか、それははっきりと感じられた。その存在の輪郭すらおぼつかなくても、何かがいるのは確かだった。

 

 義勇は蛇に睨まれた蛙のように、動けずにいた。逃げたら、その瞬間に襲いかかってくる確信があった。中腰の引けたままで、足は畳の目一つすら動くことができない。

 

 動け、動け、動け。

 

 義勇は自身の太腿に渾身で拳を振った。鈍痛による痺れが左の太腿に走り、義勇はそのまま咄嗟に左に倒れ込んだ。

 

 義勇が太腿を叩いたのとほぼ同時に、襖がこちらに大きく膨らんだ。

 

 破られた襖の中から黒いそれは飛び出てきて、倒れた義勇の脇腹の上あたりをかすめた。そのまま義勇を通り抜け、背後にあった障子はぶち破られた。

 

 義勇は月明かりに照らされて、それの姿をはっきりと見ることが出来た。それは人の姿をした獣だった。土に四肢をついて、細く二本に割れた舌をくねらせていた。蛇に似た鋭い眼光は、獲物を捉えて離さない。獲物とはもちろん義勇のことだ。

 

 西洋のおとぎ話に吸血鬼の妖怪がいたように、もう一つ思い当たる妖怪がいた。それはまさしく狼男だった。人の形をしながら獣のように毛を逆立たせ、口はぱっくりと割れて牙が出ていた。上半身は隆々とした筋肉がむき出しており、大の男よりもさらにもう一回りほど大きい。

 

 老婆の言葉が頭の中で点滅して思い返される。

 

『狼が出る』

 

『人の心には鬼が住む』

 

 人の形をしているから少なくとも狼ではないから、鬼と呼ぶほうが正しいかもしれない。今はどちらでもよい。化け物には違いない。とにかく逃げねばならない。

 

 鬼は跳躍すると義勇の上にまたがった。

 

「女イルカ」

 

 それは人の声ではなかった。唸るような、吠えるような濁ったような声。鬼のぱっくり開いた口から、臭気がこぼれだす。

 

「いない!」

 

 義勇は咄嗟に叫んだ。両腕をばたつかせ必死にあがくが、どう動こうとも鬼の身体はぴくりとも動こうとしない。鬼との体格差は圧倒的だった。鬼の口がぱっくりと開いて、腐ったような臭気が吹きかけられる。

 

 鋭い牙が義勇の顔に迫ったその時、鬼の開いた口が急に止まった。

 

 何が起こったのか。義勇はなんとか首だけでも上げると、鬼の背後に蔦子が立っていた。その手には包丁が握られていた。

 

「義勇、逃げなさい!」

 

 鬼は後ろから刺されているというのに、特に慌てることもなくゆっくりと立ち上がった。

 

「ソコニイタカ」

 

 蔦子は鬼の後ろ手で張り飛ばされ、父の部屋の壁に叩きつけられた。飾ってあった壺は倒れ、掛け軸がハラリと蔦子の肩へと落ちた。

 

 鬼は背中に刺さった刃を抜いてそのまま庭へと放ると、義勇を同じく庭の方に蹴り飛ばす。鬼は義勇など気にもとめず、倒れた蔦子の方へ近づいた。

 

 義勇はそこで驚くべきものを見た。刺されたはずの鬼の背中が、みるみるうちに治っていく。傍にはたしかに血がついた包丁があった。不思議なことに包丁についた血は、蒸発するように消えてしまった。

 

 本物の化け物か。いや、これが鬼なのか。義勇は戦慄した。

 

 鬼は倒れた蔦子の手を引き持ち上げると、がぶりと蔦子の腕に噛み付いた。鋭い牙が華奢な腕の肉に食い込んだ。蔦子が悲鳴をあげた。持ち上げられた蔦子の手から滴る血が肩をつたり、蔦子の全身を赤く染めていく。

 

「姉さん!」

 

 義勇は咄嗟に傍にあった包丁を取って、鬼の背中へと踏み込んだ。

 しかし、刃は届かなかった。包丁の刃は鬼の肉に届くこともなく折れてしまった。折れた刃が義勇の顔をかすめ、すっと血が出た。義勇はいたがることもなく、折れた包丁を呆然と見た。

 

 それもつかの間、苦しむ蔦子の声にはっと我に帰ると、折れた包丁を何度も鬼の背中に刺した。さっき蔦子が包丁で刺した時は通ったはずなのに、いまの鬼の皮膚は鋼鉄のように固くなっていた。かろうじて傷のようなものをつけても、すぐに治ってしまう。何より鬼は後ろから攻撃する義勇のことを気にも止めなかった。ただ、ジュルリと音を立てて、蔦子の腕からうまそうに血をすすっている。

 

 鬼の背中にしがみつく。背中を殴り、蹴る。

 

 やめろやめろやめろ。誰か助けてくれ。

 

 それはもはや泣きじゃくっているだけのただの子供だった。義勇はもはや癇癪を起こした子どものように、鬼をめちゃくちゃに叩いた。もちろん鬼はびくともせず、どんなに義勇が叫んだ所で食す行為をやめようとはしてくれなかった。相手にすらされない。

 

 蔦子が痛みに耐えきれず「ああっ」と悲鳴をあげた。

 

 かなわない、と義勇は思った。

 

 色々な思いが錯綜する。自分はどうあがいてもこの化け物を倒せない。蔦子はこのままでは殺されてしまう。たった一人の家族を失う。亡き父と兄に代わり、自分が姉を守るはずだったのに。自分もこのままでは死ぬだろう。助けを呼びに行く時間もない。俺たち家族は明日には幸せになれるはずだったのに、どうしてこうなった。剣術には多少自信があるんじゃなかったのか。

 

 自分の無力さが恨めしい―。

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