義勇は畳に手と頭をつけた。
「頼む。お願いします。姉さんを殺さないでくれ。たった一人の姉なんだ」
鬼は蔦子の腕に噛みついたままで、義勇に目を向けようとはしなかった。人の肉を咀嚼し、生き血をすする音のみが暗闇に包まれた部屋で響いた。
「たのむ…」
蔦子はまだ生きているのだ。
蔦子は小さく呻きつつ、身をよじって逃げようとしていた。どんなに振りほどこうともがいても、鬼の腕は掴んで離さない。ぴくりとも動かない。
鬼は生きたままの人に食らいつくことにためらいがない。
大事な姉一人を殺すのが、鬼にとっては一つ食事の過ぎないことが悔しかった。
「逃げなさいといったでしょう…。もういいから、あなたまで喰われてしまう。はやく」
姉として弟だけは逃がす、と目がその決意を語っていた。蔦子は涙していた。
義勇は床の間に飾られていた壺をつかんだ。その壺は父が大事にしてきた生け花用のもので、義勇の背丈半分ほどの大きさもあった。
義勇は何とか壺を持ち上げたが、それだけだった。恐怖のせいか、足は震えているし、手の汗は壺を落としてしまいそうだった。それでも何とか鬼の頭をめがけて壺を振りかぶったが、壺の重さに振られてよろめいて転んだ。
鬼は自身に敵意が向けられても、まったく気にすることはせず、「食事」をなおも続けた。
蔦子の噛みつかれた腕からは骨が見えつつあった。
義勇はもう一度と立ち上がろうとしたが、足がガクガクとして止まらない。
動け、動け、
自身が立っているかどうかも曖昧だった。女子のような内股で、膂力が足りない。今度は壺がうまく持ち上がらない。それでも、義勇は何とか壺を抱え、肩に乗せて、鬼の頭に落とそうとした。
鬼の頭に壺が当たった。こつんと音がして、ごろりと壺は転がった。
鬼はそれでも義勇の方を見ようとしなかった。
義勇は何度も壺を鬼の頭にぶつけた。義勇の筋肉が足りないのか、鬼の恐れが勝っているのか、一度たりとも思うように強く当てることができない。
道場ではどうしていた。竹刀を面に当てた時のことを思い出せ―。
心ではどう思っても、壺の重さに引っ張られて、義勇はまた一人で転げた。もう立つこともままならなかった。
一人で転んでいる義勇に気付いて、鬼はようやく喰らう手を止めた。猫のように夜闇に光る二つの眼で、義勇をじっと見た。
しばしの静寂。
そのとき、義勇はようやく鬼が手をとめてくれたと思ってしまった。義勇の必死の頼みが通じたのか、それとも壺でぶつけた居所が悪く、万が一にも有効打を当てられたのではないかと。
それがいけなかった。
「ギェ、ギェ」
人の発声ではなかった。獣の唸り声のように、喉の奥を太く震わしている。食す手を止めて、天を仰いで、獣の鳴き声を繰り返しあげた。義勇はこの鬼が笑っているのだと気づいた。
「ギェ、ギェ、ギェ」
鬼は義勇を見て、笑いが止まらないようであった。
敵わない。
この畜生にはどうやっても敵わない。微かな希望も慈悲もないとわかると、義勇のなけなしの勇気はそこまでだった。捕食する者とされる者。絶対にかなわない力関係。食物連鎖。圧倒的な差。
大事な姉を殺す畜生なのに、勝てない。いま、ここにいる自分が虫けらのように、か細い存在なのだと思い知らされた。
一刻も早く逃げてしまいたい。だが、死んでも姉を置いていくわけにはいかない。姉は明日祝言なのだ。女性として、一番素晴らしき日を迎えるのだ。姉が自分のことを大事にしてくれたように、自分には姉が必要だった。
義勇は這いつくばっていた身体を起こすと、膝と手を畳についた。
「たのみます…。たった一人の姉なんです」
額を畳にこすりつけた。畳に涙が一滴、二滴と落ちて止まらない。男なのに恥ずかしい。それでも溢れる涙は止まらない。怒りなのか悲しみなのか恐れなのか、感情はぐちゃぐちゃになっていた。
「俺はどうなっても構わない。だから、姉だけは、蔦子姉さんだけは助けてほしい。俺の方が肉付きもいいはずだ」
いつの間にか、鬼はまた『食事』に戻っていた。蔦子の顔は鬼の背に隠れて見えない。もはや声すらあげなかったので、生きているかどうかさえわからない。確実なのは姉が少しずつなくなっていくことだった。
「喰ってください。俺を…」
何度も「お願いします」と繰り返す。神に祈るように、自分の姉を喰らう相手に慈悲をこうているのが惨めだった。
「約束したんです。冨岡の家を、蔦子姉さんと呉舟さんと、俺の三人で再興させるって。そのとき、俺がいなくても構わない。でも、二人だけは、姉さんさえ生きてくれれば」
鬼は蔦子を掴む手を離した。崩れ落ちた蔦子は、一言も発しなかった。まだ生きているのか。
鬼はのそりのそりと足を引きずるように、義勇の前に立つと、義勇の頭を掴んで立たせた。
義勇の顔に、鬼の口が近づいた。義勇は安堵した。これで蔦子は助かる。
「マッテロ」
邪悪な笑みだった。
義勇にはそう見えた。口を吊り上げ、鋭くとがった歯は人のものではない。鬼の口から曖気が噴き出した。義勇はそのまま頭から障子を突き抜け、廊下へとほうられた。鬼は蔦子の方に戻っていく。どうあっても鬼は止まらない。
もはやどうしようもないとわかった時、義勇の身体は素早かった。
頭と身体がふっと熱くなって、それまで崩れそうになっていた足に力が入った。義勇は身体を転がすと外へと走っていった。
逃げていった。
鬼はその姿を見て、義勇の背に浴びせるようにまた下品な笑いをあげるのだった。