水柱に至るまで   作:よゐち

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一幕 少年は振り返らない 7

 鬼が笑いを止めぬ中、蔦子の眼はまだ微かに開いている。意識が残っているのに自分でも驚いていた。

 

 蔦子は自分の腕から流れる血と、遠ざかっていく意識から、自分はもう長くないのだと悟った。

同時に弟がようやく逃げさっていく音を聞いて、蔦子は絶え絶えではあったがようやく一息つくことができた。自分が死ぬことなどこの際どうでもいい。

 

またあの子に寂しい思いをさせてしまう。それだけが心残りだった。

 

蔦子の左腕はあらかた喰い終わり、白い骨と筋の筋が顕になっていた。それでも心臓は動き続けるので、血が吹き出すのは止まらない。鬼は吹き出る血をゆっくりとすする。

 

 さっさと首をかっきって喰ってしまえば良いものを、鬼はむしろ蔦子が少しでも生きながえるように致命傷になりにくい箇所から喰らおうとする。

 

 この化け物にとって、獲物の鮮度こそが大事なのかもしれない。

 

 生きたまま血を抜かれていく間、蔦子は時が永遠にも感じられた。視界が狭まっていき、残った右の指の先から冷たくなっていく。それでも意識がなくなることはない。

 

 無事に逃げ切れるだろうかと、一念に弟の行方を案じていた。

 

 人付き合いが決して得意な子ではないから、相手を怒らせるかもしれない。悔いは残る。母が亡くなった時、代わりを果たすと墓前に約束したのに途中で終わってしまった。好き嫌いも残る。放っておくと好物ばかり食うから、鮭大根をもっと食わせてやればよかった。ぼうっとしているが根は悪い子ではないのだ。剣術の才もある。道場でいじめられていたのは残念だったが、弟の環境としてはそもそも好ましくなかったのだろう。

 

 然るべき友と師、それに慕ってくれる弟子や仲間がいれば。

 

 義勇が想いに応えることができれば、道を違うことはないだろう。

 

「きれい…」

 

 強く髪を掴まれた時、額が切れたのか、片目の視界が赤くかすんでいた。もうひとつの目は夜闇の中だというのに、チカチカと点滅する。襦袢にじっとりと血が滲み、残った右腕は鬼の鋭い爪でえぐられた跡があり、自身の血が指の先まで一筋の血となって続いていた。模様のようであった。

蔦子はそれを見て、これは化粧なのだと言い聞かせた。明日は祝言だったのだから、化粧をするのは当然だった。祝言にはもう出られなくなってしまったが、綺麗に死ねるのならそれでいい。

 

 もう感覚が麻痺しているのがわかった。見えないものが見えてくる。

 

 厳かな神前で、紋付き羽織袴に身を包んだ呉舟に白無垢の自分も見える。お神酒を交わしている。「めでたい」と口々に言う親戚や友が、それに新しい家族が顔を赤くして酒を飲んで騒いでいた。そこには義勇もいた。義勇もきっと笑っているはずだった。義勇はいつもの道場へ行くボロの着物を着ている。

 

 義勇の眼は大きく開かれ、透き通る瞳は蔦子を見ているようで見ていない。

 

 息を深く吸って吐いて、正中線の構えをしている。持っているのは竹刀ではない。鎌だった。納屋に置いて放置していた錆たままの鎌だった。

 

 蔦子は義勇の姿が現実だとようやく気づいた。

 

 義勇はいつの間に戻ってきたのか、軒先で鎌を鬼の背後で構えていた。

 

 ―逃げなさい。

 

 蔦子は声をあげようとしたが、喉に血がつまってしまった。咳き込んで、とめどなく胃からか喉からか血が溢れでてきて、呼吸もままならない。義勇を早く逃さなければいけないのに。

 

 血をすすっていた鬼も、おとなしなくっていた蔦子がもがく様相から異変に気づいたようだった。 背後の義勇に気づいて後ろを振り返ったそのとき、鬼の顔は驚愕したものへと変わった。

 

 鬼は肩口を切られていた。傷は浅かったが、切り口は鋭利なものだった。

 

 鬼が振り返った瞬間、義勇はまだ軒先に立ったままはずだった。それに持つ鎌の刃先も短い。間合いはだいぶ遠かった。それが一息のうちに廊下と畳を越して、間合いを詰められてしまった。蔦子の眼では負いきれなかったが、鬼が防ぐ間合いは充分あるはずだったのに、鬼はまったくできなかった。

 

「硬い」

 

 義勇は切り口が鬼の致命傷となりえていないとわかると、すぐさま鎌を構え直した。鎌を身体の右側に立てて、左足を前に出し、力を溜める。幼い頃、剣術を習っていた蔦子は義勇が何の構えをしているかすぐにわかった。

 

 八相の構えだった。

 

 江戸幕府が倒れ、明治維新が成されて以降、この構えをする者は徐々に減っていった。少なくとも明治後期になって、剣術の先達はこの構えを進んで教えようとせず、義勇が先程やっていたような正中線の構えを基本に覚えこませた。それは正中線の構えが、相手との間合いが最も測りやすく、且つ生存率が高い方法だった。勝ちにくいが、負けにくい。技量さえ勝っていれば、相手が負けて、自分が勝つという簡単な図式ができあがる。

 

 対して、八相の構えは勝利と敗北を併せ持つ。正中線が刃先から最も身を遠ざけるのに対し、八相は切っ先を横にずらすため身を正面から無防備に晒す。代わりに利き腕をもっとも強く振ることができる体勢となる。斬る確率はあがるが、同時に相手に斬られる確率もあがる。

八相とは自分がやられようが、何が何でも相手を斬るという相打ち覚悟の構えなのだ。古い武士は自分が斬られることをいとわなかった。武士道は明治でも色濃く残る。かつて幼少に道場に通っていた蔦子も師範からそのように習ったから、同じ教えを受けている義勇も八相をすることが何を意味するのか全て承知のはずだ。

 

つまり、義勇は自身が死ぬことをいとわず、鬼を斬る気でいる。

鬼も義勇を見て離さなかった。斬られた肩口に手をやり、改めて血が出ているとわかると、義勇に向かって吠えた。鬼はこれまで虫けら同然に扱っていた義勇を、害意あるものと判断したようだった。蔦子を畳に落とされたままだった。

 

「だいじょうぶ。蔦子姉さん」

 

 破られた障子の外ではちょうど雲から月が出て、義勇の背を照らした。義勇の身体の輪郭に沿って、光が漏れ出る。蔦子からは義勇の顔は逆光となり、どのような顔をしているのかは見えない。

 

「絶対に助けるから」

 

 義勇の声は落ち着いたものだった。蔦子はこれまでこんな義勇の声を聞いたことがない。少なくとも、先程まで姉を守ろうとしつつも怯えていた少年の声ではなかった。

これは本当に自分の弟か。何か物の怪が乗り移っているのではないか。あるいは剣士の霊が。

 

 義勇は深くゆっくりと息を吸う。

 

 鬼は手を畳におろし、四肢をつけて獣の体勢となった。足を高く上げて、跳躍の準備をした。狼の如き長い口と牙を、義勇に向けて唸らせた。

完全に義勇を敵とみなしていた。月明かりのせいか、彼の気迫のせいか、義勇は十を過ぎたそこらの少年ではなく、もっと大きな存在に見えた。

 

 二人の睨みあいは、蔦子にとってとても長い時間が過ぎたような錯覚を感じさせた。実際には、それは一瞬のことだった。

 

 義勇の息が止まった時、相対した二人は同時に動いた。

 

 蔦子は眼で二人を追えなかった。気づいた時には、鈍い音がして義勇は庭で仰向けになっていた。

 

「義勇!」

 

 義勇は胸を鬼に突かれて、やられたようだった。胸からは血が出ておらず、吹き飛ばされただけのようだ。義勇は激しく咳き込みながら、身体を何とか持ち直し、立ち上がる。手にはまだ鎌を持っていた。

 

 鬼は縁側に立ったまま、義勇を見下ろしていた。顔からは血が流れている。右の耳が半分すっぱりと斬られている。義勇が切ったのだろう。

 

 歯を食いしばり唸り声をあげて、吠えた。威嚇するように、これからお前を喰うとでも宣言するかのごとく、何度も何度も吠える。

 

 蔦子は鬼が苛立っているのだとわかった。

 

 鬼は、本当は勝負を一瞬でつけようとしたのではないか。異常に発達した狼のような牙で。しかし、それが出来なかった。腕で吹き飛ばすしかできなかった。本当に殺すことができるのならば、勝負は一瞬でついているはずだった。しかし、義勇が血を流していないことから、一回で殺すことができなかったのは明確だ。

 

 義勇にとっては、鎌の間合いが短すぎた。それでも鬼の耳を斬ることができた。鬼は一口で決めてしまおうとしたところ、鎌の太刀が速すぎて思わず腕で吹き飛ばすしかできなかったという所だろうか。

 

 鬼は義勇に三太刀目を許さなかった。一瞬で義勇の間合いに入ると、義勇のみぞおちを蹴り上げた。義勇は反応することができず、転がり、痛みにうずくまる。倒れたままの義勇を、鬼は何度も蹴り上げた。義勇は持った鎌を何とかふるおうとしたが、容赦なく手を蹴り飛ばされた。義勇は鎌を離さなかったが、握るのもやっとの様子だった。

 

 鎌を杖にして、義勇はよろよろと立ちあがった。

 

「クウ」

 

 苛立つ鬼はとうとう義勇を殺すと決めたようだった。その形相は怒りに変わっていた。

 義勇はよろよろと鎌を構えるので精一杯だった。片目は瘤ができてうまくひらかず、内蔵もやられたのかひどく咳き込んでいる。義勇は鎌をつきだして、じりじりと後ろに下がる。何とか距離を測り、もう一撃いれようとしている。

 

 義勇の咳はどんどんひどくなった。肺をやられたのかうずくまり、胸を抑えた。鎌をうまく持つことすらできない肺をやられたのか、呼吸すらうまくできない。もう先程までの剣士の気迫はなかった。

 

 義勇はもう戦えない。

 

 蔦子は腕の痛みに歯を食いしばりながら、立ち上がった。

 

 鬼は構えもせず、義勇の前に無防備に立ったままだった。もはや、義勇に力はないとわかっているのだろう。腰が引けたまま、足を震わせて鎌を持つことができない義勇を忌々しげにみた。こんなやつにやられたのかと不満そうであった。

 

 鬼が動く。

 

 怯えていた義勇の眼が、驚きに変わった。そして、一拍の後、その眼からは一筋の涙が流れる。

 

「あなたの眼は…細くて無愛想だから…そうして開くとかわいいのだけれど…」

 

 義勇の顔に血がポツポツと落ちていく。義勇の眼から流れる涙と蔦子の血が混ざり、赤い涙が義勇の頬をつたっていく。

 

 鬼の牙が義勇の喉元めがけて大きく口を開いた瞬間、蔦子は義勇に覆いかぶさっていた。蔦子の首に鬼の牙が食い込んで、血がとめどなく義勇の顔へ落ちていく。蔦子が義勇の頬をなでてやり、血がべったりとついた。

 

 鬼は蔦子の背中に突き刺さした腕を抜くと、蔦子を邪魔そうにどけた。倒れ込んだ蔦子の背中から、どろりとした血が庭に隆々と流れていく。

 

 月が隠れて、再びあたりが真っ暗になった。夜闇にまぎれて、鼻から鉄の匂いがする。自身の血の匂いがどんどん濃くなっていくのがわかる。口にも血がある。頭も切れて、首には噛み跡があり、背中からは大量に流れて出て、身体は傷だらけ。とんだ死に化粧もあったものだった。

あとは全員殺されるしかない。このままだと二人とも、殺される。

 

 義勇はまだ動けるだろうか。顔は怯え、傷はあるが、蔦子ほど大事には至っていない。四肢はしっかりある。

 

 それだというのに、義勇はまだそこにいる。逃げずに尻もちをついたまま、義勇は声もあげずに泣いている。蔦子の命の火が消えていくのをただ見ていることしかできない。

 

 本当にしようがない子。

 

 鬼が義勇に一歩踏み出したが、蔦子はその足にしがみついた。掴む力が弱すぎて、鬼は気にすることなく、邪魔そうにすぐ蔦子の腕を蹴り上げた。蔦子は地べたを這って、何度も掴む。

 

「…私はこのままだとすぐ死にますよ」

 

 鬼の足が止まった。

 

「あなたは…きっと生きたままの女が喰いたいのでしょう。このまま弟に手をかけるなら、舌を噛んで急ぎ死にます」

 

 蔦子と義勇。地に這いずる二人、それに夜空を見比べて、鬼はしばし考え込んだ。

 

 義勇に興味が失せたのか、それとも他の理由があったのかわからない。鬼にとって、無力な姉弟のあがき等、もとより大したものではない。義勇に一瞬の剣士の気迫を見たが、今の義勇は完全に戦意喪失している。

 

 鬼は蔦子の身体の食事を再開することにした。ゆっくりと、クチャクチャと味わって喰っていく。

 

「ねえさん! ねえさん!」

 

 蔦子にすがりつこうと近づいてくる義勇を、鬼は何の情けか腕で吹き飛ばした。義勇を殺すこともできただろうが、鬼は蔦子の食事に集中することを選んだようだ。

 

「…いきなさい。私はもう助からないから」

 

「だめだよ、いけないよ。置いていけないよ」

 

 義勇がまた鎌を握ろうとした。二度目の情けなはない。蔦子の眼に最後の力がやどる。

 

「冨岡家七代目、冨岡義勇!」

 

 どこから力が出たのか。蔦子の喉からは血が溢れていた。口からはコポリと嫌な音がするし、汗がどっと吹き出る。自分はほんとうに死ぬだのだとわかる。なぜ自分がまだ声をあげられるのかわからない。義勇を生かす。その一念だけで全身で声をあげる。

 

男子(おのこ)ならば、家を背負うなら、姉を想うなれば、その務めを立派に果たしなさい!」

 

 なおも義勇は躊躇する。顔を怯えと怖れと歪み、涙を浮かべていた。さきほど別人じみた剣の才を披露した剣士は、もうただの怯える子どもへと戻っていた。

 

「…いきなさい!」

 

 蔦子の振り絞った声に弾かれるように、義勇は立ち上がった。涙をボロボロと流しながらも、蔦子が着せた臙脂の着物を翻し、隣村の方角へと駆けていく。義勇は振り返らなかった。ただ一心に走っていく。小さくなり、やがて見えなくなった。

 

 やがて山の向こうが白けてきた。鬼は焦っているのか、食す速度が早くなっていく。

 

 良かった。

 

 蔦子は鬼に喰われつつ意識がまだある恐ろしい状態だというのに、安堵した。痛みは既に無い。後悔もない。身体の奥をかき回され、引きちぎれる不快さも今となってはどうでもいい。心はもう穏やかなものだった。最期に祝言に参列するはずだった親族、亡くなった両親と兄弟、そして呉舟に順に謝罪していく。皆が頑張ったといってくれる。

 

 親代わりはできたろうか。そういえば母代わりを務めてきたつもりだったが、義勇を叱りつけたのは今日が初めてだった。ちゃんとやれただろうか。一度、叱ってやれてよかった。

 

あの子はきっと大丈夫。まだ幼いけれど、私がいなくても大丈夫。

 

いつの日かも、誰かが叱り、あの子を支えてくれる。

 

ぎゆう。

 

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