水柱に至るまで   作:よゐち

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一幕 少年は振り返らない 8

匂いがする。

 

知らない匂いと、知っている匂いが混ざっている。

 

 知らないものは、人の家の匂いだ。古い畳と馬屋の糞の匂いだった。知っている匂いは、線香だ。煙が宙を揺らいでいるのがわかる。両親たちが死んでからというもの、蔦子が線香を絶やしたことがない。蔦子と義勇の二人は毎日、両親と兄弟達に対して、まんまを高く盛り長く祈っていた。

 

 義勇は自分が布団に寝かされているのだとわかった。腕や腹には包帯が巻かれ、首を持ち上げると、節々に鈍く痛みが走る。

 

 部屋の障子は薄く開かれている。何も植えられていない畑があって、子どもが庭で追いかけっこをしている姿が障子の隙間から見え隠れした。男の子と女の子。姉弟だろうか。

 

 冨岡の家の庭には畑がない。

 

 義勇は急ぎ上半身を起こした。目眩と吐き気が同時に来て、大きく咳き込んだ。背中から汗が吹き出て、吐き気でうずくまる。

 

 今、自分が人の家にいるのがどういうことか。すぐに理解してしまった。

 

「起きたみたいだよー」

 

 畑で遊んでいた子ども達が義勇に気づいたらしい。奥の襖が開き、初老の老人と黒詰め襟の男が入ってきた。

 初老の老人に義勇は見覚えがあった。鬼に襲われ逃げた隣村で会った男性だった。老人は家の主人だった。明け方で農作業に出かけようとしていたところを、義勇が軒先に倒れているのに気づいてくれた。

 

「ようやく起きたか」

 

 詰め襟姿の男が、義勇の横に正座した。かつて義勇に道を聞いたあの男だった。相変わらず黒い詰め襟に灰色の斑の羽織を羽織っていた。

 

「姉は! 蔦子姉さんはどうなった」

 

 義勇が大声を出した。肺の奥が急に詰まったような感覚に襲われ、咳き込んだ。

 

「落ち着け少年。内臓がひどくやられている。しばらく動かないほうがいい」

 

「俺は行かなければ。家に戻らないと。姉さんを助けないと」

 

「行っても無駄だ。君の姉は死んだ」

 

 義勇は中腰のまま止まり、力なく布団に座った。

 

「姉さんは」

 

「すまないが、もう燃やした。むごい有様だったのでな」

 

身体から骨が消えて、視界がぼやけてぐらつく。

 

 詰め襟の男は拝島といい、鬼狩りだと名乗った。

 

義勇が隣村に逃げ込んだ後、報せを受けてやってきたらしい。

 

 義勇達が襲われた晩から、もう三日も経っていた。義勇が眠り続けている間、ずっと調査をしていたらしい。義勇と蔦子を襲った狼の体躯を持った鬼は、近隣の村でたびたびと若い女を殺しているらしい。特に嫁入り前の若い女が狙われるらしく、それ以外の家族にはまったく手つかずで、えらく偏食家の鬼ということだった。謎なのは、嫁入り前の女がどこの家に住んでいるかを、鬼がどうやって突き止めているかということだ。

 

「狼の鬼だからな、匂いで判別している可能性もある。だが、段取りが良すぎる。若い女がいない他の家はまったく襲われていない。俺は鬼に手引きしている者がいると疑っている」

 

 拝島は義勇の眼をじっと覗きこんだ。

 

「まさか、君が鬼を手引きしたのではなかろうな」

 

 最初、義勇は何を言われているかわからなかった。言葉の意味を理解すると、身体は自然と動き、詰め襟の男の首をつかんだ。義勇の変貌ぶりに家の主人は驚いたが、男は平然としたままだった。

 

一瞬の後、義勇は布団に投げ飛ばされていた。息もつかぬ間に空気投げをされていた。剣道を続けてきた義勇が、赤子をひねるように扱わるほど、技量の差が二人にはあった。

男は襟を直しながら、「よくわかった」と言った。それは投げ飛ばしたことに対してか、義勇を侮辱したことか、おそらく両方だった。

 

「そして、我々がいつも言っていることだが…。間に合わなくてすまない。奴ら鬼が人を襲い、我々が追いかける。我々はいつも後手にしか回れない」

 

 義勇は声が出なかった。拝島はポケットから、香袋を取り出すと、義勇の元へ放った。鼻の香りがした。

 

「藤の花の香袋だ。鬼が嫌うので、持っておくといい。君はやつの顔を見ているから、狙われる可能性がある。ここまでは俺たち鬼殺の隊士が守っていたが、もう行かねばならん」

 

「俺は、俺はどうすればいい」

 

「どうもせずとも良い。もうじき官憲がここへ来るだろう。君の保護や親族の連絡など、諸々の段取りは彼らがやってくれる。申し訳ないが必要なことは聞けたので、これで俺は失礼する。君は違うだろうが、やはり殺された身内が怪しい。安心しろ。あの鬼は俺達が退治してやる」

 

 拝島はそれだけ言うと、義勇の答えも待たずにさっさと去っていった。

 

 義勇を拾って助けてくれた家の主人が盆を持って部屋に入ってきた。茶とタクワンが添えられた握り飯の皿を、義勇に渡す。

 

「食いなせぇ。三日も飲まず食わずじゃ辛かろう」

 

主人が部屋から出ていってからも、義勇はしばらく動けずに皿を見つめていた。いつの間にか、子ども達はどこかへ行ってしまったようで静かなものだった。自分が今、どうすればよいかわからない。もう何をして、どこに行けばよいのか、これからどう生きていけばよいのか。

仏壇から漏れ出る線香の匂いが、米や茶の匂いに混ざってだんだん何の匂いかわからなくなっていく。

 

 着物掛けには、臙脂の着物がかかっている。黒い模様がついていて、それは血の跡だとわかった。

 

 喰う、とは。鼻に、あの晩の鉄の臭いが蘇る。

 

 内臓がひっくり返る感覚がして、義勇は吐いた。何も食っていないので、透明な胃液しかでてこない。蔦子が喰われていた姿が、猛烈に思い起こされる。義勇自身が泣き叫ぶ声、姉の肉が喰われていく音、喰われゆく蔦子が苦しみ微笑みかけた姿。

義勇は叫んだ。握り飯が置かれた皿がひっくり返り、茶が布団にこぼれ染みになって広がっていく。乱れた頭をかきみしり、濡れた布団をこれでもかというほどに叩く。埃が舞って、綿が飛び出るが気にすることはできない。どんなに叩いても脳裏からあの光景が消えない。

 

あー。

 

なにも、なにも、なにもできなかった。あんなに守ると言ったのに。

 

姉は本当だったらもう結婚しているはずだったのに。俺だけが生きている。一番何もない俺だけが生きている。

 

義勇は布団に散らばった米粒を、ムシャムシャとむしるように頬張った。口が呼吸できないくらいに詰め込んで、もうそのまま死んでしまえとさえ思った。

いきなさい。

 

あの最期の優しい声が、頭から離れない。

 

義勇の叫び声は家中に響いた。家の主人は奥の部屋でうなだれたまま、煙管をくゆらせる。

 

 

 義勇が泣き叫んで、やがて落ち着いた頃、助け拾われた家に呉舟が来た。

 

 そういえば、冨岡の家の隣村には呉舟の家があったと義勇は思い出した。だからこそ、義勇も隣村を目指したのだ。だが、力尽きて倒れてしまった。呉舟の家に運ぼうとも考えたようだが、本人が起きるまでは無理に動かさないほうがよいと主人と呉舟で話し合ったらしい。

 

「ああ、義勇。蔦子は残念だったが、君だけでも無事でよかったよ」

 

 呉舟は義勇が無事なことを喜び、また蔦子のことを残念がった。婚約者を亡くしてもっとひどく悲しんでいるのかと思ったが、呉舟は意外にも冷静なものだった。憔悴している義勇を見て、自分はしっかりせねば冷静さをもつのか、大人になると人の死にも耐えられるのか。義勇にはよくわからなかった。

 

 次に官憲が来て、家の主人と呉舟は義勇の代わりに事件の話をした。

 呉舟の話では、犯人は人食いの殺人鬼らしいということだった。義勇が詰め襟の男から聞いた話とは違ったが、殺しが起きている噂自体は既に村中広まっているらしい。

 

義勇が「鬼が姉を殺した」と訂正すると、呉舟は「鬼などいない」と悲しそうな顔で言った。

 

「弟は動揺しているのでどうか気にしないで欲しい」と官憲に説明した。官憲も義勇のことを哀れそうに見ると、神妙に頷いた。官憲も鬼に襲われたという証言を取り合うことはなく、殺人鬼として捜査を進めるようであった。

 

義勇はそれ以上、間違いだと指摘する気はなかった。姉が死んだ今、犯人が誰であってもどうでもよいことだ。

 

 呉舟が言うには、義勇の遠縁の親戚には電報を打っているので、しばらくすれば来るだろうということだった。

 

 義勇は自分が五つもいかない頃の正月に、大阪で医師の家族が冨岡の家に東京見物に来ていたことを思い出した。顔も覚えていないし、父の再従兄弟らしいが、父はともかくあまり冨岡の家とそもそも交流がない家族だった。

 

 近くに身寄りのない義勇は、親戚が来るまで呉舟の家に一度厄介になることとなった。

 

「俺は冨岡の家に戻ります」

 

「一度落ち着いてからまた戻るといい。君は弟みたいなものだし、まだ幼いのだから気にしなくていいのだよ。いま君を一人にしては、向こうで蔦子もきっと心配する」

 

蔦子、と言われては義勇がそれ以上反論することはできない。しかし、義勇は、呉舟が何か急いでいるような気がした。

 

呉舟は義勇が立って歩けることを確認すると、世話になった家の主人に礼を言って、義勇と家を出た。義勇はまだ傷が治っていなかったので家の主人は引き止めたが、「あまりご迷惑になっても」と、呉舟は半ば強引に世話になった家から義勇を出した。

 

「さっき、俺のところに鬼狩りって人が来た。呉舟さんは会いましたか」

 

 呉舟はゆっくりと義勇の方へ振り向いた。

 

「いいや、会っていない。…鬼狩りとはなんだい」

 

 冷淡な声だった。呉舟の顔は怒ってはおらず、ただ無だった。まだ世迷い言を言っているとでも思っているのかもしれない。

 

 義勇は戸惑いながらも鬼狩りと名乗る人間と会ったことを説明すると、呉舟は鬼などいないとまた笑い出した。義勇がなおも言いかけたが、呉舟は「辛い話はもうやめよう」と言って、話を打ち切ってしまった。義勇もそれを否定することはできなかった。

 

 義勇が呉舟の家につくと、片付いたものだった。数週前に結納をしたときは物に溢れていたが、今日は職人の数も少ない。義勇は広い部屋に案内された。部屋の中央には布団が敷かれていた。

 

「ゆっくりするといい。本当は祝言をあげるはずの客間だったんだが…。こうなっては仕方ない。君が気の済むまでいなさい」

 

着物掛けには、祝言用だろうか。呉舟の晴れ着が飾ったままだった。

 

「これももうしまわないとな」

 

 呉舟は着物を撫でた。

 

船木家は長男の呉舟に両親、祖母、弟妹の六人家族で、皆が義勇に対して優しかった。ふさぎこむ義勇に傷が癒えるまで、いくらでもいてよいといってくれた。

 

その優しさが辛かった。こんなにいい家なのに。

 

蔦子はこの家に嫁入りをするはずだった。それを思うとやりきれない。親戚や村の人も集まり、大規模なものになるはずだった。

 

 義勇は医者の親戚が来るまでの間、しばらく寝続けた。何もする気が起きず、寝ることしかできなかった。義勇はたまに起きてもまともに胃が食事を受け付けず、船木家の人を心配させた。蔦子がいない事実が、生きる気力を失わせていく。このまま姉の元にいけるのならば、それで良いかもしれないとさえ思った。

 

かろうじて義勇の気力をつなぎ留めたのは、勝手口の方から聞こえる人の声だった。義勇の部屋は裏の勝手口に近く、近所の住人と船木家の人が話をするのもかすかに聞こえてくる。また殺しがあり、どうも鬼はまだ退治されていないらしいという噂だった。その情報が、まだ義勇が敵を討てる可能性があることを示した。姉を殺された悔しさも相まってか、力が湧くのを感じた。

 

 数日経っての明け方近く、雀の朝のさえずりが聞こえる頃のことだった。もう明後日には医者の親戚が義勇を訪ねてくるはずだった。

 

義勇の枕元に立つ影があった。もしや蔦子の霊が化けて出たのではと思ったが、それは男の姿だった。黒の詰襟の男だった。腰には刀を提げている。

 

「あなたか」

 

 義勇が寝たまま口を開く。近頃は寝たきりのせいか、眠りが浅くなっていた。

 

「この刀を見てもまったく動じないとは、ずいぶん肝が据わったやつだな」

 

突然現れたことに対し、まったく驚く素振りをみせない義勇に男はあきれた様子で言った。

 

「少年、悪い知らせが二つある。一つは敵を討てなかった。今朝方あと一歩というところまで追いつめたが、逃がしてしまった」

 

 義勇は身体の奥が熱くなるのがわかった。悪い知らせどころか、むしろ良い知らせだった。自分が敵を討つことができるということだ。

 

「それと、これは君に伝えるべきか迷ったが…」

 

 義勇の呼吸が早くなる。身体はさらに熱くなった。

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