「三途のヤツ、どこへ行くんだ?」
「アレじゃね?マイキーんち」
「あぁ、イザナの」
九井と望月は車中に設置したディスプレイを覗きながら言葉を交わす。そこに映る三途は途中で薬の禁断症状を起こしながらも足を止めることなく歩いてどこかを目指していた。その目的地に敏感に反応したのは九井の方で、不良時代の記憶のケースに仕舞われた情報を丁寧に取り出したのである。
「しッかし今更何の用があるってんだ?」
三途は途方に暮れていた。何故かって、なぜ自分があの男の後を追うことを選んだのか、ちっとも思い出せないからである。一体何を以てして彼を『ボス』と定めたのか。マイキーを王と仰いだその頭で、どうしてボスに頭を垂れたのか。まるで思い出せないのだ。
カリスマは認めよう、あの男はボスたる器であった。彼をボスとした自らを肯定できるほど。支配者であることを意識した洗練された動作はもちろん些細な仕草までがどんな装飾品よりもあの男の魅力を掻き立てた。ひとたびそのゾワリと背骨が浮き立つような荒削りのテノールが己が名を呼べば、感情が昂ってこの男の為なら何でもできようという全能感に浸された。
三途は本気だった。ボスに誓った忠誠や崇拝の何から何まで。けれどその始まりばかりが思い出せなかった。それが気に食わないのである。一生を預けるつもりだったマイキーから離れてあの男に着いていくだけの切っ掛けがある筈なのだ。それほど重大なボスとの出来事を覚えていないことが屈辱であり歯痒いのである。ボスの情報は全て手元に置いておきたいのに、まして自らの身に起きたことを忘れるだなんて失態、屈辱以外の何物でもない。三途はすっかり困ってしまって不良時代の名残から体が勝手にマイキーの方へ向かっていた。
「サンズ?」
「!マイキー!!」
大きな道場を有する立派な家屋の前で突っ立っていた三途に声をかけたのは当然のことだが佐野万次郎である。自分の家の前で呼び鈴も押さずかれこれ2、30分は立ち竦む男をこれ以上放っておくわけにもいかなかったからだ。
「久しぶりだな、三途」
「……!マイキー…」
「ア?え、何オマエ泣いてんの?なんで?」
「うゔ……ッ!」
「ちょ、落ち着けよ、歩けるか?ホラ、支えてやるから少し我慢しろよ」
万次郎は三途に手を回し、支えてやりながら敷居を跨がせる。突然ボロボロと大粒の涙を流して嘔吐く三途を介抱してやるためだ。三途は背をさするマイキーのさり気ない優しさや温かさに直に触れて、反社だった自分との人間力の差に更に体調が悪くなりそうだった。
「マイ、キ、オレ……」
「喋んな三途。話なら後でいくらでも聞いてやるから」
「……悪ぃ」
取り敢えずで居間に三途を落ち着け、コップに水を注いで渡してやる。もちろんバケツと一緒に。三途はそれに涙と胃液を吐いて、ちびちび水を飲む。いまだに不安定な表情を見せるが吐き気が治まったことで顔色はだいぶ良くなっていた。しばらく肩でゼェゼェ息をしていた三途はぐいっと水を飲み干すと、真剣な瞳で簡潔に言い放った。
「梵天の頭について知ってるか?」
……
九井からの連絡で三途が佐野万次郎と接触を図ったことを聞いた。予想の範疇である。そして三途は梵天のトップについて佐野万次郎に尋ねたらしい。普通ならこれでスクラップ行きの所業だが、相手は三途であり佐野万次郎である。慎重を期せねばならないことは一目瞭然だ。それに三途には梵天はオマエを追わないとまで言ってある。それを違うことはできない。
「サテ、どうしようかね」
とはいえ三途が佐野万次郎を巻き込んで裏社会に再び足を踏み入れることを良しとするわけにもいかない。できることなら三途がもう一度佐野万次郎の下についてお天道様の下で真っ当に暮らしてくれるのが最も好ましい。難しい話ではあるが。そして三途の件に片がつけば次は九井である。彼もまた、別れを告げた乾に未練タラタラであるので。さっさと裏社会から足を洗わせて追い出すつもりなのだ。オマエの居場所はここにはねェと言って、わざと彼の抱く己への幻想を打ち砕くように傷付けて。そうして満場一致のハッピーエンドにしよう。乾の後を追うも未練にケリをつけて新たな道を選ぶも好きにすればいい。灰谷は片割れがいれば勝手にハッピーしてるので無視していいだろう。アイツらはいつも憎いほど楽しそうである。望月も、アレはアレで回りくどいが望んだ形なのである。そこに己の関与する謂れはないとわきまえている。
佐野真一郎が生きている。その事実はあるべき未来を大きく変えた。
黒川イザナは鶴蝶とフィリピンへ渡り、そこで身寄りのない子どもたちを保護し、自立を促すための機関の一員として働いている。佐野真一郎との確執は埋まらずとも折り合いはつけたらしい。細々と交流を続けていると小耳に挟んだ。
龍宮寺堅は早々に佐野エマと結婚し、今では二児の父である。ここまですべて順調なのだ。これほど明るい未来はこれまでにない。花垣武道が果たしたリベンジと己の念願が、ようやく実を結ぼうとしているのだ。だからこそと思わずにはいられなかった。
「早く、忘れてくれ」
こんなどうしようもない己のことなどどうか。何の逡巡もなく幸せを選んでくれ。これが己のエゴで自己満足であることなどとうに知っているからつべこべ言わずにさっさとルビコン川を渡ってほしい。そうすれば振り返る道を閉ざすことができるから。祈るように手を組んだ。来るべき結末は決まっているのだ。そうでなければならない。けれどそこに辿り着くまでには三途と佐野万次郎の会話の行方に委ねるしかないのだ。今のところ。
……
「梵天?それって反社の?」
「アァ」
「……三途、オマエが今何をしてンのかはオマエの自由だ。でももうオレはカタギだから、周りを泣かせるようなことはできねぇし、してねぇよ」
悪いが知らない、万次郎キッパリとそう言い放ち、三途を真っ直ぐ見返した。三途の脳は単純なもので、たったそれだけのことでかつての日々が蘇りマイキーに見つめられていることに歓喜する。そしてそれは蘇ったかつての思いとなんら変わりないことを三途に確信させ、更にボスへの思いがマイキーへ向けるものと全く違うものであることを証明してみせた。
だからこそ。だからこそ三途はあの男の元へ帰らねばならないのである。佐野万次郎が現状に満足していて何も変えるつもりがないのなら、そこに三途春千夜の入る隙はないのだ。王がオレを呼ぶなら飛んで行こう。命を下すなら謹んで拝命し遂行しよう。けれど王はそれを決して望まない。それゆえ三途はボスに傾倒するのである。
たとえ望まれてなどなかろうがあの男のすべてを暴いて泣かせるまでは、己なしでは生きられぬようにするまでは、何があってもそばにいなくてはならない。そうしてゆっくりあの男を壊して殺してオレも死ぬのだ。それが三途にとってのハッピーエンドになるのである。佐野万次郎のハッピーエンドはもう見られたから、あとはもう己の幕引きを飾るだけでいい。
あの男の脳内外すべてを己で埋め尽くしていっぱいにして、最期を看取ってすぐに後を追うのだ。それで一緒に閻魔大王に喧嘩を売って、地獄の底でもテッペンを獲る。どこまでも着いていく己に男が仕方ないなァと笑ってオレはそれに酔いしれるのだ。アァこの男の隣にいるのは確かに自分であると。それ以外の未来など既に三途の中には存在しないのである。
なのでもう手段は選んでいられない。殺されたっていい。あの男にトドメを刺してもらえるのなら本望だ。トドメを刺しに逢いに来てくれるならそれだけでいいのだ。
「その男が佐野真一郎の恩人だって言ってもか?」
毒を喰らわばと腹を括って三途は踏み込む。佐野真一郎やマイキー、黒川イザナらがその人物を長年探していることを三途は知っていた。それを知っていて黙っていたのは三途のエゴであるが、もう形振り構っていられないのだ。使えるものはすべて使う。その程度の覚悟もなくてはボスの決定を覆すことなど到底できないのである。
「詳しく話せ」
わかりやすく目の色を変えた万次郎に三途はグッと奥歯を噛み締めた。この秘密を知るのは自分だけという優越に、最後にもう一度だけ浸りたかった。
「オレも言うほど詳しくはないが」
ひとつ前置きとしてそう言っておく。口に出すのも腹の立つ事実だがそれほどあの男は巧妙に自らの情報を隠した。一瞬の気の緩みや人に絆されて心を許すことが己の失態となりうることを嫌という程理解していたのである。
――そして一度だけ、たった一度だけあの男は大きな失態を犯した。そう、このオレに対して。このオレにだけ。
「花垣克武、これがその男の名前だ」
……
花垣武道には兄がいた。いた、というのも兄は元々家に寄りつかないディープな不良であったし、武道が中学を卒業してからは家という接点すら失い、血の繋がった他人のような存在であったからだ。だから存外兄の存在を知る人は少ない。兄は身なりだけはいっちょ前のクソガキの自分を嫌っていたようで、顔を合わせる度に嫌悪に眉根を寄せられていた。
武道としてはそれは少し寂しくもあったが、大して顔を合わす仲でもない兄弟にそれほど心を割くわけでもなく、半分一人っ子のような気持ちで育ってきた。
武道は結局、作ったはいいものの手元を離れることのなかった結婚式の招待状を翳して、ぼんやり思案する。タイムリープして過去に戻っても未来を変えても、兄の姿は一度も見なかった。確かに不良をしていたはずの兄をあれほど東京で暴れ回って見ないなんて話があるのだろうか。考えれば考えるほどますます雲行きが怪しくなっていく。
「避けられてるのか、それとも」
どこかで死んでいたりして。
過ぎる嫌な想像は頭を振ってかき消した。兄は武道ほど弱くない。きっとどこかで生きているだろう。せっかくヒナも生きていて幸せな現代にすることができたのだ、それを自ら壊すようなことはできない。武道はヒナと揃いのクローバーのペンダントをギュッと握り締めた。
ピンポン、とどこか抜けた呼び鈴が鳴る。誰か来る予定でもあったのか、武道は首を傾げながら立ち上がる。結婚式を挙げてもうすぐ1週間が経つ。明日にでも新居に引っ越す武道のもとにやってくる人物の心当たりがないでもなかったが、玄関を開ければ全く予想だにしなかった男が2人。ただならぬ雰囲気を感じるだけ感じてその上で絶望的に緊張感のない男、花垣武道はへらりと笑って頭をかいた。
「コンチハ……あの、何か用事が…?」
「タケミっち、悪い」
「え?なにがですか?」
「花垣克武について教えてくれ」
武道は思わず息を呑む。今しがた想起したばかりの兄の名が知るはずもない人の口から聞こえたからだ。
――あぁ、波乱の足音がする。
急激に翳り始めた平穏に思いを馳せる。大したことでなければいいが、大したことならこれ以上酷くなる前に決着をつけるべきだ。単なる家庭内不和ならまだ可愛げのあったものを。
「オレも兄貴について詳しいことは知りません」
今、生きているのかさえ。それでもいいか、と問う。すれば万次郎のそばに侍っていた男が声を上げた。
「知りてぇのはボスの全部だ。今がどうとかゴチャゴチャ言ってねェでとっとと吐きやがれ」
見てくれからカタギではないことくらい武道とてわかってはいたが、初手からこれは手強いかもしれないと少しばかり重圧を感じる。それを知ってか万次郎は「三途」とおそらくその名を呼んで苦言を呈す。どこかで聞いたような名だった。
「それが人に物を頼む態度か」
「ウッ、だってよ……」
「だってもクソもねぇよ。ここに私情を持ち込むならオレは手伝わねェ。1人でやれ」
「すみませんでしたどうかお話を聞かせてくださいお願いします」
「ヨシ」
「ヨシなんだ……」
「ア?」
「アヒィ……ッ!」
「三途」
「…………うっす」
仕切り直しとばかりに「狭いところですが……」とところどころささくれた畳の上に招き、全員がキチンと腰を落ち着ける。壁の薄いボロアパートにあの佐野万次郎が座っているなんて、と三途は震えた。ナシだけどアリ。いややっぱナシ。座布団くらい出せと思って、荷造りの跡を見て仕方ねぇかと首裏をかいた。これ以上待ってもいられないので。そもそも荷造りを終えていなくとも座布団なんぞ武道は持っていないのだけれど。
「花垣克武はオレの兄を……佐野真一郎を救った恩人なんだ。オレはそれに礼を言いたい」
「そうでしたか…。兄貴がそんなことを……」
「教えてくれタケミっち。この通りだ」
囲んだローテーブルから距離をとったかと思えば五本指に手のひらもついて畳に頭をつける万次郎。それに倣う三途とどちらにも驚いて武道は慌てて「頭を上げてくださいっ」とテーブルの向こうから膝立ちになった。
「そんなことされなくてももちろんお話しますよ!ええと……たしかこの中にアルバムが……」
一度閉じられたダンボールをなんの躊躇いもなく開けて漁り出す武道はゴニョゴニョ独りごちながら目当てのものを探す。
「あっ、ありました!これです!」
たけみち、と優しい字で書かれたそれは如何にもな風体のアルバムであった。武道はどこら辺に何の写真があるのかをおおよそ覚えているらしく、迷いなくパラパラとページを捲っていく。
「兄貴の写真ってそんなになくて……」
コレとか、と示された写真の傍には『克武7歳・武道2歳』とこれまた優しい字で記されていた。写真に映る少年はあの静謐な雰囲気を纏って、それでいてあどけない無機質さがあった。
「結構似てンね」
「兄貴はストレートなんですけどね」
幼き日の克武は童顔な武道の性質も相まって面影をそれなりに感じる。克武の方が微妙に垂れ目である種の神聖さにも似た艶美な顔立ちではあるが。しかし今のボスからは想像もつかない純真である。瞳は武道と同じ星屑色にわずかにキラめき、ぽわんと小さく開いた口は無防備だった。三途はそれにいたく興奮して「いくらで買える?言い値で払う」と武道に迫った。
「ごめんなさい、兄貴との写真、これが唯一と言ってもいいほどなんです。売れません」
「チッ!使えねェ!!」
「ならもう仕舞っちゃいますね」
「許可してねぇだろ仕舞うな寄越せ」
「…三途」
「あと六時間程度見させてください」
「持って帰らないのなら……」
いいのかよ、と万次郎が小さく呟くが、ここで無理に仕舞ってあとで強奪されるほうが御免なのだ。写真で三途を大人しくさせて武道と万次郎は居住まいを正す。
「それで、兄貴について聞きたいんでしたっけ」
「あぁ、どんなことでもいいから」
「ホントに大した記憶はないですよ。ケンカが強かったとか頭が良かったとかクラスメイトから人気があったとか」
「ウゥ…ボス……ッ」
「え、泣いて……?!」
「あ〜気にすんな」
万次郎がフォローを入れて三途はグッと眉頭に皺を寄せた。単にボスがしっかり人間だということを認識して処理落ちしているだけなのである。
「昔から独特な雰囲気を持った人でした。1人だけ違う場所にいるみたいで。でもそれが人を惹き付けて兄貴の周りにはいつも人がいました」
その時の光景を思い出しているのだろう、武道は目を瞑って薄らと目尻を和らげた。三途は大勢に慕われるボスを容易に想像できてその想像にすら嫉妬した。
「兄貴は周りの人を拒むことこそしなかったけど決して自分のテリトリーに他人は踏み込ませなかった。それがカリスマに拍車をかけて、それでもジッと何かを待っているように兄貴自身を誰にも触れさせませんでした」
三途はそれを聞いてゆるりと弓なりに目をしならせた。やはりボスははじめからボスたる器であったのだ。己の目に狂いはなく、花垣克武という男は人の上に立つべくして生まれたのだと思うと全てを愛おしく思えた。博愛主義なぞガラではないが今なら『FREE HUG』を首から提げて国会議事堂の前に立ってもいい。
「そして詳しいことはわかりませんが、ある日突然兄貴は不良になった」
「えっ」
「えっ?」
「不良上がりだとしたらもっと名が知れてるモンじゃねーの?」
「?何の話ですか?」
「……、いや、なんでもない。悪い、続けてくれ」
万次郎は花垣克武ははじめから裏社会に近いところにいたものと思っていた。不良たちには自分たちが恩人を探していることは知れていたし、それでなくとも今の梵天を作り上げた頭である。不良として暴れ回っていたのなら名を聞かない方がおかしいのだ。万次郎然りイザナ然り。
おかしいな、と思うが武道は実の兄が裏社会を牛耳る組織のボスであることを知らない。知らない方がいいと万次郎も思っている。ゆえに踏み込めなかった。
「その頃から兄貴はだんだん家にも寄り付かなくなって、時々家に帰ってくるときは、決まっていつも酷い怪我を負っていました。それも頻度が落ちていって……オレがマイキーくんと出会う頃には、もう全く姿を見なくなりました」
当時の武道はそれをほんのり寂しく思いながら、かといって兄を引き止めるための術を思い付かずにただ見送るしかなかった。
今思えばその背中は目の前のこの男、佐野万次郎の背によく似ていた。信じてすべてを預けられる頼もしい背中。この男について行きたいと思わせる痺れるようなまっすぐな信念と、何にも譲らない呑み込まれそうな瞳。
憧れていたのだ。この男に、己の兄に。本当はどこへも行かないで欲しかった。この手を引いて先を示して欲しかった。付いて来いとその背を追わせて欲しかったのだ。
けれど兄は、……兄は…、……アレ?
「……オレに兄貴なんていたっけ?」
「タケミっち?」
確かに存在したハズの、三途の手にした一枚の写真の、自分によく似た少年は一体誰だ?