「お疲れ様、イヴちゃん!」
「……はいっ、お疲れ様です、ツグミさん」
あの人に誘いを断られて、失意のままに私はバイトを上がりました。既に時刻は夕方を少し姿ぐらいになっていて、赤や緑の輝かしい装飾で満ち満ちた商店街の通りの少し上には赤らんだ空が広がっています。空までもがまるでクリスマスの装飾に手を貸しているように思えたせいか、余計に私の心は沈んでいました。
「……と、事務所に急がないといけませんね!」
そんなクリスマスの近づく憂鬱にも構っていられません。近づくライブの準備もモデルのお仕事も重なっていますから、今の私のスケジュールはまさに多忙の一言でした。それはこの間話の流れでスケジュール帳を見せた日菜さんも絶句するほどの。そういうわけでは私は一分一秒たりとも無駄には出来ません。
「急ぎましょう!!」
私は珈琲店での出来事を忘れるかの如く事務所へと駆け出しました。
「あっ、イヴちゃん、こっちこっちー!」
「ご、ごめんなさい!!」
冬だと言うのに汗を流すほどの快走の末に辿り着いた事務所にはもうすでに皆さんが待っていて、スタジオの前で待機している様子で、アヤさんが大きくこちらに手を振って待っていました。
「ふふ、良いのよイヴちゃん。今日もつぐみちゃんのところでバイトをしてから来たのだものね」
「は、はい!」
どうやらチサトさんは私が今日バイトしていたことを知っていたようで、にこやかに微笑みかけてくれました。
「……実は私今日はお昼頃に店内に居たのだけれど気づかなかったのかしら?」
「……え?! ほ、ホントですか?!」
「えーイヴちゃん千聖ちゃんが居たのに気づかなかったのー?!」
確かに今日はあの人のこともあり、半分ぐらい気が抜けながらバイトをしていたような覚えがあるので、チサトさんが来店していたとしても気がつかなかったのかもしれません。……フカクです! そんな私の反応を見てか、ヒナさんもお腹を抱えながら大笑いしています。恥ずかしさで思わず顔が熱くなった時でした。
「……冗談よ。というか日菜ちゃんも笑いすぎたらイヴちゃんが可哀想よ?」
「「え?」」
そんなチサトさんの言葉にヒナさんと2人、顔を見合わせました。
「さて、イヴちゃんも来たことだし、笑っている暇もないから、早く練習を始めましょうか」
そういうとチサトさんはドアを開けて、スタスタとスタジオに入って行きました。
「千聖さんが一番クスクス笑って……」
「あら何か言ったかしら麻弥ちゃん?」
「いえ何も!!!!」
そうしてそんな柔らかな空気の中、近づくライブに向けての練習が始まりました。
けれど、そんな始まる前の和やかで明るいムードは徐々に崩れていきました。
「す、ストップストップ!! なんかズレてる!!」
何曲か続けて演奏した後に、アヤさんの大きな声が響いて私はキーボードから指を離しました。その瞬間に、ハッとして、私が弾いていたフレーズが明らかに次のフレーズの部分になっていたことに気が付きました。
「す、すみません! 私が間違えてました!」
「えっと、じゃあもう一度曲の入りからやり直しましょう!」
麻弥さんがリズムを取ってくれて、もう一度同じ曲を初めから弾くことになったのですが、今日は何故かあまり集中できません。指がもたついて上手くついていかなかったり、逆に焦って全くドラムの音を聞けていなかったらなど、メロディラインすらまともに辿れていませんでした。
「イヴちゃん大丈夫? ちょっと休憩する?」
「ありがとうございます、アヤさん。けど、大丈夫です!」
それでも準備までそれほど時間が残されていない中、私のせいで全体の練習の機会が減ってしまっては意味がありません。ですから、私は数度息を吸い込むと、なんとか心を落ち着かせてもう一度全体にあわせて、キーボードを奏で始めました。
「……今日はちょっとイヴさんの調子が悪そうですね」
「う、ご、ごめんなさい……」
「し、仕方ないよイヴちゃん! 私だって声が上手いことでない日だっていっぱいあるし!」
その後の練習でも、私はミスを連発し続けてしまいました。みなさんの励ましが却って私の胸に刺さりました。不甲斐ない自分が恥ずかしくて、悲しくて、やり切れなかったのです。
「本当にごめんなさい……」
「だいじょーぶだよイヴちゃん! まだ3週間ぐらいあるもんね!」
「そうね、疲れも溜まってしまうから、今日はこのぐらいにしておきましょうか」
「うぅ……ありがとう、ございます……」
そういうわけで予定よりも早めに練習を切り上げて、ものの1時間ちょっとでその日の練習は終わってしまいました。
事務所の窓のブラインドから覗く外には林立するビルの光が瞬いています。いつもなら綺麗だと思うはずなのに、今日の私はそれを見ても何故か虚しくなってしまいました。
「ほらほら、イヴちゃん! そろそろ帰ろう?」
「……はい」
私の返事は弱々しいものだったと思いますが、手を握ってくれるアヤさんの手は温かくて、少しだけ心が安らいだ気がしました。
「あ、彩ちゃんいいなー! あたしもイヴちゃんと手繋ぐ!」
「ヒナさんの手も……あったかいです」
暖房がかかっていて寒さを感じなかった屋内を出ると、途端に冬の夜の肌寒さが襲ってきました。どこか侘しさすら感じるそんな寒さに私の体は思わず震えました。
「イヴちゃん、今日は少し具合が悪かったみたいだけれど、何かあったの?」
「そうですね……」
私は思い悩みました、こんな私のちっぽけな悩みなんて言ってしまっても、きっと良いことはありません。だから。
「……いえ、特にそういうわけではないんです……ごめんなさい」
「そう、謝ることではないわ」
千聖さんの声が寒空に小さく響くと、みんな話題が尽きてしまったからか、空気が悪かったか、押し黙ってしまいました。そんなむず痒い沈黙を破ったのはアヤさんでした。
「……あ! そ、そうだ! そろそろクリスマスだよねっ!! みんなはクリスマスとかどうするのっ!」
「あたしは今年はおねーちゃんとご飯に行くんだ! 今から楽しみだよー!」
「私も今年はお仕事も入っていないから、ライブさえ終われば後は家族とゆっくり過ごすかしら?」
「ジブンもそんな感じですねぇ」
クリスマス……ですか。世間はすっかりクリスマスに流れていて、街中クリスマスカラー一色なのを見ると、やっぱり私は今日の羽沢珈琲店のことを思い出してしまって、なぜかあまり喜べない私がいました。
「そういう彩ちゃんはどうなのー?」
「えっ、わ、私?! え、えーとえーと、あ、あはは……まだ何も決まってないかなぁ……」
きっとアヤさんはさっきの沈痛な空気を打破するためにこんな話題を振ってくれたのでしょう。そんな優しさが肌寒い私の心に沁みました。
「クリスマスかぁ……、恋人達の聖夜だよねぇ……。……えへへ」
「……彩ちゃん? 貴方自分の立場を分かっているのかしら……」
「……は! い、いや、違うんだよ?!」
焦るアヤさんにチサトさんは疑いの目を向けますが、アヤさんは必死に手をバタバタと振って弁明していました。
「そもそも私そんな仲のいい男の人とか居ないからっ! ほ、ほら、みんな向こうだよね! イヴちゃんかえろっ!」
「……もう、彩ちゃんたら」
「アヤさん、イヴさん、また明日です!」
「わわっ、ま、また明日です!」
勢いよく手を引くアヤさんに連れられて、私は3人とお別れして、帰り道に着きました。
「ふぅ……めちゃくちゃ疑われちゃった」
「アヤさんは親しい仲の殿方がいるのですか?」
「え?! い、居ないけど。……けどクリスマスイヴとかに恋人と静かな聖夜を過ごすって、なんか良いなぁ……なんて」
「なるほど……」
イヴの夜は恋仲の人と過ごすという姿は私には想像もつかないですが、頬の緩むアヤさんを見ていると、確かに楽しそうだと思いました。
「イヴちゃんは恋人とかいるの?」
「……え? わ、私ですが?」
「……その反応ちょっと怪しいなぁ?」
「ち、違いますよ?! わ、私の勝手なカタオモイですから!! ……ぁ」
「……カ・タ・オ・モ・イ?」
私の失言を聞き逃さなかったアヤさんは目を大きく見開きながらニヤニヤとこちらに微笑みかけてきます。
「……イヴちゃんその話詳しく!!」
「は、はいぃ……」
完全に言い逃れのできなくなった私は諦めて、洗いざらいアヤさんに全てを言うことにしました。他の人には絶対に言わないという約束付きで。
「なるほど……、一目惚れしたけど何も知らないってことかな?」
「だ、大体は」
「……いいなぁ、キュンキュンする……」
「え、えぇ?」
「……は! えっと、そうだなぁ、と言っても私もアドバイスできるような経験何もないからなぁ」
「そ、そうですよね」
アヤさんはずっと研修生として忙しい日々を送ってきてましたから、そういう恋愛沙汰とはきっとかなり離れて生きてきていたのだと思います。だからこそ、悩んでは頂けるものの、あまりいい案は出てきませんでした。
「まずはその人のことを知らないとどうしようもないよね……」
「ですがその人はいつもテイクアウトされるので、あまりお話しする機会も……」
「……ごめんねイヴちゃん。相談に乗ったのに何もアドバイス出来なくて」
「い、いえ! とても心強かったです!」
「いっそつぐみちゃんにも相談してみるとかかな?」
「ツグミさんに……ですか?」
「もしかしたらイヴちゃんがバイトに入ってない日にもその人来てるかもしれないからね!」
「なるほど! それは妙案です!」
ツグミさんの手を借りることは考えても居ませんでした。今度のバイトの時是非とも聞いてみましょう。
「うんうん、そうだよねっ! あ、それじゃあ私はこっちだから、バイバイイヴちゃん!」
「はい、アヤさん! サヨナラです!」
ずっと暗かった私の心も、どこか晴れやかな気持ちになりました。
恋煩いのイヴちゃん。
☆9をくださった、乙亥様。
高評価していただき、ありがとうございました。