クラシッククラス前半の最大の山場がティアラ路線の優駿ウマ娘、オークスであり、クラシック路線の東京優駿、日本ダービーである。
ボクは、予定どおり、まずはオークスへ参加をしていた。
東京競馬場芝2400mで行われるこのレースは、ティアラ路線の中では非常にスタミナが求められるレースであり、また、競馬場の特性である長い直線から、差しや追い込みが決まりやすいレースでもあった。
最近やっと慣れてきた気がする勝負服に着替え、ボクはパドックへと向かう。
今回ボクは2番人気、1番人気は桜花賞勝者のアグネスフローラさんであった。
「ごきげんよう、アグネスフローラさん、ダイイチルビーさん」
「ごきげんよう。ヴィオラちゃんは調子がよさそうですね」
「ごきげんようヴィオラさん。今日は負けませんから」
パドックでは、先に出ていたフローラさんとルビーさんが仲良く一緒に話していた。
時々フローラさんの謎実験に巻き込まれるルビーさんだが、それでも仲がよさそうである。
だが、仲が良いから手を抜く、といったものではない。二人とも、同時に相手を、ボクを、そして皆よりいかに速くゴールに飛び込むか、それを考えている真剣な表情である。
「ボクこそ負けるつもりはないですよ。特に、無敗を破ったフローラさんには二度負けるつもりはありませんから」
「ふふふ、二度でも三度でも、私が勝ちますから」
「二人とも、私を無視するなんていい度胸じゃない。まあいいわ。結果が出てから後悔するだけだから」
そんな軽口を叩き合いながら、ボクは二人から離れ、次の顔見知り、スイートミトゥーナさんに声をかける。
「ごきげんよう。ミトゥーナさん」
「ごきげんよう。ヴィオラさん」
ちなみにティアラ路線のパドックやレース中、特に意味はないが皆お嬢様風な立ち振る舞いになる。
挨拶はみんな「ごきげんよう」だ。特に明文上のルールがあるわけではないし、反しても怒られたりはしないが、皆従っている慣習である。ちょっと楽しい。
何にしろミトゥーナさんだ。
どうも元気がなさそうだ。
「体調、大丈夫ですか?」
「ふふ、ライバルを心配するなんて、ヴィオラさんは余裕があるのですね」
少しとげのある言い回し。かなり気が立っているのはわかるがなぜだろうか。
これ以上ここで話していてもおそらくいいことはないと判断し、ボクは会釈だけして観客のほうへと向かうのであった。
パドックはいつも通り、いや、いつも以上に盛況であった。
さすがティアラ最大レースである。数多くの横断幕が下げられ、観客からシャワーのように歓声が降ってくる。
いつものようにご機嫌に観客に手を振る。
最前列の人と写真を撮るのもいつものことである。
だが、よく考えたら最前列の人なんてごく一部だ。
もっとファンサービスしたほうがいいのだろうか、なんてことも考えてしまう。
皆さんお行儀よく、将棋倒しにならないのだからしっかりしているが、それとこれとは別な気もする。
調整がてら、数日ぐらいふれあい広場に顔を出そうかな、なんてことも考えたりした。
そんな熱狂あふれるパドックの一角、「虚紫」の垂れ幕が書かれた場所だけは、静まり返っていた。サングラスをかけたり、鉄仮面のコスプレをしていたり、とにかくみな顔を隠し、真顔でボクを見ている。
あまりに異様な集団に、ボクもまた表情が死んだ。
奴らの狙い通りだろうが、勝てる気がしなかった。
少し精神的ダメージを受けながらも、パドックは盛り上がり、進んでいく。
時間制限ぎりぎりまで粘り、最後までパドックにいたボクもまた、最後尾で地下道を通りレース場へと向かうのであった。
今回のオークスは、20人立てという普通のレースよりも多い人数である。
次の日本ダービーもそうだが、上限人数が他より多いのだ。
ボクは3枠7番という真ん中あたりの枠をもらったが、フローラさんは8枠20番と一番外側である。どこが有利でどこが不利か、普段と違うレースにボクもよくわからなかった。
ファンファーレが鳴り響き、ゲートインが進む。
ある、ゲーム音楽で有名な作曲家さんが作ったファンファーレ曲らしい。
やる気が高まる中、ボクは係員さんの誘導に従いゲートに入る。
フローラさんだけが少し、ゲートインを嫌がったが、特にトラブルもなく進んでいく。
第51回優駿ウマ娘、オークスが始まった。
トーワルビーさんがハナを切り、ケリーバックさんがそれに続いていく。
フローラさんは大外の不利が響いて、真ん中あたりの集団外側につけていた。
そんなボクは、後方集団後方の、一番後ろにつけるのであった。
メイクデビューの奇策を除けば、ボクは全部前目前目のレース展開をしてきた。
基本、競バは前の方が強い。
単純に直線に入ったときに前にいた方がいいコースが取れるし、前にいる分の距離がそのまま有利に直結する。
特にボクのような飛び出た能力ではなく、総合力と作戦で勝つタイプのウマ娘なら、自分でいろいろできる前に行くという選択肢を、取らない訳にはいかないのだ。
第一コーナーに入るころには一番後ろにつけたボクに、観客はもとより周りも少し動揺していた。
レースに影響が出るほど動揺するウマ娘は、さすがにGⅠなのでほとんどいないが、意外だったのだろう。特に皐月賞の究極のラップ逃げをみれば、ボクの勝ちパターンは逃げ切りである。
だが当然ながら、この作戦には理由があった。
「うーん、うーん」
「いい作戦、思いつきませんか?」
珍しく今回は、トレーナーさんが作戦を立てるのに苦戦していた。
王道の戦法から奇策まで、幅広くカバーするトレーナーさんには珍しい姿だ。
「アグネスフローラさんが強すぎるから、先行策で前目のレースは競われてつらいし、うまくアグネスフローラさんを出し抜いてもケリーバックさんあたりに漁夫の利されるだけだろうね。逃げたらどちらから競りつぶしてきそうだし、そうなれば競りつぶし返しても、後ろからエイシンサニーさんかダイイチルビーさんに差されそうだし」
クラシック中ごろになると、ライバルの質はもとより量がそろってくる。
警戒する相手が増えて、良い戦法が思いつかないらしい。
「そうですか」
「プランは二つ思いついてるけど」
「さすがトレーナーさん」
「一つは負けないプラン、一つはハイリスクだけど勝てる可能性があるプラン」
「ほほう、どういう感じですか?」
「一つ目は王道の先行策だね。ヴィオラちゃん、何させても強いんだから、一番基本に忠実な先行策をとるという選択肢だよ。これをすれば掲示板を外すなんてことはありえないし、おそらく2着、悪くても3着に入れる。ただ、勝つのはかなり難しいと思う。桜花賞みたいにアグネスフローラさんに力負けしそうだし、うまく抜けてもエイシンサニーさんやダイイチルビーさんに差される可能性も高い」
「なるほど」
芸がなく桜花賞のように負ける可能性が高くても崩れることはないだろう戦法である。
ボクは現状どちらかというとチャンピオン側であることを考えれば、リスクの少ない戦法を取るのが悪いわけではない。
「もう一つはこの前の新走法を使った力技の大外一気の追い込みだね。ただ、失敗すれば本当に最下位にもなりかねないよ。走法変えるタイミングで邪魔されないように最後方スタートになるし、練習はしててもレースで全く使ってない方法だからうまくいかないかもしれないし」
「でも、勝てるんですか?」
「うまくいけば。大外を回って、外ラチ際を走っても直線の長さや芝の良さを考えればぶち抜けるはず」
「なるほど」
ちなみに、コーナーの不利はどれくらいかと計算すると、90度、一つのコーナーを回るごとに、一人分である1m外にいるとπ/4m、0.8mほど不利が出る。
第三コーナーと第四コーナーを外ラチ際で回ればコースの幅が20mぐらいだから、約31mの不利が出るということだ。
それでもぶち抜けるらしい。
実際はそこまで外には回らないし、もうちょっと余裕があるはずだ。
確かに非常にリスクがある戦法だ。
だが……
「じゃあ後者で行きましょう」
「いいの?」
「負けたくないんですよ」
桜花賞でのフローラさんを見た。
フローラさんのピークは既に迎えていて、限界が近いのは前のレースで気づいていた。
だからこそ、ここでの最善をボクは彼女に見せたかった。
まったく自信はない。
練習は繰り返し、走っている間に転倒したり、失敗することもなくなった。
だが、レースという環境下でうまく使えるかはわからない。
スタミナ消費も激しく、2400mという今までの最長レースでこれをやってスタミナが最後まで残るかもかなり不安だ。
だが、トレーナーさんがこれならというなら、これが最善なのだろう。
ボクは自分の作戦を決めた。
第一コーナーから第二コーナーは丁寧に、内側を回っていく。
正直少しも無駄にできるスタミナはない。
スパートをかけるのは第三コーナーに入るところ、ここから外ラチに向かって走るように追い込む予定だ。
だから、前がいくら詰まっていても全く関係ない。
スタミナ消費を防ぐため、集団最後方で前を走るメンバーを風よけにして走り続ける。
周りに不気味に思われているだろう。だが、それを気にして消費するスタミナすら、ボクにはもったいなかった。
スイートミトゥーナさんが少しずつ下がってきて、ボクの前につく。
かなり気にしているようだ。
だがボクが気にするのは展開とスタミナ消費だけである。
併せてこようとするスイートミトゥーナさんも無視し、ただただ走り続ける。
軽く、周囲の様子を見る。
トーワルビーさんだけ大逃げをして、あとは集団で固まっている感じの展開のようだ。
そのまま第三コーナーに差し掛かり、皆曲がっていく中、ボクだけは大回りをし、まるで直進するかのように走り抜け、外ラチ際へと向かっていった。
会場がどよめく。
ボクの走りが目立っており、その意図が全く分からないのだろう。
それがどよめきとなってレース場で走るボクらのほうまで聞こえてきた。
だが、これ自体は作戦なのだ。
ストライドの広さを急激に上げていく。
ギアが変わり、速度が一瞬落ち、そしてまた加速していく。
イメージは、一歩一歩で障害を飛び越えるような跳躍だ。
反動がすさまじく、すぐに上に吹き飛んでしまいそうだ。
上体を深く落とし、腹筋から背筋、胸筋、腕の力、上半身の力すべてを使って体を押さえつける。
当然それだけでいっぱいいっぱいで、普段のようなきれいなコーナーリングなんてする余裕もない。
だが、大外にぶん回したため、他人が障害物になる危険性もない。
暴れ牛に乗っているような、そんなイメージを抱きながら、ボクはそのまま大外に向かった。
アグネスフローラは困惑していた。
いや、ほかのウマ娘も困惑しているものが多いだろう。
ライバルと考えていたヴィオラレジーナがどこにもいないのだ。
ただ、油断はしていない。
彼女やスピカトレーナーを奇策使い、ペテン師などと馬鹿にする口さがない連中もいるが、フローラは分析不足だと考えている。
スピカは、勝てるレースを勝てるように走っているだけに過ぎない。
ヴィオラレジーナが器用だから、毎レースで勝ちやすい勝ち方が変わるだけであり、あと付けで分析すればどれも理にかなっているのだ。
フローラ自身は前で走ってくると思っていたが、その方法は、つまり、フローラ自身と争うのを避けたのだろう。
それは誇らしくもあり、少し寂しくもあった。
第三コーナーを回ると観客のどよめきが聞こえてくる。
レースに集中してるため見まわしたりはしないが、少し気になるものだ。
そのまま第四コーナーを予定通り抜け出す。
先頭で粘るトーワルビーをケリーバックが追い抜く。その外を回って走っていたフローラは、間を詰め、押し切るようにケリーバックを抜き去る。
そうすればもう先頭である。前には誰もいない。
ヴィオラレジーナはどこにもいない。
後ろから詰めてくるエイシンサニーの気配が怖いが、どうにか振り切れる。
勝ったと思ったのだが、声援が、どよめきが、異様な雰囲気が消えない。
さらには、太鼓でもたたいているかのような音が右の方からすごい勢いで近づいてくる。
思わず右を振り向くと、大外からすさまじい勢いでヴィオラレジーナが上がってきていた。
これはマジでやばい。
体力の消耗が半端ないのもそうだが、それ以上に反動がきつすぎる。
速度が上がるたびに前に体を倒し、パワーを速度に変換していくのだが、速度と反動がどんどん上がっていく。
踏み込みが強すぎて、ドゴッ、とか、ドカッ、とか、人間の踏み込みじゃない音がしている。
だが、どうしようもできない。
ここで止めることもスピードを緩めることもできない。脚を止めたらバランスを崩して前に倒れる。
ただただ突っ走ることしか、ゴールを目指すことしかできない。
内枠の方で、だれがどのあたりにいるか、把握する余裕もない。
残りがどれだけあるかもわからない。
ただただ、スタミナが尽きるまで走り続けるしかできない。
だが、そろそろゴールが近いことを気付かせる出来事が起きた。
急に世界が暗くなり、花吹雪が吹き荒れる幻覚にとらわれる。
濃厚な花の匂い。
咲き誇る花々は、咲いては散って行く。
アグネスフローラの、
ルドルフさんはじめ、いろいろな人に考えを聞いてきた。
ただの極限状態の発露という人もいた。
だが、ボクは、単なる極限状況というわけではないと思っている。
世界を塗りつぶすほどの強い思いが起こす、ちょっとした奇跡。
こう考えている。
だから、共に走る相手には、
そしてその内容は、本人の心象風景になるのだ。
花の色はいたずらに移っていく。
フローラさんの心象風景は美しく、儚いものであった。
ほんの少しだけ、本人の背を押し、ほんの少しだけ、周りを邪魔する奇跡。
そのおそらくハナ差ほどの奇跡が、執念が、勝利という結果を生み出すのだろう。
ボクは残念ながらこの境地まで達していない。
だが、だから負けるとは思ってもいない。
勝負はまだついていないのだから。
アグネスフローラさんの思いが伝わってくる。
落胆からの驚愕、そして執念。
フローラさんはおそらくこのレースにすべてをかけている。
命すら懸けて居るかもしれない。
そんな思いが伝わってくる。その執念が、その思いが、この今を生み出している。
そう、だからこそ、ボクは
「ああ、負けたくないな」
勝ちたくなった。
体力なんてもうひとかけらも残っていない。
脚なんてもう動かない。体中は限界を訴えるように軋んでいる。
フローラさんは
つまり状況は最高だということだ。
ここにあるのは体一つ。
自分一人。
だからこそ戦える。
全てを振り絞り、振り絞り、振り絞りきって、戦うことができる。
余計なものは何もない。
あと一歩踏み出せる。
まだ一歩踏み出せる。
もう一歩踏み出せる。
脚が出なくなるまで、踏み出し続ける。
そうして走り、駆け、進み……
本当に限界を迎えたボクは、ターフに倒れた。
ゴールがどうなったか、結果がどうなったか、そんなことは何一つわからない。
息が苦しい。
仰向けになり、酸素を精いっぱい吸う。
アグネスフローラさんが、嬉しそうに泣きながら覗き込んできたのを最後に、ボクの意識は遠くなっていった。