私は今日のために頑張ってきました。
努力を積み重ねてきました。
今日はまさに夢の舞台。
全力で走ろうと心に誓ったのです。
プレクラスニーの目標は天皇賞(秋)であった。
いまから6年前の天皇賞(秋)。
絶対的な皇帝として君臨していたシンボリルドルフが、まさかの差されて2着に終わったレースである。
競バの怖さ。
その時勝ったギャロップダイナの強さ。
そういったものがすべてこもったこのレースは、プレクラスニーのあこがれになった。
体格が小さく、体の線が細かったプレクラスニーは、本格化が遅かった。
普通ならクラシッククラスの中盤、遅くても後半に始まる本格化が、結局始まったのがシニア1年目の夏ごろだった。
だが、そこまで積み上げ続けてきた努力が無駄になったわけではない。
エプソムカップ、毎日王冠と重賞を連勝し、万全の状態で目標であった天皇賞(秋)にたどり着いたのだ。
それはすべて、腐らずにひたすら努力を続けた彼女の努力であった。
新品の真っ白なドレス風勝負服を着て、立ったパドックは、慣れ親しんだいつものレースのパドックとは全く違うように見えました。
東京競馬場のパドックに立ったのはこれが初めてではありません。
ですが、今日は全くの別世界のように見えました。
降り注ぐ万雷の歓声は、参加者を祝福しています。
多くは一番人気となっていたメジロマックイーンさんへのものですが、私への歓声も少なくありません。
同じチームのヴィオラちゃんやルーブルちゃん、ネイチャさんなんかも歓声を上げてくれています。
一度、といってもかなり最近ですが、彼女たちに当たってしまったことがありました。
GⅠ7勝、初めて日本のウマ娘で凱旋門賞を勝利するという不朽の実績を残したヴィオラちゃん。
トラブルがなければ今まで全勝で、樫の女王を制したルーブルちゃん。
トウカイテイオーさんやレオダーバンさんと名勝負を繰り広げ、皐月賞を制したネイチャさん。
みなすごいウマ娘です。
クラシッククラスから活躍するみんなに比べ、私はクラシッククラスの最後にどうにかオープンクラスに上がることができるレベルでした。
ここ最近はやっと重賞2連勝しましたが、みなと比べるととても自分が劣っているように感じました。
天皇賞(秋)が近づき、私の不安は高まるばかり。
こんな自分が走っていいのか。
そんな気持ちばかりが膨らんでいました。
その不安に押しつぶされ、私はいきなり、チームルームで、泣きながらわけのわからないことを叫び続けてしまいました。
そんな私を皆抱きしめてくれて慰めてくれました。
「プレさんはとても速いよ。この紫電の女王が勝負から逃げるぐらいだかね」
腰に抱き着いたヴィオラちゃんが言います。
「2000mでボクは勝てる気がしないもん。だから大丈夫」
そういいながらヴィオラちゃんはギューッとおなかに顔をうずめてきます。
「そうそう。プレさんいないとチームはバラバラになっちゃいますし、逃げ切りシスターズ解散しちゃいますよ」
ルーブルさんが後ろから抱き着きます。
「プレさんは、チームにも、私にも大事な人なんです。要らないなんて言わないでください」
ルーブルさんの声はほんの少しだけ震えていました。
「はっはっはー、才能がないなんて私への皮肉かな? かな?」
ネイチャさんが私のほっぺを突いてきました。
「ま、最低でも? このネイチャさんよりはいいタイムで走ってるんだから、簡単に勝ってきてくださいよ」
肩をすくめ、ネイチャさんは軽くそういいます。
「プレクラスニーさんが勝つのは100%です。私の計算がそういっています」
ブルボンちゃんが真顔でそんな鉄板のサイボークジョークを飛ばします。
「ジョークではないです。私は絶対にそうなると確信しています」
自然な笑顔でそういうブルボンちゃんはとてもかわいかったです。
「え、私最後に回された!? えっと、はっちゃんもケロ吉もウサ吉も応援してますよ!!」
ホクベちゃんが戸惑いながらそんなことを言いいます。ケロ吉が「ゲコッ」と鳴きました。
みんながお世辞ではなく、本当に私が勝つことを信じてくれているのだけは理解できました。
私はまだ、自分に自信が持てません。
ですが、私を信じてくれるみんなを信じることはできました。
だから、このレースは絶対に負けない、そう信じることができました。
今回は天皇賞春を勝った同期のメジロマックイーンさんがいます。
菊花賞を勝った同期のホワイトストーンさんもいます。
私より格上の相手でしょう。
マックイーンさんも、ホワイトストーンさんも、見ているのはきっとあの紫色の女王様なのでしょう。
視線がこちらに合いません。
もしかしたら、今この場で一番意識を向けられているのは、観客席にいる彼女かもしれません。
気持ちはわかります。
私は、同期でヴィオラちゃんを一番近くで見てきました。
その眩しさは私もよくわかります。
そして、その勝ち方も負け方も見てきました。
これはレースです。
だから、番外にいる彼女に意識を向けることがいかに愚かかもわかっています。
私は、レースにだけ、そして勝つことだけに集中を高めていきました。
地下通路には、沖野トレーナーが待っていました。
スピカのトレーナーは白井トレーナーと沖野トレーナーの2人がいます。
相性の問題もあるのでしょう、私は主に沖野トレーナーから指導を受けていました。
白井トレーナーがヴィオラちゃんやネイチャさんにしているような、一挙手一投足まで計算したレースプランを、実行するほどの器用さは私にはありません。
沖野トレーナーは基本的に好きなようにやらせてくれて、必要な時は声をかけてくれます。
「プレクラスニー、ここまでよく頑張ってきたな」
「はい」
「今日が本番だ。全力を絞りつくして、悔いがないように走れよ」
「はいっ!!」
ぽんっ、と私の頭に手を乗せる沖野トレーナー。
この激励だけで、私はどこまででも走れそうな気がしました。
昨日から降り続く雨がまだ止まない東京競馬場。
芝状況は不良。本バ場入場後、少し走ってみましたがそこら中に水たまりができているようなバ場状態です。
更に小雨は降り続いています。
こんな状況でとるべき方法は一つ、大逃げしかありません。
東京競馬場は直線が長く、コーナーもあまり急ではないので後ろからのレースが有利になりがちです。
ですがバ場状態が悪いと、力が必要で、スピードを出すのが難しいです。
さらに、小雨のせいで視界が悪く後ろに付けると仕掛けるタイミングを逃す可能性が高い。
逃げて逃げて逃げまくって、最後の力の一滴まで絞りつくして走る。
私はそう決意して、小雨に濡れながら体を温めていくのでした。
寒く暗い空に、ファンファーレが響き、そして消えていきます。
普段のものとは違う、生の演奏です。
服装も普段と違う勝負服です。
初めて着たけど、とても大事な大事な勝負服です。
いつもと違うのをいまさらながらに実感します。
ついにここまで来たのだと思うと体が震えます。
恐怖でもありません。
当然悲しみでもありません。
武者震いです。
私のウマ番は5枠10番。18人立てなので、ちょうど真ん中あたりです。
マックイーンさんは17番の外枠に、ホワイトストーンさんは4番の内枠に入ります。
一瞬の沈黙の後、ゲートが開き私の夢の舞台は曇天の下始まりました。
まずは先頭争い。
東京競馬場の2000mはスタートから最初のコーナーまでの距離が短く、いろいろ問題が多いコースです。
すぐにコーナーリングを始めてしまうと、他の競争相手の進路を妨害することになりかねません。
ロスにはなりますが左を振り向き、少しずつ左に進路を取りつつ一瞬前を確認した時にそれは起こりました。
「ヨーッ!!!」
マックイーンさんが私の進路に切り込んできたのです。
慌てて危ない時にあげる声を発しつつ、左にヨレます。
このままだとマックイーンさんにぶつかってしまいますし、すでに先頭を取ろうとスピードを上げている状況で減速も難しい。
ですが左後ろから同じく「ヨーッ!!!」という声が聞こえてきます。
当然内枠から前に出ようとしているウマ娘もいるのですから、このままだと彼女らにぶつかってしまう。
左に行くのを止め、マックイーンさんぎりぎりまで右に寄せなおします。同時に減速し、後ろに抜けられないかと思いましたが、マックイーンさんの切込みはどんどん深くなっていきます。
「うぐっ!!」
結局私は、マックイーンさんと内枠のだれかに挟まれ、激しい衝撃を受けながら、どうにかマックイーンさんの後ろに回り込みます。
後ろで騒ぎが起こっているのはわかりましたが、何が起きているかを振り返る余裕はありませんでした。
ですがこの程度で弱音を吐くわけにもいきません。
コーナーを抜けたところで、後ろからマックイーンさんの外に回り込み、そこから先頭に立ちます。
マックイーンさんもハナを取るつもりはなかったのか、競ってくることはなく、早々に先頭を譲ります。
そのまま私は、当初の予定通り、後ろを突き放すべくどんどん加速していくのでした。
いつの間にか内から抜けてきたらしいホワイトストーンさんが私の後ろにつき、マックイーンさんがその後ろにつきます。
そんな二人を感じながら、それ以上後ろを気にせずにペースを上げることにしました。
後ろとの駆け引きなんて繊細なことは私にはできません。
だから、ただただゴールを目掛けて走り続けます。
勝負服はぼろぼろでスカートが破けています。
さっき接触した時にぶつけた右足が少し痛みます。
第三コーナーに入って息は上がり始めています。
こういう時になんと評価するべきか。
ヴィオラちゃんに昔教えてもらったのを思い出します。
そう、不利なことばかり思い浮かぶこういう時は、何もない自分の力だけで戦っている時であって……
とても最高な状況なのだと。
そう、私は私の力で天皇賞を勝ちに来たのです。
世間、評判そういった周りの評価をただ自分の力だけで覆したギャロップダイナさんの走りにあこがれてこの場に来たのです。
だから、だからこそ……
ああ、そうです、今ほど最高の状況はない。
今私の手元にあるのは私だけの力です。
これで勝つことを夢見てきたのです。
第三コーナーを超えてゴールまでは残り800m。
ゴールしたら死んでもよい。
そんな気持ちでスパートを始めたのでした。
コーナーを抜けると、マックイーンさんとホワイトストーンさんが並びかけ、競ってきます。
隙なくちょうどいいタイミングで出てくる2人は、当然一流なのでしょう。
だからこそ、そう、だからこそ、私は勝ちたいのです。
歯を食いしばる。
一歩ずつ足を前に運ぶ。
直線は残り500m
なんと楽しい500mか。
スタミナ? そんなものは残っていない。
雨がうっとおしく降りつづける。
泥が跳ねかえって気持ち悪い。
だから本当に楽しい。
残り400m
もう100mも走ってしまった。
ホワイトストーンさんがずるずると遅れていく。
隣にはマックイーンさんを感じながら、さらに走っていく。
面白いぐらい心臓が脈打つ。
爆発してしまいそうなぐらいでそれがまた愉快である。
マックイーンさんの領域を感じる。
黒くぬめるような執念だ。
こんな楽しいレースなのになんともったいない。
残り300m
坂を上り切り本当に平らな直線だ。
すべてをすでに絞り出したつもりでもまだ走れる。
体中が痛い。
息が苦しい。
限界なんてとうに超えた。
でもまだまだ走れる。
なんだ、限界なんて嘘っぱちじゃないか。
一歩
また一歩
雨に打たれ
雨を唄うように
踊るような気持ちで
進む。
進む。
残り200m
マックイーンがヨれる気配を感じる。
その分少しだけ私が前に出る。
あとはゴールしたい気持ちだけの勝負だ。
そしてそれなら私はマックイーンに負けない。
二人にだけわかる、ほんの少しの差だけリードして、私はとにかく駆ける。
残り100m
ゴールはもう目の前だ。
あと数秒で終わってしまう。
あと数秒で終わらせる。
あと5歩
ここで右脚が急に痛んだ。
力が少しだけ入らない。
ここが、限界か。
本当にすべて使い切ってしまったのだろう。
この脚に力が入れば。
しかし限界とは限界なのである。
どうにかできれば限界ではない。
最後の一瞬、私は失速し、マックイーンさんに私は負けてしまったのだった。
ゴールした私は、満足感に包まれていました。
勝った負けたなどどうでもよくなっていました。
私は限界まで走ったんだと、自信をもって胸を張れます。
それだけで満足でした。
チームのみんなにももう劣等感もなくなりました。
これが私の全力です。
これが、スピカのプレクラスニーです。
負けましたが、かっこよかったでしょう?
そう胸を張って言える自信がありました。
ですがその満足感は一瞬だけでした。
次に思い出すのはレースのスタート時のトラブルです。
慌てて減速し振り返ります。
カリブソングさん
カミノクレッセさん……
数えていくと18人全員ゴールしていました。
プレジテントシチーさんは明らかに遅れていましたが、どこか怪我をしているようには見えません。
幸い大きな事故にはならなかったようです。
ただ、3着になったらしいカリブソングさんがマックイーンさんに詰めています。
生徒会所属ですが、癖のあるウマ娘ばかりの中、ひときわ温厚だとカリブソングさんが、あんな形相をする理由が私にはわかりませんでした。
ただ、振り返って、掲示板に審議のランプがついているのは、私の目にも入ったのでした。