一つ、大きな風が吹いた。
目の前の草花が揺れ、木についた青々とした葉が身を擦り合い、ざわざわと音を立てる。
頭上のいたるところで鳴るその音は、ほとんどの者が心地の良い音色だと感じるのだろう。
しかし今の彼には、その音がどうにも耳障りなものにしか聞こえなかった。自分の周りにある木々が、自然が、早く出ていけと自分を急かしているように思えた。
「…言われんでもそのつもりでしたよ」
イフはそう呟き、少ししてからため息をつく。
まったく呆れる。くだらない感傷に浸っていられるほど可哀そうな身分でもないだろうに。勝手に追い出そうとしていることにされては自然もいい迷惑である。
そうして俯く彼の上に、一枚の大きな葉が落ちてきた。はらりはらりと降りてくるにはその葉は大きすぎたようで、勢いをつけてばさりとイフの帽子の上に乗っかる。
イフが頭上から取ってそれを見てみれば、手のひらを広げたような形をした薄黄色の大きな葉だった。
何の葉だろうかと、それを目の前にかざす。
「人?」
そこに、声が飛んできた。
かざした葉を視界からどけて声の聞こえた方を見てみれば、自分から少し離れた所に、真っ白な長い髪をした女が立っている。
彼女の足元には木漏れ日が差し込んでおり、鬱蒼とした林の中で明かりのもとに立つ白髪の彼女はなんとも浮いて見えた。
「人、人では御座いませんが。ええ、ここにおりますよ」
イフは少し声を張って答える。彼が返事をしたことを認識した女は、光の中から薄暗い木陰へと踏み出した。そのままイフの方へと歩み寄りながら尋ねる。
「人ではない?機械だったりするのかい?」
「いや、機械でも人形でも。あたくしは偶然ここにいただけの、下らない化け物で御座います」
「じゃあ、天狗か」
「はあ」
女の言葉に彼は、間の抜けた声を漏らした。
わけの分からぬ化け物と罵られたことは幾度とあれど、天狗と呼ばれたことなど一度もない。
「はて、天狗とは。何故そう考えたので?」
イフが聞いている間にも、女は歩みを進めている。そのまま質問に答えることなく歩き続け、イフの前まで来たところで、ようやく口を開いた。
「だって、翼があってそれを持ってる化け物と言われれば天狗ぐらいのもんだろう?」
彼女がそれ、と言って指さした先を見れば、ついさっき取った大きな葉があった。
なるほど、天狗。言われてみればわからないでもないが。
「天狗にしてはあたくし、幾らか余計なものが多い気はしやすが」
「その方がかっこいいのなら、天狗がイメチェンしたっていいだろう」
「いめちぇん」
聞きなれぬ横文字をイフは聞いたまま復唱する。
呟く彼の横で、女はイフの座る倒木に腰かけると体を寄せて距離を詰めた。そのまま何かを待っているかのように、顔をじっと見つめてくる。
イフは、そんな彼女の様子に疑問を抱く。
何故、この女は自分を恐れないのか。
遠目でもなければ人とは間違われぬ異形の身に、友人にでも話しかけるように接してくる。いつかに出会った学者のように目を爛々と輝かせ、未知の生物に対する好奇心から近づいてきているようにも見えない。
ならば、この女は何を考えているのだろう。
少しの思考を挟んで、一つの可能性に気づいた。
こちらを覗く瞳を見つめ返して、それを問う。
「あんた様は死にに来たので?」
すると、その言葉を聞いた女はきょとんとした表情を浮かべた。そして一瞬の空白の後、ふっと笑いを漏らす。
「いや、いやいやまさか」
「違いましたか?荷物もなあんにも持っていないもんですから」
彼の言う通り女は衣類の他は何も身に着けておらず、その身一つという有様だった。
人気のない林でそのような恰好の人間を見て、自殺志願者かと疑うのは自然な話だろう。
「ちゃんと持ってるよ、ほら。携帯と水筒と財布とお菓子…あれ、お菓子どこへやったっけ」
そう言いながら彼女は、上着についたポケットから次々に物を取り出していく。
そして、なかなか見つからなかった菓子袋を内ポケットから見つけるとイフに差し出した。
「あった、食べる?」
「いや結構」
「そっか」
断られた彼女はそれに特別反応するでもなく、手に取った菓子袋を外側のポケットへ押し込んだ。
既に小さな水筒の入っていたそのポケットは菓子袋が追加されたことで作り手の想定していた容量を超えたようで、他のものと比べて大きく膨らんでいる。
「死ぬ気なんてさらさらないとも。そりゃあ悩みがないとは言わないが、死ぬほど思い詰めてるわけでもない。あとまあ、生きているのは結構楽しい」
「はあ。あんた様のことをよく知ってるわけじゃありやせんが、きっとそうなんでしょうな」
ほんの少し会話をした程度だが、その言葉はイフに妙な説得力を感じさせた。少なくとも、生を悲観している人間のそれではない。
しかし、イフの疑問は未だ解消されていない。むしろ、彼女の人間性を知ったことでより大きく膨れ上がっている。
「では、あんた様は何故あたくしを恐れないのでしょう」
この女性に対しては、遠回しに探っていくより直接的な質問をぶつけた方が手っ取り早いだろう。そう思っての問いだった。
「別に恐くないわけじゃないんだけどねえ」
そう言う彼女の表情はしかし、隣に座る化け物を恐れているようには見えない。イフがそれを口にしようとするが、続く女の言葉がそれを抑えさせた。
「悩んでる誰かがいたら、ちょっと付き合ってあげたくもなるだろう?」
それを聞いてイフは硬直する。予想だにしない答えだった。
自分を恐れず、あまつさえ『悩みを抱えているようだから付き合ってやった』などと言われるとは少しも考えていなかったのだ。
「あたくしに、何か悩み事でもあるように見えましたか」
「こんな暗い場所で座り込んでりゃ誰でもそう思うよ」
「なるほど…」
わかるような、わからぬような。いや、理屈としては筋が通っているように思えるのだが、その考えに至る感性が理解できない。
そのようなイフの困惑をよそに、女は話を続ける。
「で、どうなんだい。話せばすっきりするかもしれないよ?」
「いや、もう結構」
「何だいそれ」
「ずうっと良いことがないようでは、化け物も下らぬことの一つや二つ、考えてしまうということで御座います」
「ん、うん?」
振り回された仕返しにと、イフは迂遠な言い回しをして返した。その意地の悪い返答に女は首を傾ける。
そして、彼の言わんとしている意図に気がつくと、にやりと笑みを浮かべた。
「なるほど、私とのちょっとしたお話は、悩みも吹き飛ぶ素敵な時間だったかな?」
「ええ、悪くない時間で御座いました」
そう答えるとイフは腰かけていた倒木から立ち上がり、持っていた葉を地面に放った。
「おや、もう行ってしまうのかい?」
「あんまり長々と居座るのも悪いでしょう」
「そっか、じゃあね天狗さん」
「いえ、あたくし天狗では」
イフが同じく立ち上がった女性へと振り返りながら言う。
それを聞いた彼女はおや、と声を漏らした。
「何だ、結局違うのか」
「先程そう言って、は御座いませんでしたね。では、最後に自己紹介でも」
小さな風が吹く。少し木々をざわつかせ、向かい合う二人の衣服を揺らす。
「あたくし、化け物の虚音イフと申します」
「アリアルだ。どうぞよろしく」
そう言って伸ばされた手を、イフは一瞬の躊躇の後、握り返す。
女、アリアルには、目の前の化け物のマスクに隠れた顔が、何となく、苦く笑っているような気がした。
手がほどかれるとイフは振り返って背を向ける。
「さようなら」
向けられた小さな背中に、アリアルが返した。
「ああ、また会おう」