魔法少女GL ~女の子たちの初手はいつだってルームシェア時空!!~   作:MOPX

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てんをてらして

理由は特にないはずだったが、その日は嫌な予感がしていた。

 

朝、目を覚ましていつも通りランニングをする。

その時に見た朝日が、いつもよりくすんで見えたのかもしれない。

思えば、そうした日常とのわずかなズレが積み重なって、私に心の準備をさせていた。

 

家に帰ると、備え付けていた電話がけたたましく鳴った。

私はそれを手に取ると、その一報を受け取った。

 

手も声も、震えていた。

 

ついに、その日が迫っているのだと否応なく突き付けられた。

絶対に避けることのできない日が。

 

私は最低限の化粧を済ませて、車を飛ばした。

地図を見なくても場所は頭の奥に入っている。

向かう先は病院だった。

 

 

 

 

 

着いた時には日はすっかり高くなっていた。

 

車を駐車場へと止めて、受付へと向かう。

挨拶をすると笑みを浮かべた会釈が返ってきた。

もうすっかり見慣れた。

よく訪れるものだから顔見知りになってしまった。

相手からすると桃色のカーディガンの人、で通ってるかもしれない。

 

――今日もですか?

――ええ。

 

私も笑顔で返事をした。

無理にそうしたわけではない。

自分にとっても、この人にとっても、これから会うその人にとっても、

きっとその方が良いと思ったから。

 

お見舞いにきた人間がしょげていたら、気力も湧いてこないだろう。

 

ほとんど無意識に廊下と階段を進む。

その部屋は個室だ。

 

今日だけは少し緊張をした。

私が入らなければ、その時は訪れないのだろうか。

こうして立ちすくんでいたら、時間はずっと止まってくれるのだろうか。

 

そんなわけはない。

子供でも、大人でも、そんな我がまま言ってはいけない。

受け入れないといけないんだ。

 

私は歩を進めた。

お互いに気配を察したのか、物音がした。

私のために、横になっていた体を上げてくれたに違いなかった。

 

「あ、こころちゃん来てくれたんだー!!」

 

「来るよもちろん……絶対に」

 

天ちゃんのためならたとえ火の中、海の中。

そう付け加えると、天ちゃんはくすくすと、手を口に添えて笑い声をあげた。

 

少しくらいやつれていても、元気に。

 

だから私も笑い声で応えた。

 

私はいつも通りに振舞う。

前々から決めていたことだ。

 

「今日も本、読んでたんだ?」

 

あっ、と声を上げて天ちゃんが傍らの小さな台に目をやった。

こじんまりとした文庫本に挟まった栞は、わずかに黄色をのぞかせる。

本から出ている部分しか見えないが、そこには銀杏が描かれてることを私は知っている。

 

天ちゃんはすっかり読書家になった。

小さいころは良く一緒に走り回っていたものだけど、見習わないといけない。

人間、いくつになっても新しいことに挑戦できるのだから。

 

「うん、エスエフ。最近よく読むの」

 

「そうなんだ。どんな感じ?」

 

「うーん……不思議なことがいっぱい起こる」

 

「天ちゃん、それじゃあわからない」

 

「えへへ、でも楽しいよ。今と違う世界ならこんなことが起こるのかもって考えるの」

 

私はうんうんと頷いた。

小説自体、影の書いたもの以外はほとんど読んだことがないけど。

 

「今と違う世界、かあ……」

 

私はぼそりとつぶやいた。

不思議そうにこちらを見つめる幼馴染を、見つめ返す。

その髪の毛はほんのりとまだ黄色い。

 

「違う世界があったとしても、私は天ちゃんに会いたい」

 

思ったまま、素直に口に出す。

心は見えないものだから、だから少しでも伝わるように願いを込めて。

 

言葉にしなきゃ伝わらないこともある。

これは天ちゃんの座右の銘でもあった。

 

そうしたら言葉と笑顔で返事が返ってきた。

 

「うん、私も。どんな世界でもこころちゃんと一緒にいたい」

 

「あはは」

 

「えへへ」

 

こそばゆくて、いつも通りで、でも何度だって心地よい。

この空間を撫でるみたいに、お互いの笑い声が静かに響いた。

 

「今日も車で来たんだ?」

 

「うん、安全運転、でね……」

 

含みのある言い方をすると、またも天ちゃんの笑い声がした。

流石に事故があったら冗談では済まされないので、無茶はしないようにしている。

昔、大学の卒業記念で旅行をした時などは、天ちゃんもレンタカーの助手席でキャッキャと喜んだものだ。

すごい!! こころちゃんの運転している車が動いている!! って。

(後ろの方々は私が運転すると聞いて沈痛な面持ちだった。何をイメージしていたのか)

 

天ちゃんがけたけた笑って、外の風景を楽しんでいた。

あの時の空は、青かった。

 

窓へと目をやった。

空は心なしか、落ち着いた淡い色をしていた。

あるいは私の心がそう見せていた。

 

「外、大分あったかくなってきた?」

 

天ちゃんが声をかける。

外の様子を知ることができないからだろう。

 

「うーん、結構温度が上がってきたかも」

 

でも、最近は雨が多かったから。

その一言は飲み込んだまま、私は話を進めた。

 

「やっぱり気になる? 外で準備する人も大変だもんね」

 

私は天ちゃんがきっと気にしていることに先んじた。

天ちゃんは昔からお祭りが大好きで、毎年、私と地元のお祭りに行っていた。

ずっと途切れることなく、続いていたそれは多くの関係した人の努力があってのものだ。

 

入院してからも天ちゃんはお祭りのことを、しきりに気にしていた。

だから天ちゃんが何やら微笑んでいる理由が私にはわからなくて。

 

「こころちゃん、それもそうなんだけど、うん……」

 

「……? どうしたの? 何か他にあったっけ?」

 

どうやら読み違えていたらしい。

天ちゃんは斜め下を向いていた。

 

天ちゃんとはずっと一緒にいたけど、

まだまだわからないこともあるものだな、なんて不思議な感慨がわいてくる。

 

不安はもうない。

幼馴染が何を言うのかという興味だ。

 

そうして次に出てくる言葉を待った。

 

「……暑かったらこころちゃんが来るのが大変じゃないかなって」

 

間。

 

お互いに目をぱちくりさせていたに違いない。

そして、最後には吹き出して、笑ってしまった。

天ちゃんも今更そんなことを気にするんだって。

 

でも、おあいこだ。

私も天ちゃんが話したいことを話そうとしていたから。

 

私たちは、わたし田中こころと真田天は――。

 

ずっとそうやって二人で生きてきた。

 

 

 

 

 

日はすっかりと弱まり、朧気な光を放っていた。

 

天ちゃんが話したいことを話そう。

そう思って天ちゃんに話を委ねたら、いろんなことを聞かれた。

 

最近はどんな食事をしているとか、変わったことはなかったかとか、

楽しかったこととか、嬉しかったこととか、みんなのこととか。

 

私はできるだけ言葉を尽くして、それに答えていく。

 

喜び、驚き、感動、微笑み、

過去の憧憬と現在の慌ただしさを混ぜこぜにして。

 

未来は――。

 

未来は……。

 

言葉はいつの間にか喉元で詰まってしまった。

天ちゃんも何かを察したのか、静かにしていた。

 

壁にかかっていた時計が規則正しく、音を刻んでいた。

 

沈黙が、音を際立たせた。

時として、なんて残酷な音なのだろう。

どんなに努力しても、その速さは変わらない。

全てのものに等しく、与えられたもの。

 

時計は見ないようにしていたのに。

否応なくその事実を告げていた。

 

面会の時間はもう終わろうとしていた。

 

「時間……」

 

私の口から漏れた一言に、天ちゃんは静かに耳を傾けていた。

まるでそれを受け入れるように。

 

いつも通り振舞う。

今日の誓いであるそれを改めて思い出す。

 

「時間、あっという間だね。また……」

 

また、会おうね。

いつもなら言っていたその一言。

それは音になることもなく私の胸の中で、消えることもなく燻った。

 

しっかりしろ。

それでも幼馴染は私を応援するように、微笑みながらこちらを見詰めていた。

 

ずっとそうしてもらっていた。

だから私は少しでも、天ちゃんに与えてあげたくて。

だからこそ傍にいたはずなのに。

 

こんな時でも天ちゃんに与えてもらうのが、我ながらつらくて。

天ちゃんの方がつらいに決まっているのに。

 

だって天ちゃんは――。

 

「時間……もうないね」

 

「こころちゃん」

 

時間。

 

それは生きることができる時間。

 

命と言い換えてもよかった。

 

すべてのものに等しく与えられ、等しく消えていくもの。

 

 

 

私の声は酷くしゃがれていた。

いつも通り、なんて結局わからなかった。

聞かずにいることは、私にはできなかった。

 

「……やっぱり今日が……最後……なの?」

 

静かだった。

まるで時間が止まったみたいに。

 

外では木々が風で揺らめいていた。

その葉は、まだまだ残っているように見えた。

 

実は全部、冗談で、私と会いたい口実で――。

そうでないことは私が一番よく知っているはずだった。

天ちゃんがそんなことをするはずがない。

どこまでも正直な子だから。

 

やがて、ゆったりと部屋に声がした。

その声色はとても聴き慣れた優しいものだった。

 

「……うん。何となくだけどわかるの」

 

目を合わせた。

まだまだ煌めきが色あせないその瞳をじっと見た。

私が大好きな、その瞳を。

 

 

「私はもうすぐ死ぬんだって」

 

 

そう言っている天ちゃんの顔は言葉とは裏腹に、はにかんだような微笑みで。

 

だからこそ、後に残るのは悲しさだけだった。

 

「……嫌だよ」

 

「……こころちゃん?」

 

「天ちゃんとお別れなんて……いやだよ……」

 

私は唸った。

傍から見たら小さな子供が駄々をこねるみたいだったかもしれない。

 

でも、これが私だった。

多少は体面を取り繕ってもちっぽけで、どうしようもない人間のありのままの姿だった。

 

それでもこうして生きているのは、天ちゃんのおかげに違いなかった。

 

じゃあ、これからは?

 

私はいったいどんな生き方をして、どのように死ぬのか。

全く想像することができなかった。

私の人生に、私の頭に、私の心に、私の隣に。

天ちゃんの存在が、そこにあった。

 

大切な人。

 

この世界のどこを探しても、ここにしかいない。

そんな人が消える。

 

想像もしたくなかった。

想像もつかなかった。

 

もう一度、顔を上げた。

そこにあるのはいつも通りの、笑顔の幼馴染だった。

 

もしもその日が来たら、いつも通りに過ごそう。

二人で話して決めたことだった。

 

天ちゃんはいつも通りなのに、結局は私はこうだ。

普通に振舞うこともできないなんて――。

 

「大丈夫だよ」

 

そう言った天ちゃんの顔は穏やかだった。

何を考えているのか、その答えを探した。

 

でも、やっぱりわからなかった。

 

人の心なんて、覗くことができないものだから。

 

だからこそ、すれ違っても、伝わらなくても

音にして、形にして、記憶に残すに違いなかった。

 

「私にはこころちゃんと、みんなとの思い出があるから。

こうして入院している間も……たくさん思い出してたから。

だからね、こころちゃん。寂しくなんて、ないよ」

 

天ちゃんが、自分の気持ちを語ってくれたから。

だから私も、自分の気持ちを語らなくてはいけない。

 

本当に、正直な私の気持ちを。

 

「天ちゃん、本当……?」

 

「……」

 

天ちゃんは嘘をつかない子だ。

自分以外には。

 

幼馴染の手は行儀よくお腹の辺りに置かれていた。

 

その手が震えているのか、私の視界が震えているのか。

私の目からはわからない。

その気持ちを確かめたいのが、他ならぬ私の気持ちだった。

 

そうして、次の言葉を待とうと思っていたら――。

 

「ごめん、寂しい……」

 

さっきまで微笑んでいた顔は、くしゃくしゃになっていた。

人の笑顔と泣き顔を分けているものは、僅かなことかもしれなかった。

 

「こころちゃんともう会えないの、寂しいよ……」

 

「……天ちゃん!!」

 

手を重ねた。

 

こんなことを言わせてしまった。

せめてもの償い。

 

もう肉も落ちて、目に映る色が変わってしまったのだとしても

そこにあるものは変わらないはずだった。

 

互いの温もりを伝え合った。

あの日々のように、残されたわずかな未来のために。

こうして手を繋ぐのも、何度目だろう。

 

隣には私がいる――、いやもっと言えば。

私たちの心は重なるように存在していた。

 

「あったかいね……」

 

「うん、あったかい」

 

 

 

「こころちゃんの手」「天ちゃんの手」

 

 

 

空間が満たされる。

やわらなかなもので。

 

この歳になっても説明のできないものはたくさんある。

温度で測ることができないぬくもりというのは、確かにそこにあった。

 

「ねえ、こころちゃん。……お願い、いいかな」

 

「うん、いいよ。何だってきく」

 

断るわけなんてないのに。

こんな状況でも我が幼馴染は相手の気持ちを第一に考えるのだった。

その様子がいじらしくて、つい笑みがこぼれてしまう。

 

「本当に、身勝手なお願いかもしれないんだけど……」

 

うんうんと頷く。

何を言ったっていい。

私はその言葉に静かに耳を傾けた。

 

「前を向いて、生きていてほしいの」

 

天ちゃんの握る手が、強さを増していた。

まるで力を振り絞るみたいに。

 

他の誰でもない、あなたが――。

 

そう聞こえてきた気がした。

 

「きっと、私は……悲しんじゃうと思うの。昔からそういう性格だから……。

でもね、もしもこころちゃんが、見えないところでも元気にしているんだって思えたら」

 

天ちゃんの言を心に、記憶に刻み付ける。

ありのまま受け止めるのが、私にできることだと。

 

「きっと最後にはこれで良かったんだって思えるから。

最後の最後には、きっと笑うことができるから……」

 

「……天ちゃん!!」

 

私はその手を握りしめた。

もっと、もっともっと昔の、小さい頃なら指切りげんまんをしていたかもしれない。

 

でも私たちにとって、指切りよりも強いのはこれだから。

天ちゃんと出会ったその日から。

二人の間で伝わる、特別なもの。

 

それならやっぱり、小さい頃でもこうしていたのかもしれない。

 

「うん、約束する。ずっとずっと、ずーっと。元気で暮らす」

 

最期を迎えるその瞬間まで。

前を向いて。

傍にいる人たちの温もりを感じながら。

 

できるだけ力を込めて言ったその一言は、ちゃんと幼馴染には伝わっていて、

あの時からずっと変わらない笑顔がそこにはあった。

 

窓ガラスを伝って音が聞こえる。

外では一陣の風が吹いたらしかった。

 

葉が舞い散っているに違いなかった。

生命の営みを回していくために。

 

時計の針は、もうそこまで来ていた。

 

 

 

 

 

できるだけ、ゆっくりと準備をする。

そうしたところで何かが変わるわけではないのだけれど。

 

本当の最後に何を伝えておけばいいのかは、わからない。

だからやっぱり、いつも通りでいることにした。

 

天ちゃんの顔を改めてじっくり見る。

なーにー? とあどけない問いかけが返ってくる。

なんでも、と答えてみた。

 

視界の片隅に映ったものが、何となく気になっていた。

 

「栞の銀杏、綺麗だね」

 

「ああ、これ? いいよね。お気に入りなんだ」

 

思わず口走っただけの話題。

でも、それでいいのかもしれなかった。

考えすぎたら、受け入れられなくなってしまう。

 

栞は本から完全に抜き取られた。

 

ほどほどにデフォルメがかかったような、それでいてリアルなような。

落ち着いた黄が見ているものにオモムキ、というものを感じさせてくれる。

 

「……綺麗な黄だから」

 

「……」

 

咄嗟に返しが出てこなかった。

物心ついた時には天ちゃんは、自由に色が選べる時は黄色を選んでいた。

 

でも、私は覚えている。

天ちゃんが本当に好きな色は――。

 

「天ちゃん、ずっと黄色だよね」

 

言葉が足りていないはずの一言はそれでも天ちゃんへと届いていた。

 

「うん。黄色、大好き」

 

まるで辺りを照らしてこちらに元気を与えてくれる、笑顔。

今日の太陽は、今、この場で昇ったのかもしれなかった。

 

「黄色はこころちゃんの色だから」

 

私はそれに答えた。

桃色のカーディガンに包まれたこの体で。

 

「私も……桃色、大好き。天ちゃんの色だから」

 

桃の花がデザインされた栞なんてものはあるんだろうか。

読書の御供に良いかもしれない。

選ぼうとした時のことを思い出せるから。

 

そうやって生きていきたかった。

 

 

 

時間はもう過ぎようとしていた。

 

荷物を持って、私は扉の方へと歩いた。

 

「じゃあね、天ちゃん」

 

「うん、元気でね。こころちゃん」

 

天ちゃんは来た時と同じように微笑みを浮かべていた。

心からのものと信じて、しっかりと目をやった。

 

まん丸なおめめ、ぷにぷにのほっぺ、トレードマークだったサイドテール。

その中に、誰よりも深い慈愛を持っていたことを、せめて私だけでも覚えていよう。

 

いつまでも自分の存在に刻み付けていよう。

 

後ろを向いた。

扉だけがあった。

 

一歩ずつ近づいていった。

前を進むということはそれだけで勇気のいることだった。

 

扉の前まで、まっすぐ、淀みなく――。

 

「わっ!!!!」

 

「こころちゃん!!!!」

 

足の感覚が消える。

体が前のめりに倒れそうになり――。

 

もつれた足を瞬時に揃えて、鮮やかな着地を決めるのだった。

そのまま両手を斜め上に掲げてみる。

 

「……ぷっ」「あはは」

 

二人分の、静かな笑い声が個室に満ちた。

振り返らなくてもわかる。

 

天ちゃんに最後に笑顔をあげることができた。

こんな方法で、なんて自分でも思うけど。

 

このまま出ていくのも悪くないかもしれない。

楽しい思い出とともに。

 

そう思ってもついつい、後ろを振り返ってしまうのだ。

 

「天ちゃん」

 

昔のまま、けらけらと笑うその顔に改めて手を振るのだった。

 

「じゃあね!!」

 

ばたばたとまた振り返って、扉を向く。

今度はもう重い足取りじゃなかった。

 

だって後ろから声に押されていったから。

 

「こころちゃん、いつまでもいつまでも……」

 

何かをすするような音が聞こえた。

 

「……元気でね!!」

 

ドアノブへと手を掛ける。

外界とを隔てていたそれが動く。

 

足元へ目をやると、敷居があった。

まるで境界みたいだと思った。

 

私と天ちゃんの世界を隔てる境界。

 

それをしっかりと自分の意志で、足を動かして――。

 

 

跨いでいった。

 

 

 

 

 

次の日は雨だった。

そのまた次の日も、雨だった。

 

天ちゃんの病状は急に悪化したらしい。

もう会えないのだとわかった。

 

何もする気が起きなくて枕を濡らした。

前を向いて生きる。

それは多分、悲しいと感じる心を捨てることではないから。

 

だから、今はこうしていたかった。

 

天ちゃんの病気は、ご両親のものと同じだった。

明るかったおじさん、優しかったおばさん。

 

その人たちも、今はもういない。

人はいつかはそうなるものだから。

 

天ちゃんのお母さんが亡くなったことを、天ちゃんのその口から聞いた時のことを思い出した。

知っている人の死は、いつまで経っても慣れるようなものじゃなかった。

おばさんの冥福を祈った後、どうしたらいいのかわからなくて、涙をこぼす天ちゃんを抱きしめた。

 

それでも天ちゃんが、親よりも順番が先になる不幸をおかさなかったのだけは救いだったのかもしれない。

 

――ゆめ。

 

幼い頃に亡くなった妹の名が、頭の中で反芻される。

私はふらふらと立ち上がって自室の机の前へと進んでいた。

机の引き出しに手をかける。

 

大事にしまってある一冊の本を取り出す。

ゆめが残してくれたスケッチブックを。

 

一枚ずつめくっていく。

ニコニコ笑顔の私、ニコニコ笑顔の天ちゃん。

走る二人、遊んでいる二人、眠っている二人……。

 

ふと、あるページで手が止まった。

 

黄と桃がページをところせましに跳ねる。

 

ゆめが、二人の魔法少女をイメージして描いたもの。

雄々しい黄色が拳と羽を振り上げ、柔らかな桃色は丸っぽく髪の毛も可愛らしいモコモコとした曲線を描いていた。

 

妹にはしっかり、お見通しだったみたいだ。

 

ゆめは天ちゃんによく懐いていた。

天ちゃんがもしも変身できたらと、名前を考えたのもゆめだった。

 

その意味を聞いても、私には教えてくれなかったけれど。

ゆめと天ちゃんだけの秘密だったのかもしれない。

 

昔のことだけど、天ちゃんがその名前を大事にして戦っていてくれた。

それが私の知るところであり、十分だった。

 

産まれて初めて、親から名前を贈られるように、

ゆめから贈られたその名前を大切にしてくれた。

 

私はスケッチブックをゆっくりと閉じた。

 

毎日、楽しく過ごしてほしい。

前を向いて生きていてほしい。

 

頭の奥に、心の片隅に。

けれど消えてしまわないように、大事にしまっておく。

 

――よし。

 

私は手にした端末から検索をかける……という行為をした。

この手のものは学生の時分から苦手ではあったが、

最近になって使えるようにならねばと思うようになってきた。

 

品物はお店で実際のものを見てこそ、というのが信条だが

それならばお店にどんなものが置いてあるか調べればいい。

 

雨がざあざあと降って、家にいることになっても、

できることがあるのだ。

 

端末を操作し続ける。

それを見つけて手が止まった。

 

あった。

桃の花がデザインされた栞。

 

それを実際に目にすることに思いを馳せながら、その日は過ぎていった。

 

 

 

 

 

眠っている間、私の頭にはいろんな天ちゃんが

流れ込むようにあふれかえっていた。

 

小さな天ちゃん、少し大きくなってジャージで走っている天ちゃん……

高校生になり、大学生になり、スーツで出勤をして……。

 

大きなトラックに乗ってどんどんと。

こんな大規模なお引越しはさすがに見たことがない。

 

まるでお祭りみたいだな、と思った。

 

その様子を隣にいる天ちゃんとちょっと困ったように、されど微笑みながら顔を合わせるのだ。

 

幸せが目に見える形になるのなら。

それはきっと天ちゃんの笑顔だよ。

 

自分がそんなことを言うと、幼馴染は心底照れくさそうに、でも幸せそうに笑うのだった。

 

 

 

目が覚める。

 

朝か、夜かもわからない。

 

意識は定かではなかったはずだけど。

 

導かれるように、立ち上がって窓の方へ向かった。

 

カーテンを開けると、光に体が包まれた。

 

どこまでも柔らかで、優しい光だと思った。

 

 

 

私は天ちゃんが産まれた時のお話を思い出していた。

梅雨で、雨が続いていた日々。

でも、天ちゃんが産まれたその日だけは、天は晴れ渡った空だったらしい。

 

だから、その名前になったのだと。

 

ああ、そうか。

 

天ちゃんが天ちゃんのまま、その生を終えることができたんだ。

きっとそれで、良かったんだって。

 

昇っている朝日は私の体にぬくもりを与えてくれていた。

 

 

 

 

 

真田天 享年60歳




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