それから、マックイーンの一か月は拍子抜けするほどに、実に平穏なものだった。
起床後に1時間程度ランニングを行い、登校して座学を受ける。
午後は週に2回程度実技の授業もあるが、基本的にはホープフル・クラブの面々で集まるまで走り込みやトレーニングは行われない。
そうして放課後は全生徒に開放されているトレーニングルームでの基本的な鍛錬と、ランジやもも上げのようなランニングドリルをこなす。メニューはトウカイテイオーの用意したもので、シンボリルドルフに頼んで出来そうなメニューを組んでもらった、らしい。
そうして15時から2時間ほどのメニューをこなし、日が傾き始めたころに学園の外周を4周するLT走をインターバル込みで2本行うと、ちょうど日が沈む頃になる。
当然、初日に特例で許可が下りたグラウンドは使えない。だが、週末には立川や調布、小平の公園がグラウンド代わりに利用できる。
そういった場所では実戦的なトレーニングを行うこともできるため、そこまでの往復の走り込みを含めればだいぶ充実した練習を積むことができていた。
そんな風にして何度かの週末を越えた頃、校内の掲示板にはトライアルの詳細が掲載された。
校内トライアルは、いくつか普通のレースとは違う点がある。
まず、ゲートがない。厳密にフライングの測定をするための方策も無いことから、ある意味ではスタートの得意な選手にとって有利と言える。
次に、2人一組でのレースになる。タイムを測定し、その結果をもとにしてトレーナーがスカウトを行うという性質上、それ以上の人数での同時出走は難しいということだった。
その人数制限の結果、特に後ろからのレースをするものにとってはレース展開がつかみづらいという側面もある。
S区分1200メートル、M区分1600メートルは5月14日、I区分2000メートルは15日の日曜日。2000メートルだけが単独日程なのは、距離が長い分時間がかかるほかに、クラシック三冠を見据えた二年生が集中するためだろう。
(2000メートルは、皐月賞の距離)
トウカイテイオーはここに出てくるだろう。既にその意を表明していたこともあるが、なにしろ無敗の三冠に拘っている。
私はどうだろうか。
天皇賞を制することは、メジロ家の悲願でもあり、命題でもある。その天皇賞の秋は、東京の2000メートルであり、この距離から逃げることは許されない。
とはいえ、体が出来上がっていない一年生が出走するにはハードな距離で、例年I区分に参加する一年生はそれほど多くない。
「あれ、マックイーン。何見てんの?」
廊下を歩いてきたナイスネイチャに声を掛けられる。
「ネイチャさん……いえ、トライアルの詳細が出てたもので。距離はもう決められました?」
「正直言うと、2000で出すかは少し悩んでるんだよね。マックイーンもそんなとこ?」
「ええ、まあ……」
「正直、気持ちは分かるよ。テイオーみたく今の時点であれだけ走れる器用さとか、アタシにはないし。でもね、結局アタシらは、アイツからは逃れられない運命なんだろううなって思うと、できるだけ早くから真っ向勝負を仕掛けないといけないんだろうな、なんて思うわけですよ」
ネイチャの強さは心の強さだと、マックイーンはこの一か月でひしひしと感じていた。
確かに、ネイチャの才覚はトウカイテイオーと比べてしまえば、少し見劣りするのは確かだ。それでも一緒に走れば最後まで折れずに追い込んでくるし、毎日最後までバテないのは彼女だった。
「……よし!じゃ、一緒に2000で出しに行こうよ。そしたらもう後には退けないし」
そして、時折その芯の強さが他のものの後押しをしてくれることさえある。その言葉に従い、マックイーンはI区分2000メートルのトライアルに登録するのだった。
5月15日。
トライアル当日は、想定よりも異様な雰囲気だった。
まず、一年生の姿がほとんどない。ホープフル・クラブの面々も全員いる訳ではなく、ダイイチルビーとシンホリスキーをのぞく五人がその場にいたが、その他顔を見たことがある一年生と思しき者はせいぜい10名程度。
その代わり、二年生が非常に多い。それもそのはずで、今日の結果次第でチームが決まる者がほとんどであり、来年のクラシック戦線はこのチーム決めによって大方占われる。
当然、実績のあるチームに加わることで大きく実力を伸ばせれば、世代の頂点に手が届く可能性が大幅に高まるという訳だ。
「ま、アイネスフウジン先輩みたく、去年の時点でいいタイムを出してチームを決めてる人もいる訳だし。この人たちがみんな怖いわけじゃないんだろうけど、雰囲気はちょっと嫌だね」
とはレオダーバンの言。気楽そうな者は一人を除いておらず、緊張した面持ちで出走順の発表を待っていた。
また、周囲のスタッフの数も多い。万が一に備えた救護班、タイム測定のための事務員に加え、20名を少し上回る程度にはトレーナーと思われる者が一同に会していた。
その中には当然ながら、武川の姿もあった。
出走表には三分おきの細かいスケジュールとともに、60組ほどのメンバー表が記載されていた。隣に書かれた名前を確認してマックイーンはどきっとする。
「ボクたち、運命かもね!なーんて」
トウカイテイオーがペアだった。知らない先輩で無かったことには少し安堵したものの、練習ですら一度も先着したことのないどころか、ほぼ常に大差で負けている相手だ。
「テイオー、何の冗談ですの……?」
「
この場で唯一気楽そうなテイオーはそこまで言うと、急に真剣な面持ちになる。良くも悪くも常にテンションの高いテイオーのそんな表情を見るのは初めてだった。
「……このレースでボク、全力で走るよ。だからさマックイーン、キミは全力で走って、それで全力でボクに負けてもらう」
「キミがボクのことを覚えていないのはなんでだろう、あれってキミにとってそんなに取るに足らない時間だったのかなって、そう考えたらだんだん悲しくなってきたんだよね。」
テイオーの瞳は、いつも通りのシアンだ。けれど、その瞳はいつもと違う。マックイーンの心を見透かすようにまっすぐで、真剣だ。
「でも、君を見てるとそれはなんか違う気がしてきたんだ。時々キミは走るのが辛そうなことがあって、それは昔ボクが憧れたキミの姿とはかけ離れた姿だ。ネイチャ達はたぶん、気づいてないと思うけど」
その瞳に見つめられて、何も言うことができない。全てが透明になるような、そんな錯覚と。
「だから、このレースでキミが蓋をした何かを吹き飛ばしてみせるよ。だって」
「レースって、『楽しい』んでしょ?」
強烈な突風が吹き抜けた、ような気がした。
待ち時間はおよそ100分ほど。普段こなしているストレッチや走り込みをこなしながら、ウォーミングアップを行う。
空は快晴。五月だというのに、すこし汗ばむような気温でグラウンドの芝がゆらめく。
(レースは楽しいもの、ですか)
あの時の夢と同じ台詞がテイオーから出てきたことに、マックイーンは不思議と驚きを覚えなかった。
そうかレースって楽しいものなのか、とあっさりその言葉を受け入れていた。
草丈6センチ程度に綺麗に整えられた芝を、序盤に組み込まれた者たちが次々と走っていく。その中にホワイトストーンの姿を見つけて、そちらに目を向ける。
ゼッケンをつけた体操着姿の彼女は後ろからのレース展開を好む。実際、その思惑通りのレース運びをしているようで、先行している二年生のウマ娘の2バ身ほど後ろにつけて足を溜めているようだ。
残り400メートルの標識を抜けた頃にその差は無くなり、そのまま抜き去って10バ身ほどの差をつけてゴール前を駆け抜けた。
タイムを告げる声は遠すぎてよく聞こえない。ゴール付近で見ていたスタッフや他のウマ娘から、おおというどよめきが起こっていることから、いいタイムが出たことは間違いなさそうだ。
再び眼下に注目を戻す。
スタートは比較的得意なほう。そのイメージを頭に刷り込むように、ストライドを意識しながら何度か一連の動きを繰り返す。
ホワイトストーンのように後ろに控えることはしない。テイオーは後ろから来るだろうから、どうすれば逃げ切ることができるだろうか。
時折わあっと、好記録に沸くギャラリーを尻目にウォーミングアップを繰り返し、いい感じに体がほぐれた頃には自分の番まであと5組ほどとなってきていた。
待機地点に戻ると、いつの間にか走り終えていたナイスネイチャが興奮した様子で駆け寄ってくる。
「マックイーン!アタシ、2分2秒台出せた!嘘みたい!このままスカウト、狙えるだろうって!!!」
先程の歓声はネイチャのものだったらしい。ゴール地点にはタイム一覧が貼りだされ、その中で上から三番目に彼女の名前が堂々と掲載されている。
「挑戦してよかった!……ってごめん、マックイーンはまだだっけ。喋りすぎだね、アタシ」
「好タイムおめでとうございます。スカウトの話はもう出てるんですの?」
「一応、何人かのトレーナーは名刺をくれたけど、正式なスカウト活動は明日からみたい。放課後、いくつかのチームを回ってみる。ねえ、マックイーン」
「アタシ、テイオーにも勿論勝つつもりだけど、今時点での一番のライバルはマックイーン、アンタだと思ってる。ま、勝手に力量が近いって思ってるだけと言えば、それだけなんだけどさ。練習も一か月だけだけど、一緒に頑張ってきたし、だからその、なんていうか……」
「絶対、マックイーンもやれるって思う。不甲斐ないレースしたら、アタシが許さないんだからね」
ニカっと、ネイチャが笑って拳を突き出す。すこし戸惑い、それからマックイーンはその拳に応えるのだった。
少しの時間であっても、得難く、そして競い合う友人を得られたことで、わたしの心持ちが少し、変わってきたように思う。
レースに対する嫌なイメージは残っているが、同時に今はそれを楽しみに思っている。相手は強く、自分は弱い。けれど、それでも明確に勝ちたいと思っていて、その気持ちが前へと後押ししてくれるようだった。
テイオーとはレース直前、一言も会話をしなかった。わたしたちの順番の本当に直前に現れた彼女は、オオカミが獲物を狙うがごとくの空気を醸し出していた。
本当に、本気なんだ。
その雰囲気を目の当たりにしても、わたしの集中は途切れなかった。
ウマ娘としての本能が、どれほどの強敵を前にしても、勝てと強く呼びかけてくる。初めての感覚に、少し身体を震わせる。
今日はいろいろな発見のある日だ。きっとこのレースすらも、自らの記憶に強く刻まれることになるんだろう。
「次!内側トウカイテイオー、外側メジロマックイーン」
そう、半ば確信めいたものを抱き、マックイーンはスタートラインへと向かっていった。
遅筆ですが、なんと珍しいことに明日も同じ時間に出ます。