すう、はあと一回の深呼吸。
撃鉄の音とともに、本能で一歩目を、右足を蹴りだす。ウォーミングアップでも、イメージでも繰り返したスタートは思い通り。
ただ、スタートを切れたのは内にいるテイオーも同じようだ。表情は読み取れないが、ほとんど同じ場所に頭があったのがわかる。想定通り、前へ、内側へと歩を進める。
1コーナー脇のポケットから少しのストレートを経て、2コーナーへ入るコースでは外側の方が不利になる。だからこそ、内のテイオーが前に出てくる可能性もあるかもしれないと考えていたが、そんなことは無くあっさりと彼女の前につけることができた。
半円というよりは、ほとんど直角に近いコーナーを抜けると長いストレート。できるだけここで前に出れなければ、差し込んでくるテイオーからは逃げ切れない。持久力の不安はいったん忘れて、かなりトップスピードに近い歩速で前を目指す。
前回、練習でこのコースを走った時よりも芝が伸びて走りづらさは感じるが、不思議と苦しくはない。1.8メートルの上り坂でも足を止めることなくすんなりと前へ行くことができる。
走ることが気持ちいい。不思議な感覚に包まれながら、レースは3コーナーへと差し掛かる。
このレースを自分の出番を終えて観客席上から見ていたナイスネイチャは、後に
マックイーンの走りは快調で、スタミナが最後まで持つという前提を踏まえればかなりの好タイムが期待できそうなものに見える。坂道で伸び悩むこともなく、ほぼ一定のペースで次のコーナーに差し掛かるといったところだ。
フルゲート18人のレースならばともかく、一対一のこのトライアルレースにおいて、前で逃げるというのは基本、理想的な展開だ。
それはペース配分を自分の思うように操ることができる点に集約される。勿論、基準がなくて迷走する可能性も無いわけではないが、基本的にはそれまでの練習で培った理想のペース配分にしたがって作るだけでよい。
それでもネイチャやホワイトストーンが後方からの展開を選んだのは、絶対的な練習量の少なさから先頭でのペース配分を乱すリスクを嫌ったことや、特に直線が長いこのグラウンドであれば年上相手でもワンチャンスを見込める瞬発力勝負に持ち込むことができると考えたからだ。
ただ、それが上手くいったのは言ってしまえば相手がミスをし、完璧でなかった部分も大いにある。その点、マックイーンはかなりの好走を見せている。
(恐ろしいのは、それにぴったりくっついてるテイオーの方だよ……)
沈黙を守るトウカイテイオー。確かに何度かそうやって、器用に走っているシーンを見たことはある。けれども今彼女が見せているそれは、ある意味お遊びでやっていたレベルを軽く逸脱している。
マックイーンの走りは1ハロンごとのタイムがブレづらい、効率のいいものだ。イコール、それは後ろで走る者にとっては、足を溜めにくい高速ペースでもある。普通、後ろから差し切る者はそれにはあまり気に留めず、離されない程度にゆっくりのペースを選ばなければならない。
「あれ、ただ後ろにつけてるだけじゃないよ。たぶん、一番いい効率でスリップストリームを受けれる場所に、ぴったりつけてるんだ」
レオダーバンもそれを見て引き気味だ。
「うわあ……しかもあれ、相当なプレッシャーでしょ。やってることがえげつないと言いますか……」
ちょうど一バ身ほどの距離で走られれば、足音が常に後ろから響いてくる。自分はここにいると大声で主張するようなものだ。
マックイーンの心中は穏やかではないだろうと心の中で同情しながら、ネイチャはその展開から目を離せずにいた。
そんなネイチャの心配をよそに、マック―ンはつとめて集中できていた。
後ろから確かな足音が聞こえてくる。それは間違いないのだが、本当にぴたりと真後ろにつけてくるために、その足音が規則的で、全く左右のブレがないのだ。
冷静になって考えればこれはとんでもないことで、どれだけテイオーの身体のバランスがいいのか想像もつかないことだが、ともかく耳に入る音が規則的過ぎたために心をかき乱されることもなく、澱みないまま3コーナーから4コーナーを迎える。
左側にちらりと6の標識を確認した、その瞬間少しだけ外側に膨らむまでは。
少しだけ、外側にヨレたかなという感覚がした、まさしくそのタイミングだった。
整った足音の均衡がついに崩れた。時間にして0コンマ1秒もない僅かな時間であっても、頭に警告が走るには十分すぎる時間だった。
ゆらり、と後ろの影がブレる。
来る。
帝王の鋭い牙が、よく磨かれた爪が、獲物を食らわんと襲い掛かってくる!
「ッ!」
声は言葉にならない。即座にヨレて空いてしまった内側をを閉めて加速する体制を取る。それより少し前に、後ろから聞こえる地を蹴る音が力強いものに変わった。
流石に無理に内を抉じ開けては来ない。が、代わりに一気に外側へ膨らんだトウカイテイオーの頭が右の視界にちらりと映る。
それが彼女だと認識する頃には、つい数秒まで絶対の隙間になっていた一バ身は消え、ほとんどリードもなく同じ場所に並んでいた。
残り525.9メートルの直線。
負けない、負けられない、負けたくない!
ハイペースを守ってきたマックイーンにとっては無理矢理に近い、それでも精神力だけで前へ前へと懸命に蹴り出す。
だが、あまりにそれは無力だ。
鈍い風切り音と共にトウカイテイオーが前に出る。
世界のすべてがスローモーションのようだ。
ちらりとマックイーンのほうを見たテイオーの、その瞳はきらきらと輝いていた。
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自分と、もう一人がトラックを走っている。もうゴール板はすぐそこで、最終直線で二人は競り合っている。他には誰もついてこれない。
息が苦しい。だがそれは、気持ちよく駆け抜けている時特有の苦しさであって、焦燥や不快感とは無縁のそれだ。
あと、50メートル。ゴールはすぐそこ。ぐっと力を込めた一歩で前に出る。隣を走る彼女よりもほんの少しだけ、先に抜け出したことを実感した。
あと、10メートル。ちらりと隣を見遣る。彼女もまた、苦しそうな笑顔を浮かべて前だけを見据えている。うるさい位に輝いた瞳が、なんだか眩しい。
「きみ、速いね!」
ゴールを突っ切って倒れこんだマックイーンがそのまま休んでいると、隣で走っていたポニーテールのウマ娘が話しかけてきた。
すこしびっくりしたが、マックイーンはそれに応えるために体を起こし、まっすぐに見つめてくるシアンの瞳の彼女に身体を向ける。
「そういうあなたこそ。いいレースでしたわ」
どちらともなく、ニコッと笑う。
「じつは、レースで負けたのってはじめてなんだ!でも、今までで一番楽しかった。そうだ、ぼくはトウカイテイオー!きみの名前は?」
「わたくしはメジロマックイーン。トウカイテイオーさん、というのですね」
「うん、よろしくね!ぼく、もっともっと速くなりたいんだ!ねえ、マックイーンはどうしてそんなに速いの?」
トウカイテイオーは好奇心を抑えられないといった様子で、マックイーンににじみ寄ってくる。少しだけ無遠慮で距離の近い子だなあとは思うが、不快感は全くと言っていいほど感じない。
「そうですわね……たゆまぬ努力と、勝ちたいという気持ち……でしょうか?」
「努力!ってことはやっぱり練習かあ……それでそれで、他には!?」
「他……?」
「うん!だって、それだけじゃないって、そんな目をしてる!」
「そうですね……」
少し考えてから、マックイーンはまっすぐと彼女を見据えて答える。
「レースが楽しいから、ですかね」
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そうだ。あの時わたしは、レースが楽しいからとテイオーに言ったのだ!
ぐんぐんと遠ざかるテイオーの背中を見据え、それを追えと心と身体が騒ぎ立てる。
脚なんか残っていない。だからどうしたというのだ!
こんなに楽しい時間を、この程度で終わっていいわけがない!!!
残り200メートルの標識を通過する。差は広がってく一方で、フォームも何もかもが滅茶苦茶だ。
それでもあの背中に追いつきたくて、もっと前へ行きたくて。
その気持ちだけで突き進む。
残りの距離はもうわからない。それでも、あの背中に追いつきたい。
いっそ空でも飛べれば追いつけるだろうか。
ああ、たぶんもう終わってしまう───
ゴール板を過ぎた、直前も直前までまで気づかず駆け抜けたことで、その瞬間にぷつっと集中力が切れる。
そのまま自然に減速するまでをなすがままに流し、充分に減速したところでマックイーンはフラフラと倒れてしまった。気力もエネルギーも、もうほとんど残っていない、たぶん。
後先考えず、走ることだけに集中して走ったのはいつぶりだろうか。多分、あの時のテイオーとのレース以来だ。
「ようやくお目覚めかな、お姫サマ」
茶化すようにテイオーが覗き込んでくる。さっきまでの獣のような雰囲気はたちどころに消え、輝くシアンの瞳とポニーテールは間違いなく記憶に残るそれで、見知ったそれだった。
「お久しぶりですわ、テイオー」
「……うん。久しぶり、マックイーン」
テイオーが差し伸べた手を取り、体を起こす。
走り切った時の心地よい疲労感と達成感と、そして負けた悔しさの混ざった心を風が洗い流していく。
その風は、夏のにおいがした。
「トウカイテイオー、1.58.5……1.58.5!?」
一方で、レースを終えたマックイーンたちを待っていたのは騒然としたギャラリーであった。
「ボク、やっちゃったかも……」
トライアルとしては過去を遡っても類を見ない好タイムを残したトウカイテイオー。1分58秒5という記録は、最終的に参加した124名の中で2位に1秒以上の差をつけてのぶっちぎりの1位となり、暫くの間、スカウトのための人だかりが消えることはなかった。
マックイーンもまた、1分59秒9という総合で4番目の記録を残した。同様に多くのスカウト陣に取り囲まれるという稀有な経験をしたことは言うまでもない。
結果としてトウカイテイオーが集めたホープフル・クラブは、マイル参戦組も含めて全員が総合20%以内のタイムを記録し、一人残らず一年次でのチーム参加を果たした。
後に彼女たちは16年組の東の代表として、それぞれが大いにレースを沸かすことになるのだが、それは少し先の話である。
序章 士別れて三年即ちさらに刮目して相待すべし 完
お察しの方もいるかもしれませんが、この小説は一瞬の風になれをリスペクトして作成しています。