グレイ・コートに至るまで   作:A_R_S

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7.Polestar rises northern sky.

 

 それからの残り二週間となった5月はというと、目まぐるしい忙しさにマックイーンは手を焼いていた。

 

 既に遠征に必要な物品のリストは武川の手によって準備されていたが、三か月分のそれは量も尋常ではない。最終的には学校の事務員の手を借りながら、何とか準備をした。

 緑色の制服を身にまとう事務員にとってはこのような準備は一種の通例のようになっているようで、およそ100日も学校を離れるというのに驚いた様子ひとつ見せずに手伝いをしてくれた。

 

 起床後のランニングや今までの個人修練についてだが、これは武川からのそのまま実施していてよい、というお墨付きを得ていた。ホープフル・クラブの面々もそれぞれのチームでの練習が始まりつつあり、全員が必ずそろうという光景もまた無くなってはいったが、朝の走り込みやチーム練習の無い日は誰から声をかけるでもなく、自然と集まる空気が形成されていた。

 

「……はぁ!? いきなり三か月も遠征!?」

 

 その朝のランニングで一緒になったネイチャに予定を伝えると、彼女はたいそう驚いた様子で叫んだ。

 

「実は、そうなんです。……やっぱり、変ですよね?」

 

「いやー……うん、変わってるわ。マンツーマン指導だからできることなんだろうけど」

 

「そうですよね……正直、少し不安がありますわ」

 

「ていうか大丈夫? 武川トレーナーから変なことされない? って、流石にそんなことありえないか、なに言ってんだアタシ」

 

 そう言いながらも心配そうな顔を隠さないネイチャ。

 

 実際、その心配はあながち間違いではない。

 武川の姿は既に東京に無く、単身で先に北海道へと向かってしまっていたのだから。

 

 

 

 

 府中からおよそ1時間半。さらに羽田空港から1時間40分ほど。

 マックイーンにとっては二回の乗り換えも、1人での搭乗も、ちょっとした冒険で。

 実際に手荷物検査で少し手間取り、危うく予定の飛行機に乗り損ねるかもしれないという心配もあったが、結果的には定刻通り11時の離陸となった機内には、平日ということもありほとんど客はいなかった。

 

 そうして、彼女は北海道の翼に包まれながら、この先何度も訪れることになる北の大地へと踏み入れたのだった。

 

 

 

 

 無事に新千歳に着陸した飛行機を降りると、到着ロビーに武川の姿があった。

 麦わら帽にサングラス。傍目から見ても怪しげなその男は、こっちだと手を振る。

 

「よう。無事についたようで何より」

 

「……普通、トレーナーはこういう時には引率してくださるのではなくて?」

 

「俺は仕事では子守りはしねえって決めてるんだ。他にも準備は山ほどあったしな。何、お前は人間のガキじゃなくてウマ娘なんだ、怪しい男がいたってお前にゃ傷ひとつつけられんから堂々としてればいい」

 

 そう言いながら駐車場へと歩みを進める。

 

「一応、一人で飛行機に乗ったのは初めてでしたよ、私」

 

 マックイーンは言外に非難をにじませる。

 

「そーかい。また一つ大人になれたな」

 

 武川はあっけらかんとした態度で応える。

 

「そうではなく! ……いえ、あなたはそういう人でした」

 

 はぁ、とため息を一つ。

 それを聞いた武川は歩みを止めずに言う。

 

「あのな、これは年長者からのありがたーいお説教と思って軽く聞き流してくれりゃいいが、できるだけ自力でできることは自分でする習慣をつけておいたほうがいい。その習慣が後々お前を助けてくれるはずだ」

 

「勿論、出来ないだろうと判断したらこっちも手助けはするし、自己申告でも無理だと思ったら言え。で、飛行機に一人で乗ることはお前にとって出来ないことだったか?」

「……いえ」

「それが分かったことが今回の冒険の収穫だな。ほら、ついたぞ」

 

 武川が歩みを止める。シルバーの、高級然とした二枚ドアのクーペがそこにはあった。

 

 

 

 

 

「まさか、トレーナーがこんな良さそうな車に乗っているとは思いもしませんでした」

 

 ウッド調の内装や、クリスタルのノブ、左側のハンドル。高そうな車という最初の印象は、どうやら間違っていなさそうだ。

 

「お前、俺のことなんだと思ってる訳? トレーナーってのは儲かるんだよ。勿論、お前らのお陰でな。車は数少ない趣味みたいなもんだ。毎年数千万単位の金が入ってくるのがこの仕事なわけだが、庶民生まれの俺には使い道ってもんが分からん。で、出した答えがこれ」

「ちなみに、これはなんという車なんですか?」

「コンチネンタル*1ってやつだ。知らねーと思うけどな。458*2ってのも持ってて、そっちの方が俺は好きなんだが、お嬢様育ちのやつはやれエンジンがうるせえだの、乗り心地が最悪だの文句ばっか言いそうだったから」

「言いますよ。わたくし、うるさいのは苦手です」

「ついでに言えば、ガソリン臭い車も、だな。まあ、今回北海道に持ってきたのはこいつだけだ。とりあえずそこんとこは安心してくれ」

 

 そういうと、武川はエンジンをかける。

 ぶぉん、と一般常識的なクルマからはかけ離れた、主張の強い始動音。

 

「……静か?」

「静かなんだよ、これでも」

 

 はあ、とため息を一つ、そして武川は慣れた手つきで空港の駐車場を後にする。すぐ広がる広大すぎる大地に目を奪われるのに、それほど時間は要しなかった。

 

 

 

「煙草、吸うんですか?」

 

 ふと車内に目を向け見つけた、携帯式の灰皿。それを彼が使っているイメージはない。

 ああ、片づけそびれてたすまん、とそれを武川はハンドルを握りながら片手で仕舞う。

 

「ガキの前では吸わねえよ。車の中でも臭くなるから吸わねえけど、北海道はそう簡単に灰皿のある場所が見つからないこともあるから、常備してるだけ」

 

「別に吸っても構わないですよ? 私は気になりません」

 

 ふん、ませてんなと武川はぼやく。

 

「今日はお説教デーだな。この際だから伝えておくが、子供の前で酒、煙草、あとは金をちらつかせる大人には極力近寄らないほうがいい。大体碌でもない連中だから」

 

「……さっきはトレーナー、お金の話されてませんでしたっけ?」

 

「十分お察しの通りだが、俺はロクでもないからいいんだよ」

 

 高速に入ると、確かに快適な移動に向いた車なのだということに気づく。

 揺れは少なく、最初の印象と違い、ロードノイズと上手くかき消すような形なのか、エンジンの音はそれほど煩く感じない。長距離を快適に移動するためのクルマなんだよ、とは武川の言だったが、それは的を得た表現であることを実感する。

 

「そう言えば、どうして北海道まで長期遠征をするのか、私まだ聞いてないです」

 

「あー、そういやそうだったな。いくつか理由はあるが、一つは北海道には梅雨がない。大体6月の東京は雨ばっかで練習にならん」

 

「私たちのレースはよほどのことが無い限りは雨天決行で、それは理由にはならないのではないでしょうか」

 

「まあ、重いバ場に慣れるというのも一つ大事ではあるさ。ただ、まだ体ができてないうちから負荷をかけすぎると変な癖がついたり、最悪故障して選手生命丸ごとパーなんてこともあるし、別に梅雨がないだけで北海道だって偶に雨は降るから気にすることじゃない。で、梅雨明けたら明けたで、真夏の東京は暑過ぎ。お前らは頑丈にできてっから大した問題じゃないかもしれんが俺にとっては死活問題。夏にある大きな重賞レースは札幌記念ぐらいで、これを考えてもクソ暑い東京に慣れることが必須な理由はまっっったくない」

 

 かなわんと片手を振るのは武川。

 

「あと、室蘭にはうちの親父がリトルチームや地方の有力チーム向けに作った合宿用の施設があって、ここを自由に使っていいということになってる。北海道基準じゃそんな滅茶苦茶に広い場所じゃないんだが、なんせド田舎で人がいねえから朝から晩まで走り放題鍛え放題。人目を気にせず、しかも芝の上でいつでも全力で走れる環境はトレセン内外問わずそんな簡単に手に入るものじゃないからな、有効活用しない手はない」

 

 それが今向かっている場所ということだろう。

 

「このあたりの事情は俺が一人しか面倒見ないことにも関わってくるわけ。それにトレセンのだだっ広い練習場所をマンツーマンで潰して白い目で見られるのも勘弁だし、遠征費用やらに多少の融通は学校側に図ってもらってるのは間違いないけどな。ま、そういうわけで今年は6月から、来年以降はあっちこっちでレースを走ってもらうことになるだろうから真夏だけ、毎年暑い時期は北海道で調整をするってのがウチなりのやり方だから。遠征レースの予行演習だと思えば、そう難しいもんじゃないから」

 

 

 

 二時間ぐらいかかるかもしれないから寝ていていいぞという武川の言葉通りに、昨日の緊張から来る浅い眠りを補うように、マックイーンは助手席で眠ってしまった。

 定期的な道路の継ぎ目を越える微かな振動以外に大きな刺激も無い。快適な車内は眠りを誘うのに充分だった。

 また、武川は意外にもラジオ派だった。ジャズなのか、音楽に詳しくないマックイーンにとってそれが何というジャンルなのかわからなかったが、それもまた心地よい眠りの助けとなった。

 

 うとうとと目を覚ますと、既に高速は降りていたようで、片側一車線のトンネルを一定の速度で進んでいるところだった。

 

「お、起きたか。ちょうどいいタイミングだな」

 

 何が、と応答する前に、トンネルの出口。

 

 急な明度の変化で目が眩む。

 一瞬の間の後に視界が戻ると、目の前には緑の間から、一面の水面が覗いていた。

 

 息を呑む。

 

「洞爺湖だ。これから散々お世話になる場所だから、よく目に焼き付けておけよ」

 

 突き当たりを左折。右手には巨大な湖。

 

「私、こんなに近くで大きな湖を見るの、初めてかもしれません」

 

「ん、そうなのか? 京都のメジロのお屋敷から琵琶湖はそんなに遠くなかったはずだが」

 

「私は吉田邸──―つまり、分家である吉田家の邸宅のある大磯で生まれたんです。小さい頃に下落合*3にあるメジロ家所有の別邸に引っ越しましたが、淀の本家にはまた一度しか行ったこともないですから」

 

「ふうん。その分家ってのも、よくわからん話だよな。なにがどうなって分家、って扱いになるわけ?」

 

「それほど珍しい話ではないですよ。簡単に言えば私は父がメジロ家の人間で、母がもともと分家筋のウマ娘なんです。藤原秀郷、つまり平安時代まで遡りますが、その当時に傍流として分家されたのが、今の吉田家*4のルーツです。時代によって男系が当主になるか、女系が当主になるかで苗字は変わってきましたが」

 

「……急にスケールがでかくなって追いつけないのは置いておくが、じゃあつまり分家の分家、みたいなことも起こりうるのか?」

 

「それも起きるんですが、基本的にメジロの家系図には直系と、直系の分家のみしか記載されず、それ以外はメジロの一員として認められないんです。なので、分家の分家、という概念はメジロには存在しません。ですから、吉田家がいくら元々分家筋であっても今まではそう認められておらず、私の母が形式上、メジロ家に「嫁入り」したことで初めて新たに『吉田』という分家がメジロの一員となったということになります」

 

「なるほど。ちなみにメジロの娘が東京トレセンに入学するのは限りなく異例、ってのも聞いたんだが、そこんとこはどうなっているわけ?」

 

「……私も本家の方々の事はあまりよく存じていないんですが、珍しいということは間違いないようです。そもそも、東京のメジロ別邸で分家の者が暮らすこともあまりないみたいで、現に両親は私の入学と共に淀に呼ばれて、今あの家にはハウスキーパーしかいませんので」

 

「え、お前の両親、今東京じゃねえんだ?」

 

 わたし、前に一応その話したんですけどとマックイーンは口を尖らせた。

 

 

 

 しかし、広大な大地だ。空港を出てすぐにそのことを実感はしていたが、いざこの巨大な湖を目の当たりにすると、余計にそう思う。

 

「洞爺湖は東西に10キロずつ、一周50キロぐらい。ああ、心配しなくてもそのうちスタミナトレーニングの日に午前午後で2周とかしてもらうから勝手に早朝ランニングで走りこんだりとかすんなよ、後々バテて死ぬぞ」

 

「大きいとは思ってましたがそんなに…」

 

「基本、しばらくはフォームの基礎作りをする。ウマ娘あるあるだが身体能力にかこつけて、フォームの重要さを顧みないやつが意外といるからな。で、それが一通り身についたなってとこでビルド走や持久走で洞爺湖走解禁の予定。常識的な範囲なら、朝練でランニングとかは問題ないが、あんまり遠くまで行くなよ、熊とか普通に出るからな」

 

熊。それは流石にウマ娘の体でも相手したくないもので、無言でマックイーンは頷いた。

 

ほら、もう着くぞと告げる武川。

 

 

 

広大な敷地に芝、ダートのコース、ウッドチップの坂路。

古ぼけた看板には、「Lake Villa Takekawa」。

 

 

 

*1
英国の自動車メーカーのベントレー社が製造するラグジュアリークーペ、コンチネンタルGTのこと。武川の持つコンチネンタルGTは2010年発売の二代目。

*2
フェラーリ社の製造していたスポーツカー、458イタリアのこと。

*3
東京都新宿区の地名。目白駅徒歩7分程度の場所に大きな欅の木が目印となるメジロ家別邸がある。なお、この世界における目白駅はこの別邸から名づけられている。

*4
吉田家は大久保利通や美濃佐藤氏をルーツとしているが、さらにルーツを辿ると祖先に藤原秀郷が名を連ねる。なお、史実にて藤原秀郷は藤原本流ではない。

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