窓の私にできること   作:とうひ

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離れゆく救世主と気付けなかった男と女



あの日、窓の私にできなかったこと

 変わらないことがある。

 それは、目の前に横たわる事実だ。

 例えば、どんなに〝正しく〟生きてきた人間であろうと、どんなに多くの人間の命を救った人間であろうと、そこにどんな理由があろうと、人を殺した人間は殺人者なのだ。過去に善行を積んできたからと言って、その罪がなかったことになるわけではない。

 四角い箱のなかでは専ら、無意味な会話が繰り広げられている。

「いつも挨拶をしてくれる子だったのに、信じられません」

「やっぱりどこかあそこの子はおかしいと思っていたのよ」

 その程度の情報が何になる。近所に住んでいただけで、その為人がわかるわけがないのだ。それなりに時間を共有して、それなりに対話を重ねて、それでも他者という人間を完璧に理解することはできない。困難なのではない。できないのだ。別々の人間として生まれてしまったからには、それは決して変えられない事実である。

 髪が伸びたな、と思った。

 あの頃。一括りのひっつめられたお団子ヘアーだった夏油さんは、写真のなかで長い髪を開放し、その半分だけをハーフアップのお団子にすると大口を開けて笑っていた。

 私の知っている夏油さんは、大人びていて、とても大口を開けて笑う人ではなかった。もしかしたら、私には見せていなかっただけで五条さんたちの前では見せていたのかもしれない。だって、中学生の私からすればずっと大きなお兄さんにしか見えなかった夏油さんも、まだ子どもだったのだから。

 送られてきたもう一枚の写真を見る。

 やはり、こちらの写真でもハーフアップのお団子ヘアーで彼は笑っていた。こちらの写真は先の写真とは異なり、目と口に弧を描いた、どこか怪しげな笑い方であった。

 その、私が知る夏油さんとは程遠い姿に胸が痛くなる。

 彼は送られてきた写真全てのなかで笑っていたのだ。一つ一つ、笑い方が違えど、確かに笑っていたのだ。

 たくさんの人を殺しておいて。

 自分の親さえ殺めておいて。

 他者からなど影響を受けなさそうな五条さんをあれだけ変えておいて。

 私にあんなの言葉を残しておいて。

 私たちをこれだけ寂しい気持ちにさせておいて。

 夏油さんは、写真のなかで笑っていた。その様々な笑顔の形を見て、やっぱり胸が痛くなる。私たちとは違う場所で、夏油さんが高専の人ではない人と時間を刻んで、新たな〝夏油傑〟を積み上げてしまったのだとわかってしまったからだ。

 こんな形で彼の成長を目の当たりにするなんて、あの頃は思いもしなかった。

 高専から送られてきた通達メールを全て確認すると、私は路地でひっそりとため息を吐いた。

 

 

 最初にこのメールが私の携帯を揺らしたのは、私がまだ中学生の頃だ。

 夏油さんと五条さんに肝試しで遭遇した化け物から救い出され、呪術師という仕事の紹介をされ、途方もないその職種のあり方や失った一つの命を偲んだとき、口が動いていたのだ。

「あの。術式がない私でも、何かできることはありますか?」

 私の問いに口元をにやつかせて五条さんは答えた。

「あるぜ、ただ呪いが見えるだけのパンピーにうってつけの仕事がな」

 その言葉に導かれ、私は衝動的に窓になった。

 窓の仕事は、呪いが見えるものとして日常生活を送り、発見し次第、高専に連絡するといったものである。かく言う私も、中学生として勉強や部活に励みながら、窓として呪いを発見しては、支給された携帯を使って連絡を取る生活を送っていた。

 呪いはそこかしこにいる。特に学校となれば尚更だ。部活で訪れる他校、合宿先である怪しげな宿。見えない頃は何も思っていなかったはずなのに、見えるようになってからの世界は恐ろしかった。人の怨念はあちらこちらに眠っている。

 見えてしまう。

 だが、決して自分では対処ができない。

 その現実を受け入れるのに、私は長い月日を要した。

 衝動的に、私も役に立ちたい。私も戦いたい。そう思えたのは最初だけだ。中途半端に高専側の人間であるがゆえに、呪いを発見してから何も見えていない人間たちの生命に責任を感じてしまう。しかし、責任を感じたところで何もできないのだ。見えるだけで彼らとは何も変わらない所詮は守られる側の人間で、呪術師ではない。残念ながら、私に呪霊を祓うような力はない。

 私にできることは、祈るように連絡を済ませた携帯電話を握りしめることだけ。

 それから、駆け付けにきた呪術師の姿を目に留めるとやっと肩の力を抜くことができるのだ。

 もう大丈夫だ。

 私の代わりに、彼らが前線に立って戦ってくれるから。

 だから、もう大丈夫だ、と。

 気が付けば、自分がわからなくなっていた。戦えないことを言い訳に恐ろしい戦いから逃れ、代わりに戦いを強いているのか。見えるだけで、己ではどうすることもできない脅威だからこそ相対するのが恐ろしいのか。

 その区別をつけることができなくなった己という人間が化け物のように思えた。そんな化け物を倒すこともできないまま、次から次へと波が押し寄せて、抱えきれないまま中学生の私は海に投げ出された。

 大人になった今も、誰にも話してこなかった『陰』がある。それは棘となって胸を突き刺し、今日まで私を戒め続けている。

 話してこなかったのは、話してしまうことで失望されることが恐ろしかったことはもちろん、許されてしまうことが恐ろしいからかもしれない。私が知る高専の人間は、人のためではないと言いつつも、結局は優しい人間であることを知っている。

 彼らはきっと無責任に許さずとも、この罪を受け止め、一緒に背負おうとしてしまうのだ。それはあってはならない。呪術師の彼らが背負うものがあるように、これは窓の私が背負うべきものなのだから。

 繰り返すようだが、私の呪力は少なく、どうあがいても戦うことはできない。

 できるのは、報告と連絡だけだ。対処は全て呪術師任せ。己が命の危機と恐怖を感じ、逃げてしまいたいくらいの場所へと人を送り込む。それも私が連絡をしてしまったせいで。

 ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるのか?

 窓になってから、汚れているはずもない自分の手が真っ赤に染まって見えた原因はそこにあった。私が連絡しなければ傷つかずに済む人がいる。私が連絡しなければ傷つく人がいる。

 もっと端的に言うならば、私が発信をかけることをためらったせいで何も見えていない非術師に大きな怪我を負わせたことも、私が連絡をしたことで助けにきた呪術師が命を落としたことも、どちらもあった。

 どちらもの責任が両肩にのしかかり、見えるだけで何もできない歯痒さよりも、窓になってしまったがゆえに向き合わなければならない命たちに心が軋んだ。何度も辞めてしまいたいと思った。なんで私が、と姿も形もない何かに対して泣きわめきたくなったことは数えきれないほどある。

 しかし、逃げ道はどこにもなかった。

 見えるようになってしまった。それは捻じ曲げることのできない現実であり、たとえ窓を辞めたところで、見えなかった頃の世界で私は息をすることができないのだ。窓を辞めたら辞めたで、能力を活かす場所から逃げた罪悪感が襲い掛かるに違いない。

 結局のところ、私は世界が一変したあの日から生き方が一本道だ。

 こんなことならいっそ──。

 衝動的に考えてから踏みとどまった。それはあってはならない。その道に逃げることも許されない。その道を選ぶということは、あんなにも簡単に命を散らしたまなみちゃんという存在を穢す行為であり、私を助けてくれた夏油さんたちを貶す行為である。守られているからには、私も何かの形で彼らを守らねばならない。救われた命だからこそ、軽んじることは許されないし、彼らに恥じない人生を歩まねばならない。

 それは、まごうことなき『呪い』であった。私は、この『呪い』に苦しめられ、生かされている。

 だから、私にこの『呪い』をかけた筆頭者たる夏油さんが「人を殺めた」と聞いたときは何も考えられなかった。

 私が夏油さんの何を知っているかと問われれば、彼の親友である五条さんには劣るだろう。それでも、彼を全くの他人というには彼を知りすぎていた。私は夏油さんがそばを好きなことを知っているし、好き嫌いをしないことも、格闘技が得意なことも知っている。それから、彼の手がとても大きくてやさしくて多くのものを救ってきた手であることも知っている。彼はとてもやさしい人間なのだ。初めて呪いを目にして身動きがとれない私を安全な場所まで避難させてくれたのは他ならぬ夏油さんだった。

 夏油さんは、私が窓になると決めたとき、一つのメモを渡した。そのメモには、やや右上がりだが、お手本のように綺麗な文字でアルファベットと数字が並べられていた。文字の並びから、それらが彼のメールアドレスと電話番号であると、私にはすぐにわかった。彼は特大の個人情報をもったいぶりもせずに数刻前に出会ったばかりの私に差し出せる善人なのだ。夏油さんは、そのままメモを四つ折りにすると、呆然としている私に握らせた。

「いいかい、奴らとは決して目を合わせてはいけないよ。見つけたらすぐに高専へ連絡をするんだ。もしも、高専からの派遣がすぐに来なければ私に連絡をしてくれ。任務中でなければすぐに現場に駆けつけるから」

 夏油さんはそこで言葉を区切る。そして、小さく息を吸ってからじっと私を見つけた。

「約束できるね?」

 私にメモを握らせる夏油さんの手はひどく熱かった。熱と視線から、出会ったばかりの私の命を案じてくれる夏油さんの優しさが感じられる。まるで、祈りを詰め込んだ聖人の手みたいに力強かったあの感覚は、アドレス帳で彼の連絡先が視界に入るたびに思い出されて、消えてくれない。彼の手は救う人の手で、やさしい人の手だった。それは、今も私が覚えていて変わらない事実なのだ。

 あのとき、真剣に私へ語りかける夏油さんの横で五条さんは何をしていただろうか。正直なところ、思い出すことはできない。

 ただ、窓という職業を私に教えたのは五条さんだったくせに、彼はそこまで私の身を案じていなければ、連絡先も寄こさなかった。なんやかんや、夏油さんに連絡をすれば、彼も一緒に現場に現れて呪霊を祓ってはくれたけれど。

 でもやっぱり、私という一人の人間の命を大切にしようとしてくれている夏油さんと窓として私を見ている五条さんでは、送られる視線に差があった。

 だから、あの頃の私は五条さんに助けてもらった身にもかかわらず、五条さんがほんの少し怖かった。察しの良い夏油さんはそれを見抜いていただろうに、夏油さんに連絡をすればたいていの場合は不機嫌そうな五条さんを連れて来たし、夏油さんにかけた電話なのに五条さんに取らせたり、休日に緊急事態と呼び出されたと思えば家入さんを含めて四人で映画鑑賞や食事につれていかれたりと意図して私と五条さんの間に接点を作ろうとしていた気がする。たぶん、少々浮世離れした価値観を覗かせる五条さんを私という社会と結びつけたかったのだと思う。

 その証拠に、連絡を入れたある日。相変わらず夏油さんは五条さんも連れてきた。二人の手によって簡単に呪霊が祓われ、五条さんは「こんな雑魚に俺らを呼び出しやがって」と言って呪霊を祓うと苛立たしさを隠しもせずに一人先を行ってしまった。

 お礼を言うために必死に追いかけても五条さんの背中はどんどん小さくなっていく。どうあがいても、私では追いつくことができない。諦めるようにして歩くペースを落とせば、真横に夏油さんが現れた。彼は、眉を寄せて申し訳なさそうにこちらを見る。

「いつもごめんね。君には申し訳ないけれど、少しだけ悟の社会勉強に付き合ってやってほしいんだ」

「社会勉強ですか?」

「そう、社会勉強。悟は見ての通りだから……だから、悟をよろしく頼むよ」

 夏油さんは眉を下げたまま、口元を緩めてみせた。慈愛を感じさせる穏やかな表情に、私の心も凪の様に穏やかになる。

「私の手にはあまりますよ」

 夏油さんに頼られた喜びは胸に燻っていたが、素直になれなかった私は意地悪な返事をした。しかし、夏油さんは首を横に振ってから断定した。

「そんなことはないさ。私にはわかる」

 私の真横を歩く夏油さんは先を行く五条さんを見つめると困ったように笑う。

 五条さんとあまり変わらない大きな身体を折り畳むことで私と視線を合わせ、歩幅狭めて私のペースに合わせる夏油さんの思いやりは、見えるだけの私にも同級生の五条さんにも等しく注がれていた。

 父でも、母でもない。もちろん、血のつながりなんてない。そんな他人を心から大切に扱うことができる人間に出会ったのも、親や教師を除いて年上の人とこんなにも関係性を築いたのも、夏油さんが初めてだった。

 だから、たった三つしか変わらない夏油さんがとてもお兄さんに見えていたし、どこかふわふわとした心地で自分とは全く別の生き物に見えていた。不思議な話だが、根っからの呪術師である五条さんよりも温厚でこちら側に近い感性を持っているはずの夏油さんの方が私にはよっぽど遠い人に思えるくらい。

 それくらい、私は夏油さんに憧れていたのだ。時間を重ねればいつか彼のような大人になれるのだろうか。あんなにも視野が広くて、気配りができるのはどうしてなのだろうか。わからないことだらけだし、『呪い』がなければ平然と現実から逃げようとしていた私に彼のようになれるわけがないとわかっていた。

 しかし、逆立ちしても彼のようになれないという事実が、彼に対する憧憬の情を消してくれることはなかった。それから、彼に寄せる無責任な信頼も消えることはなかった。

 間接的に人を傷つけてしまうかもしれないという恐怖に打ち勝てなかった十四歳の私は、夏油さんたちなら絶対に大丈夫だと信じ、必然と彼らを頼ることが増えていた気がする。根拠なんてものはどこにもないのに。彼らだって同じ人間なのに。それを出会ったばかりの日は知っていたはずなのに。窓としてあちらの世界に近付けば近付くほど期待と信頼を無意識に押し付けていた。彼らはそれを見抜いていたのだろうか。やさしいあの人は、最後まで言及することなく、電話が繋がるたびに優しい声で「すぐに行くから大丈夫だよ」と私を宥めてくれた。

 だからこそ、あの日。いつも通り高専からの通達に目を通したとき、目の前に並ぶ文字を読むことはできても、理解することはできなかった。

 

『高専三年 夏油傑が旧■■村の住人百十二名を殺害。その後、両親二名を殺害。未だ逃走中の夏油を呪術規定九条に基づき、呪詛師として処刑対象とする。対象を確認した窓は高専へ連絡することを義務付ける。以上。』

 

 淡々と語る画面の向こうのなかには私の知らない人がいる。

 嘘だ。そんなはずはない。

 そんなありきたりな言葉だけで脳が埋まって、衝動的にあの番号にかける。発信音がなり、たったのツーコールで彼は出た。

『やあ、まどかちゃん。どうしたんだい? もしかして、呪霊を見かけたのかな? すぐにそこへ行くと言いたいところなんだけど、遠方任務中でね。すぐにまどかちゃんのところに行けるかわからないんだ。悟もすぐそばにいないし……。まどかちゃん? 大丈夫かい? まどかちゃん?』

 電話口からは、変わらない夏油さんの声が聞こえる。優しくて、頼りになって、大きな手で私たちの平穏を守ってくれる強い夏油さんがこの音の向こうにいる。

 やっぱり、あの通達は誤りであったのだ。

 私たちをいつも助けてくれる夏油さんが─何よりも私を助けてくれた夏油さんが、大量虐殺なんてするはずがない。ましてやご両親を手にかけるはずがないのだ。一瞬でも信じてしまったことに恥ずかしくなる。

『まどかちゃん? 泣いているのかい?』

 目の前にはいない夏油さんは、私に対して気遣わし気に声をかけた。心なしか、その声は揺れていた気がする。いや、震えていたのは携帯を握っていた私の手だったろうか。

「夏油さん。あの、あの……」

 なかなか切り出せないで言葉に詰まる。誤情報だったとしても「夏油さんが人を殺したって聞いて」など口にすることができない。そんな嘘を信じたなど口が裂けても言いたくない。けれど、夏油さんにはそれで事足りたようだった。

『なんだ、もうそこまで情報がいっているのか』

 やけに冷静で俯瞰的な夏油さんの声が私の耳を打つ。彼は、さほど驚いていない様子で、事務的に感嘆のため息を吐いた。

「夏油さん、あの、夏油さん。情報って何のことですか? 高専から来たメールのことですか? 嘘……ですよね。夏油さんが……その、そんなことするわけないですもんね。何があったんですか。五条さんと一緒じゃないってこの状況であの人は何をしているんですか。もしかして、これって陰謀ってやつですか。夏油さんがいい人だから誰かがはめようとしているとか……」

 混乱のあまり、私はまとまらない頭で言葉を並べた。どれでもいい。どんな理由でもいいから、夏油さんに否定してほしい。あのとき、頭を占めていたのは崩れゆく夏油さん像を必死に保つことだった。

 思えば、これも甘えだ。恐怖や混乱で落ち着けないとき、助けを求めて夏油さんに連絡すると彼は「大丈夫だよ」と柔らかな声で諭してくれたから。

 だから、あのときも「上層部のつまらない冗談だからね。大丈夫だよ」と言って、安心させてくれると信じていた。

 だが、彼は「大丈夫」とは言ってくれなかった。

『事実だ。私の世界に猿はいらない』

 大きな手で包み込むような温かさはなく、淡々とした声が期待を打ち砕く。聞きなれていたはずの響きに存在するのは、切り捨てるような鋭さだけだ。特に、乱雑に吐き捨てられた猿という単語には深い断絶を感じた。

「どうして、夏油さん──」

 わからなかった。なぜ、夏油さんがそんなことを言っているのか。なぜ、彼が電話に出てくれたのか。なぜ、人を殺めたのか。

 心のなかで問いつつも、どれ一つも形にすることができなかった。できたのは、惨めに泣くことだけだ。でも、夏油さんは決して慰めてはくれない。この状況で、電話口を通してこちらへと音を紡ぐのが本当に夏油さんだなんて、信じることができなかった。

 言葉に詰まり、しゃくりあげる私の声だけが通話を埋める。岐路の前で立ち尽くす私の真横に立ってくれた夏油さんはいない。知らない夏油さんがそこにいる。背中を見せて遠ざかっていく。その大きな身体で、前へ前へと進んで行ってしまう。たった一人で。

 ついに、突き放す言葉が泣き声の隙間を縫って携帯を揺らした。いつも優しさと自信であふれていたはずの夏油さんが吐き出したにしては、ひどく震えている言葉だった。怒りにしてはあまりにはお粗末な震え。

 彼は私に話しているようで彼のなかに落とし込むような、鋭い切っ先を私ではなく彼自身に向けているような不安定さを隠しきれていなかった。

 だが、私にとってその言葉が決定打だった。

 きっと、夏油さんにとっても決定打となったその言葉。

『君に何がわかる』

 夏油さんはそう言った。

 耳に押し当てていた端末が急に遠ざかった気がした。

 もう手遅れなのだと悟る。夏油さんは何をしようと歩みを止めないと理解したのだ。否、彼自身も止めることができないところまで来てしまっているのだろう。

 夏油さんもただの十七歳の男の子だったのだ。

 すごく背が高くても、優しくても、強くても、多くのものを救ってきた呪術師でも、それは変わらない事実なのだ。

 駄々を捏ねる私に対して、夏油さんが唯一見せてくれた弱さ。それが、あの言葉に違いない。やっと、彼は見せてくれたのだ。呪術師で、頼りになるお兄さん以外の顔を、私に。

 何か言葉を返さねば。ようやく聞かせてくれた彼の声に応えねば。そう焦れば焦るほど、何も返すことができなかった。

 いま、夏油さんがどんな顔をしているのか電話越しでは何もわからない。彼がどんな言葉を望んでいるのかもわからない。戦い続ける苦悩も本当の意味ではわからない。わかることよりも、わからないことの方がずっと多い。

 そもそも、私に「わかる」こととは、何があるのだろうか。

 悩んでいる間にも、通話時間は増えていく。

 迷っている暇はない。

 沈黙を埋めなければ。

 何か言葉を返さねば。

 はやく。

 はやく。

 はやく!

 徐に、息を吐く音が耳を撫でる。焦りが増す。喉を震わせることができず、唇だけが震えた。言葉は出てこない。待って、と引きとめることすらできない。

 そして。

『ツー・ツー・ツー』

 電話は切れた。

 手汗で滑りそうなくらい強く握りしめた二つ折り携帯の上部は冷たく、再びあの番号へかける勇気は私にはなかった。私は携帯を片手に、道端で立ち尽くした。

 それから、間を置かずに再び携帯が揺れた。

 着信相手を見れば望んだ相手ではなく、知らない番号が並んでいる。私はそれを一度、無視した。きっと、良くない知らせだと思ったから。もしかしたら、夏油さんにかけたことがバレたかもしれない。夏油さんとのことを問われるかもしれない。

 なぜだかは名言できないけれど、あの通話を知られたくないと思った。もちろん、通達にも従いたくなかった。一方で、彼を見逃すことで人が死んでいくかもしれないと思うと恐ろしかった。

 すなわち、自分のせいで人が死ぬこと。私が隠すせいで夏油さんがその手を赤く染めていくこと。どちらも恐ろしく、逃避していたかった。

 私の感情など無視して電話は鳴り続ける。電話に出ないでいれば、履歴に番号が残る。そのあと、また携帯が鳴る。よく見れば、履歴がいくつも重なっている。私が夏油さんと通話していたときからずっとかけられていた電話なのだろう。

 この電話から私が逃れる術などないのだ。この相手が誰であれ、通達を見て即座に私を疑った人物なのだからいずれ捕まる。

 意を決して、発信ボタンを親指でゆっくりと押した。二つ折りの携帯を精一杯握りしめて、耳に当てる。手はもう震えなかった。代わりに口が渇いて、誤魔化すように強く唇を噛み、相手の出方を待つ。

『やっとつながったか。おい、オマエ無事か』

 開口一番に問われると思っていた夏油さんに関して、電話の向こうの人物は問いかけなかった。ただただ、私の安否を問う言葉が閉ざされた思考に割って入ってくる。それも繰り返しだ。大声での呼びかけに携帯が少し揺れる。

『宇井戸、返事しろ!』

 苗字を呼ばれて、ハッとする。そして、問いかけくる声をよく聞けば、相手は見知った人間であると気が付いた。この人に「おい」とか「オマエ」とか「クソガキ」以外で呼びかけられるのは初めてだ。

 彼が私の名前知っていたことに対して、細やかな笑みが漏れる。この向こういる人物はきっと、夏油さんを悪いようにはしない。安心で胸が温かくなり、肩の力も抜ける。

「なんで五条さんが私の連絡先を知っているんですか」

『さっさと無事かどうか答えろ! 傑は? 傑には会ったか?』

 五条さんは私の質問には答えることなく、問いかえす。珍しいことに、彼の息は少し上がっていて、慌てているのが手に取るようにわかった。五条さんは破天荒な人だけれど、馬鹿な人ではない。残酷なまでの冷静さをどこか持ち合わせていたはずだ。

 夏油さんとは違った意味で、知らない姿を五条さんが私に見せている。そのきっかけを作ったのは─。

考えると、一度落ち着いたはずの涙が再び視界を埋める。私は五条さんをなだめるように、努めて落ち着いて返事をした。無論、泣いていることは悟らせないように。

「どこもなにもありませんし、夏油さんにも会ってないです」

『そうか、ならよかった』

 捲し立てるように話していた五条さんが、やっと安堵の声を出した。会ってはいない。けれど、話してはいた。嘘は吐いていないが、どこか後ろめたさが足元に転がった。それを振り払うように、いま一番自分が欲しい言葉を五条さんへと送った。

「五条さん、大丈夫ですか?」

『ハァ? 何がだよ』

「私は、大丈夫じゃないです。だから、きっと五条さんはもっと大丈夫じゃないだろうなって。ねえ、五条さん。大丈夫ですか?」

 五条さんに身を案じられたのは初めてのことだった。おかしな行動をとるということは、彼もそれくらい助けを欲しているのかもしれない。現に、私は何かに縋りたかった。推測でしかないけれど、親友が離れて行った五条さんはもっと苦しいはずだ。

『それに答えて何になるってんだよ』

「何にもなりません。ただ、五条さんが大丈夫かどうか知ることができます」

 全部推測でしかない。私と五条さんは別の人間だから言葉にしてくれなければ、わからない。話してほしいと思った。夏油さんがいない今、彼は誰に抱えた気持ちを吐き出すのか。きっといないだろう。私では役不足かもしれない。

 だが、それは彼に寄り添うことを諦める理由にはならないのだ。きっと、今じゃなければいけない。彼が彼自身と向き合うのを逃してはならない。今を逃したら、きっと二度と治ることも向き合うこともできない傷になる。

「大丈夫?」

 祈るような気持ちで問いかければ、私の声は「大丈夫」からかけ離れていて、よっぽど私の方が参っているようにしか聞こえなかった。それでも、黙って問い続けた。沈黙が間を埋めても、通話終了ボタンは押さなかった。彼自身の感情と向き合う五条さんの言葉を、私はひたすら待った。

 ふと肩に衝撃があって、己が街中で電話をしていたことを思い題した頃、ようやく五条さんは口を開いた。

『たぶん、オマエとおんなじ気持ち。忙しいからまた連絡する。今度からなんかあったらこの番号にかけろ。行ける範囲でそっちに行く。だから、必ず連絡しろ』

「はい」

『じゃあ、切るからな』

 そっけない声だった。でも、それで充分だった。背中しか見せてくれなかった五条さんが初めて、立ち止まってまっすぐ向き合って話してくれた。そして、その言葉から私も彼を知ることができた。何よりも、このそっけなさこそがいつもの五条さんだ。

「五条さん。私、五条さんの力が必要なとき、この番号にかけます。だから、五条さんが大丈夫じゃないときは、私の番号にかけてください」

 五条さんは特に返事をせずに、通話を切った。受話器の向こうの音だけで構成されていた世界が再び、街の雑音に飲み込まれる。交差点の向こうは知らない人間でいっぱいだ。彼らは皆、周囲を見る余裕などなく、各々が背負わされた目的を果たすために右へ左へと進む。これだけ周りに人がいるのにもかかわらず、私は数多にも散らばった孤独の海に、たった一人で浮かんでいた。

 一言くらい言ってから切ってくれればいいのに。やっぱり五条さんは相変わらずの性格だ、と心の中で独り言ちる。あのように言ったものの、五条さん自身が辛いとき、きっと私を頼ってくれることはないのだろうな、と心のどこかで薄々感づいていた。実際に、切羽詰まった様子の五条さんからかかってきた電話は、これが最初で最後だった。

 五条さんは、夏油さんがいなくなってより大人になった。術師としてのあれそれに関してはわからないけれど、夏油さんの穴を埋めるように、五条さんの一部は少しずつ夏油さんを取り込んでいった。

 最初に、一人称が変わった。続いて、話し方が少し柔らかくなり、年下の人間を名前で呼ぶようになった。私も含めて。五条さんは、夏油さんがくれた他者を慈しむような響きで私の名を呼ぶのだ。それが、とてつもなく寂しかった。

 五条さんはますます完璧へと近付いていった。二人で補い合っていたものを一人で完成させるかのように、誰の手を借りることもなく大人になっていった。

もしかしたら、夏油さんが離れたから、彼は大人にならざるを得なかったのかもしれない。五条さんがのびのびと暴れ回る横には、いつも夏油さんがいたから。そんな横暴な五条さんをフォローしてくれる人はもういない。私と五条さんを繋ぐ人も、もういない。

 だが、私と五条さんの縁は不思議と続いた。

 それは、他ならぬ夏油さんによって作られた縁であり、夏油さんが消えたからこそ強固になった縁だった。

 あのとき、どうしてあんなにも五条さんが冷静さを欠いた状態で連絡をしてきたのか、今ならわかる。きっと五条さんは、夏油さんが私を殺めるのを恐れたのだ。弱者を守ろうとする夏油さんが、百十二名と両親を殺した。それだけでも大きなショックだったに違いない。されど、五条さんにとって彼らは顔も名前も知らない存在たちであった。要は、どこか信じられない気持ちがあったのだと思う。私ですら、処理するのに時間がかかったのだから間違いない。

 しかし、私を殺めていたらどうなのだろうか。

 自分に特別な価値があるとは言わない。ただ、夏油さんは仕組んだのだ。非術師という存在をよく知らない五条さんに、私から非術師という存在を教えこもうとした。実際、それは成功していた。だからこそ、五条さんは私に電話をかけてきたのだ。

 彼らが共通して知っている非術師である私が夏油さんの手にかかるのを避けたかった。彼の願いはおそらく、そこにある。それを夏油さんが実行してしまったら最後、五条さんのなかで夏油さんが崩れてしまうから。

 だから、気にかけてくれたのだろう。もとより、彼も傲慢ではあったが、悪人ではない。私へまっすぐに寄せる善意も少なからずあっただろう。だとしても、五条さんからの気遣いにはいつも夏油さんが見え隠れしていて苦しくなる。

 五条さんはあれから「大丈夫じゃない」ときはあったのだろうか。「大丈夫じゃない」けれど、電話をくれなかったのか。一人でも立っていられるくらい完全に近づいてしまったから「大丈夫じゃない」ところまで追い込まれることがなかったのだろうか。どちらにせよ、五条さんは、彼自身のことで私には連絡を寄こさなかった。電話がかかってくるのは、彼の学生に関してばかりだ。

「僕は非術師視点とか、息抜きとかよくわかんないからさ。まどかが繋いであげてよ」

 優秀な五条さんは仕事を振るのもうまい。これは彼なりの頼り方であり、私にできることを示してくれているのだ。

 私は彼の夢を知っているし、そのために後進の育成が大切なことも、何よりも学生たち一人一人と向き合って指導していることを知っている。息抜きの手伝いを頼まれている。

 言い換えれば、学生たちの心を守るよう頼まれている。きっと、私は信頼されているのだろう。その信頼が誇らしくも、苦しい。それから、救いにも似た穏やかさがあった。

 一言では言い表すことができない彼からの信頼。夏油さんはくれなかったその感情と向き合うたびに、あらゆる『もしも』を考えてしまう。

 窓という仕事を教えてくれた五条さん。出会った頃は、背中しか見せてはくれなかった五条さん。彼は、夏油さんのようにペースを合わせてくれることはないけれど、時折、立ち止まって振り返ってくれる。

 ゆえに、私は安心できるのだ。

 今はまだ、この人が一人ぼっちになることはない、と。

 あの日、「大丈夫?」と声をかけたのは呪術師の五条さんに対してではない。親友が離れて行ってしまった一人の青年に声をかけたのだ。一人のやさしい青年を失った彼と感情を共有したのである。

 私は窓だ。呪術のことは詳しく知らない。変わりゆく夏油さんにも気が付かなかった。彼の言う猿が何なのかもわからない。

 しかし、やさしい夏油さんを知っている。夏油さんといた五条さんも知っている。それから、夏油さんが去ってから変わっていった五条さんのことも。

 悔しいことに、呪術師最強の五条悟にも、将来有望な呪術高専生にも、特別な何かはできない。

 そんな私でもできること。

 あの日の私には、できなかったこと。

 それは、変わらずに彼らを一人の人間として扱い続けることだ。

 五条さんが振り返らなくなったとき、他者を頼らなくなったとき、「大丈夫?」と肩を叩くのが私の役目だ。それまでは、彼が振り返ったときに寂しくないように、近すぎず離れすぎず、斜め後ろから彼を追いかけ続けよう。決して彼の背を見失わないように。守られるべき、愛すべき彼の子どもたちを支えられるように。

 

 

 

 

 

 




それでも、彼が彼女を救った事実は生き続ける。
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