「お姉さんが奢ってあげるから好きなのを選びなさい」
ウェイターの女性がお冷と一緒に置いていったメニュー片手に、お決まりのセリフを言う。いつも通り伏黒くんと野薔薇ちゃんは礼を言い、メニューを受け取る。彼らは集合直後に仲良く言い争っていたのが嘘のように、一つのメニューを二人で覗き込む。厚みのないメニューは一ページずつゆっくりと伏黒くんの手で捲られていく。時折、その手が止まっては「こっちなら丁度四人で分け合えそうじゃないか」と伏黒くんが呟き、瞳を輝かせた野薔薇ちゃんが「これ期間限定らしいわよ」と声をあげてメニューを指差した。
でも、虎杖くんだけは違った。
彼は、じっと何かを言いたげにこちらを見ている。気が付いた私は何も言わずに笑って首を傾げた。彼が言いたいことはわかっていた。もちろん先回りして、気にするなと言うことはできる。だけど、彼自身が自発的に口にすることに意味があると考え、受け止められるよと目線だけで訴える。
そうすれば、虎杖くんはごくりと息を呑んでから口を開いた。
「いつもまどかさんに奢ってもらってばっかりじゃ悪いよ。俺たちだって任務でそれなりに稼ぎがあるよ」
おそるおそる語られた言葉は、想像通りの答えだった。小さい頃からそれなりに五条さんに連れ回されて奢られてきた伏黒くんは年上に可愛がられ上手だ。私とよくお出かけに行く野薔薇ちゃんもそう。
でも、虎杖くんは少し違う。彼らとの会話で五条さんには大人しく奢られるし、自分からも「アレが食べたい」と主張できる性格であると知っている。
しかし、それと同時に彼は気遣い屋さんなのだ。素直に子ども扱いされることにあまり慣れていない。お爺様と二人暮らし。お爺様の面倒を見て、自分で自分の面倒も見て、苦労をしてきた子なのだろう。その分、大人に甘えるのが少し苦手。きっと彼自身はその事実を自覚していない。
ただでさえ呪術師として過酷な道を歩む彼のことだ。きちんと子ども扱いしてくれる人は、彼がただの子どもであれる対象の人は、どれだけいるだろうか。七海さんと伊地知さん、それから五条さんくらいか。五条さんは、ちょっと五条さん自身に子どもらしい一面があるから微妙だけど。
でも、虎杖くん。君は子どもなのよ。甘えていいのよ。
呪術界で彼を子ども扱いしてくれる人が彼らなら、その外では誰が彼を子ども扱いしてあげるのだろうか。聞けば、一緒に暮らしていたお爺様はもう亡くなっているそうだ。
見た目は筋肉質で健康的、任務をこなしていて金銭にも余裕がある。町を歩けば誰に気にかけられることもなく、あっという間に溶け込んでしまう。むしろ、困っている人に率先して手を差し伸べる。それが虎杖くん。
だけど、きっと虎杖くん自身も助けられて、庇護されるべき子どもの一人だ。
どうか、それを忘れないでほしい。
頼っていいこと。
助けを求めてよいこと。
素直に可愛がられること。
それら全てが社会に生きる子どもとして彼が所持している当然の権利であることを。彼は呪術界で一人の呪術師として任務に就く学生であると同時に、この社会に生きる一人の子どもなのだ。そして、彼が社会のなかで子どもとしてあれる瞬間を作ってあげられるのは、彼らが守っている社会に属しながら、虎杖くんを知っている私だ。
虎杖くんだけではない。本当は触れたい。ふとした瞬間に、伏黒くんが、痛そうに眉をしかめ、脇腹を押さえる理由。前回会ったときに野薔薇ちゃんが嬉しそうに見せてくれたネイルが剥げている理由。声を掛けたい。「大丈夫? どうしたの?」と聞きたい。 話を聞くことで、呪術師としての彼らにも寄り添いたいと思った。
でも、その仕事は私ではなく、五条さんたちの仕事なのだろう。敢えて任務や呪術界のことには踏み込みすぎない。我慢をする。でないと、私まで彼らにとって呪術界側の人間になってしまう。それではダメなのだ。限りなく呪術界に近いけれど、私が生きるのは彼らが守ってくれている世界の住人なのだ。その世界と彼らを繋ぐのが私の役割であり、任務であったことの一部に対しては何も知らないふりをして、ただ「ありがとう」と「おかえり」を伝えるのだ。
彼らが何も気負わずいつでもこの世界に帰ってこられるように。
彼らが帰ってきたいと思えるような場所を守れるように。
願いを込めて、そのように努めるのが私の役割なのである。
「あのね、虎杖くん。貴方たちは呪術師である前に子どもなのよ。だからね、私みたいな大人には大人しく奢られて、可愛がられて、のびのび元気に休暇を過ごしていいのよ」
「でも……」
口籠る虎杖くんは、私の顔とメニューに視線を行ったり来たりさせる。メニュー表には、いくら育ち盛りの子ども相手とはいえ三人分余分に出したとしても問題ない金額が並んでいるだけだ。それは虎杖くんもわかっていることだろう。私は歯痒いと思った。
彼に気を遣わせてしまうような自分の配慮能力も、呪術界の外の人間に甘えることを躊躇う彼のことも。
だから私は、祈りをこめて口にする。約束というにはあまりにも儚く、願いというにはあまりにも独善的すぎる言葉を、ゆったりとはっきりと語る。
「ふふ、わかった。気持ちはとっても嬉しいから、みんなが大きくなったら今度は私に奢って頂戴。それでいいから、ね?」
今度は私の目をしっかりと見返した虎杖くんが歯を見せて笑う。
「わかった、約束だからね」
彼は大きく頷き、メニューを覗き込む二人の輪に加わった。それから少しタイミングをずらし、先にメニューを見ていた二人が顔をあげる。彼らはまっすぐに私を見つめると、穏やかな笑みを浮かべて頷く。きっと、虎杖くんに語った言葉は彼らにも等しく届いていたのだ。よかった。彼らは大人になる未来をきちんと思い描いているのだ。
どうか、彼らが健やかに生きてほしい。無事に大人になってほしい。その先にあるのが呪術師なのか、はたまたこちら側に溶け込むのか、どちらでも良い。
ただ一つ。甘えるのが苦手だったあの人のようにならないでね。心の中で祈ると、私は虎杖くんたちに笑いかけた。
変えられないことがある。
それは、過去だ。
例えば、差別をした人間であろうと、どんなに他人の命を奪った人間であろうと、そこにどんな理由があろうと、私が生きているのは夏油さんのおかげなのだ。未来で悪行を積んだからといって、彼の善行は決して消えない。
彼は五条さんを変えた。
彼は私に『呪い』をかけた。
彼は多くの人間を救ったのだ。
過去の記憶を辿る。あの頃の記憶を。
「あいつはクズだ、五条と揃ってクズ野郎どもだ」
「夏油さんはいい人ですよ、僕が保証します」
「俺と傑が揃えばなんでもできる」
私よりも彼と時間を共有して、多くの対話を重ねた高専の方々は〝夏油傑〟という人間をどれほど理解していたのだろうか。彼らはおそらく、私よりも十七歳の夏油さんを知っていただろう。
だが、それでも完璧ではないのだ。
もしも、完璧な理解を示せる人間が彼のそばにいたのなら、あの日に夏油さんが私に対して心の悲鳴を聞かせることはなかっただろうから。
他者を理解するのは困難なのではない。できないのだ。別々の人間として生まれてしまったからには、それは決して変えられない事実である。
でも、わかろうと努力することはできる。
そうやって積み上げた努力の隙間から、ほんの少しだけ相手の世界を垣間見ることができるのだ。理解できないと決めつけて諦めてはいけない。一番大切なことは驕らずに、相手を知ろうとし続けることだ。
窓の私にできることは限られている。術式がないから戦えない。見えるだけで、呪力なんて少ししか流れていない。帳一つ降ろすこともできない。呪術師として生きる彼らから見た世界がどのようなものか、本当に理解することもできない。
だが、忘れてはならない。
私は窓である前に、一人の人間だ。それは、彼らにだっていえることだ。彼らも呪術師である前に、人間だ。まだ学生の子たち。たくさんの喪失を繰り返しながら大人になった人たち。父、弟、息子、友達、教師、名家の当主、孫、婚約者。きっともっとたくさん。呪術師以外にもたくさんの側面を持って生きているのだ。
忘れてはならない。
私にもできることがあるのだ。一度は忘れかけたその事実を思い出させてくれたのは夏油さんだった。彼に何もできなかった。その後悔が今の私を作っている。
もう二度と。
もう二度と、彼のようにやさしい人間が潰れるところを見たくない。
たかが窓が願うには、おこがましい願い事かもしれない。それでも、願わずにはいられないのだ。目の前の若者をあの日の彼と重ねずにはいられない。呪術師という道に骨を埋める気でいる彼らと、人のためにと前線に立ちながら徐々に擦り減っていった彼を重ねてしまうのだ。
私はこれから先の人生において、あの日の『影』を変わらずに、ずっと背中に張りつけたまま生きていくのだ。
人は声から忘れていくと言われているのに、最後の会話を少しも風化させることができないのは、私が忘れたくないからか。彼がかけた『呪い』なのか。
とにかく、こびりついて離れないのだ。「君に何がわかる」という彼が漏らした悲鳴も。私が応えられなかった愚かさも。そもそも応えるには私が幼く未熟だったことも。
あの日に対する後悔の全てが、今の私を形作っている。後悔を背負った先に、救われる人がいる。
彼に救われた命で、彼に呪われて。
彼によって繋がれた縁を辿って。
彼に植え付けられた感情に縛られて。
もし、今。夏油さんを見かけたなら、私は迷うことなく五条さんへ発信をかけることができる。呪霊に関してもそうだ。もう躊躇わない。
夏油さんが救った私が、少しでも多くの人を救ったなら。そうすれば、何かを残せる気がした。そのなかで、犠牲が出たとしても、それは窓の私が目を逸らさずに背負い続けるべき責だ。呪術師が背負う責、補助監督が背負う責、窓が背負う責。きっと、互いが口にしないだけで皆、何かを背負っている。逃げだしたい。でも、この責が、私を〝窓〟たらしめている。私が選んだ道を、確かにしてくれている。この責と向き合うからこそ、救える過去と未来がある。
だから、逃げないし、決して忘れない。
そうして私は〝窓〟として覚悟を胸に、彼らが帰って来られる場所を守り続けるのだ。
窓―呪術師ではないが呪いを視認できる存在。呪術界の要の一つである呪術高専と連携し、呪いを確認し次第連絡する役割を担っている。術式がないので、戦えません。帳一つ降ろすことができません。
それでも。
呪いを視認することができます。
呪いを発見して、すぐに呪術師の方に連絡することで被害を抑えられます。
呪術師の皆さんの存在を知っていますので感謝を伝えることができます。
少々浮世離れした彼らに俗世の話題を教えることができます。
彼らと彼らの守っている社会を繋ぎます。
健康に生きることで彼らが守ってきた成果を示すことができます。
窓の連絡が遅れれば、命を落とす人がいます。
窓が連絡をした結果、命を落とす人もいます。
それらを背負って、窓は立ち続けます。
その影を背負って、窓は窓にしかできないことを続けるのです。
それが、窓の私にできること。