討竜記 作:外典断章
第1話
渾身の力を込めて、全力で鉄の塊を振り下ろす。
今年で十七歳。身体はほぼ完成しつつあった。鍛えた肉体から放たれる一閃は容易く命を刈り取るだろう。自覚はしていたし、戒めもしている。だが今この時は全力でそれを振るう。余計な事は考えず、一切を忘却の淵へ追いやり、ただ己が作り出せる最短最速の斬撃で奪りに行く。何をって? 当然、命を。
威力は十分。首を三度撥ねても足りるほどに。ただ、当たればの話だが。
「四十点」
微笑混じりにそいつは告げる。恐ろしい程緩慢に奴の剣は動いた。全身が総毛立つ。火花を散らしながら刃が交わる。だが、受けられた感触はなかった。円弧を描く銀閃。ぞっとしない事実だが、俺の剣はあろうことかそのままの勢いで直角に曲がった。くそったれ──どんな絶技だ。受け流したのだろうか。馬鹿言え。受け流すってのはつまり、受けて流すって事だ。奴にはそもそも前提としてその『受ける』動作が存在しない。だから『流し』ているだけなんだ。はは、俺自身何を言ってるのかわからないが、つまりそういう事なんだ!
到底理解の域にない絶技を見せられて戦意を喪失した訳では無い。それは初回だけだ。俺が何度これを見せられて来たと思っている。通算九百九十六回目のトライ、今回は逆らわない。流された軌道に身を任せ、エネルギーを殺さず──逆に右足で地を蹴り上げる。頚椎を狙うハイキック、鉄底の戦靴は相当な破壊力を有している筈だ。だが奴は悠々と自身の左の手甲で受ける。衝撃は伝わった、今回は感覚がある。だが微動だにしない。まるで岩を蹴りつけたかのようだ。鉄で出来てんのかこの女は!
これだけ隙をさらせば当然反撃もある。最も簡単なのは内腿を狙う一撃だろう。想定通り、蹴り足の内腿へと肘が飛んでくる。肘の次は? 肘の先には手があり剣がある。要は、連撃だ。出だしを食い止めるべく即座に足を畳んで後方へ重心をずらす。右半身を差し込むように捻ったまま、奴は剣を振り抜いた。軌道にあるのは軸足、堪らず蹴って跳躍した。だがそんな真似をすれば後の惨状は容易に想像がつく。奴が馬鹿を見るような目を向けてくる。俺はにやりと笑って返した。俺が何も考えず後方へ跳んだと思ったか!
剣を地に擦らせ、それを支点に後方へバク宙。あまりの低空でのバク宙はざりざりと地面を膝に擦らせることでなんとか成功を修めた。へっ、と息を吐いて睨めば、そこにあったのは馬鹿を見る目でこそないが、呆れたような目であった。
「……ネロ。お前、曲芸師にでもなるつもりなの?」
「言っ、てろ!」
助走は二歩。一瞬でトップスピードに到達し、自然体で待ち構える彼女に切りかかる。息を止める。全身に循環する魔力を意識。一連の動きを思考を挟まず放つ!
上段からの袈裟斬り、逆袈裟、勢いを利用した回転斬り、手首を反転させての刺突、刺突、刺突──左に斬り払い右肩からの当て身!
だが、忽然と奴の姿が消えた。一瞬の浮遊感。呆然としていた俺の顎をがつんと、強かに何かが撃った。呻き声すら上げられず地面に転がる。衝撃に瞼の裏がちかちかと光っている。荒く息を吐き出し上下する胸に突き付けられるのは、悠然と立つ彼女の剣先であり。
「一本。攻め手が相変わらず雑ね」
「……うるせぇ」
くそ。九百九十六回目、失敗。心中にそう刻みながら舌打ちする。黒髪を一本に結わえて腰まで垂らした金眼の女を睨み付けた。
「アル。手ぇ貸せ」
「師匠への言葉がなってないわね」
「……貸してください」
「よろしい」
にこりと微笑んで伸ばされた手を強く握り締めて立ち上がる。ん、と声を洩らして伸びをした彼女の背は百七十五センチメルトルはある筈の俺とほぼ同等の目線をしている。
年齢不詳。背は高く金の瞳をした、奇しくも俺と同じ物珍しい黒髪の女。だが間違いなく血縁は無い。鋭く、荒々しさすら感じる美貌から目を逸らして息を吐いた。
「アル、腹減った」
「そ。勝手に作んなさい」
「たまには弟子を労おうという殊勝な心掛けはないのかよ」
「馬鹿ね。敗者の責務よ」
せめて一本取ってから文句を言えと。顔を顰め、むっつりと黙り込んだ俺を見てくつくつと笑い声が響く。九百九十六戦中、今のところ白星無し。およそ五年に渡って剣を交えているが追い付ける気が全くしない。いや、最初よりは遥かにマシになったのだが。一応戦いが成立するレベルにはなった。
「小麦粉、切らしてただろ。あるのかよ」
「…………あっ」
俺は呻いた。今日の昼食は野菜屑と干し肉を煮込んだスープのみになりそうだった。
俺とアルが暮らしているのは、俗に言う掘っ建て小屋というやつだ。基礎なんて無い、あまりにも粗雑に柱をぶっ刺して適当に丸太を組んだものを家と呼ぶのならそうなるのだろう。一体誰が作ったのか知らないが、雨風を凌げればそれでいいという思考が透けて見えるようだ。製作者はどうやら己の住処に快適さを求めるという至極当然且つ真っ当な人間性を何処かに置き去りにしまったらしい。それはアルも同様であった。こいつ本当に女かと疑う程に雑で適当、そして肝が太い。
まあ、そうでもなければ女の身で傭兵なんざやっていない。普通の女ってのは、きっと金持ちの嫁になってせっせと家事をするのが将来の夢なはずだ。
ぐるぐると鍋の中身をかき混ぜる。スープ──腐りかけた部位を切り落とした野菜屑と岩の如く硬化した干し肉をぶち込み、山菜と言えば聞こえのいい雑草と香草と呼ぶ事で品性を辛うじて保っている雑草をぶち込んでかき混ぜた汁をスープと呼ぶかどうかを論点に討論を行いたくなる──に塩を細かく足して味をギリギリ食える程度に底上げし、ふぅ、と一息つく。季節は冬の山場を越え春に差し掛かろうかというタイミング、備蓄の干し肉をすり減らしながら凍傷に怯える日々は別れを告げたとはいえ、まだ肌寒い頃合だ。外に散策しに行ったあの女を呼ぼうかと考えたその時、窓──というよりはぽっかりと空いた壁の穴にそれらしく命名したと言い換えた方がより正確では無いかと思われる場所より顔が飛び出してきた。ぎょっとして目を見開くと、アルがすんすんと形の良い鼻を鳴らす。
「いい匂いね。弟子の腕が上達してるようで何よりだわ」
「さっさと手を洗ってこいよ。その穴から首だけ出して食う気か?」
「それも悪くないわね」
舌打ちすると笑い声を残して顔が引っ込んでいった。そうして仮称テーブルにスープを注いだ深皿を並べていると、ハードレザーの防具を脱いだアルが黒いシャツの袖を捲りながら席に着く。
いただきます──の挨拶などこの世界には存在しない。食前の祈祷がある家庭も存在するのだろうが、生憎とこの家に住む二人は信心深いとは言い難く、よって何も言わずかっ食らう光景が繰り広げられる事になる。煮てもなお胡桃の殻のように硬い肉と必死に格闘する俺を尻目に、スープを飲み干したアルは口を開いた。
「買い出し、お願いね」
「毎回俺だな。アルが行けよ」
「嫌よ、面倒くさい。あ、肉はいらないから。今日からしばらくは熊肉が食べられそうよ」
熊、熊かぁ。中々どうして癖のある脂をした動物だ。
「何、熊嫌いなの? 美味しいわよ」
「あんた何食っても大体美味しいって言うだろ。いや、でかいから血抜きが大変そうだと思ってな」
「そう。お気の毒様」
他人事だと思いやがって。恨みがましく視線を送れば、頬に指を当てて呟く。
「そう言えば、そろそろ貴方の誕生日だったわね」
「……おお。よく覚えてんな」
「何よ。私が忘れたことなんてあったかしら?」
「いや、無いけど……」
当の本人すらも忘れかけていた事をよくも毎年覚えているものだ、と思っただけだ。何かとかけてずぼらな女だが、こういう所はしっかりしているのが尚更腹が立つ。
「こういうのはしっかりしておくべきでしょう」
そんな事を宣う様に顔を顰めて目を逸らした。こんな事を言っておきながら、自分の誕生日はもう覚えてないとか言い出すもんだから卑怯というか卑劣というか。
「……だからって、誕生祝いに持ってくるもんに毎年悪意を感じるんだが」
「あら。肉は嫌い?」
「嫌いじゃないが一頭まるまる持ってこられても捌くのは俺なんだよなぁ!」
どうやってあの細腕で運んだのか甚だ疑問だが、くそでかい獣を仕留めては誕生祝いだと言い張るのもそろそろ慣れてきてはいる。いや、役に立たない変な木彫りのトーテムとかよりは余程マシなんだが捌くのが俺なあたり何かが間違っている気がしてならない。
「くそ、今年は馬鹿でかい熊か……」
「腕に
「調理するのも俺なんだよな」
馬鹿でかい溜息を吐く。
……まあ、祝ってくれる気持ち自体は嬉しくあるのだが。ただし言えば調子に乗るので絶対に言葉には出してやるまい。そう俺は固く心に誓った。
鞄に諸々を詰め込んで山を下れば、未だ峰には多くの白が残っているのが見えた。雪解けまでは遠く、しかし観察すれば所々覗く新芽の発露に気付く。冬は明けつつある。背負った鞄には毛皮や煮詰めて瓶に封した獣脂だとかがわんさか詰め込まれており、お陰で歩く度に靴がいつもの二倍は雪に沈んでいた。足を取られながらも歩を進め、白く濁る息を吐いて額に湧いた僅かな汗を拭う。冷えきった手袋の甲で拭ったお陰で体温が更に奪われる。常の事とはいえ、うんざりしながら俺は歩くペースを早めた。麓につけばこっちのものだ。アルから解放されるひと時の安寧、本職が作った暖かいスープと質が悪くもしっかりとした麦酒が待っている。
……あー、なんで俺あんな女と山篭りして修行僧してんだろ。考えればこの暮らしを始めておよそ七年が経ったのか。思い返してみれば感慨深いものがある。
何も初めからあいつと暮らしていた訳では無い。普通の村に産まれて普通に育ち、きっとこのまま村に骨を埋めて死ぬのだろうと子供ながら悟っていた。七年前までの俺はそう思っていたし、まさかこんな事になるとは夢にも思っていなかった。農具を握っていた手で剣を振るい、毎日張り飛ばされているなど考えもしなかっただろう。
普通に生きて、普通に死ぬ。その事に疑問もなく、ごく自然と受け入れていた。
……妙な音がした。それが食い縛った歯が軋む音だと悟る。気付けば森の出口も近い。ゆっくりと呼気を細く吐き出し、気分をリセットする。こんなに殺気立って村に入れば、何があったのかと問いただされるのは間違いなかった。
麓の村に名前はない。強いて言うのなら、この村で唯一姓を持つ村長から取ってローレル村、とでも呼べばいいのだろうか。何せ名前を必要とする場面がない。年に二度の納税に役人が訪れる他には不定期に旅商人が来る程度のものだからだ。
アルから教わった大陸図を思い浮かべる。この村の位置はこの国の中央部からそこそこ北東に進み、山脈にぶち当たったあたりだ。かなり国境ギリギリでありまさしく辺境の地といったところ。しかもこの自然国境を形成する山脈はかなり険しく、行軍するには相当な損耗が予想されるため双方から放置されている──らしい。
らしい、というのは全てが伝聞であるからだ。俺にとってはこの村と山が世界の全てであり、国とか聞かされても全くもって実感がない。まあ、誰にも必要とされていない辺鄙な田舎の村だと思ってくれればそれでいい。
村をぐるりと囲む獣避けの柵の切れ間、一応正門と呼べそうな隙間から足を踏み入れる。誰も外に出ていない。だが騒がしい声が遠方から聞こえてきた。珍しいな、と感想を抱いた所でふと足元に気付いた。
……軽く積もった雪に刻まれた轍の跡。足早にそれを追えば、行先はもはや集会所に近いこの村最大の酒場であり。停められた荷馬車と苔のような草を食むに驢馬を認めた事で確信へと変わった。両開きの扉を押し開けて、騒がしい酒場の中心で囲まれていた人物の姿に俺は歓喜の声を上げた。赤ら顔の男が振り向き、俺は思わず手を振った。
「ニール!」
「おお、ネロくんか!」
頬が綻ぶ。行商人のニール! それは村も賑やかになるはずだ。外部からの客人がほとんどないこの村にとって、行商人の到来とは結構なイベントなのだ。しかもあまりに辺鄙すぎて半ば好意に縋る形で寄って貰っているとなれば、もはや扱いは要人に近い。
ずんぐりむっくり、という形容がここまで似合う男もそうはいまい。まさしく典型的な北部人の中年といった風貌だ。以前見た時よりも生え際が後退している小柄な男はにっこりと俺に向かって笑った。
「久々だな。うん、二年ぶりか? 元気そうで何よりだ」
「ニールこそ。今日はツいてるね」
「我々の出会いは女神に仕組まれていたのさ。偉大なる慈母に乾杯! さ、座って座って」
隣の席を空けてもらい、会釈して腰を下ろす。そして口を開こうとしたが手で制された。ただし厳密には、ジョッキを握った手で──である。少し黄金色の液体に目が奪われる。
「積もる話は多い。ただ、口を滑らかにするのにまずは……だろ?」
俺はにやけて頷く。十字教に伝わる東方の賢者にも否定出来ない真実に違いない。そして厨房に叫んだ。
「そうか、ネロくんも今年で十七歳か」
しみじみと、感慨深げにニールは呟いた。俺と彼は知り合ってから長い。というか、一方的に知られていると言うべきか。俺が生まれた時からうちの家族とは懇意にしており、俺にとっては親戚のおじさんといった感覚だ。唇の周りの泡を舐め取る俺を見やり、彼はあごひげを撫でた。
「いつの間にやら。昔はこんなに小さかったのにな」
「いつの話をしてるんだよ。去年には成人してるって」
だからこうして酒を飲めている。いや、成人前からたまに……少々……割と飲んでいたけれども。ちなみにこの国というかこの村での成人の定義は十六歳である。
そんな俺の言葉にニールは笑って返す。
「私の中では今でも君は小さな坊や……いや冗談だ、そんなに顔を顰めるないでくれ。ほら、成人したネロくんに乾杯」
「いつまでも子供扱いするニールに乾杯」
ジョッキを合わせてぐいと飲み干す。上等とは言い難い。ただ、この絶妙な質の悪さが身の丈に合っているのだ。……まあ、知ったかぶりだが。十七歳の小僧に酒の美味い不味いなど分かるはずもない。
いや、そんな事はどうでもいい。俺はジョッキを机の上に置くが早いか尋ねた。
「で、今回はどんな土産話があるのさ」
「そうだな……これは王都で聞いた話なんだが──」
ニールの軽妙な語り口にちびちびと酒を含みながら耳を傾ける。周りの村人達も同様だ。閉塞的な寒村において外の話は数少ない情報にして娯楽のようなもの。西に広がる砂漠や東に広がる海、冒険者によって攻略された迷宮なんて実在すらわからない御伽噺に近い。ただ、それでいいのだろうと俺は思った。
彼らは村を出ない。ニールの話を聞いて、外の世界に思考を巡らせ、そして満足して日々の営みに戻る。それをどう捉えるかは人の自由だろうが、俺は健全な形だと考えている。きっと、実物を見ても良い事なんてありゃしないのだ。
だってそうだろう? 彼は砂漠の美しさを語るが、それは一側面に過ぎない。砂漠の過酷さや熱砂で足を焼かれる痛みを語らない。どれだけの人々がそこに骨を埋めているかを教えない。
だがそれでいいのだ。脚色し、誇張し、美しく飾り付けた物語で好奇心を収め、美しい夢想を抱えたまま日々の生活へと戻る。いいじゃないか、それで。普通であることを否定される謂れなど無い。運命的な因縁や、人様と違う特徴なんて必要ないんだ。過ぎた力なんて生きる為に全くもって必要じゃない。つまり傭兵から剣を習う俺は、必要ないことを必死に学ぶ異常者かあるいは暇人という訳だ!
……ああくそ、わかっている。俺は酔っているのだ。空きっ腹に酒を流し込んだのが悪かった。口の中で麦の苦味を転がす。質の悪い麦、質の悪い醸造、上等なのは水だけ。全くもって丁度良い。今日みたいに嫌な記憶に苛まれる日に必要なのは、こうして酔う為だけに存在しているような酒だと前世からよく知っていた。
「王様万歳! 神様万歳! わはは……」
思考があやふやになる。五杯目あたりで誰かに止められた気がしたが構わず呷った。今日はそういう気分なのだ。神経に直接アルコールを流し込んでいく感覚。何も面白くないのにくくく、と喉奥から笑い声が漏れる。笑ってるのは俺か? 違う。死んだはずの親父が笑っている。本当に? それも違う。
竜が笑っていた。親父を殺した竜が。
──俺はしがない農家に生まれた長男だった。
親父は農夫。お袋は村長のとこの娘。村の中の立ち位置はちょっと良い感じ。しかしだからといって生活の質が高い訳では無い。いつだって困窮していた。ただ、そんな生活も俺には苦ではなかった。日々が充実していたからだ。
転生して、前世の記憶とやらを思い出したのが五歳の頃。自我というものがはっきりするかしないかぐらいで俺はしっかりと己が異物であることを認識した。明らかにこの世界とは違う場所で生きた記憶を持っている。つまりは前世の記憶というやつを抱えていたのだ。当然理由などわかるはずもなく、しかしそれに苦しまされるという事もなかった。周囲から見れば少し大人びた子供に見えたくらいのものだろう。
それもそのはず、そもそも前世の記憶やら知識を披露する場なんてこんな寒村にはなかったのだ。精々がニールに地図をせがんでこの世界の状況を把握する程度にしか外界との接点はない。隔離された空間、そこで緩やかに生を終えることを俺は受け入れていた。
……たかだか農家の息子が村を出て、出来ることなど知れている。外界に興味がない訳では無い。だがある程度衣食住が保証されている生活を放棄し、何より今世の両親を悲しませるような真似をするだけのメリットを見い出せなかったのだ。この村で育ち、この村で適当な嫁さんを貰って、そして死ぬ。それが俺の役割なのだと理解していた。それでいいのだと納得していた。多少退屈だとしても、結果的にそれが最善なのだと嫌になるほど痛感したのだ──それこそ、死ぬほど。
二度は繰り返さない。前世の、□□□□の過ちを再現するつもりなど毛頭ない。そんな決心をしていた矢先、それは起きた。
それが一変したのは忘れるはずもない、七年前の夏のこと。
ローレル村は横に長い形状をしている。これは地形に由来する制約故だ。北方には山脈が存在し、そこに沿って張り付くように村は存在している。俺の元々の家があったのはその東端であり、そしてそこで今の俺から見てもかなり広い土地を利用して羊の放牧を行っていた。
親父とお袋と俺、そして牧羊犬が一匹。名前はコリー。可愛がっていたのを覚えているがかなり野性的で歯が鋭いのが玉に瑕。そんなコリーを連れて親父は更に東の谷へ羊の群れを誘導し、草を食わせて戻ってくるのが日々のルーティンであった。当時の俺は十歳。お袋と共に畑の手入れをしていた。秋の備えは万端ね、とお袋は笑っていた。
──轟音は唐突に。遠雷のような音と共に空が裂けた様子は今も目に焼き付いている。
遠方に黒い影が飛び上がる。それは余りにも巨大だった。塵のように舞い上がるのは半狂乱になって逃げていく蝙蝠や鳥の群れか。樹冠を突き破り滞空する茫洋とした影は、一対の翼を天幕のように掲げていた。お袋が叫ぶ。逃げなさい、と。だが俺は呆然と突っ立っていた。なにしろ、逃げるも何も何処へ逃げろというのか。目算にしておおよそ五キロメルトルはあるであろう距離だ。理性的に考えれば恐れる理由もない、そんな距離。だがその距離からでも把握出来る巨躯に脳髄が痺れるような恐怖を覚えた。気付けば俺は失禁していた。大気を震わせるプレッシャー。あれが何に対してあれほどの激情を示しているのかはわからない。天へと伸びる巨躯。鎌首を擡げた頭が周囲を睥睨する。
目が合った、ような気がした。
次の瞬間にはお袋は俺を抱えて走っていた。周囲を見渡し、そして俺を桶に捕まらせると囁いた。良い子だから大人しくしていてね、と。俺は井戸に落とされた。助けを求めるも母親は強ばった表情で微笑むのみ。桶に必死にしがみついて上を見上げる。二メルトルほどある井戸の側面は苔だらけで登ることなんて出来はしない。上へと手を伸ばす。お袋は唇を震わせ、何かを言おうとした。結局それは今となってもわからずじまいだ。次の瞬間、視界は真っ黒に染まっていた。
光は消え、俺は落下してきた瓦礫に強かに頭を打って気を失った。お袋の末路はわからない。だが、予想は出来る。お袋は奴の
およそ二日間。
それが俺が救出されるまでにかかった時間だった。誰かが俺を引き上げて、憔悴しきった俺の頬を撫でた。判然としない視界でも周囲の惨状は理解出来た。何も無かった。何も無かったのだ。俺が育った家も、牧草地も、村へと続く村も、全部消えていた。根こそぎ抉りとるように消滅していた。理解が出来ず、受け入れることも出来なかった。
俺を抱える誰かが尋ねた。
君の名前は? ──ネロ。
そう。両親はどこに? ──わからない。
それっきり言葉は交わさず、ぼんやりとした俺を抱えてそいつは焦土ではなく森へと歩を進めた。木の根元に俺を下ろすとぺたぺたと身体に触れ、少し思案した後に何事か呟いた。驚く事に身体の至る所から感じていた痛みがたちまち和らぎ、俺は目を白黒させながらしどろもどろに礼を言った。恐らくは魔術か何か。存在自体は知っていたが、俺の村にそんなものを使える奴なんていなかった。
そこで初めて俺を助けてくれた誰かの事をはっきりと認識した。黒い髪を一本に結わえ、無造作に垂らした長身の女。ハードレザーの黒い革鎧を纏い、腰には長剣を佩いている。そして見たことも無い金色の瞳が酷く特徴的だった。ぽつりぽつりと会話しながら、女の名前を知った。雇われの傭兵であり、何が起きたのかを把握するために派遣されたのだと彼女は言った。
堪えきれず俺は尋ねた。何があったのか。竜よ、と彼女は返した。
竜が殺し合った余波で貴方の両親は死んだのよ。彼女は──アルは、無表情でそう告げたのだ。
「──起きたまえ!ネロくん!」
鼓膜をぶっ叩くような声に目を見開く。混乱、そして光への明順応。凝り固まった筋肉と骨が呻き声を上げる。俺も呻いた。指に冷えた感覚──グラスが握らされる。ずるずると引き寄せて一気に呷れば、冷水だった。ひんやりとした液体が火照った身体に染みていく。間違いなく飲みすぎだった。
「ニール……」
思った以上に嗄れた声が洩れる。禿げが目立つ小柄な男は盛大に溜息を吐いた。
「全く。父上も酒癖は悪かったが、立派に引き継いでいると見える。難儀な血筋だことだ」
「親父、が……?」
「そうとも。限界を越えて飲むのは家訓かい?」
知らなかった。そこまでうちの親父と仲の良い人が村にいなかったからだろうか、親父の酒癖が悪かったなど全く聞いたこともなかった。そもそも俺の記憶には親父が酒を飲んでいた姿はない。外で飲んでいたのか。
……いや、そうじゃない。外が騒がしい。怒号と複数の足音。普通じゃない。咄嗟に腰元を探り、護身用でもある長剣が存在する事を確認する。乾いた唇を舐め、尋ねた。
「鐘は何回?」
「三度」ようやく血が回り始めた脳が、そう返事する昔馴染みの男の姿を認識する。着込んだ革鎧、そして梶の木で作られた弓がその手に握られていた。弦は当然張られており、軽く指に引っ掛けるようにして男は弾く。「つまり、魔獣だよ」
「俺も行きます」
立ち上がって告げる。ニールは顔を険しくさせて首を横に振った。
「
「言われるほど酔っちゃいない」
「そうかい、こっちは君が吐いた息を吸うだけで酔いそうだがね」
「ニールだって飲んでただろ!」
かっとなって言葉を放った。その言葉に眉を顰めてニールが口を開いた瞬間、轟音が響き渡る。ぎょっとすると同時に頭蓋の内で反響しているような感覚に吐き気を覚えた。頭の内側からハンマーで殴られているかのような鈍痛。ふらつく足元に舌打ちし、腿に握り拳を叩き付ける。
……くそ。なけなしの魔力を振り絞って魔力を循環させる。こうする事で全身が活性化するが、それは内臓も例外ではない。重要なのはイメージだ。急速にアルコールが分解されていくイメージを想起しつつ息を吐く。多少はマシになった気がした。
「種類と数は?」
「
そこで口を閉ざす。響き渡る咆哮。しかしそれは酷く野太く、粗野で、しかし明らかに狼のそれではない。互いの強ばっている顔を見合わせる。
「誤って腕を切り落とすない事を祈る」
「ニールこそ、自分の脳天に射かけないようにね」
どうやら酔っ払いに助力を乞うほど切羽詰まっている状況らしい。俺達は椅子を蹴り倒す勢いで酒場を出た。
村のど真ん中を通る道を駆ける。近づくに連れて悲鳴と怒号が大きくなっていく。鼻を掠める血の臭い。角を曲がり東門が見える。
松明の光を反射する数本の銀の光。冷えた夜の大気に吐き出される白い吐息は荒く、迸る咆哮が嫌でも鼓膜を揺らす。捻れながら天を指す角。背丈は三メルトルにも届こうかという赤褐色の巨躯を認めて目を見開く。
筋骨隆々どころか常軌を逸して猛々しい肉体、その上半身を躊躇いなく晒し申し訳程度に下半身の局部を覆うぼろきれ。そして何より特徴的な、あまりに巨大なバトルアックス! 一体全体どこから拾ってきたと言うのか。
もはや疑いようもない。その名が口から零れ落ちる。
「ミノタウロス……!」
人型でありながら人とはまるでかけ離れた容姿に、俺はより一層顔を顰める。文献では知っている。だが実際目の当たりにすれば、その生命力に一瞬怯まされた。百聞は一見にしかずとはよく言ったものだ。原始的な暴力への恐怖、それを張り飛ばすように声を張って尋ねた。
「なぜあいつらが
「躾たのだろう」
きりり、と弦を引き絞る音。隣を駆けていたニールは既に矢を装填していた。彼我の距離は二十メルトル程度か。十分に射程内、とはいえ敵味方入り乱れている状況なら話は別だ。
「腐っても亜人という訳だ──!」
だが、ニールは躊躇いなく弦から指を放した。蜂が飛び立つような音。大気を穿ちながら、矢はミノタウロスの頭へと吸い込まれるように飛んでいく。しかし眼にでも当たれば良かったのだろうが、硬質な音と共に矢は弾かれた。タイミング悪くやつが頭を振った結果、馬鹿でかい角に当たってしまったのだ。
血走った瞳がこちらを認識する。ブモォ、と明らかに言語を発するのに適していない声帯から唸り声が漏れていた。丸太のような腕が戦斧を持ち上げる──頭にカッと血が上った。
……くそ、あの野郎!
「ニールッ!」
思いっきり隣のニールを突き飛ばす。何かを訴えるような声と呻き声、そして鈍く打ち付けたような音もしたが気にしている暇はない。留め具を外し抜剣し、丹田──臍の少し上を意識しながら呼気を歯の隙間から押し出す。間に合うか。いや、間に合わせるしかない!
夕闇を照らし出す松明の光。それに煌々と照らし出される戦斧は大きく振り上げられている。ぞくぞくと背筋を悪寒が走り抜ける。本能が死を直感している。思わず何もかも放り出して逃げ出してしまいたくなる衝動に駆られ、口角を無理矢理にでも上げて恐怖を押し殺した。
お前程度に怯えていられるほど俺は暇じゃない。牛を恐れる人間が、どうして竜を殺せる──?
渾身の膂力を込めて踏み込む。魔力の循環による存在強化、それだけでは足りないのわかっていた。半牛半人の怪物が、吼え猛りながら手にした斧をぶん投げる。着弾まで二秒とてかからない。まともに受ければ文字通りミンチと化す。冷えた夕闇の空気を引き裂きながら、銀の残光が飛来する。投擲された圧倒的質量。
「う、おぉぉぉぉお!?」
ごぐわぁん、と聞いたことが無いような音が響き渡った。それも内外から同時に。外からでなく内からも、骨を通じて嫌という程鼓膜がぶっ叩かれる。
鈍く、重く、そして脳髄まで揺らすような衝撃。生じた火花に一瞬目が潰れた。瞬間的にかかった負荷は骨がイカれたのかと思うほど。いや、実際イカれたのかもしれない。衝突は瞬間的だった。轟音と共に振り抜いた俺の剣は地面を割り砕きながら突き刺さり、斧は衝撃を殺しきれず地面を引き裂きながら、しかし誰に当たる事もなく、転がった後に停止する。半ば放心しながらそれを見ていたが、しかし唐突に走った痛みに俺は呻いた。
手首に走る激痛。たまらず呻きながら地面に膝を着く。身体を襲ってきた虚脱感と疲弊に内心で罵った。蚤みたいな魔力のくせに、質量増加の魔術なんぞ行使した結果がこれだ。加減もなく剣にありったけを注いだ事で魔力は枯渇寸前であり、そして剣自身も刃の半ばまで地面に突き刺さっている。引き抜こうとして、やはり手首の痛みに妨げられた。
「ネロくん……!?」
「あいつは丸腰だ」
震える声で、俺は間抜け面を晒しているミノタウロスへと顎でしゃくる。芯から響くような痛みにこりゃひびくらいは入ってそうだな、とじっとりとした脂汗をかきながら判断していた。ニールは神妙な顔で頷き、他の村の衛士達と共にやつを追い詰めていく。流石にミノタウロスと言えども丸腰では脅威度は半減……は嘘になるが、三割減くらいにはなる。後先考えずにブチ切れて唯一の得物を投げてくるあたり、知能は所詮亜人だとせせら笑った。まあ、たぶん痛みで引き攣っているだろうが。
……暫くすると歓声が聞こえてきた。頸を貫く銀の剣は遠目からでもはっきりとわかる。ミノタウロスはもがいていたが、そう長くも経たず動かなくなった。再び湧く歓声。はぁ、と溜息を吐く。
異世界転生も楽じゃない。瞼が落ちないように必死に堪えながら、そう呟いた。