討竜記   作:外典断章

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第2話

 

 

 

 半牛半人の怪物(ミノタウロス)──御伽噺でよく登場するメジャーな亜人ではあるが、ところがどっこいそう簡単に見かけるようなものではない。辺境も辺境でなければまず遭遇しない亜人種の魔獣(デミヒューマン・モンスター)だ。

 

 王国の最北端、村の北方にあり国境を形成する《果ての山脈(エンダーマウンテン)》。これを両国共に不可侵として暗黙のルールにしているのも、何も不用意な軋轢を避けたいからという理由のみだけではない。《果ての山脈》に巣食う魔獣の危険度が酷く高いのだ。故に誰も手を出さない。お陰で北の村の剣士達の練度は高い。低いやつから死ぬのだから当然とも言えるが。

 

 まあ結局、何が言いたいのかといえば──。

 

「ミノタウロス程度で怪我してちゃ、竜なんざ夢のまた夢だな」

 

 そう自嘲する。ランプの蝋燭に照らされるテーブルの上にはテーピングされた右の手首が鎮座していた。左も痛むといえば痛むが、右の方が酷い。捻挫程度であって欲しいと願っていたが、残念ながらニールの判断でもひびくらいは入ってるだろう、というものだった。

 そんな本人は禿頭を屋根の下に晒しながら、髭面を顰めてみせる。じろりとその眼が俺を見据えた。

 

「……助けられた手前だ、何も言わんよ」

「助けた甲斐はあったみたいだ」

 

 ちらりと机上の小瓶に視線を移す。今は空っぽだが、数分前までは透明感のある緑色の液体で満たされていたものだ。

 

回復薬(ポーション)とは、随分と気前が良い」

「命の恩人に惜しむ程のものでもない」

 

 低い声が唸るように言葉を紡ぐ。機嫌はよろしくないらしい。だが正直な話、回復薬を使うほどでもない。放っておけば二週間もあれば治るような怪我だと思う。

 そんな俺へ、ニールは叱責するように続けた。

 

「だからこそ、命を捨てるような真似はして欲しくない」

「わかってる。別に犬死するつもりはないよ」

「君が強くなったのは知っている。並の人間を上回る胆力と、それが傲慢さと言われないだけの強さを身に付けた。だが、竜殺しとなると──」

「ニール」

 

 痛みの和らいできた手首を少し揉みながら、その眼を見返す。数秒の沈黙の後にニールは目を逸らした。

 

「……三十分もしない内にテーピングもいらなくなるだろう。だが、今日は村に泊まっていきなさい」

「いや、それは」

「もう日は暮れている。夜の山登りは迂遠な自殺行為だ。例えネロくんでも、だ。それは君自身が一番よく知っているだろう」

 

 少し躊躇った後に、俺は首肯した。アルには悪いが、今日の晩飯は自分で作ってもらうしかなさそうだった。

 

 

 一刻もすれば、ニールの言っていた通り痛みはすっかり引いていた。ポーションは貴重品だ、あの小瓶ほどの量でも銀貨十枚はする程に。一ヶ月は食っていられる金額の商品である。少し後ろめたいような感覚に耐えきれず、俺はニールの小屋──正確に言うならば彼のような外部からの来客用である小屋から出て、どこを目指すでもなくぶらついていた。

 

 既に気分も、そして恐らくだが魔力も回復している。俺が唯一行使可能であり、アルから直々に教えられた魔術があの質量増加の魔術だ。質量魔法(グラムマギア)。属性は土、燃費は最悪。逆に質量を軽くする事も出来るがどちらにしろ対象に接触し、魔力を浸透させる必要がある。ちなみに俺はこれが致命的に下手だ。慣れ親しんだ愛剣ですら、魔力を十分に行き渡らせるのに二秒近くかかる。接近戦では致命的だろう。アルのように卓越した魔術行使は出来ない。

 

 ……そう考えると、アルという己の師がいかに規格外なのか思い知らされる。剣も魔術も俺が今まで見た中で最高峰。それがなぜ流れの傭兵なんざしているのかは知らないが、俺は恐らく元は士官していたのではないかと睨んでいる。ただしアルは自身の過去を語ろうとしない。そして、俺もあまり詮索しようとはしない。師である女傭兵の過去は気になるが、語りたくない過去を無理矢理掘り返すほどの好奇心でもなかった。

 

 そんな事を考えながら夜空を見上げ、冷えて白く濁った息が立ち上っていくのをぼんやりと眺めていると、背後から声が聞こえた。

 

「何してんだ、ネロ」

 

 振り向けば、薄い金髪を短く刈り込んだ男が仏頂面で立っていた。薄い髭はあまり手入れされている様子もない。村一番の若手であり、そして村一番気難しいやつだ。

 

「クレーロ」

「今日は大活躍だったらしいじゃないか」

 

 口の端を僅かに歪める。それが奴にとっての笑みであることを俺は知っていた。クレーロ・ローレル。ローレルの姓を持つ、というか村で唯一姓を持つ家系である事からわかるように、村長の息子であった。つまり次期村長。

 

 ……俺のお袋も村長の家の出だ。血筋だけ考えれば、一応クレーロは俺から見て叔父、奴から見れば甥に相当する。ただし互いにそこまで意識しているかと言われれば、答えは否だ。歳もそう離れてもいない。

 

「斧を弾いて、手首を痛めただけだ」

「知っている」

 

 知っていて言うあたりイイ性格をしている。

 ……まあ、そういう男だというのはよく知っていた。俺より大体三つは歳上の男は、背負っていた皮袋をどさりと下ろした。血臭、そして獣臭。半分答えはわかっていながら問う。

 

「何してたんだ」

大狼(ダイアウルフ)の皮を剥いでいた」

 

 歯を剥き出しにしてクレーロは唸った。

 

「大狼の皮は、高く売れる。それだけではない。彼らの牙は首飾りに。骨は鏃に。肉は食える。実に生産性が高い」

 

 それで笑ってるつもりか。そんな言葉を呑み込む。

 

「ミノタウロスは?」

「あれは──」

 

 眉間に皺が寄る。この顔はよくわからない。何せ、感情表現のうちおよそ八割がこれなのだから。鉄面皮のクレーロとはよく言ったものだと思う。

 

「亜人だ。亜人は呪われている」

「燃やすのか」

「そうなるだろう」

 

 奴はぐっと首を擡げた。これは──なんだ? 得意げなのか? 亀よりも感情が読みにくい男だ。

 

「火神に捧げる」

「勿体ねぇな」

 

 亜人は神に呪われている。珍しくもない、北の迷信……というか、信仰みたいなものだ。その肉は大地を穢し、その血は大気を腐らせると彼らは信じている。だから剥ぎ取らないし解体することすら毛嫌いする。

 まあ、わからなくもない。牛頭で馬鹿でかい人型の化け物を見れば、呪われているとも思うだろう。昔母が語ってくれた話を少し思い出した。七つの神を裏切り、世界に混沌をもたらした傲慢な人間達のグループ。結果的に呪われ、彼等は言語を失い、子孫末代まで異形の容姿へ変えられたのだとか。そして神の恩寵を受ける人間達を憎んでいる。

 

 ……別に信じちゃいないが、魔法も魔力もある世界だ。本当に神がいたとしても驚きはしない。

 

「ヤツらは穢れている」

 

 唸るように彼は告げた。

 

「《ruby》腸<rt>はらわた</rt></ruby>を晒せば空気は腐り落ち、たちまちそこは不毛の地となり──」

「わかったクレーロ、そこまでだ」

 

 うんざりして諸手を挙げる。こいつは鉄面皮な上に少し、信心深いところがある。まあ北部人にはよくある事だが。自然の脅威に常日頃から晒されていれば神でもなんでも祈りたくなるものだ。

 

「俺が悪かった。だからその三日は続きそうな説教はやめてくれ」

「不信心者め」

 

 薄い焦げ茶色の瞳が俺を睨みつけた。

 

「七神に見放されるぞ」

「そんだけ信心深いなら<ruby>神官<rt>プリースト</rt></ruby>にでもなったらどうだ」

「一度は考えた」

 

 考えたのかよ。少し呆れてやつを見る。

 

「だが父は許さなかった。男子はオレだけだ。村長を継ぐ義務がある」

「親不孝者にならなくてよかったな。村長になったら神殿でも建てとけよ」

 

 言った後に本当に建てそうだな、と思ってげんなりしてしまう。クレーロはあまり冗談が通じさないタイプの人間だ。本気にされても困る。

 

「訂正。やっぱやめてくれ。景観を損ねる」

「お前はオレをなんだと思っているんだ」

 

 じろりと睨みつけられる。

 

「そんな余裕などこの村にはない」

「……まあ、そうだな」

 

 視線を地面に落とす。道端に少し雪は残っている。ろくに舗装もされていない、ただ人の足で踏み固められて出来た道だ。話に聞く王都とはまるで比べ物にならない。

 道だけではない。木造の家屋、手押しポンプすらない堀井戸。村人が欲しているのは教会なんぞではなく、即物的かつ利便性の高い何かだ。

 

「七年前の竜騒ぎで村の東が消滅した。この村を出て行った者も多い。領主様の好意で税は免除こそされているが、それもいつまで続くかわからない」

 

 ──この村の人口は、現在では百にも満たない。

 かつては三百人はいたであろう辺境の寒村は、七年前の騒ぎによってもう耐えられないと村を出ていった人間により数を減らしていた。元より強力な魔獣の出没により安全とは言い難い地域だ。これを機に他の地を求めるというのは納得できる話だし、咎めるつもりもない。

 何より、そんな権利が俺にあるはずもない。農夫の仕事もせず、素性も知れない傭兵に弟子入りして山に閉じこもっている俺なんぞに──。

 

「ネロ。戻ってこい」

 

 何かを返そうとして、しかし喉元で引っかかったまま止まった。ただ息を吐き出すだけ。大気が白く濁る。

 

「もうお前も十六だ。オレもな。狩人のケッセナーは後継を探しているらしい。お前の腕なら問題はない」

「……クレーロ」

「両親を亡くしたお前の境遇には同情する。だが、無理だ。竜殺しなどまるで現実的ではない。そもそも肝心の竜はまるで音沙汰がないときた。領主様は調査の兵を送ってくれたが、結局足取りは掴めなかった」

「クレーロ」

「もう十分だろう、ネロ。お前も地に足をつけるべきだ」

「クレーロ!」

 

 胸倉を掴みあげる。食い縛った歯が軋んだ。クレーロはやはり無表情で俺を見下ろしていた。毛皮の外套の襟を引き寄せ、囁くように告げる。

 

「やめろ。それ以上言うなら、殴ってでも黙らせるぞ」

「……わかった。離せ」

 

 突き放すようにして開放する。瞑目し、昂った気を無理矢理押さえつける中、ぽつりとクレーロは呟いた。

 

「ネロ。ひとつ聞いていいか」

「なんだよ……」

 

 明らかに不機嫌そうな俺の声に押されたのか。不思議なことに、奴らしくもなく、少し躊躇いがちに言葉は紡がれる。

 

「お前が師事している……アル、とか言う女。一体何者なんだ」

「あ?」

 

 質問の意図が読めず、俺は眉を顰めた。

 

「何者も何も……師匠だけど」

「そうじゃない。何処の、誰だという話だ」

「出身の話か? 知らねぇけど。転々としていた傭兵らしいからな、昔のことも話さねぇし」

「傭兵、か……」

 

 顎に手を当てて考え込む昔馴染みの男に、俺は少し苛立って話しかける。

 

「おい、なんで今そんな事を聞くんだ」

「……まだニールから聞いてないのか」

「聞くって、何を──」

「あのミノタウロスが持っていた、バトルアックス」

 

 腕を組み、俺を見据えながらクレーロは続ける。

 

「自然のものだと思うか」

「な訳ねぇだろ。亜人にあんなもの、作れるわけが無い」

「だろうな。つまり何処からか引っ張ってきたわけだ。何処だと思う?」

「そりゃ……遺品だろ。冒険者とか、傭兵の」

 

 それが一体なんなのか。話の着地点が見えず、語気が少し荒くなる。

 

「そうだな。この村で作られたものではない。戦う為だけに作られた斧だ。しかもかなり質が良い。それなりの純度の真金(オリハルコン)合金だろう」

「そりゃ──」

 

 随分な高級品だ。思わず目を丸くする。真金などここらではまず出土するものではない。ミノタウロスにはまさしく豚に真珠、牛に真金(オリハルコン)という訳だ。使いこなせるわけが無い。

 ……そう、並の冒険者ではそんなものは使いこなせない。そもそもそんな武器、間違いなく銘のある品だ。ここらでそんなものを振り回していれば嫌でも有名になるだろう。さぞ高名な冒険者の、武器──。

 

「ニールは持ち主を知っていた。《嵐斧》のアルデルフィーネ、彼女は傭兵ギルドでもかなり高名だったようだ。彼も驚いていたよ」

 

 ……喉が、嫌に乾く。

 

「通称、《不死王殺し(リッチスレイヤー)》のアル。七年前、彼女をこの村の近くまで運んだのはニールだ。なんの用かは知らないが、しかしあの斧は間違いなく彼女のものだろうと」

 

 ……頭が痛い。こめかみを抑えた。

 

「詳しく聞いた。ニールが知っているアルとは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()らしい」

 

 違う。

 アルは、闇に溶け込むような黒髪を背の半ばまで下ろした、金の瞳をした女で──。

 

「もう一度聞くぞ、ネロ」

 

 淡々と。嫌になるほど無感情な声が問う。

 

「お前の師事しているその『アル』という女は、一体何処の誰なんだ?」

 

 

 

 闇の中、月だけが照らす獣道を駆ける。

 

 ニールには止められた。だがこんな不安感を抱えたまま一夜を過ごすのはごめんだった。魔獣と遭遇しても問題ない。一応は夜間の戦闘も想定した鍛錬はしているし、夜目は利く。降りでも一時間はかかった山を、全速力で駆け上がる。魔力を運用した体術を修めていなければとっくに体力は尽きていただろう。魔力運用、魔術行使、剣術、体術──その何れもが彼女に教えられたものだ。七年かけて叩き込まれた数々の技術。その全ては本物で、そうでなければ俺は少なくとも五回は死んでいた。今日だってそうだ。ミノタウロスの戦斧の投擲、受け流せていなければ間違いなく命を落としていた。

 

 だから──きっと、クレーロの話は何かの間違いなのだ。

 

 例え容姿が違っても。得意とする得物が違っても。彼らの知るアルがとうの昔に死人になっていたのだとしても。俺が七年間師事していた女は、間違いなくアルであって──。

 

「……なん、だってんだよ……」

 

 足が重い。指先は冷え、限界を迎えつつある喉が笛のように鳴る。だがその甲斐あって、驚くほど短時間で鬱蒼とした森を抜けた。幸いなことに魔獣とも遭遇せずに済んだ。灯された明かりが漏れる小屋の窓が見える。

 

 ばくばくと早鐘を打つ心の臓。春に近いとはいえ冬場だと言うのに滝のような汗、そして額に張り付く髪を指で払いながら進む。そしてもう見慣れた丸太小屋の扉に手をかけて……一瞬、躊躇った。

 ……いや、何を躊躇う。頭を振った。ここはお前の家だ。奇妙な不安感を振り払うかのように強くノブを握り締め、扉を開ける。

 

「遅かったわね。もう戻らないと思ったのだけれど」

 

 あまりにも聞き慣れた声だった。俺は少し呆けたまま彼女を見つめる。

 手にしていた本を閉じ、その瞳が俺を捉える。まるで金を溶かしたような、煮詰めたような色の瞳だ。俺と同じ墨を流したような黒髪。何も変わらない、俺の知るアルが暖炉の傍に座っている。

 

「呼吸が荒いわ。走ってきたの?」

「……ああ。こんだけ早けりゃ、魔獣も寄ってこないだろ」

 

 そう返せば、彼女は微笑を浮かべた。

 

「そうね。逆に警戒するでしょう。その疲弊具合を除けば、賢いやり方かもしれないわね」

 

 上着を脱いでラックに掛けると、俺も椅子に座り込む。何を言うべきか頭の中でまとまらず、思考の糸は混線し、結局言葉を発せずに口を閉じる。そんな行為を繰り返して、数度。

 

 ……どのくらい経っただろう。暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音が沈黙を尚更主張する。しかしアルは何も言うこと無く、やはり穏やかに火を眺めていた。それはある種の永劫性をを孕んでいるように思えた。即ち、ずっとこうしていたのではないか、という疑念。思わず苦笑する。そして、机の上に食器も何も無いことに気付いた。

 

「なあ、飯は食ったのか」

「いいえ。作るのは貴方の役目でしょう?」

「いや、だからってお前な……もう十一時だぞ」

「そうね。随分と待たされた」

 

 穏やかなその瞳の奥に、火が散った。ぱちりと暖炉の火が大きく弾ける。

 

「七年間、貴方といて退屈する事はなかったわ」

「そうかよ。そいつは良かったな」

「ええ。きっと……そうね、初めての経験だった。人に物を教える事は新鮮で、難しくて、これまでにないくらい考えさせられたわ」

「……アル」

 

「同時に面白かった。剣も魔術も知らない子供が成長していく様は、なんというか……ええ、恐らく子供を持つというのはこのような感覚だったんでしょうね。毎日が本当に新鮮だった。目まぐるしい……そう、目まぐるしい日々」

「アル」

 

 何が面白いのか、くすくすと笑うアルに向かって俺は問う。

 

「なあ、教えてくれ。あんたは何処の、誰なんだ」

「私の名前はアル。それだけで十分ではないかしら」

 

 今まではそれで納得していた。だが、もう十分ではない。気付けば口走っていた。

 

「今日、ミノタウロスが出た。斧を持ってたんだ。その持ち主もアルだった……くそっ! 違う、アルって名前だったんだ。つまり、死んでたんだよ。ニールが知ってる傭兵アルは死んでいたんだ。けど、俺の知ってる『アル』はここにいる」

 

 その瞳を真っ直ぐに見つめる。彼女は穏やかな微笑を湛えたまま、俺を見つめ返していた。

 

「あんたはニールの知っている傭兵アルじゃない。じゃあ、ここにいる『アル』は誰なんだよ」

 

 彼女は何も言わず、ただ微笑んでいた。暖炉の火の音が嫌に耳につく。膨れ上がる焦燥感。声が震える。

 

「頼む、教えてくれ。あんたは──」

「ネロ」

 

 薄い唇が言葉を紡ぐ。黒いシャツにズボンといった簡素な格好をした女が立ち上がる。荒々しさすら感じる美貌が窓の外を見つめた。冷たい外気に襟元が揺れ、俺は思わず肩を竦めた。だが彼女は微動だにしない。何も感じていないかのように、その横顔は彫像の如く静止していた。

 

「昔の話をしてあげましょう」

「……あんたの話か?」

「いいえ。もっと前……そうね、およそ──」

 

 二千年前にまで遡るわ。

 彼女はそう嘯いた。

 

 

 竜が最も栄えたのは二千年前。かつては《黄金の時代》と呼ばれた頃のこと。想像も出来ないでしょうね。今、この地上で一番古い国でも五百年の歴史しか持たないもの。

 ええ、そうよ。貴方が知るように、竜はもう滅んだの。とっくの昔にね。

 

 彼らが滅んだ理由はいくつか主張されてるわ。

 環境に適応出来なくなった、身内で大規模な抗争が起きた、自ら滅びを望んだ……ええ、そのどれも間違ってはいないの。竜は旧くから生きてきた種族であり、最も強大で完成されていた。空を駆ける翼を持ち、鱗と牙と知性を持つ生き物。神が創った最高傑作こそが竜よ。だからあの時代は黄金時代と呼ばれていたの。

 ただ、栄華の時代は永遠ではなかった。栄枯盛衰は常の理。

 ……神は竜を選ばなかった。それだけの話だけれどね。選ばれたのは、牙も鱗も持たぬ毛の無い猿。そう、人間よ。

 

 言わずとも、語らずとも竜達は理解していた。星は変わりつつあった。竜の為、魔力を豊富に含んでいた大気は薄れ、火を噴く山は鎮火し、荒れていた海は凪いだ。吹きすさぶ暴風はそよ風となり、降り注ぐ豪雨は時折になった。全ては変わっていった。

 ……竜は緩やかに滅びを受け入れた。星の主は人であると定められた。竜は時代の遺物に過ぎない。一体、また一体と倒れていった。さらに聖竜と呼ばれる自滅因子(アポトーシス)をも抱えた竜達は、最後の数頭になるまで数を減らした。それでも、彼らは一頭ずつその姿を消していった。

 

 雄々しき赤。彼は草原を平定した蛮族の王によって、百万の軍勢と激突した後に果てた。

 悠々たる青。彼女は果てを目指した征服者と対話し、数年にも及ぶ討論の末に納得し、自死を選んだ。

 朗々たる緑。彼は次を生きるもの達の苗床となることを選び、その肉体でひとつの大陸を豊穣な大地へと変えた。

 煌々たる紫。彼女は一人の人間との間に熾烈な愛を育み、そして伴侶の死に耐えきれず星の外へと姿を消した。

 

 残されたのは、裏切り者の白。そして最後の竜だった。

 その竜は許せなかった。ええ、許せなかったのよ。滅びは必定。神が定め、星が決めたこと。それは誰にも変えることはできない。しかし人間に与し、親兄弟を屠った白い聖竜への憎悪は彼女を狂わせた。

 竜は白へ牙を剥いた。何度も彼等は争ったわ。互いを傷付け、傷を癒す為に逃げて、そして再び殺し合う。大陸を巻き込むような争いを六度繰り返した。そんな彼らが最後に激突したのは……そう、五百年前。ただ、最後の戦いは本当に酷いものだったわ。知っているでしょう? 《暗黒の時代》よ。仔細は省くけれど、そうね。人間の国がいくつ滅びたかもわからないわ。何せ大陸の一部が吹き飛んだのだもの。ただ結果的には決着こそつかなかったけれど、双方が深く傷付き、彼らは眠りについた。

 ……三百年の時を経て、先に目を覚ましたのは黒い竜だった。その世界に白い竜はいなかった。

 彼女は酷く落胆し、そして──死に場所を求め始めた。

 

 悠久を生きる目的を見失い、さりとて自死する事は矜持が許さない。己を討つに足る英雄を求めて竜は各地を放浪した。

 二百年の内、彼女に挑んできた英雄は十二人。鱗に傷を付けたのは四人。血を流させたのは三人。そして、喉元にまで迫ったのは僅か一人。それでも、彼女は生き残ってしまった。

 

 ……やがて竜は不死王殺し(リッチスレイヤー)として名高い女傭兵に追われて辺境の地に辿り着いた。余波で麓の村の一部が消えたことなど気にも留めていなかった。足元の虫を気にしながら戦う戦士はいるかしら? いないわよね。同じことよ。

 戦いは早々に決着し、傭兵は痕跡すら残さず消し飛ばされた。自身の足元にも届かなかった人間の弱さを嘆いていた竜だったけれど、地下の井戸に隠されていた一人の子供の存在に気づいてしまった。本当に弱々しくて、吹けば飛ぶような生命。殺すまでもなく死に至るような弱者だった。だけど、竜はふと気付いてしまった。

 

 もはや英雄などいない、ならば英雄をこの手で作り出せばいい。

 竜をも殺す英雄を、竜の手で育てる。ええ、そうね。あまりに狂気的な発想かもしれない。そもそも竜の身で子を育てることは出来ないでしょう。何せ、竜は少年にとって親の仇。

 

 ──だから、黒竜は人に化ける事にした。

 名は竜が踏み潰した塵芥の如き女傭兵から。

 姿はかつて死闘を繰り広げ喰らった──唯一彼女の喉元にまで辿り着いた──二百年前の剣聖から。

 

 竜は決めていた。ええ、決めていたのよ。己の正体を嗅ぎつけるまでは手元で育てようと。期限はそれまで。

 そして七年後の今日、この時。仇によって育てられてきた少年はついに気付いてしまった。

 

「《最後の黒(リーサルブラック)》」

 

 囁くように彼女は告げる。

 

「《黄昏の王》《ペルセポネの槍》《偉大なる終焉》《最果ての一翼》《深淵より暗く、闇より深き者》……私を呼ぶ名は多くあるけれど。本当の名前を知る人は案外少ないのよ」

 

 懐かしむようにそう言うと、彼女は瞑目する。それはこれまでの生を懐かしんでいるかのようで。金縛りにあったかのように、俺の舌は凍ったまま動かない。

 

「私の名はアル……いえ、もう違うわね」

 

 ゆっくりと瞼が上がる。

 座したまま、金をどろどろになるまで溶かし煮込んだような瞳が──俺を見据える。

 

「私の名前はアルバ=ダァト。偉大なる竜族の血を継ぐ、最後の一翼よ」

 

 その縦に裂けた瞳孔には、まるで途方に暮れたような少年が映り込んでいた。

 

 

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