アグネスタキオン、ダイワスカーレットのトレーナーになる 作:コロリエル
ついにやって来た、七月の京都レース場。
今日の第五レース、メイクデビューに出走すべく、私達はやって来た。
メイクデビュー戦は流石に重賞と比べても盛り上がりには少々欠けるが、新しくデビューするウマ娘を一目見たいとレース場に駆け付けるファンは少なくない。実際今日も、スタンドには数多くの観客が押しかけていた。
──やはり、レース場の空気は良い。ここに来ると、いつも帰って来たって思える。
直前の最後のミーティングを終えた私は、一人でスタンドに佇んでいた。心地よい風に乗って流れてくる芝の匂いを嗅ぐたびに、少しだけ泣きそうになる。
少し薄着で、さらけ出した腕を一筋の汗が滴る。今日は快晴、良バ場の発表だ。既にスカーレット君はパドックのために準備をしている頃だろう。
「こんにちはっ!」
「ん、おぉ、メジャー君か。応援に来てくれたのかい?」
「そりゃあもちろん! かわいいスカーレットちゃんのためなら、西に東に南に北にっ!」
「おいおい、あまり大きな声を出すなよ? 一応我々は有名人なのだから」
制服姿でやって来ていたメジャー君。普段からテンションの高い彼女だが、今日は一段とテンション高めだ。まぁ、無理もないだろう。メイクデビューは、誰にだって特別なのだから。特別なレースに特別大切な人が出るとなったら、そりゃあ見るだろう。
しかし、そんな彼女に私は念には念を、ということで釘を刺しておく。今日の主役は出走ウマ娘。現役の皐月賞ウマ娘でも、引退したグランプリウマ娘でもない。つまるところ、私たちは大人しく応援に徹した方がいい、というわけだ。
「それで……スカーレットちゃん、勝てますか?」
私の隣に立ち、眼下に広がる一面の芝を眺めながら、メジャー君は憂いを帯びた表情で呟く。そこには普段の自信満々な様子は鳴りを潜め、純粋に妹のことを案ずる姉の愛が見て取れる。
全く、いい姉を持ったなと少し口角を上げる。が、次の瞬間には表情を引き締める。
「さあね。レースに絶対など存在しない。極論だが、大勝ちする可能性も大負けする可能性もあり得る。あの『皇帝』だって、『英雄』だって、負けているのだから」
一般論だ。蓋を開けてみるまで、誰が調子いいのか調子悪いのか、ゲートで出遅れる可能性もあるだろう。更には展開に位置取り、もっと言ってしまえば乱れた芝に脚を取られる可能性もあるし、『沈黙の日曜日』のような悲劇だって、考えたくはないがあり得る。
言い出したらきりがないのは、どんな勝負事でも変わりない。勝負は時の運、とは残酷だがよく言ったものだ。
いくら努力したって、足りることなど永遠に来ない。
「結局、今の我々には祈ることしかできないのさ……不思議なものだよ、全く。あそこで走ってた時は、見ているだけしかできない人間のことなど、最後まで考えたことが無かったさ」
「……タキオンさん、不安?」
「当たり前さ! 教え子の努力が報われてほしいと思うのは、全ての指導者の願いさ! はぁ……スカーレット君、意気込みすぎて無いだろうか?」
スカーレット君には、明日は早いからしっかり寝ておくようにと、ホテルの彼女の部屋の前でしっかりと言い聞かせた。
朝食を食べる量は程々にしておくようにと、食べ過ぎないようにしっかりと見ていた。
直前にSNSなどの影響を受けないように、控室で彼女のスマホは預かっておいた。
パドックへと向かう彼女には、精一杯の笑顔で頑張れと送り出した。
普段から、彼女には最高のトレーニングと教育を施してきたつもりだ。どんな相手が一緒だろうと、絶対に勝てるよう尽くしてきた。
それでも、まだまだ言い足りない。
一人ハイペースでの逃げを打ってくるであろうウマ娘がいるから惑わされないようにだとか、内枠だからバ群に飲み込まれないように早めに抜け出すようにだとか、ケガしそうになったらすぐにレースを中止するようにとか。
今まで散々言ったことを、何度でも言いたくなる。
「毎回、胃が痛くなるよ……結局、どれだけやっても足りないと思うのは、出走する側だけではないのだな」
この無力感は、どれだけ経験しても慣れることはない。いつもトレーナー君が不安そうに私を送り出していた理由がよく分かった。
そんな私の不安を他所に、つつがなくパドックは進んでいく。三番人気のウマ娘が壇上に現れたとき、会場は若干のどよめきに包まれた。見るからにガッチガチに緊張しており、唇も可哀想なほど真っ青になってしまっていた。
……そういえば、スカーレット君に緊張のほぐし方を言うのを忘れていた気がする。
「……スカーレット君、緊張しちゃ居ないだろうか!? あぁ、そうに違いない! 私だってこんなに緊張しているのだ、彼女だって──」
「大丈夫だよ!」
一段と腹痛が大きくなったところで、隣で真っすぐパドックの様子を見ていたメジャー君が、堂々とした様子で高らかに言う。
「確かに、スカーレットちゃんはこだわりが強いし、少し気負いすぎるとこだってある! でも──」
『続きまして……二枠四番、ダイワスカーレット! 本日の一番人気です!』
メジャー君の言葉を遮るように、場内に高らかにアナウンスがされる。
ステージの上。開かれた赤いカーテンの向こう側に、私の教え子が立っていた。
「────────」
言葉を失った。絶句ではなく、圧倒。
あそこに立っているのは、間違いなく私の教え子なのだろうか? そう考えずには居られないほど、そこに立っている少女はあまりにも違った。
彼女はスタスタとステージの中央までやってくると、羽織っていたジャージの上着を勢いよく取っ払う。
鍛え抜かれたトモはジュニア級メイクデビューのウマ娘の物とは思えないほど発達しており、それに支えられた体躯も素晴らしい仕上がり。確かな意思を宿す瞳と微かに上がった口角は、これからの戦いを楽しみにしている戦士のようにも見えた。
ただ一人、他のウマ娘と比べても明らかに、仕上がり方も纏っている雰囲気も違う。彼女がクラシック級で重賞戦線に参加していると、下手したらG1レースに参加していると言われても、何ら違和感のないウマ娘。
それが、観客やマスコミによるダイワスカーレットというウマ娘への評価だった。
「……それに、スカーレットちゃんは、緊張は当然してると思うけど、待ちに待ったメイクデビューだもん! きっと楽しいって思ってるに決まってるよ!」
先ほど遮られた言葉を、満を持して紡ぐメジャー君。ここにいる誰よりもスカーレット君のことを知り尽くした彼女の言葉からは、確かな重さと確信が伝わってくる。
呆然とパドックを終えようとしているスカーレット君を眺めていると……初めてであった時のように、ぱちりと目が合った。
彼女はあの時とは違い、その指を一本掲げ、私に向けて自信たっぷりに笑って見せた。
『見てて、タキオンさん! 絶対一番になって見せるから!』
なんて言ったかは伝わってこないが、彼女は確かにそう言った……気がした。私はそんな彼女に、何も言ってやることができなかった。
パドックを去る彼女の背中を見て、何故か泣きそうになった。
──出走まで、後二十分。
ご閲覧ありがとうございます。この小説での史実との相違点その一、『ダイワスカーレットのデビューが早い』です。理由はまた後々。
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それでは、また次回。