変愚蛮怒のみじかいはなし   作:Stringfish

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追うもの、追われるもの 前編

 天井から落ちてきたらしい岩塊と、地面の激しい隆起。手持の光源では遠くまで見渡せないが、少し観察したかぎりではこれがかなりの範囲に広がっているようだ。数十ヤード四方か、それ以上。石造りの通路や広間、柱で構成される地下要塞の一部としては、異質な風景。

 あたりには土煙が立ち込めていた。

 やはり、さっきの衝撃音はあの*破壊*的な魔法で、ここがその発生源なのだ。

 魔法を放った張本人はとっくに去ってしまったらしく、近くに気配はなかった。ぼくは腰の剣にかけていた右手を離し、引き連れていたハウンドと猟鷹の群れに合図して捜索を命じた。きっと、こんな状況ではこの場所をとっ散らかしたやつの痕跡は見つからないだろう。それでも、やらないよりはやる方がよい。暗闇に消えていく獣たちを見送り、ぼく自身も手懸りを求めて足元を探り始めた。

 腰を落し、あちこちに岩片が転がっている地面に目を凝らしながら、ぼくは思考をめぐらせた。見かけは派手だが、これはそこまで恐ろしい魔法ではない。直接巻きこまれても、この世界のどこか別の場所に転移させられるだけなのだ。兄弟の一人であるコーウィンにこれを聞かされたときは、ぼくを油断させ、あわよくば残骸の一部に変えようと嘘をついているのだと思った。かれの主張が正しかったことは、実際に体験してすぐにわかったが。

 そして、この魔法はめったに用いられない。この術が封入された物品が珍しく、使用に相応の知識と才能を要求するのもあったが、そもそもまともな損得勘定ができる人間は、こんなものを使おうとは考えなかった。なぜなら、殺傷能力が低くともこれほどの地形変化を招く力を使えば、互いに牽制し合い均衡を維持しているこの“影”の諸勢力の注意を強く惹きつけ、一斉に敵に回すおそれがあるからだ。

 しかし、いくらかの無頼の連中は、そこまでの頭を持ち合わせていなかった。かれらの行動原理は、肥大した名誉欲だとか、際限のない知的探究心とか、気違いじみた信仰とか、富や工芸品への執着だとか、そういう厄介なのものだった。かれらの尺度で敵にあてはまるものに対しては、あらゆる手段を用いて見境なく攻撃を加え、掠奪した。もちろん、われわれもその対象に含まれていた。

 

 岩だらけの空間で時間を費やしていると、犬たちの内の一匹が戻ってきて、ぼくを荒れた広間の中心のほうに連れていった。人の匂いがかすかに残っていたようだ。しかし、犬はそこから動こうとはしなかった。おそらく、舞い上がった埃で匂いが途切れたのだろう。ほかに収穫はなく、別の手で探すには情報が足りなかった。

 だが、極めて無分別で放逸でありながら、街道で渡鴉に目玉をほじくられることなく生き伸び、好機と技量を手にした面倒くさいのが、間違いなくこの近くをうろついている。以前そういったやつに少々手を焼いたこともあるし、理屈の通じない馬鹿は、できれば始末しておきたかった。

 ぼくは兜の緒を締めなおし、剣や弩を吊ったベルトや板金鎧の留め金の具合を確かめた。いつもの小札鎧を手入れに回すのは早まったかな。そんなことを考えながら、ハウンドと鷹たちを集めて匂いを憶えさせ、その場を離れた。

 父がわれわれ兄弟姉妹に調査を命じたこの“影”は複雑な様相を見せたが、ともかく、その側面の一つはこんな有様だった。

 

 

■■■

 

 

 無限に連なる“影”の平行世界の根源であり、唯一“実体”として存在する不滅の都アンバー。それを治めていた父オベロンの長きにわたる不在は、内側で燻っていた後継者争いを完全に表面化させた。当然、九王子の一人であるジュリアン、つまりぼくも、この陰謀劇に参加し、その役割りを演じた。結局、父によって幕が開けられたこの舞台は、やはり父によって閉じられた。かれは王国で起こった武力衝突のさなかに突如姿を現し、アンバーの支配権が自分にあることを宣言して、一連の騒動を静めた。そしてわれわれ家族に、ある“影”を調べるようにいい、その理由も、玉座を留守にしたわけも明かさず、また雲隠れしてしまった。

 

 問題の“影”には、飾り気のない街が点在していた。“人間”の種類はさまざまで、われわれとまったく変らないか体格が異なる程度の者たちから、真に怪物じみた醜悪な者たちまで、幅広く存在した。

 この世界とそれに近い“影”では、“影の転換”(シャドウ・シフト)──周囲の世界に少しずつ変化を加え別の平行世界に滑りこんでいく、アンバー王族の血に備わった力──に、いくらかの困難を要した。これは“実体”であるアンバーで“影”の中を通ろうとしたときの感覚に似ていたが、そこまで硬質で不可侵のものではなく、どことなく、ねばっこかった。そして、物理的にも精神の集中の意味でも大きな助走を必要とし、勢いがついたぶん、望みどおりの“影”を到着点に選ぶこともひどく難しかった。加えて、描かれた人物や場所にコンタクトし、会話や瞬間的な転移を可能にする家族のトランプも、正常に機能しなかった。

 経験則からはずれたこの現象にわれわれは困惑したが、調査そのものは、だいたい順調に進んだ。この世界には広大な地下洞窟がいくつもあった。その中では、魔物と竜の軍勢(ぼくが今ちょうど歩いているのが、“鉄獄”と呼ばれるかれらの地下拠点だ)や、冒涜的な神々とその眷属や信者、どこかよその“影”から流れてきたような荒唐無稽な存在、それらのあいだを渡り歩こうとする人間たちが入り乱れ、安全からはほど遠かったが、われわれはかれらを無闇に刺激しなかったし、かれらも手を出してこなかった。たいていは。

 だが、われわれがここに遣わされた理由はつかめなかった。家族のあいだでは、この“影”にいる軍団のどれかがアンバーへの侵攻を計画している、という説が最も有力だったが、確証は得られなかった。状況をはっきりさせようと、洞窟群の最深部に足を踏み入れた兄弟もいた。しかし、そこにうごめく強大なものたちとの距離を窺いながら内情を探るのは、容易ではなかった。

 

 家族の何人かが抱えていた父への憤りはいよいよ大きくなり、父はとうとう気が触れてしまったのではないか、という声も漏れ始めた。何世紀も続く見飽きた光景だった。かれらの感情は、ある程度の正当さを持つと思う。父の秘密主義は、今回にかぎった話ではなかった。

 では、われわれはどうだったのか? 王家の御曹子として、いがみ合い、身内同士で謀略を繰り広げ──父が秘密裏に物事を動かすのは、それなりの理由があるのだ。もちろん、家族の不仲には、王位継承についての父の曖昧な態度や、われわれ兄弟がかれ自身から受け継いだ気質が影響を──いや、やめよう。どうせ、どうどう巡りなのだから。

 それに、ハウンドたちが匂いを嗅ぎつけたらしい。

 

 

■■■

 

 

 洞窟特有の暗鬱とした湿り気は、心地よさのある森のそれとは違う。際限なく広がっているかのような地下空間は対流を生んで空気を掻き乱し、生臭さをはらんだ鉄っぽい風をハウンドに先導されたぼくのところへ運んでくる。少し先の方、わずかに開いた扉から灯火をのぞかせる、岩をくり抜いた小部屋から。

 剣の鯉口を切り、その手前まで注意深く近寄った。しばらく様子を見たが、鼻をつく臭気のほかには不審な点も気配もなかった。

 少し気を緩めつつも、まわりを警戒させるために鷹たちとハウンドの半分を残し、ぼくはもう半分とともに部屋の中へと入った。

 

 外から見えた明りはランタンだった。それらは割れて、元の持ち主と一緒に血だまりの中に転がっていた。

 八人の戦士の死体。血の乾き具合からすると、殺されて間もない。

 武具はおそろいで、精緻な細工が施された全身鎧を着、この世界の有力な宗教のしるしを染め入れた袖なし胴服を羽織っていた。装備に見合う精鋭だったのだろうが、相手が悪かったらしい。体の前面には抵抗のあとが多少あったが、そこに駆け引きが介在した様子はなかった。剣と楯はことごとく壊れ、どの死体も甲の上から強引に頭や肩口へ深く切りこまれていて、体の内部構造をぼくに晒していた。断面は綺麗な直線状で、異様に鋭かった。

 あの魔法を使ったやつは、ここまでやってきた。そして、この男たちを殺したのだろう。切り口は、充分な刃渡りの剣か斧でできたように見える。刃筋は荒っぽくて癖の強いものが一種類、ほかの武器や攻撃のまじないが使われた形跡はない。人数は一人で、右利き。多勢を相手にして背後を突いたりしない、工夫を知らないか、工夫がいらないやつ。

 無法なはぐれもの。

 ぼくはハウンドたちを見て、指示を送った。

 かれらは死体や乾いていない血を踏まない程度に部屋の中を動き、匂いを確かめた。それから扉付近に集まり地面に鼻を擦りつけたが、どの犬もそのまま顔を上げて往生し、ただ戸惑いを浮かべるだけだった。追うべき匂いがつかめないらしい。

 これは充分に考えられることだった。この世界には、小さな巻文などを媒質とした簡易で大雑把な転移術がある。“影”の言葉と技で作られた、ぼくには馴染みのない、あまり信用ならない魔法だ。まあ、そのような手段でほかの場所に転移したのなら、返り血やそいつ自身の匂いはここで途切れるだろう。もしくは、そういう種類の人間ではなさそうだが、追跡をまく何らかの手を心得ていたか。

 死体に目を戻し、眺めながら思索する。つい、足が二、三歩動く。それに伴って、この悪趣味な光景の角度が変り、見え方が変った。

 床に落ちた荷袋が目にとまった。中身を漁られたのか食料などが散らばり、それもほとんど踏み潰されていたが、折りたたまれた一枚の紙きれが血に濡れることもなく原形を留めていた。拾い上げると、手配書らしかった。

 なるほど、おたずね者とその追っ手が出くわした──いかにもありそうだ。

 人相書きに灯りを近づけ、じっと見た。暗い色の長髪、偏屈そうな冷たい目、実物からかけ離れた悪人面。

 ぼくの手配書。

 ふん。領主の息子だかなんだか知らないが、ぼくの犬に先に手を出したのは、酔っ払っていたあのばかったれの方だ。べつにこの“影”で人殺しの肩書きを与えられようが、賞金首になろうが構わなかったが、本来の用途に差し障るほど戯画化されたこの人相書きは腹立たしかった。

 得るもののない紙くずを無造作に捨て、ぼくは地面に耳を当てた。

 雫のしたたり、足並みの揃った重い靴底、大きな生物の息遣い。洞窟を満たす静寂の下に埋れていた、様々な音が伝わってくる。その中の、人間の範疇に入る、単独行動をしている雑なやつの音を探す……

 いた。

 この剣呑な地下世界を歩くには軽やかすぎる足取り、擦れるような音が不規則に混る。装具か何かを壁や床にぶつけながら動いているらしい。それほど遠くはなかった。

 獣たちを手早く取りまとめると、ぼくは部屋を後にした。

 

 静けさを破らないように用心しながら、天井の高い通廊を早足で駆け、音の聞こえた方角へ向かう。

 道の分岐点をいくつか過ぎたところでいったん止まり、また耳をそばだてて確認する。さっきより近い。追跡を続ける。

 やがて、ハウンドたちの足運びが力強くなった。目的の匂いを嗅ぎとったように見えたが、いくらもしないうちにぼくに追従するだけの走り方に戻った。ぼくはちょっと不安になり、もう一度音を探った。

 一瞬、犬たちが正しいように思えたが、すぐにあの軽薄な足音が地面を伝わってきた。存在感を増して響くそれは数歩続くと途絶え、それから何かの塊が落ちるような重く湿った音が聞こえて、また数歩、また何か落ちる……

 妙な動きをしているようだが、距離は縮まっている。ぼくは自分自身の聴覚を信じるべきだろう。匂いよりも音の方が、標的との時間差はずっと小さいのだから。

 立ち上がり、なおも進み、進み──

 

 場違いな地形に遭遇し、ぼくの足が止まった。ハウンドたちもぴたりと静止して、ぼくと同じ方向を見据える。意見が一致した。

 それは、通廊脇の石壁に口を開けた小洞穴だった。入口の幅は十フィートあるかどうかで、そこからすぐ右に折れている。石灰洞を思わせる見た目、天井と壁面は水の流れに何万年も侵食されたように爛れていて、溶け落ちた成分が下に厚く堆積していた。だが、それはぼくが立っている人の手で穿たれた通廊にまで積もっていたし、岩質もあたりと同じ花崗岩で、水脈の痕跡も見当らなかった。

 この“影”の棒状の道具の一種を使うと、ちょうどこんなふうに岩が溶ける。うまく掘れば、敵に囲まれない、飛び道具の斜線も通らない。地底の奥深くまできて決闘をしたがるやつのお好みの地形ができあがる。勝手に新しい廊下を作られた地主がどう思うかは知らないが。

 最後に聞こえてきた音を思い出す。あいつはこれを掘っていたのだ、ぼくを誘い込むために。そして、この奥にひそんでいる。

 うまいこと乗せられたらしい。やつはぼくに感づいていて、最初からこうするつもりだったのだろう。あの魔法でぼくを吹き飛ばさずに、わざわざこんな横穴を用意したのだから。

 とはいえ、やつがトンネル坑夫の真似をしていたのは、つい今しがただ。これ以上の仕掛けを準備する暇はほとんどなかったはずだ。

 ぼくは招待を受けることにきめて、鞘から剣を抜いた。

 

 

■■■

 

 

 洞穴に入って数歩進み、中の様子を観察した。足元はでこぼこして、ちょっと歩きにくい。横幅が入口からさらに狭くなっている箇所もあり、この空間で犬たちと横に並んで敵と顔をつき合わせるのは、得策ではないと思えた。

 ぼくはハウンド五頭を先行させた。犬たちは大まかな縦列隊形をとって、右折れの角を曲っていく。そのあとに続いて進むと、穴はまた左に曲り、その次は右。細かいジグザグ道だ。奥の方が騒がしくなり、地面を蹴る音や低い唸り声が響いてくる。ぼくは曲り角に差し掛かるごとにいったん立ち止まり、行く手に一瞥を投げかけ、また進んだ。最後尾の犬だけが、後を追うぼくの視界に入ったり消えたりした。前進するにつれ、犬たちが立てる音は一頭分ずつ減っていった。

 何個目かの角に差し掛かり、ぼくはまた横目に覗き込んだ。動くものはなく、犬たちだけが斃れていた。切られ方はあの戦士たちとそっくりだった。駒は使い潰すもの、というのが一族の家風だったが、だからといっていい気分はしなかった。

 そして、その先に視線を移した。もう一つ右に折れた曲り角があり、その向うから光が差しこんでいる。松明やランタンのそれとは違って白っぽく、宙に揺蕩う銀色の帳のようで──

 ふいに、その明りがゆらめくと、細いものが空中を滑る音が聞こえ、光の帳の中に大きな赤黒いものが跳び出してきて倒れた。縦にまっぷたつに割られた、ぼくの猟犬。五頭のうちの、最後の一頭らしかった。

 ぼくは、ほとんど無意識に息を吐いていた。

 あそこを曲ったところに、あの刃の遣い手がいるのだ。

 後ろの犬たちに待機を命じ、身を隠していた壁から急いで離れると、奥の角の手前まで移動し、体を寄せた。角の向う側で足音が一つ鳴り、投げかけられている光がかすかに揺れた。おそらく、この明りはやつが持っている光源のものなのだろう……

 ぼくはこのまま打って出るつもりだった。敵に休む時間を与える理由はないから。呼吸を整え、両手で剣を握り、タイミングを計る。少し間をおいて、また足音が鳴った。

 それを合図にして、ぼくは動いた。まずフェイントで踏みこむように見せかけ、攻撃を誘った。よし。振り下ろされたのは片刃のなにか、たぶん剣。それを押さえつけるように、ぼくも剣を繰り出しながら跳び出し、相手の剣がまごついた隙に向き直って、その持ち主と正対した。

 

 まともな人間のかたち。背はぼくより目線一つは低く、五フィート半ぐらい。身に着けた革帽子とマントは本物の草木で飾られ、額に巻いた石から銀光がこぼれていた。その中に青白く浮かぶ顔は若そうに見え、痩せているが頬のカーヴには柔らかさがあった。

 女かな。こんな洞窟に好き好んで潜るような輩は、身なりから性別を見分けにくい。べつにどっちでもよかったが。

 洞穴の途中に陣取ったそいつに消耗した様子はなく、上段に構え直すと楯を通した左腕で反動をつけて、血で濡れた虹のような刃で切りかかってきた。狙いはこちらの首筋。勢いに少し押されながらも受け流して、その奇妙な拵えを目で追った。半月斧の刃を縦に引き伸ばしてむりやり剣にしたら、こんなふうになるだろうか。四フィートを超える柄に、ほぼ同じ長さの混沌とした色の刃が平行についていて、手元の方は護拳を兼ねている。それに守られた敵の右手がひるがえると、小さなスパイクが並ぶ潰れた切っ先がぼくをかすめた。相手はさらに、でたらめな軌道で連続攻撃をしてきたが、ぼくは四度とも捌いて押し進み、思いきり突き返した。

 剣閃の鋭く伸びた、理想的な攻撃、のはずだった。だが、ぼくの突きは敵の脳天を仕止めることも、剣や楯に弾かれることもなく、そいつまで数インチのところで完全に止まってしまった。いや、正確にはぼくの体全体が、弾力のある見えないなにかに押さえつけられたように、まったく動けなくなった。そして、その“なにか”にすさまじい力で右斜め後ろにはね跳ばされ、壁に一度ぶつかって、肩から床に落ちた。

 ぼくはすぐ体勢を立て直し、構えをとった。目の前に、横から差す銀のヴェール。角の手前まで戻されたらしい。追撃はこなかった。

 何をどうしたのかはわからないが、やつが何かしたのは確かだ。結構な術のようだった。しかし、直接こちらを傷つけることはなさそうだ。それに、あの奇怪な剣は恐ろしいが、剣さばき自体は乱雑で洗練されていなかった。ぼくが有効な攻め手を打てなかったとしても、敵もこちらを攻めきれないだろう。今のところ、ぼくの死生観に噛みついて深い歯形を残すような脅威には見えなかった。

 

 今度は、小細工せずに敵の明りの中に進み出た。どうせ最初の攻撃は上段でくると思ったし、実際にそうなった。剣の平に刃を押し当てて威力を削ぎ、流した。次の横薙ぎを速度が乗る前に押し止め、切り下ろしをかわし、そこからの振り上げを弾いた。相手が剣を振るごとに、少しずつ後退させていった。

 そうしているうちに、違和感を覚えた。どうやらぼくが押しこんでいるというより、相手が自分から退いているらしい。なんとなく、わかってきたような気がした。左足をさげながらの打ちこみを避け、払うようなもう一撃を鍔で絡めていなすと、剣先が下がってそいつの胸元が空いた。反射的に切りこみかけたが、剣と楯を無防備にぶら下げた姿は、隙というにはあからさますぎた。

 ぼくの反撃は届かない、という予言だ。ぞんざいな啓示のしかただが、前例と現実味が揃っていた。その成就を先伸ばしにしてやろうと、ぼくは踏み留まって自分の剣を上に逃した。視界の外側のほうで、予言の主が離れ気味の眠そうな目でぼんやりと剣を追い、獲物を捕りそこねたような口惜しさを滲ませるのが見えた。

 その顔を注視しながら、ぼくは剣を持った右手を軽く振り下ろした。さっきのような抵抗に襲われて腕が静止し、剣が慣性で掌から逃げそうになるのを籠手越しに感じた。目の前の敵が満足そうに、妖しく微笑んだ。

 ぼくの体はまた同じように斜め後ろに弾き跳ばされたが、しっかりと受け身をとって地面に下りた。

 今の表情で、わかった。この術には“閾”があるらしい。

 角の向うの気配に注意しながら、剣を持ち替えて左脇に抱え込むようにし、腰の後ろに吊っていた弩を手に取る。それからしゃがみ、ハンドルを回して弦を絞った。

 試したいことができたのだ。あの術で攻撃を止められた時の、柄に掛けた指先の感覚。閾が拒むのはあくまでぼく自身であり、武器ではない。その外側、離れた位置からなら……

 押さえ金具に矢を固定して準備を終えると、左手に弩、右手に剣を持った。実際に構えてみると、自分でやっておきながら、自分の行動に不安を覚えた。ともかく、やってみよう。

 

 三度目の対峙。相手の刃はやはり、ぼくの喉元を目掛けてやってきた。体を傾けてやり過ごすと、敵の剣を壁で挟むように押さえながら、左に持った弩で狙いをつけた。しかし、相手は慌てた様子で剣を引っ込め、楯を膝のあたりに下げて、地を這うような構えになった。注意は明らかにぼくの左手に向けられ、先ほどまではなかった緊張感をまとっていた。こいつにとって、弩はそれなりに警戒すべき存在らしい。わかりやすいやつだ。

 そいつの剣が低い軌道で、鞭のように伸びてきた。ぼくは切っ先を下げ、何度も繰り出されるその攻撃を打ち払いながら、考えた。この独特な構えにも、わかりやすい理由があるにちがいなかった。ぼくの注意は否応なしに下の方に向いていたので、そいつの足下の床に幾筋も走った金色の弧線に気づくのに、ほとんど時間はいらなかった。

 敵がフェイントの真似ごとをして切り払いの角度を急に変え、ぼくの剣をわずかに泳がせた。相手はその隙に左手側に回り込み、さらに攻め込もうとしてきたが、ぼくは剣の動きだけでそれを制した。敵は例の閾より、いくらか跳び出しているのがわかった。そのまま首を狙って剣を滑らせると楯に阻まれたので、転ばそうと蹴ってやった。相手はぼくの右足を避けきれず、左の方に大きくよろめいて洞穴の壁にもたれかかった。

 遮蔽物がなくなり、地面に描かれた黄金のラインの全貌が現れた。細い曲線とルーン文字で構成された図形、その中心に乳白色をした拳大の……何かの像。あいつはまた閾の向うに下がってしまったし、体勢を崩しながらも楯にうまく隠れていた。だから、ぼくはその白いものを射抜いた。

 柔らかな、鐘のような音が響き、矢に貫かれた物体は霞の撚り糸を残して消えた。それを察知した敵は逃げるそぶりを見せたが、こちらの方が速かった。

 そいつが立ち上がりきる前に、ぼくはほとんど確信しながら、二歩踏み込んで面を狙った。やはり、もう見えない抵抗はなかった。攻撃を受けにきた剣を払いのけると、右半身を入れるようにして相手の楯の内側に跳び込み、そのまま喉を掻き切ろうとした。あと少しのところで敵の剣に防がれ、押し返されそうになったが、弩を持ったまま左手を使って喰い止め、体格差を利用して相手を強引に壁に押しつけた。そいつの背中の荷物が岩との間にはさまれて、音をたてた。

 あの狂った色の剣が、持ち主の右頬を平で擦りながらも、ぼくが突きつけた刃を力強く受け止めていた。足を使って崩そうとしたが、相手の足癖も相当わるく、難しかった。このまま我慢較べになりそうだった。

 

 ……組み伏せているうちに、そいつのマントの内側に隠れていた匂いが這い出してきて、ぼくの鼻を打った。だがそれは、若い女が発する汗と肉の熱れではなかった。数種の草花の香りと、シナモン、ミルラ、クローブ、サンダルウッド。そこに刺激臭のするカンフルのような化学物質が混って──最後に死の匂い。

 こいつが呼吸をしていないことに、ようやく気づいた。もがく体には温度がなく、ぼくの顔と剣を窺ってきょろきょろと上下する黒い目は、どんよりとしていて、中から虚ろなものがこちらをのぞき返していた。

 結局、ぼくの方が集中を乱した。左腕の押さえ込みがわずかに甘くなった瞬間に、箍のはずれたような膂力で振りほどかれ、重たい打ち下ろしを一発お見舞いされた。なんとか受け流せたが、右腕への衝撃をこらえている隙に、敵は左折れの角を曲ってさらに奥へと逃げていった。ぼくも急いで弩を腰の金具に戻し、あとを追った。角から跳び出した途端、待ち構えていたそいつにまた下段から攻め立てられたが、両手持ちにした剣ですべて叩き返して、いっきに間合いを詰めた。

 だしぬけに、身に憶えのある感触がやってきた。見えない拘束、そしてぼくを左後ろに押し出す強い力。空中に放られながら地面に目をやると、あの忌々しい金の線条が、ぼくを嘲笑うように鈍く光っていた。

 これぐらい予想できたじゃないか……きっと、あのルーンの罠はまだいくつも仕掛けてあるぞ……

 ぼくは自省しながら、片手をついて着地した。

 面倒なことになったな。あの白い像を壊せば、敵の術は破れる。だが、その手順を何度も繰り返していくのは骨が折れるだろう。それに、相手は“ふつうの人間”ではないのだ。

 やつのルーンのタネがわかったのを収穫として、引き上げてしまおうか? 悪くはない。だがそれは、猶予を与えることを意味する。あいつはきっと、その時間でさらに厄介な玩具を手に入れて、われわれに向けてくるだろう。

 あの薄気味悪い女に意識を取られながら思案を続けるのは、気が進まなかった。方針がきまらないうちに剣の打ち合いを再開するのも、ごめんだ。思いあぐねたまま切り結べる相手ではない。

 右腰の矢筒にしのばせていた、一枚のカードを取り出した。空の深いブルーを背景に、緑と黄金の尖塔が並ぶ宮殿が描かれた、アンバーの札。

 その図案に意識を集中させた。絵の世界の空気が動きだし、宮殿が次第に立体感を帯び始めた。だが、突如雷雲のような黒いしみが現れて拡がり絵柄をそっくり塗りつぶすと、今度はそれが奥行きを獲得した。ぼくはその暗闇の中に、足を踏み出した。




この小説は、Roguelike Advent Calendar 2021の17日目として投稿されました。後編は24日目の予定です。
明日18日目は、radinmsさんの「フェイの最終問題を初クリアした話」の予定です。

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