変愚蛮怒のみじかいはなし   作:Stringfish

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追うもの、追われるもの 後編

 身につけた明りがうっすらと、石造りの柱とアーチを照らしだしていた。左手には回廊の入口。ぼくはかび臭い、暗い広間の中に立っていた。

 何のことはない、同じ洞窟の同じ階層、そのどこかにいるのだ。

 右手に持った、アンバーのカードを見た。一族のトランプで唯一、場所が描かれたカード。そして唯一、まったく不完全だがこの“影”で機能はするカード。本来ならば、真の地球の都であるアンバーに直接帰ることができるのだが、この世界のなんらかの力が“影”に道を作るのを邪魔するのか、今ではでたらめで短い、おおよそ水平方向への転移を引き起こすものになっていた。それでも、こうやって身を隠すのには使える。

 さっきまでぼくと切り結んでいた敵の音は拾えなかった。予定どおり、だいぶ距離を離せたのだろう。トランプを矢筒に戻し、もっと狭くて目立ちにくいところを探そうと回廊を進むと、すぐに手頃な大きさの部屋に行き当った。安全を確認すると中に入って剣を収め、転がっていた空のチェストを入口近くの壁に移動させて、その上に腰を降ろした。

 獣たちを置いてきてしまった。これについては歩きながらも考えていたが、仕方がなかったと結論づけた。どっちみち、かれらを守り抜くのは難しかったろう。きっと今頃は、先にやられた犬たちと同じようにみんな残らず切り刻まれている。そして、血臭の中にあの女がたたずんで、冷たい体から甘ったるい、薬品臭い香気をかすかに漂わせている──

 

 あれは防腐剤の匂いだ。それも手の込んだやつ。

 あいつは生きた屍なのだ。おぞましい儀式や施術によって生れる不死者。肌が青白く見えたのも光源のせいではなく、本当にそうなのだろう。

 ああいった類いの物の怪は、ぼくもこの世界や、アンバーから遠く離れた位置にある正気を失った“影”で、何度も見かけた事がある。その中でも、永遠の命を渇望して自ら生身の肉体を捨てた輩は危険だ。超自然的な蘇生術の探求に心血を注いだかれらは、死体にまじないを掛け、亡者の軍勢をいとも簡単に組織することができる。まあ、あいつがそういう力を持っていたとしたら、とっくに使っている。とすると、まじないを掛けられた側で、死霊遣いの操り人形にでもなっているのだろうか……

 ぼくは何度か右手を握り、開き、手首を回してストレッチさせた。問題ない。それから水筒を手に取り、水を飲んだ。

 これからどうする? 苦労してあの罠を突破していき、純粋な剣の勝負に持ち込んだとしても、やつは危ういと思ったら魔法でぼくを地形ごと消し飛ばすか、転移して逃げてしまうだろう。この深さまで降りてきたのだから、それぐらいの頭はあって当然だ。あいつにとどめを刺すのは、おそらく無理だ。

 それでも──ゲームを続けよう。

 あいつはほかの無法者たちと同じように、身の危機を感じ取ってからも欲張って、いくらかねばるはずだ。掠奪で溜め込んでいるだろう希少な回復薬を使って。

 だったら、消耗させてやればいい。消耗の先には危険がある。その大部分は、力量と適切な選択によって切り抜けられるかもしれない。しかしいつか必ず、逃れられない運命の時がやってきて、破滅する。そこに立ち会うのはこの“影”の連中に任せるが、あいつにサイコロをちょっと余分に振らせて、背中を押すぐらいはやってやろう。終りまで何歩か近づけさせてやろう。もし途中で嫌気が差したら、こっちも帰ってしまえばいいだけだ。

 耳を澄ますと、ゾンビー女の不用心な足音がぼくの網に捕まった。痺れを切らしてぼくを探しにくるのを待ってはいたが、思った以上に積極的に動いてきた。じれているとしたら、願ってもないことだ。

 ぼくは立ち上がり、音の出どころを目指して歩き出した。もう共連れはいない。この世界を調べ始めた頃は兄弟で組んで行動することもあったのを、ふと思い出した。調査が長期化するにつれ、協力は減っていった。皆の心中に、また王位争いが甦ってきたのだ。どさくさに紛れて謀略を企てるのに、これほど適した“影”はない。刺客を差し向けて、あるいは自らの手で直接、気に入らない兄弟を亡き者にする──家族のだれもが考えているにちがいない。ぼくが考えているのだから。

 

 

■■■

 

 

 敵の戦術は変らないらしかった。移動中にさっきと同じ重い音を聞いて想像はついたが、目的地にはまた即席の鍾乳洞が掘られていて、穴は右曲りの道。主人が中から出迎えにこないのも同じ。

 まず弩を準備し、次に右手で剣を抜いた。そして鉄の柱と梁で支えられた通路から、敵が待ち受ける小さなトンネルに入っていく。剣を壁に引っ掛けないように、右肘を引きつけ気味にして緩い中段に構えながら、道を進んだ。まず右に曲ると、二番目の角が見えた。暗い。そこまで行って今度は左に折れる。三番目、まだ暗い。そして四番目……銀色の明りが洩れている。ぼくはじりじりと近寄っていって、その光の中に跳び込んだ。

 

 すぐさま、あの極彩色の刃がぼくの脚に切りかかってきた。払いのけると、前傾姿勢をとった死体女は続けざまに膝や踝を狙ってきたので、これも受け流していった。敵の攻め口はやや精確さに欠けた。周囲に目を配ると、やつはやはり金色の図章の上に立ち、その背後には洞穴の続きが口を空けていた。

 地面をかするように飛んできた敵の剣を、さらに下から打ち払った。相手の右腕が跳ね上がったところで、やつの脚の間に見え隠れしていたルーンの中心部を狙い、左手の引鉄を引いた。だが相手の盾が素早く動いて、矢は防がれてしまった。

 ぼくは後退し、角を戻って二歩ぐらいのところで止って、弩を引き直し始めた。

 敵は上段から攻めるのを、ひとまず諦めたように見えた。相手の攻撃を防ぐという観点では、これはぼくにとって都合がよかった。やつの剣術は、基礎を無視した我流だ。あの奇妙な武器も、扱いを熟知しているのではなく、ただ単に武器庫で一番強力そう──たぶん実際にそうなのだろうが──という理由で持ち歩いているのだろう。そういう手合で注意を払うべきなのは、何も考えていないような、思い切りのよさだけを突き詰めた振りかぶりだ。だが、あいつは自分からそれを捨ててくれる。

 用意が整うと、ぼくはふたたび敵の面前に出ていった。

 

 崩すとなると、相手の防御は強固だった。楯を構えてルーンの上に立つ位置取りは、安直だが手堅い。それに、敵はこちらの間合いと動きに慣れてきたらしく、距離感をうまく誤魔化して、ぼくを何度か罠の閾に引っかけた。射ち損じたり、術で吹き飛ばされたりするたびに、ぼくは角から身を乗り出すところから始めなければならなかったし、たとえルーンの守りを打ち破っても、やつの防具には不思議なくらいに刃が通らなかった。これでは物資を無駄使いさせようがなかった。

 次第に右手が重くなってきた。相手は得体の知れない魔法や武器を使うやつで、こちらも無茶な戦い方をしていたとはいえ、この体力の奪われ方は想像以上のものがあった。

 それでも、四つ目のルーンをなんとか突破した。まだ攻め続けるべきかと少し二の足を踏んだが、射った矢を拾い上げて再装填すると、奥に駆け込んだ敵を追った。

 

 角の向うに跳び込む。やつの剣が撫で切るような動きで突き出てくる。受け流し、膝元に飛んできた次の攻撃も押し返して、立ち位置を確保する。切れ目なく襲ってくる相手の剣を防ぎながら、ルーンの罠と自分の位置関係をしっかりと見定めた。

 頃合いを見計らって弩を持った左手を構えると、敵は後ずさりして迎え撃つ体勢になった。そこでぼくは両手を降ろし、剣を右脇に流して隙を見せ、相手にわざと手番を渡した。やつは躊躇するような表情をちらりと見せたが、また打ち掛かってきてくれた。その刃をしっかりと止め、受身に徹しながら、相手の守りを乱すために誘導した。

 弩をちらつかせながら左右にゆさぶる……やつは意識を取られ、こちらに突っ込んだまま足運びがのろくなる……これだけやり合えば、動き方も読めてくるさ……

 剣を受け、それを敵の足元に向って押し戻す……そして突きを繰り出すように見せかける……おまえは嫌がって、後退しながら払おうとするだろう……ほら、斜め上に……ギリギリまで引きつけ、ぼくは右手の剣を素早く下げる……

 敵の剣が予想どおりの軌跡で空を切り、それから予想しなかった音──鐘の音が弾けた。

 やつは空振って体勢を崩しただけでなく、勢いあまってルーンの真ん中の像を踏み抜いたのだ。この好機に、ぼくの身体が瞬間的に動いて……

 ……まっ直ぐに伸びた剣が、敵の左目をぐっさりと貫いた。

 充分な手ごたえ。いや、こいつ相手ではまだ足りない。

 右目を白黒させている女の胸当てに片足をかけ、捩りながら剣を引き抜いた。鮮血は吹き出ず、つぶれた目玉と、黒っぽい粘液が地面に落ちる。

 膝を付いた相手を追い打つ。しぶとく絡んできた相手の刃を振り払い、こちらの剣を敵の楯の縁に引っ掛けるようにして、強引に、引き剥がすように薙いだ。相手の左肘から先が不自然な方向に捩れる。同時に、視野の左から歪んだ色彩が迫ってきた。やつの剣だ──

 間一髪でその場に転がって受身をとり、横からの攻撃をやり過ごした。少しは動作が鈍ってもいいだろうに……そう思いながら顔を上げると、やつが楯をつけた腕をぶらつかせながら、角の向うにわたわたと逃げ込むのが見えた。あの深手なら、やつに回復薬を使わせられるだろう。あるいは、この場で仕止める事も……

 

 曲ると、そこが洞穴の終点だった。銀白色に照らされた壁が奥に見える。

 そして、やつは──やつは左半身をこちらに向け、剣を投げ出して数歩先にうずくまっていた。利かなくなった腕は地面を支えになんとか楯を構えていて、身体と、その向うにあるルーンの中心部をある程度は守っていた。やつは俯き、何かのまじないらしき言葉をつぶやき始めた。身支度を待ってやる必要があるだろうか? ない。ぼくは剣を弩の支柱にすると、からっぽの眼窩を覗かせるそいつの顔を狙い射った。

 矢は鋭く飛んで左頬の上部に突き刺さった。衝撃でやつの頭が少し揺れたが、何事もなかったように呪文は続いた。その響きは、精緻に組み上げられた体系の作動音のように聞こえた。ぼくは目を離さないようにして、次の矢の装填を急いだ。嫌な予感がする……

 間もなく呪文が止んだ。敵は床の上の本らしきものを引っ掴んで肩掛け鞄に突っ込むと、剣を手に取って立ち上がり、ぼくを見た。頬の矢が徐々に押し出され、抜け落ちる。そこにあるはずの傷跡は、見当らなかった。そして使えなくなったはずの左腕が盾をつけたまま、震えながらぎこちなく曲っていき、やがてしなやかさを取り戻して、しかるべき位置に構えられた。

 回復呪文──完全に計算違いだ。ぼくがこいつに望んでいたのは、かたちある物の空費、掠奪稼業の輩でも数服持ちあるくのがせいぜいの貴重品を使わせることだった。だが魔法となると……こいつはあの強力なルーンの魔法をいくつも仕掛けられるのだ、この回復術もほとんど無尽蔵に使えるのではないか……

 やっと弩の準備ができ、ぼくは身構えた。やつがゆっくりと近づいてくる。その左の眼窩から肉が盛り上がり、うごめいて、新しい目蓋と眼球になった。それから大きくまばたきすると、だらしなく顔をほころばせた。癒ることに純粋な愉悦を感じているかのように。

 

 猛攻が始まった。活力の戻った敵は剣を右に左に振り動かして、めった打ちにしてきた。こちらの疲弊か動揺か、あるいは両方を察したのだろうか、もはや守るそぶりはなかった。ぼくの弩の前半分は、剣筋をわずかに鈍らせるための囮となって切り飛ばされ、もう半分はやつの顔に投げつけてやった。こうして剣の柄に左手も加勢したが、相手の強刃は止めきれず、しのぐので手一杯だった。

 たぶん、もう引き時はとっくに過ぎていたのだろう。

 ぼくはこの場から離脱すべく動いた。相手の剣をいなしながら片手で思いっきり打ち払い、同時に後ろへ退く。右手は矢筒のトランプに。

 敵も簡単に逃してはくれなかった。想像を超えた速さで剣が戻ってきて、ぼくの兜の頬当てを強襲した。たまらず顎が上がって、首元が無防備になった。切り返してきた切っ先が、氷に触れたような冷たさでぼくの喉を撫で、スパイクで皮膚を喰い破り、血を滴らせた。

 だが、それだけだった。

 バランスを崩し、洞穴を転がりながらも、ぼくは右手に持ったアンバーの札をしっかりと見つめていた。王宮、コルヴァー山。麓にはガーナスの谷、そしてアーデンの森が……

 カードの景色はにじみ、暗い石の通廊を形成して、ぼくをそこに転移させた。

 

 音の反響が変った。ぼくが手をついた床は、槌と鑿で掘られたものになっていて、幾分か平らだった。剣を支えにして体を起こし、あたりを見回すと、そこは洞窟のどこかの通路で、すぐ後ろは交差した四つ辻になっていた。物寂しい空間で主張するのは、上がりきったぼくの息と、激しく鼓動するぼくの心臓だけ。

 敵は振り払えた。だが、ぼくはまだ気の滅入るような地下にいる。体は重く、濡れた喉の傷がひりついた。カードをしまうでもなく、狩りの失敗を噛みしめながら、ぼくはその場に突っ立っていた。どこからか風が吹きつけていた。

 

 突然、心の奥を突っつくような感覚がして、それからチリンチリンと呼び鈴の音が続いた。コンタクトの合図だ。でも、だれが? いったい家族のだれが、この“影”でトランプを使える? 疑問への答えのかわりに、ぼくの精神に冷たい悪意が押し当てられた。相手がコンタクトをこじ開けようとしている……

 顔を上げると、視界の右側に灰色の額縁が浮いていた。その中から、とろんとした目つきでこちらを見下ろしているのは、あの死体女だった。

 やつだ! やつはトランプの魔法にも習熟していたのか──

 

 女は魔法の額縁からするりと抜け出ると、得物を振り下ろしながら跳び降りてきた。動きはひどくスローモーションに感じられ、迫りくる剣の姿が鮮明に見てとれた。いつの間にか、あの異常な色合いは消え失せていて、今ではぴかぴかと鏡のように光り、鎧姿のぼくがまるで小さな肖像画のように映り込んでいた。

 その煌めく刃から身を守るのに、ぼくはカードを持ったままの右腕を差し出すしかなかった。

 刃と、籠手の鎖帷子が深く喰いこんで、激痛が走った。体を二つに折りそうになったが、かろうじて持ちこたえた。そこにまた剣がやってきて、今度は左脚に切りつけた。ぼくは結局、崩折れてしまった。

 苦痛に悶える間もなく、尻もちをついたところに敵が容赦なく攻めてきた。相手の刃は風車のように回転し、もうほとんど折れそうなぼくの気骨と一緒に、見知っていた世界そのものを削り取り、すり潰していくように思えた。

 防戦一方のまま、敵と痛みの両方を相手にしながら、わずかな隙を見つけてあたりを探した。

 ついさっきまで手の中にあったアンバーのカードは、見当らなかった。風に飛ばされてしまった、きっと──

 ぼくの口をついて、罵倒語が漏れた。目の前の敵に向けて、この追いつめられた状況に対して。敵の剣撃の一そろいを必死で喰い止め、転がって何フィートか距離を稼いだ。立ち上がれないまま血の跡をつけて後ずさり、通廊の交差を越えて、また罵倒する……

 

 そして、ぼくらのいる通路を何かが突き抜けていった。

 空気がじっとりと、より湿度を増すように変質するのが肌に感じられた。ぼくとやつが持っている二つの光源に照らされる中で、わかりにくいがたしかに、床や壁が蠢動するように暗くなり、黒ずんでいった。

 そこに、巨木の丸太のように太く長い胴体から何本も首を生やした姿が、いくつも浮かびあがった。ヒュドラと呼ばれる、多頭の蛇の怪物たちだった。

 意図したわけではなかった。だが、アンバーの血がぼくの憎悪と呪詛に反応し、“影”を貫いて呼び出したのだ。

 ぼくとあいつとの間に割って入るように四つ辻を埋めつくしたヒュドラたちは、シューシューと細い威嚇音を出しながら、口から瘴気と炎を滴らせる頭を次々にぼくの敵へと向けていった。

 

 それを尻目に、ぼくは腹ばいになって進みはじめた。左手にしっかりと剣を握りしめて。

 蛇たちがあいつを打ち倒すとは思っていなかった。せいぜい趣向の変ったバリケードになってくれれば、それでよかった。

 あれらが取るに足らない存在だといっているのではない。たとえ無自覚に口にした言葉がきっかけだろうと、この呪いが引き寄せたものには相応の力がある。ただ、物事は大なり小なり、徒花みたいに時期に恵まれなかったりするのだ。やつはヒュドラたちを片づけるのに、剣を振るう必要すらないのではないか……

 前進しながら、ぼくはこの地下洞窟からアンバーへと続く道を想像し、作り出そうとした。

 底冷えする、着込んだ防具ごしに体力を奪う岩の床を、まっ直ぐに……通路がだんだん曲り、ゆるやかに上に傾斜する……まだイメージのまま……その中でさえ、もたつく……あたりがほのかに明るくなる……光る苔……その上を歩く地上に近い場所の生き物……何かの虫、判然としない……まわりの花崗岩には石英や雲母の粒……細部に目を配る余裕がある……なければならない……後ろで“影”の現実が騒いで邪魔をする……ぼくにとって、数多あるパラレル・ワールドのうちの一つ、紙のように薄い存在だったはずが、今では鋼鉄のように強い……坂の角度がもっと急になる……ずっと遠くに小さく見える、たぶん真昼の太陽の光……想像の産物……希望的観測……

 実際に試みて、この世界から脱出するのに必要な移動速度も、集中力も、時間も、ぼくにはないことがわかった。噛んだ唇から一筋、血が垂れた。

 

 ぼくは後ろを振り向いた。

 もちろん、そんなことをして時間を無駄にはしたくなかった。だが、焦燥感が何か行動を起こせと煽り立て、それに体が反応し、こういう結果になった。

 あれだけいた大蛇は、最初からいなかったかのようにあらかた消えてしまっていた。視界に入るのは、すでに死んでいるのも含めて二、三体だった。

 そのうちの一体が鎌首を持ち上げ、口から緑がかった毒を吐きながら戦っていた。撒き散らされた毒は濃く、離れていても息がつまった。

 十字路を覆った緑の靄の中で、元の鮮やかな色をまとったあいつの剣が閃いた。やつは周囲の毒気を打ち払いながら、刃と先端のピックを使いわけて、ヒュドラの首を一つずつ切り落し、潰していった。

 下手な宗教画かステンドグラスのモチーフみたいだ。やけに冷ややかで他人事みたいな感情が顔を出したかと思えば、どちらが悪魔かわかりやしないぞと、また別の皮肉っぽい批評がやってきて、先客を脇に追いやった。

 

 向き直って、また這いだした。

 少しでも近づきたかった。濃緑の葉をつけた木々がそびえる森に、梢から溢れ落ちた金色の陽が溜まる場所に……

 背後の騒がしさがなくなり、やがて足音がやってきた。最初は水っぽい、血を踏む音。それから乾いたものになる。一歩一歩、どんどん近づいてきて、もう剣が届く距離……

 

 ぼくは這いつくばった体勢から、左手の剣で振り向きざまに薙いだ。片手片脚を使えなかったが、寝返りをうつ要領で。

 剣は完璧なタイミングで、金属音と共に火花を散らした。相手の大上段からの振り下ろしをとらえ、勢いよく弾き返していた。

 勢いがよすぎた。

 満足な支えもなく、振り終るのが大きく遅れた腕は空中で遊び、ぼくが上体を起こして安定させようとする間、格好の狙い目になった。

 やつはそこを見逃さないで、ぼくの左手の指に正確に攻撃を加え、剣を払い落した。

 敵はそのままステップを一度踏み、武器を持った腕を体の後ろに引いた。力が最大限に伝わるよう半身に構え、切っ先を真後ろに伸ばして。

 その右腕がしなるように振り抜かれると、相手の剣が横っつらを向けてすさまじい速度で飛んできた。

 苦し紛れの抵抗を一蹴するような、純然たる力任せの打撃が、ぼくの側頭部を兜ごと砕いた。

 

 

■■■

 

 

 殴られて、あお向けに倒れたのは覚えている。それから長くは経っていないと思った。

 まわりの状況はわからなかった。頭が火のついた薪を入れられたように燃えていて、ぼくの五感を陽炎の中に放り込み、時間の感覚まで歪ませていた。何十秒とか何分とか、そのぐらいだろうか。案外、ほんの一瞬の気絶かもしれない。自信はない。体じゅうが痛み、動く力がないのはわかった。

 あの動く死体は何の目的でこの地下迷宮に潜り、何を求めてぼくを襲ったのだろう。手当り次第の追い剥ぎか、ただの賞金稼ぎか。そうではないなら、ぼく、あるいは家族全体を明確に狙った? 恨みか、それ以上の込み入った事情で。あるかもしれない壮大な企みの、ほんの一部として。策動家の手先、尖兵、露払い。こいつがすでに家族のだれかを手に掛けているとか、こいつの裏で家族のだれかが手を引いているとかは、考えたくなかった。もしかすると、おまえは父の命令と関係があるのか? いや、そもそもこの“影”はいったい何なのだ。

 思考がとりとめなく流れてはちぎれていったが、ぼくの疑問に対する回答は訪れないだろうと思えた。

 

 痛みが麻痺し、頭が割れるような感覚もいくらか鈍ってきた頃、すぐそばで何か堅いものがぶつかり合って、がちゃがちゃと音を立てているのに気づいた。目を開くと、ぼくは記憶どおりあお向けに寝ていた。なんとか首をまわして、音の出どころに焦点をあわせた。

 死体女が、まるではしゃいでいる子供みたいに得物と盾を体の前で軽く打ち鳴らしながら、両足をその場で小さく躍らせていた。全身が、何度も浴びた返り血と土埃や蛇の毒なんかでさらに汚れていて、いよいよ悪夢じみた風貌になっていた。とはいえ、今のぼくの身なりもたいした相違はないのだろうか。考えていて、どっと疲れを感じた。

 そいつは内向的な笑いを浮かべながら、ぼくの横にしゃがみこんで、今回の馬鹿騒ぎの成果を品定めするようにこちらを眺めた。ぼくのつま先から、膝、腰、腹……

 視線の動きはそこで止まった。女の眠そうな目蓋が少し見開かれたように見えた。それから困惑した様子で剣を地面に放り出すと、籠手をつけたまま、ぼくの体を何度も触って確かめだした。

 やがて、何かをいいたそうにぼくの顔を見た。発声に手間取ったらしく最初はただ口をぱくぱくとさせるだけだったが、そのうちに、くぐもったかすれ声が聞こえてきた。

 

「お、う……ぅえっと、あ……あのヨロイ、は?」

 

 何秒か経ってゾンビーの主張を理解したとき、腹の奥からくつくつと笑いが起こってきた。

 ぼくの小札鎧か。それが目当てだったのか? 白色の、釉薬をかけたような小片が並んだ鎧。審美眼のないやつはお祭りの飾りつけみたいだと揶揄したが、そんなやっかみではあれの価値は少しも減じなかった。今着ている板金鎧よりずっと頑丈だった。愛用していた──だから手入れして、万全の状態にしておきたかったのだ。

 もしぼくがあの小札鎧を着ていたとしても、おまえが立っている側で、ぼくが倒れている側なのは変らなかったろう? 上等な毛皮が欲しいのに、それに穴を開けて台無しにするやつはいない。きっとおまえも、いちいち覚えてはいないが、ぼくの胴を狙うことはぜんぜん考えなかった。鎧のちがいに気づかないぐらいに。攻撃がこないのなら、何を着ていても一緒だ。

 それにしても、いったいどこで噂を聞きつけたのか。たしかに、あの小札鎧は二つとない物だ。とはいえそれを手に入れるために、平行世界の中心に君臨する王国に真っ向から喧嘩を売るような、こんな粗暴な手段をとるとは。ぼくの素性もわかっていただろうに、あまりに短絡的で思慮の欠片もない。どんな立派な武具で身を固めても、どんな巧みな魔法を使えようとも、馬鹿は馬鹿だ。やっていることは、そこらのごろつきと同じ──いや、かれらのほうがまだ利口かもしれない。

 ぼくはこんな脳味噌に蛆が湧いているような、いやしい鎧強盗のために、陽の差さない陰気な洞窟で大立ち回りの追跡劇をやったあげく、血を流し、死ぬのだ。しかも、ぼくとこいつのどちらも目的を果せない。見てのとおり、おまえのお望みの鎧はここにはないのだから。とんだ骨折り損というわけだ。

 

 もう充分だった。

 ぼくは呪いの言葉を唱え始めた。今度は、不意に漏れた一言、二言のつぶやきではなく、ありったけを込めて。

 ぼくの備品管理を非難するような不機嫌な顔でこちらをじっと見ていた死体女は、それは聞くと思い出したように動き、何かを取り出した。

 また、本。さっきのとは違う、もっと物々しい装丁。女は留め金をはずして頁を捲ると、色のない唇でまじないを読み上げだした。複雑な響きを持ったその呪文は、しばしの間ぼくの呪いと足並みのそろわない併走をやって、祈りを捧げるような仕草で締められた。

 そいつは本をうやうやしく鞄にしまうと、やっと剣をとった。それを横たわっているぼくの上でのったりと滑らせ、片膝をついたまま自分の体と右腕を動かして位置を調節し、やがて刃を喉の真上に陣取らせた。

 剣はかすかな残像をのこしながら、ゆっくりと高くかかげられ、頂点で一瞬止まると、それから無機質に落ちてきた。

 汚れた虹色のギロチンが首を刎ねるまで、ぼくは呪い続けた。

 アンバーは、アンバーの血は、きさまを地獄の底まで追っていくぞ──




この小説は、Roguelike Advent Calendar 2021の24日目として投稿されました。
明日最終日は、らすねさんの「ディアボロの大冒険が令和3年にもなって新バージョンになった話」の予定です。

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