不快な描写があります。お気をつけください。
A組で『策束をどうするのか』という議題が上がって数日、答えは見いだせず暗雲が立ち込めていた。
そのような中でも、葉隠が気になっていたのは青山であった。
徐々に周囲と距離を置き、日に日に笑わなくなっていく青山だったが、それでも学友たちは訓練を、そして策束を優先してしまっていた。
惚れた腫れたの話ではなく、優先事項はいくらでもあるが、蔑ろにして良い事象などない。
だからこそ、彼女はUSJから抜け出した青山を追う。
追いかけた先は森──USJ襲撃から初めての救助訓練で使用したグラウンドだった。土地の半分はもうすでにアパートメントの建造が行われており、グラウンドとしての機能は失われている。
だがその場所は飯田、策束、葉隠、そして青山の四人で行った山岳救助訓練。あのときは全員助けることが叶った場所。
だからこそ、自分も青山の役に立てるのではないか、また全員で笑い合える日が来るように。そう、願いながら。
どう声をかければ良いか、そのことをずっと考えていた彼女は、森の中に潜む気配に気づかなかった。
青山の通り道を塞ぐように、二人の男女が彼を囲んでいた。
話し声を盗み聞きできるような距離ではなく、その会話が聞こえてきたのは、彼らの感情の高ぶりによってだ。
震える声で、それでも甲高い声の女性の声が、葉隠の耳にも届いていた。
「やるしかないのよ……。【あの人】が再び指示を出してきた……。
「大丈夫、【これまで通り】傍受されていても民間の日常に取れるよう暗号化してあるわ!
「ここなら監視の死角になるんでしょう!? 大丈夫よ、神野までちゃんとオール・フォー・ワンの言う通りできてたじゃない!
「やらなきゃ! 私たちが殺されてしまうの!
「──優雅!!
「入学間もないころ上手くあの人の要望に応えたじゃない!
「合宿でもだれにもバレず居場所を教えられたじゃない!
「私たちだって! 一度だって好きでやったことはないわ!
「けれど! もう遅いのよ! 遅すぎるのよ!!」
ヒステリックに叫ぶ女性は、手の平を返すように猫なで声で青山へと甘えだした。
「──私たちは、あなたにただ、幸せを掴んでほしかった……。
「“個性”を持たず生まれたあなたが! “みんな”から外れないように! みんなと一緒に夢を追えるように!
「こうなることがわかっていたなら、しなかった! 絶対に! オール・フォー・ワンに個性をもらうなんて!
「私たちは、もう関わってしまった。
「関わってしまったら! もうオール・フォー・ワンからは逃げられないのよ!」
事情を──真実を察した葉隠は踵を返し走り出そうとして、こちらへと向かってくる【一団】を見た。
その一団を率いていたのは、策束だった。葉隠の手袋の存在に気づいた彼は、一瞥だけ送って無視をする。
彼らの登場に驚いたのは、葉隠だけではない。
青山を囲んでいた男女──彼の両親も黒いコスチュームの登場に身体が強張り動けなくなってしまう。
「なん、で! なんで! ここは見つからない! 見つからないのよ!!」
「そんなわけがないでしょう。頭から録音もできていますよ。玄野、竹下さん、拘束を」
爽やかに笑う策束を振り返り、青山も【笑っていた】。
涙と鼻水で顔を汚し、それでも、笑っていた。
策束が彼の表情を見て右手を軽く上げると、動き始めていた黒服の動きが止まった。
「ずっと……苦しかった。
「絶対疑われないように、振る舞ってきたよ。
「罪悪感に圧し潰されるから、無理矢理気丈に振る舞ってたよ。
「神野で、オール・フォー・ワンが捕まったとき、卑しくも勘違いをしてしまったんだよ。
「これでみんなと……一緒に──って」
策束は応えず、右手を下げる。再度動き始めた黒いコスチュームたちが森へと消えて行く。離れたわけではない。
近づいてくる音に怯え、青山の背に隠れる男女に、策束は舌打ちをする。
「ああ優雅! 許してちょうだい! 愚かな私たちを許して! 優雅!」
「僕、ママンとパパンを、守りたくて──死なせたくなくて──!」
「優雅お願い! 私たちを助けて! 優雅!!」
青山優雅のその一歩は、策束業へと向いていた。
「──USJも、合宿も……。僕が手引きした」
背後から忍び寄っていた黒服たちが、青山一家を拘束する。
倒され手を縛られる青山は、策束を見上げて笑っている。
「僕は、クズのヴィランだ」
「……連れて行ってください」
冷たく言い放つ策束は、無表情を貫いていた。
周囲に黒服がいなくなったころ、葉隠は策束の前に立った。
──そっと、策束の【涙】をグローブで拭う。
「ずっと、そこにいたんだね、策束くん」
策束も無言で葉隠の顔を抑えつける。その【濡れた感覚】に、必死になって彼は仮面を張り直す。泣きながら、笑った。
「さあ、私たちも行きましょう」
崩れそうになる足に力を入れ、二人は歩き出した。
◇ ◇ ◇ ◇
青山の母親の声が、空き教室に流されていた。
策束が途中で再生を止め、「内通の自供となります」と、静かに呟いた。
芦戸が嗚咽を漏らすように泣いている。峰田は信じられぬと否定していた。葉隠はいまだに受け止めきれず、尾白へ寄りかかって泣いていた。
その場には相澤やオールマイト、根津の姿もあったが、教員にすら全体では報告されていない。神妙な表情で納得していたのは、警察から出向している塚内だけだった。
「個性を与えてもらい、支配されるに至ったと……。付与は約十年前か。いま無事ということはナガンのような裏切ったら爆発する仕掛けはないようだが」
「そもそも仲間になった覚えなんてないよ、あんな男」
自身の話題を出され、壁際に寄っていたナガンが発言する。そのうえで、自身のようにオール・フォー・ワンによって個性を与えられてしまった少年へと視線を向けた。
業組の治崎、玄野、窃野、ベロスの四名によって、なにが起こっても対応できる布陣が出来上がっている。
だから、というわけではないが、険しい顔をした根津は、生徒たちに向けて声を掛けた。
「できれば、キミたちは下がっていなさい」
「下がっていられる道理がねぇよ……!」
「葉隠さんが見つけなければなにをするつもりだったんだ」
「青山! 嘘だって言えよ!」
誰一人引かず、青山を見ていた。
怒りであり、悲しみであり、それでも唯一、策束だけは笑っていた。ヒーローであろうとしていた。
塚内の呼びかけで、父親が涙ながらに事情を説明しはじめる。
「知ってることは、なにもない。私たちはただ、頼まれたら実行するだけだ」
『オールマイトが教師になると噂がある。雄英に入れなさい』
『クラスが孤立するタイミングを教えなさい』
『合宿先を教えなさい』
『雄英に戻った緑谷出久が、一人きりになるよう誘き出しなさい』
「失敗すれば、殺される。嘘をついても、殺される」
「どうやって」
「……見せられた。そうした人間が処分されるさまを……。警察に逃げ込んだ者は、出所後に殺された……。逃げられなかった……。どこにいても居場所がバレる……。必ず、死に追いやられる! 言われた通りにしてどうなるか! 優雅は知らなかった! ただだれにも勘づかれてはいけないとだけ! 悪いのは私たちだ!」
だから青山優雅に罪などない──。
そう言い募ろうとて、笑い声を聞いた。
「あは」
楽しそうな、無邪気な、甲高い笑い声が、静まり返った教室へと響く。
ヴィランを前にして、全員が【彼】を見た。
無個性ヒーロー──フェイカー。
なにをもって笑うのかわからずに、皆がフェイカーの笑い顔に呆然としてしまう。
だれよりも驚いていたのは、フェイカー本人だった。
「あ、すみません」
早口で謝罪した彼は、笑ったことを誤魔化すようにへらへらとした笑いを浮かべ、口元を隠した。
「策束くん。キミになら、わかってもらえると思ってた。思い込んでた……。でも、違うよね」
青山の言葉はあまりに抽象的であり、その意味を咀嚼しようと周囲が緊張するなか、青山は話し続けた。
「自分が殺していたかもしれない人たちと僕は、仲間の顔して笑い合った。笑い合えてしまったんだよ……。
「同じ元無個性でオール・フォー・ワンと戦う重圧を背負った彼を知って、自分の惨めさに絶望した。
「あの置手紙で、緑谷くんが僕と同じ無個性だったと知ったとき──僕は、なにもかも、絶望した。
「彼の心配より先に、絶望した自分に……絶望したんだ。
「性根が、腐っていたんだよ……。
「青山優雅は、根っからのヴィランだったんだよ」
青山の発言はきっと嘘であり、真実だ。
なら、彼の真意はどこにある?
緑谷は、A組は、それを知っている。
「じゃあなんで、USJで脳無を攻撃したんだよ」
USJ襲撃で、策束は瀕死の重傷を負った。
その要因が青山であったとしても、彼は脳無へと個性で攻撃し、結果麗日は救われた。
「あの夜のチーズは! オール・フォー・ワンにやれって言われたのかよ! 違うだろ!」
──『ぼくはしってるよ』
その暗号は、いま、繋がった。
言葉を封じられ、動きすら監視されているとするなら、それは限界だったということだ。
個性が身体と合っていないのは、青山本人。
彼の助けを求める叫び声は、きっと、至るところにあったのだ。
「あれは! 僕が気付けなかったSOSだったんだ! だって! 取り繕いもせず泣いているのは、オール・フォー・ワンの言う通りにできなかったからじゃあないだろう! オール・フォー・ワンに心を利用されても、すべて明け渡さなかったヒーローを僕は知ってる! 心が押し潰されただけだ! 罪を犯したら一生ヴィランだなんてことはない!」
緑谷は、裏切り者だったと自嘲する青山へと、手を差し伸べた。
「キミはまだ! ヒーローになれる!」
青山は、緑谷を見ていなかった。
彼の背後に立つ人物に、視線を向けていた。
緑谷も振り返る。
理解ができずに振り返る。
なぜこの教室で、《危機感知》がこれほどまでに反応しているのか理解できずに。
「──まだ? まだって、あは、なに? それが、ははは、緑谷の答えなの? あはは、そうなの? そうなんだ」
策束の口元は両手で隠されて、それでも両手の人差し指で支えられ、まるで笑っているように見えた。
こんなにも、泣いているのに。
「あは、あはは、ごめん、笑って、違うの、あははは、ごめんね。ははははは、あははははは」
笑い声はそのうちに裏返り、肌がざわつくような不快な音へと変化していた。それでも、フェイカーは笑うことを止めない。
「ひひひ、ああ、そうだ、なるほど! きひひひひ、そうだったんだ」
壊れた──そうだれもが思った。
だが、なぜ? いま? どうして?
疑問はあるが、それでも、笑いながら泣いているクラスメイトに、どう声をかけてよいのかわからずに、みんなが固まってしまう。
「トガ、ヒミコ!?」
「黙ってろよ部外者」
策束がつまらなそうに呟くと、一瞬で塚内の取り出した拳銃が奪われ、真後ろから弓を引かれて身動きが取れなくなった。
「塚内くん!──策束くんなにを!?」
「オールマイトまで……。まあ、ははは、わかりゃあしねぇか」
学友の奇行に、A組が咄嗟に取った行動は包囲である。
本当の内通者は、策束だったのだろうか。
トガヒミコだとすれば、いつから入れ替わっていたのか。
そのような疑念が渦巻くも、まずは個性を向けて相手の動きを──。
「なんだよ、なんなんだよ……。なんで、あははは、だれもわっかんねぇんだ? なぁ、親だろ? なぁ! わかれよ! なんで!? なんでお前ら! お前らが青山をヴィランに売ってんだよ!」
「違う! 優雅はヴィランなんかじゃない!」
「んなこたぁ知ってるよ! わかってるよ! 青山! ボクだ──ボクだけが、お前を知ってる」
策束は、すでに笑う余裕すら失って、涙を流し青山に語り掛けていた。
その心情を、きっとこの部屋にいる者は知らない。
緑谷ですら、もうわからない。
「ごめん青山! ごめんな! 無視してごめん! 痛かったよな! 同じだった! ごめん! ボク一人で不幸面してた! ごめん、青山!」
「業さんっ」
走り出そうとした策束を、八百万は腕を引いてその場に留めた。訳も分からぬまま、切島と上鳴も策束を押し留めようとする。
足を滑らせ床に倒れ込むも、策束はそれでも青山に近づこうと両足で床を蹴る。
「ごめん! 青山! 一人にしてごめん! カッコイイな! すごいな!」
「なに言ってんだよ策束! しっかりしてくれよ!」
床を引き摺られる切島が声を荒げた。
普段なら──状況だけの説明であるならば、きっと彼らも答えに辿り着いたはずだ。
なぜ策束が謝罪しているのか。
なぜ策束が褒めているのか。
彼に、なにが見えているのか。
「家族守ったんだよな! 十年も! たった一人で!」
策束は、青山にヒーローを見ていた。
彼だけが、見出していた。
拘束が緩み、策束が青山へと飛びつく。
椅子に拘束されたままの青山は、策束に抱き着かれた衝撃で背面へと倒れてしまう。
肩をぶつけた。後ろ手に縛られた箇所も痛い。
だがそれよりも、認めてもらったことが嬉しくて泣いていた。
「怖かったよな! すごいな青山! すごいなぁ!」
青山の両親も、教師も、学友すら、ただ呆然と、子どものように泣き喚く二人の姿を見ることが精いっぱいだった。
「五歳六歳のガキが、親を人質に取られて、十年──か」
唯一窃野が素知らぬ顔をして、《窃盗》で青山の椅子と手錠を奪い取った。拳銃と手錠を返却された塚内は、ただ静かに俯いた。
「ごめんね! 策束くん! 僕は、キミを、見下していた! 見上げてるキミを、知っていたのに!」
「いいんだ! 気にすんな! それが【普通】だ! わかるよ! 怖いよな! 違うのが! ああクソ! 押し付けやがって! 狂わせやがって!」
上体を起こした策束は、腰のホルダーから拳銃を抜く。
両手で構えた銃口は、青山の母親へと向いていた。
「サルに戻してやる!!」
「やめて!!」
発砲されることはなく、青山が銃口を手で塞いでいた。
「なんでだよ青──ぐっ!」
イレイザーヘッドが捕縛布で策束の手と拳銃を縛り上げた。繋がる捕縛布を床まで踏み抜き、策束を床へ引き落とす。
拳銃を向けられた恐怖をいまさら理解したのか、青山の母親と父親は恐慌状態となって悲鳴を上げた。
青山は、その両親を守るように、両手を広げて策束の前に立ちふさがった。
その姿にヒーローを重ねない人は、この場にはいない。
「わかんねぇのかよ青山! そいつらだ!! そいつらがボクらから【普通】を取り上げたんだ! 親だろ! わかんねぇのかよ! 雄英入ったんだぜ青山はよ! お前ら守るために! ヒーローもヴィランも! 敵しかいないんだ! お前ら守るためにクソヤローの命令に従ったんだよ! お前らが一度でも! 青山守ったことあったのかよ!!」
策束は捕縛布に繋がったまま立ち上がり、相澤と綱引きするような格好のまま、青山の両親へと一歩近づいた。
「わかってたらしなかった? 個性を青山のために!? 嘘つけよ! 怖かったんだろ!? 無個性の子どもが! 周りと違うのが!! お前らが守れよ!! これがボクらの【普通】なんだよ!! 受け止めてくれよ! このままでも大丈夫って!! 言ってくれよ──」
「ボクらも! ヒーローに成れるって!!」
「──無個性がそんなにダメなことかよ? なんだよ……なんで、もうやだよ……もう……あーーーー! なんでだよーーーー! あーーーー!! いやだーーーー!! あーーーー!!」
膝をついた策束は、青山の前で喉を枯らしながら咽び泣いた。
涙と鼻水と涎で顔を汚し、大口を開けて仰ぐその姿は、ヒーローとは対極にいるような姿だった。
それが策束業なのだと、だれよりも策束が気づかれたくなかっただろう。
相澤は捕縛布を解いて近寄っていく。策束の手から拳銃を抜き取って、塚内を一瞥した。
「……塚内さん、この責任は見抜けなかった俺にあります。ただ、気持ちはこいつらと一緒です」
教員の後ろに、泣き喚く策束に駆け寄るA組の姿を見た。視線を逸らせたイレイザーヘッドは、両手を下げて策束を見下ろす、青山へ近寄った。
「青山、俺はまだお前を除籍するつもりはない」
泣き声を押し殺す青山の頭を撫でつけ、次は根津へと向き直った。青山に背を向けたまま、彼を親指で差す。
「俺は現状、エンデヴァーたちのやってることはよくわからんのですが、一つ【作戦】を思いつきました。あとで話しましょう」
頷いた根津は、ミッドナイト始め教師陣に指示を出し、警察とともに青山一家を外へと連れ出した。
続いて業組のヴィランたちが根津とともに外へ向う。
退室時、根津は、祈るように叫び続ける策束へと声を掛けた。
「策束くん、いまはいっぱいつらいだろうけど、僕はキミがこの雄英高校を、キミのヒーローアカデミアにしてくれて、本当に誇りに思うのさ」
閉まる扉を見送って、緑谷は唇を噛んで策束の頭を胸へ抱いた。子どものように緑谷の服にしがみつく彼の涙で、すぐに服が濡れていく。
「ごめんね……策束くん……」
歯を食いしばる緑谷は、涙を流していなかった。
泣き虫と揶揄され、だれよりも二人に共感していたはずなのに──。
理由は一つだった。
彼らとともに泣く資格が、自身に無いと【理解】してしまっていた。
──【同情】、してしまっていた。
策束は声を抑え、震える呼吸で緑谷の言葉を待っている。
「僕が一番──策束くんを……見下してたんだ……」
「……いいんだ。それが、お前らの【普通】なんだ」
呼吸を落ち着かせ、嗄れ果てたしゃがれた声で、策束は緑谷の謝罪を受け入れる。
「待ってろ青山……」
緑谷の胸に隠された彼は、ヒーローのようにも、ヴィランのようにも笑ってはいなかった。
ただただ鋭い眼光を湛えた彼は──。
「──オレが全部、ぶっ壊してやる」
そう、覚悟を決めていた。
その後イレイザーヘッドは、策束を拳銃所持の件でクラスメイトから引きはがし、残るA組は帰寮するに至った。
青山の裏切り──。
策束の叫び声──。
衝撃からは抜け出せず、いつまで経っても策束の声が耳に残り続けている。
コスチュームを脱ぐことすらできず、雑談することもできず。
食事の準備をする者、掃除をする者、テレビを見ようとする者。
それぞれが、受け止められずにいる。
「……とりあえず、準備だな」
上の空でだれかに話しかけた切島だが、それに反応した者はいない。
耳郎は静かにテーブルに水を置いた。
喉が──枯れていると思ったから。
ああ、だれの心配をしているのだろうか。
震える手がどうやっても水を零してしまう。
お盆を抱えたまま彼女はそのうちに立ち止まった。
視界が歪む。涙ではない。
怒りが、情けなさが、切なさが、精神にまで影響を及ぼしているようだ。
悲鳴を聞いた。
絶望する人間の悲鳴だ。
ずっと、ずっと、あの悲鳴を発していたのか。
だれも気付かず、だれにも気付かせず──
『オレ、無個性なんだ』
脳無に殴り飛ばされた策束の姿。
『耳郎は、オレのヒーローに成った』
義手でマスクを外す策束の姿。
『さあみんな、ヒーローに成ろう』
肩を組み、笑顔を向けてくれた策束の姿。
「──っ」
頭が割れそうなほど痛い。
歯を食いしばり、唾を飲んだ。
それはきっと耳郎だけではない。
青山と策束、その両名に想いを馳せる葉隠が、小さく言葉を口にした。
「──絶対、倒そうね」
ただこの瞬間だけは、怒りに震えることを許してほしい。
耳郎が、A組が、明確な覚悟を決めて一つとなった。
◇ ◇ ◇ ◇
校長室に通された策束の目の前には、淹れたての紅茶と拳銃が置かれていた。
憔悴しきった様子の策束に、イレイザーヘッドは声を掛ける。
「落ち着いたか?」
「まあ……はい」
掠れ、軋むような声だった。
オールマイトは彼の様相に声を掛けることができず、ただ両の拳を握り締めるに留まった。そのオールマイトの肩に、ナイトアイが手を置いた。
もうひと月近く前に、ナイトアイが策束を「閉じ込めておきたい」と表したことがあったが、この状況を指しているのだと理解する。
勝利のためには、こんな工程が必要なのかと、更に力が籠ってしまう。
「策束、この銃はなんだ。青山の親を殺してどうなるってんだ」
「殺意は無いですよ。銃は本物ですので、逮捕したいならどうぞ」
充血する両目を解し、彼はソファーの背もたれで大きく背伸びをする。
「頭……いてぇな」
独り言だろうが、あまりにも空気を読まぬものであった。明らかに今朝までの策束ではなく、理由は明白──。
しばらく天井を見つめていた策束は、緩慢な動きでテーブルの拳銃を手に取った。流れるような動作で銃のカートリッジを抜き、一発だけ拳銃に装填されていた銃弾もスライドさせることで弾き出した。
空中で【それ】を掴んだ策束は、イレイザーヘッドに拳を向ける。策束の拳が開かれると、イレイザーヘッドの差し出した手の平に銃弾が──真っ赤な銃弾が落ちてきた。
「……これは……なんだ? 治崎に【使った】んじゃねぇのか」
その銃弾を観察したイレイザーヘッドが唸る。その真っ赤な銃弾の先端には針が付いており、中の薬液にも見覚えがあった。
個性破壊弾。
見れば拳銃のカートリッジにもリロードされており、その数、約十発。
「アイツの保険ってのはブラフか?」
「いえ、治崎には脳と心臓、どちらもボクの心音と同期しているセンサーをつけましたよ。脳か心臓のどちらかが分解された状態、あるいはボクの心音が消えた状態、あるいは、それに似た状態であれば即座に彼の血液に個性破壊の薬液が混ざります……ハア」
大きく息を吐いた策束は、紅茶を飲み干してもう一度背もたれへ寄りかかった。
「だけどそれ上手く【使えない】んですよねー……。思考が読まれるんですよ。そんなもんを呑気にヤツが撃ち込ませてくれるなんて思えない。なんど考えてもボクがオール・フォー・ワンに勝てるイメージが湧かない。《予知》でも教えてくれないし」
「私が視たのは、貴様とオール・フォー・ワンが【対面している状況】だけだ。どうやったのかなど知らない」
「これだこれだ、どう思います? まあそれはさておいて、ボクに青山の両親を殺す気は無かった。……無かったけど、本物だったとしても同じことしてたのかなぁ……」
背もたれからずり落ちるようにソファーの手すりへと体重を移動させ、大人のいる前で、策束はクッション部分へと寝転んだ。
あまりの無作法ながら、それを注意するような野暮な人はいなかった。
「まあ、嘘を見抜けるってのは大きな情報でしたね。心を読めるなら理解できる。だけど、嘘を見抜ける? 面白い言い回しだ。相澤先生の良い作戦ってのは?」
仰向けだが、蛍光灯の光すら嫌がって、策束は自身の腕で顔を覆う。
その怠惰な生徒の姿を見て逡巡しつつ、イレイザーヘッドは策束にだけではなく、周囲の教師とヒーローにも向けて、思いつきを口にした。
「……エンデヴァーたちは、まあお前もだが、オール・フォー・ワンの居場所を探ろうとしていたわけだが、失敗と見て良いだろう。
「ヤツは尻尾を掴ませない。だが青山一家に雄英内部を探らせようとしてきた。
「母親の話では『民間の日常に取れるよう暗号化』された命令書であり、送信もそのようにする。
「そんなアナログな方法でしか、もう情報を抜き出せないんだろうよ。
「ほかにこちらから情報を抜く方法もあるかもしれないが、それはともかく、青山たちが情報を【送る】タイミングで罠に掛ける作戦だ。
「問題はいくつもある。
「緑谷を孤立するように仕向けたオール・フォー・ワンは、なにを狙っているのかということ。安直には誘拐だが、ほかにあるかもしれん。その場合はその作戦事態が悪手だ。
「第二に、もし本当にオール・フォー・ワンが出向いて来たときに、心を読まれたらその時点で詰みだ。
「第三が、民間単位の暗号化ってのは、俺は電話やメールだと思っているが。それですらオール・フォー・ワンの個性で嘘だとバレた場合、どうしようもない。
「どのみちあと十日で死柄木の乗っ取りが完了するというなら、そのタイミングで攻めてくるだろう。それを待つ選択肢も、選べなくはないと思っている。
「どんなもんだ?」
策束は、浅い息を吐きながらなんどか頷く仕草で答える。
「悪くない。聴取が終われば裏取りできますね。心を読む個性と嘘を見抜く個性は同一のものでしょうか。わざわざ二つ三つと同じ個性を身体の中に入れておくものか。心を読む個性はおそらく一人用。広げられても三人とかでしょうか。まあ所感なので、これは無視して……もらって、良いですよ……嘘を、見抜く……? 聞き覚えがあるんですよねー……どこだっけ、あ、アメリカだ……なんだっけ……あの……あれ……」
「……策束?」
続く言葉が返ってこないため、イレイザーヘッドは中腰で策束に近づく。
そして、寝息を聞いた。
「寝ちゃったのね」
小さく笑ったミッドナイトが、策束の頭をひと撫でする。
離れた手は、すぐに拳になった。
握りすぎて震える拳から血が零れている。絨毯を汚していくが、構うことなく彼女は根津に視線を向けた。
彼女は笑っていた。
慈しむような、優しい笑みで──。
「ブチ切れたわ」
「面が合ってねぇよ」
「香山先輩こえー……」
笑顔で後輩を黙らせた彼女は、その聖母のような笑みをナイトアイに向けた。
「策束くんには言えない《予知》の内容、聞かせていただけるかしら?」
迂遠な言い回しに、オールマイトが眉を顰めてナイトアイを見る。
ナイトアイは、否定しなかった。
「どうやってかは知らんが、コイツはオール・フォー・ワンと対面する。……無事では、済まない」
「死ぬってこと?」
「結果的には、な……」
もっとひどい──。
その枕詞を使って、ナイトアイは《予知》の内容を切り出した。