血が流れ、悲鳴があがります。
ショッキングな内容のため、閲覧注意でお願いします。
読み飛ばしても問題ないはずです。
感情移入せず、文章として受け入れていただけると助かります。
※愉悦はありません。ただの暴力です。
「起きて。ねえ、起きて」
──いったいいつから寝ていたのだろう。
カルマは目を擦りながら身体を起こした。
途端、バランスを崩してソファーから落ちそうになってしまう。
「わぁ」
間抜けな悲鳴を上げて衝撃に備えると、身体を支えてもらい落下は防がれた。
「大丈夫?」
「うん、ありがとうモモ」
モモはカルマの手を取って二人支え合うように立つ。その手には、策束が身を隠していた、ソファーと同じ色のタオルケットが畳まれていた。
カルマはまだ眠いのか、ソファーへと腰かけてしまう。
モモは欠伸する少年のを見ながら胸を張り、澄ませた表情を繕いながらも鼻を鳴らして興奮した様子だった。
「じゃあつぎはあたしの番! 絶対見つからないところあったから、絶対見つけられないよ!」
「えー? もうボク疲れたよー。モモん家おっきいんだもん」
「あ……えっと、ん、えっと」
拒絶されたことに驚いて、モモの目に涙が溜まっていく。
「あ! かくれんぼは休憩! 終わりじゃないよ! ね?」
「うん……」
泣き出しそうなモモを見て、慌ててカルマはソファーから飛び降りてモモを抱きしめる。
「ごめんね、いじわる言って」
「……ううん。明日も来てくれる?」
「んー……ママはいっぱいお邪魔しちゃダメだって言ってたから」
その言葉に口を震わせ泣きそうになる幼馴染に、カルマは慌てて言い募った。
「ね、音楽室行こうよ。ボク、モモのためにお歌作ってきたんだ」
手を取り合って歩き始めた二人を見ながら、メイド二人が囁くように話しながらついて来ていた。
「カルマぼっちゃんすげー。あたしの弟なんていまだに謝ることできないんだけど。ありゃあモテるだろうなー」
「それは無理でしょ」
「なんで?」
「無個性だって。あのお坊ちゃま」
叫び出しそうになるメイドは自身の口を押えて、楽しそうに歩く背中に視線を送った。
「……マジ?」
「五歳になっても個性が無いって。噂は前からあったけど、今回の訪問はたぶんそれね。弟もいるから、許嫁とかも変わるんじゃないかな」
「策束家の財力ならどうにかするんじゃない? 移植とかあるのかな?」
「さぁね」
「え、いままでのご機嫌取り無駄になっちゃわない? っていうか可哀想ー。お嬢さまの夢もヒーローでしょ? 結構応援してたのになー」
「お嬢さまは問題ないでしょう? すごい個性よ──。友だちに自慢しちゃったもの」
「でも幼馴染の恋人とヒーローって素敵じゃない? ざんねーん」
ため息をつくメイドとは対照的に、もう一人のメイドは気にしないとばかりに二人のあとを付いて行く。
カルマが扉の隙間から顔を出し、メイドたちを睨みつけていた。
聞かれていたら──そう思ったが、彼は顔を真っ赤にしてメイドたちを遠ざける命令を下した。
「ちょっとのあいだ、二人にして!」
閉じられたドアに近づくと、防音扉がしっかりと機能していて室内の音は聞き取れない。メイドたちは顔を見合わせ、そっと扉を開けた。
聞こえてきたのは、五歳が奏でているとは思えない、深みのある演奏。
そのうちに歌が聞こえてきた。
教会や野原、宇宙や深海で結婚式を挙げようとするモモとカルマの二人が歌詞に組み込まれている、愛の歌だった。
「ふふふ、かわいー」
「ふん、お嬢さまのほうが上じゃない」
「えー? そんな感想? 好きだねーお嬢さま」
「当たり前よ」
当たり前のことではあるが、愛する主のために歌を作った少年の心意気も認めながら、メイドはうなずいた。
この日を境に、八百万家の長女と策束家の長男の婚約は、次男が引き継ぐこととなる。
モモはそんな取り決めのことなど知らなかったようで、それからもカルマが家に来れば一緒に遊んでいた。
ただ、その二人の間に、大人たちは必ず策束家次男のマトイを加えるようになる。
三人で遊ぶようになり、そのうちにカルマがいない日も増えてきた。
「今日も業さんは……」
「うん! おうちで、おべんきょーだって!」
「そうですか」
「モモちゃんもおべんきょーする?」
「ええ……。あ、でも今日は、纏さんと遊ぶの楽しみにしていたのですよ?」
嬉しそうにモモに抱きしめられ、頭を撫でられるマトイとは裏腹に、彼女はマトイの頭の上で深いため息を吐いた。
あれから数年、モモは小学二年生となっていた。毎月のように遊びにくるマトイと違い、すでに半年以上カルマには会っていない。
自制を良しと育てられた彼女にとって、彼は我がままを言っても窘められない唯一の相手でもある。
会いたいと言い出せないのには、もう一つ理由があった。
ピアノコンクールがひと月後にあるからだ。
いま我がままを言わずとも会うことができる。
ピアノの先生はとても厳しい人で、怒られるたびに泣いてしまいそうになる。それでも、カルマに会えるからと頑張っていた。
初めてのコンクールは緊張して泣いてしまったが、カルマがいてくれたから乗り切れた。
彼女が、初めてヒーローを意識した瞬間でもある。
「──あっ」
小さな悲鳴とともに、陶器の割れる音が部屋の端から聞こえてきた。
紅茶を淹れようとしてくれていたメイドが、ポットを落としてしまったらしい。
「大丈夫ですか?」
モモが駆け寄り、青ざめた顔で破片を拾おうとするメイドの手を押さえる。
「も、申し訳ございません……」
「いえ、お気になさらないでください」
割れた陶器と寸分違わないポットを《創造》するモモ。彼女はそのポットをメイドに渡したが、濡れてしまった絨毯ばかりはどうしようもできず、もう一人のメイドが大慌てで掃除用具を準備し始めていた。
「ねえモモちゃん! ね! ピアノ! ピアノ弾いて!」
「あらあら」
メイドたちから引き離そうとするマトイに促され、モモはなんの曲が良いか談笑し始める。
その結果──青ざめたままのメイドの表情を見ることはなかった。
それから二週間後、カルマはタクシーに一人、揺られていた。
理由は、実は良く理解していない。
八百万家のメイドから、モモがカルマに会いたいと我がままを言っていて、手が付けられないと聞いていたからだ。
無個性と診断されてから五年経ったいま、モモはカルマと距離を置くようになった。それはカルマとしても理解している。
(無個性って、恥ずかしいからな……)
習い事が増えた。
母親は息子が無個性であることが受け入れないらしく、父に泣きながら謝罪していた。
(無個性って、悪い子だからな……)
父がカルマを怒鳴りつけることはなかったが、彼はため息を吐いた。無個性であることを告げられ、すぐのことだった。
泣き出さないことが、限界だった。
母親が医者を問い詰める姿が忘れられず、カルマはときどき眠れなくなった。
焦りを含んだ母の声は、いまだに夢で見てしまう。
あの日から、すべてが変わった。
周りの目が言うのだ。
策束家の息子である策束業から、無個性の策束業になってしまった、と。
(どうすればいい……? どうにかならないか……?)
どうにかしなければならない。足掻かなければならない。
そう、母の様子から察していた。
メイドと待ち合わせた喫茶店の前でタクシーを停めてもらう。カードを取り出して支払いをしようとすると、外から強くドアのガラスが叩かれた。
見覚えのある女性が、硬い表情のままガラスを拳の腹で叩いていた。
タクシーの運転手が文句を言うと、女性は笑顔で謝罪し、カルマの代わりに料金を支払う。
二人は喫茶店へと入った。
「申し訳ございません。支払いは私が、とタクシー会社にはお伝えしていたのですが」
「いや、べつに良いけど」
運ばれた水を見て、カルマは虫を払うように手を振って店員に下げさせる。
小学生低学年に見合わない不遜な態度。生意気だととれなくもないが、店員はカルマを睨みつけて水を片付けた。
「ここに来るまで、ほかにお買い物などされていませんか? 私ったら気が利かなくて」
「べつに良いだろ。んで、なに?」
「買っては、いませんか?」
「……ないけど」
「そうですか! 良かったです! なんでもご注文くださいね!」
不自然なくらい笑顔になっているメイドに、カルマは警戒心を強める。無個性であることが周知されてからこちら、軽んじられることが多い。いじめと表現しても問題なさそうな嫌がらせはなんどか受けていた。
「要らない。それよりさっさと用事済ませてくれよ。ボクさ、これでも忙しいの」
もっと言えば、モモと会いたくない。
意地だけでそのことは言わなかった。
数年前、モモの個性を目の前で見せてもらったとき、カルマは感動した。
大好きな幼馴染がもっと好きになった。
だがいまや、釣り合いが一切取れぬ間柄だ。弟に個性が発現して、その思いは一層強くなってしまった。
だれよりも無個性を恥じているのは、彼だったから。
「サプライズをしましょう」
笑うメイドから、モモを喜ばせる作戦を聞く。
「まず、カメラに映らないように塀をよじ登ります」
「……はぁ?」
「つぎにこちらへ着替えてもらいます」
紙袋は大きく、なにが入っているのか覗き込もうとしても、カルマの身長では足りなかった。
「そのあとは、お嬢さまのお部屋に隠れていてください」
「なんか……よくわかんないんだけど。まあいいよ、夕方には槍の先生んとこ行くから、早く終わらせてね」
「ええ! もちろん!」
八百万家にはメイドの車で向かった。
「……なんだよ! これ女物じゃん!」
「ええ。ですからサプライズですよ」
あまりの無茶な提案に、それでもモモの笑顔を思い浮かべ、どうにか受け入れる。
女性物の白いワンピースに、黒髪のカツラを頭に乗せられる。
「やっぱり! カルマ坊ちゃまなら似合うと思っていましたよ」
メイドはさらににこにこと笑い、ヘアピンを使ってカルマの髪にカツラを固定していく。
手鏡の中のモモっぽいナニカは、にこりともしていなかった。
女装、しかも好きな人に変装することへの嫌悪感からカルマは文句を言おうとして──頬を真っ赤に染めて俯いた。
メイドは私服を脱いで下着姿になっていた。
なぜ? そういう暇もなく、彼女はメイド服へと着替えていた。
カルマは、安堵するようにため息を吐いた。
二人は車から降りて塀へと向かう。女性はワイヤーを高い塀に引っかけると、彼女はカルマに登るように指示を出す。
「忍者かよ、無理だろ」
壁は三メートルだ。降りるときにどうするんだと文句を言おうとしたが、メイドは背中に乗るように提案してきた。
(小学二年生で……おんぶ……。しかも女って……)
帰りたいと思いながらも、しぶしぶ彼女の背に乗った。メイドは三十キロほどあるカルマを背負って軽々ロープを上って柵にまで到着し、そしてロープを回収しながら着地する。
カルマは着地の衝撃にすこし咽ながら、メイドに拍手を送る。
「忍者いたよ」
「むかし取った杵柄というものです」
「膝大丈夫?」
聞かれた女性は、言いづらそうに視線を逸らす。
「えっと、その……個性なので」
「ああそう。どんな個性?」
立て続けの、しかも自身から個性を話題にするような質問に、メイドは目を丸くした。
顔に掛かったセミロングのカツラの髪をかきあげる無個性の少年。その仕草はどことなく優雅で──まるでモモのようで──女性は顔を強張らせる。
その表情の変化をカルマは誤解した。
「ま、べつに良いよ。無個性には関係ないさ」
会話を打ち止めた二人は、屋敷へ入っていく。
モモの部屋に入ると、メイドは疲れたでしょうと紅茶を淹れ始めた。
「んで? モモは?」
「あと十分もすると戻ってくると思います。それまでベッドのなかでお願いします」
差し出された紅茶を飲みながら、カルマはベッドを横目で見る。天蓋付きのベッドは、毎夜モモが寝ているものだ。
女装はどうにか許容できるが、果たしてモモが自分のベッドに女装した幼馴染に気づいてどのような表情になるか──。
「無理。もう女装もやだ」
「お嬢さまのために、どうかお願いします。ああ、でも、そうですね、ベッドはやめましょうか」
「そうしてくれ」
──それから十分後、カルマは眠気と戦っていた。
メイドはその様子を見て、カルマをベッドへ寝かせてしまう。
「だから……さすがに……」
落ちてくるまぶたをどうにか開けようとするも無理で、それどころか、上体を上げようと腕に力を込めたのだが、すこしも動かなかった。
そのうちに声も出すことができなくなり、まぶたも完全に閉じてしまっている。どうにか意識だけは残っているが──。
荒々しく扉が開かれ、カルマはモモの信頼を裏切ることに悲しみを覚えながらも、それでも身体を動かすことはできなかった。
だが、入ってきた人物はモモではないと安堵する。
男性の声だった。メイドと言い争うような言葉とともに、自身の身体が引き上げられる。
──運ばれている。
明転する視界は、担がれて廊下を移動していると教えてくれた。だが、まぶたすら自身の意志では動かせず、屋敷を出るころには意識を手放していた。
かび臭さに不快感が募り、カルマは一度首を振った。
大げさに動いたつもりだったが、カツラの長い髪の動きはほんのすこしだけだった。
(……座って、る?)
まぶたが重く、耳鳴りがひどい。砂嵐のように血液の流れる音が聞こえる。
そのざらつく聴覚では、目の前で談笑する男たちの言葉は聞こえなかった。
(二人……だれ……?)
そこにきてカルマはようやく、自身を取り巻く環境が激変していることに気が付いた。
手が、縛られている。
震える手に目いっぱい力を入れても、肩が揺れる程度のものだった。
「あら、起きたんじゃない?」
「だははは! 金の生る木だ!」
近づいてきた男は酒焼けした声で、おまけに酩酊しており、手に持ったナイフの刃をカルマにちらちらと見せつけてきた。
「どーもお嬢ちゃん。これ、見える? ん?」
「やめなさいよ、まだ薬が効いてるわ。あと一時間は放っときましょう」
「なんだつまんねぇ」
自身の足元に唾を吐く男に、カルマは怯えていた。同時に、薬を嗅いだか飲んだかして、誘拐されていると察する。
犯人の一人の口調は女性だが、部屋にいるのはどちらも男性。素顔を顕わにしているものの、見覚えはなかった。
重いまぶたを必死に上げて周囲を見渡す。
八畳のコンクリートの部屋。窓には段ボールが張られ、光源は部屋に置かれたいくつかのランタン。逃げ道は、ドアのみ。
そのドアが開き、もう三人入ってきた。
一人は後ろ手に縛られたメイドだった。彼女はカルマの姿を見ると、男の拘束を振りほどいて駆け寄ってきた。
「モモお嬢さま! お怪我はありませんか?!」
メイドの表情はカルマを心配するものではなく、明確に睨みつけ、状況を察しろと命令していた。
カルマが泣きそうになりながら頷いていると、メイドは小さな悲鳴をあげた。男に髪の毛を引っ張られて離されてしまう。
「連れて行け」
「命令しないでよ。ほら、行きましょう」
リーダー格に命じられ、女性口調の誘拐犯がメイドを連れて出て行ってしまった。
見知らぬ男が二人──。
(この人たち……ヴィランなんだ──)
カルマは急に怖くなり涙を流していた。いつの間にか声も出ていたらしい、ナイフを持つ男に胸倉を掴まれて持ち上げられた。
頬にナイフの刃の側面を二度、三度と当てられる。
「うるせぇ。な? 俺が切れねぇうちに黙ろうぜ? な?」
必死に頷くと、男は服を手放してカルマを落とす。声を押し殺して泣いていると、なぜか臀部を撫でられた。
「おい、商売道具に手ェ出すなよ。しかもそんなガキに……気色ワリィ」
「ならあのメイド貸せよ。いいだろぉ?」
「あと数時間で俺たちは大金持ちだ。我慢しろ」
カルマの尻を撫でた男は、舌打ちして【モモ】から離れて行く。
その事実に、カルマは泣くことも忘れて怒りを覚えていた。あのヴィランは下卑た笑みでモモの身体に触れていたかもしれない。そう思うと、攫われたのが自分で良かったとすら思っていた。
でも、なにもできない。
無個性だから──。
しばらくすると、カルマは拘束を解かれて椅子に誘導された。
「逃げようとしたら、一緒に連れてきた女の指を折る。逃げるか? どうせ捕まえる」
「だははは、趣味わる」
ドアを見つめていたカルマは、諦めて視線を前へ戻した。錆びたパイプ椅子と、木製のテーブル。その上には小指の先ほどの金色の石と、英数字の羅列されたメモが一枚乗せられていた。そのメモには、球体と棒で作られた図形も添付されている。
カルマを椅子に座らせた男は、カルマの両腕を取って小粒の金に触れさせた。そして、耳元で笑いながら囁く。
「《創造》しろ」
緊張のあまり、手足が音を立てて震えている。
「お金……お金なら、ボクの家に、あります」
カルマは──媚びた。
奥歯を鳴らして、べつの提案で納得してもらおうとした。
「ああ、わかってねぇ、わかってねぇな!」
テーブルにナイフが突き刺さる。カルマの腕を掠るように振り下ろされたナイフの刃は、ワンピースの袖に穴を開けていた。
「ああっ、ああー!」
「泣くなってんだろ? お?」
ヴィランの手がカルマに伸びたが、それは後ろに立っていた男が止める。
「もうすこし頭を使えよ、天才少女……。お前が断れば女を殺す。つぎはお前の家に火をつける。母を殺す、父を殺す、お前も殺す。お前に断られたら俺たちはそうするしかないんだ」
「ボク……やだぁ……よぉ……」
「ならお前にできることは、それだけ、だろう?」
カルマは震えて金塊を祈るように握り締める。
鼻水で呼吸が制限され、横隔膜が震えてひきつけを起こしたような荒い呼吸だ。
(神さま、神さま、お願いします──。いまだけ、いまだけ個性をください! ずっと良い子にします! 個性なんていりません! お願いします! お願いします!)
カルマにとっては何時間もそうしていたような感覚だったが、ヴィランたちは一分としないうちにカルマから金塊を取り上げた。
その数は、変わっていなかった。
「あーあ……」
「桶持ってこい」
机からナイフを抜いた男は、命令に従いどこかに行ってしまった。
指先で金塊を遊びながら、リーダー格らしい男は対面の椅子に座る。
「まあ、予想はしていたんだよ。頭良いガキが、ヒーローに憧れるガキが、ヴィランの言うこと聞かねぇよなぁって」
「違う! 違うのー! やります! お願いします!」
「いいよ、いいよ。大丈夫」
「やだー! やめてよー!!」
荒々しくドアが開かれる。カルマは逃げ出そうとして、ドアから入ってきた男に腹を蹴られて転がった。
「はは、天才ってのも本当だな! ボクちゃん! なにされるかわかってんだろ?」
楽しそうに笑う男は、片手にはプラスチックの桶を。もう片方の手には、ガロンサイズの水を持ってきていた。
椅子に座ることを強要されたカルマだったが、腹を蹴られた衝撃で呼吸が上手くできずに静かに泣くだけになっていた。
鼻水を垂らしたまま、後ろから首を掴まれ空っぽの桶へと右頬を押し付けられる。
「やめてくださいー! やめてくださいー! やめてー! あー!!」
「この手の拷問って、飲めばクリアできそうじゃん? な、やってみろよ、な?」
水が入ったボトルを、もう一人の男が持ち上げた。
そして、大量の水が降り注ぐ。
水はまず鼻に入ってきた。つんとした痛みが頭に響き、命の危険を感じてカルマは必死に暴れる。
水嵩はあっという間に顔半分を覆ってしまった。右目はもう水の泡しか映していない。左目には、虫を見るような冷たい目で、自身を抑えつけている男の顔が映っていた。
カルマはもう逃げられないと悟り、暴れずに呼吸をできる限り止めようと意識をする。
大丈夫、楽器の先生から呼吸法も習っている。一分なら耐えられる。
そう考えたのは、まさに子どもの浅知恵であった。
水から引き上げられ、カルマは勘違いした。
(助かった──あ)
呼吸は一瞬。
その吸い込む瞬間に、カルマは大量の水を飲み込んでいた。肺の中の空気などもはや意味もない。
「がっ──あっ──ばっ──」
机に両手を置いて必死に桶から顔を剥がそうとする少女を見ながら、一人は腹を抱えて笑っていた。
もう一人はカルマの首を押さえながら、冷静に次の拷問を考える。
もう一人は──
「ね、もう良いでしょ。試しなさいよ」
つまらなそうに、頬杖をついていた。
「なんだよ! 見物じゃねぇか! 散々俺たちを馬鹿にしてた金持ちが、こんな! ははは、面白れぇ!」
「腐った政治家でもあるまいし、子どもなんて趣味じゃないのよ。ロリコン」
「……あ? ざけんなよオカマ野郎」
「やめろ。マグネも、金出してんのはこっちだ。しゃしゃり出るな」
カルマから手を離した男は、二人の間に割って入る。もがいていたカルマは反動で床まで転がって、咳をすると同時に大量の水を吐く。
舌を出しながら喘息のようなか細い息を吐き、逃げようと身体を動かした。こいつらは本物のヴィランなのだと、本当の意味でたったいま理解してしまったからだ。
這いずりながらドアへ向かうも、その手がヴィランによって踏まれて動けなくなる。
「さあ、つぎこそ《創造》してくれよな?」
白いワンピースの股間部分は、いつの間にか黄色く汚れていた。じわじわと広がっていくその染みを気にも留めず、男はカルマの身体を持ち上げて椅子に座らせる。
「ああー……あああー……無理ぃ……ボク無理なんだよぉー……」
「ボクボクボクボクうるせぇんだ! テメェもオカマか!? おお!?」
激しく水を打つ音が部屋に響き渡り、カルマは怯えて金塊を掴む。叫び、唸り──それでも金塊が《複製》されることはなかった。
冷たいため息がカルマの額の汗を撫でる。
笑う男が水を注いだ桶を机に置いた。
「なあボクちゃん? 喉、乾いたろ。な?」
笑う男から逃れようとして、だれかに腹を殴られる。呼吸が乱れた隙を突き、リーダーの男がカルマを地獄へ叩き落す。
荒れた呼吸のまま水に押し付けられたことで、カルマは大量の水を飲み込んだ。
鼻に入ってくる水は痛みと焦燥を。
口で呼吸しようにも喉に張り付くような水が、気道を塞いでいる。
そして、死ぬのだと、殺されるのだと思った。
ただ、たった一つ救いがあるとするなら──。
ああ、ここにいるのが、モモじゃなくて良かった。
頭を押さえつける大人の力を振り払えるはずもなく、カルマは気を失った。
「うおっ!?」
「やめろマグネ!」
マグネの《磁力》を付与され、ヴィラン二人が反発しながら後ずさる。意識のないカルマも、巻き込まれて床に転がった。
「……なに?」
「なにじゃねぇ! てめぇいい加減にしろよ!」
マグネの視線は、床に倒れた少女へ向いていた。彼、あるいは彼女の個性は《磁力》。自身以外の対象に出力調整可能な磁極を付与する、という強力な個性である。
男性をS極、女性をN極にするマグネの個性は、目の前の【男性】に磁極を付与するというイメージで発動されたものだった。
いまのは、手を離したための動きだっただろうか。
「おいマグネ。邪魔するなら、こっちも考えがあるぞ」
考え事をしていたマグネに向け、リーダーの男が拳銃を向けていた。
「邪魔? あらそう、なら殺すまで続けるの? 良いわよ、次は邪魔しないで見ていてあげるわ」
彼女は両手を挙げて近づいていく。
額に銃口が触れそうなほどの距離になっても、撃たれることはなかった。
「殺すなって言ってんじゃないのよ。個性使わせるのが目的なら、手段間違えてんじゃないわよって話」
優しく銃を払いのけ、カルマの腹に一撃を加える。
一度は痛みに目を覚ましたカルマだが、水を吐いてからもう一度気を失ってしまった。
「無茶させすぎよ。今日はもうお終い。あとは明日やりなさいよ。飴でもあげたら? 懐かせる手もあるでしょ」
部屋を出ようとするも、ナイフ使いが声を荒らげる。
「てめぇは今日寝ずの番だよ! ガキ見張ってろ!」
「……依頼主には従うわ」
ヴィランたちは部屋を出て行った部屋で、マグネはカルマを見下ろしながらため息を吐いた。
カルマが目を覚ますと、部屋で本を読んでいるマグネと目が合った。
「おはよう【坊や】」
「夢じゃ……ない……」
男性であると認識されたことにも気づかず、カルマは泣きそうになりながら部屋を見渡す。うなだれていると、マグネがカルマに近づいて、その股間を握り締める。
「や──やめ! やだっ!」
「安心しなさい、ただの確認。オネエでも恋愛するなら好きな人とするものなのよ」
カルマが座らせられていた椅子に、マグネは座った。ついでに、今回の追加報酬はないだろうと諦める。
「それにアイツらには言わないわ。バレたらあんた殺されちゃうものね」
「ころ、され……ひ、ひ、ひ」
しゃくりあげて泣いてしまうカルマの頭を撫でつける。
「連れてきたのは、メイドよね?」
「あの、あの人は、生き、てる?」
「あら優しい。どうかしらねー? 大丈夫、あの女は死なないわ。ところで、ね、数はどのくらい数えられる?」
「か、数は、えっと、いくらでも」
「え、一万とかも? 小学生よね? へぇー」
意味不明の質問にカルマは必死に思考を巡らせるが、彼女は立ち上がって服に付いた埃を払った。
「あー、五十万無駄になっちゃったじゃない。覚えておきなさい坊や、上手い話には裏があるのよ」
「え、あの」
「ね、いまからゆっくり、千まで数えられる?」
小刻みに頷くカルマに見せつけるように、マグネはドアを指差した。
「千まで数えたら、部屋から出て左に行くの。バリケードがあるから音を立てないように潜り込みなさい。そしたら階段を三階分降りて、あとは外よ。この辺は廃墟しかないから、必死に走りなさい。息を殺して隠れなさい。できる?」
頷くカルマの頭を、マグネはもう一度撫でた。
「偉いわ坊や。そして覚えておきなさい。ろくでもないクソみたいな金持ちになったら、私が殺しに行くからね」
彼女はカルマの頬にキスをして、ドアから出て行く。その背中に、カルマは小声でお礼を言った。
「ありがとう、お姉さんっ」
「──本当に良い子ね。二年前に会えてたら、もっと良かったのに」
マグネは振り返ることはしなかったが、喉を鳴らすように笑ってしまった。
「ありがとうだって……。【あんたたち】には、終ぞ言われなかったわね。私も謝ったりしないから、存分に化けて出てきなさいよ」
天井に向かって、【空】に向かって中指を立てるその行為は、まるで儀式のようだった。
千──数え終えたカルマは、扉を開けて左右に分かれる通路を、マグネの指示通りに進んでいく。
構造的には、おそらくアパートメントのようなものだと当たりを付ける。
廊下側の窓は塞がれておらず、そこから見える天候から、おそらくは日の出の時刻。
大きないびきが聞こえてきて、カルマは息を殺した。隠れているつもりはないが、恐怖で足が動かなくなる。
その部屋は、廊下にまで酒の空き缶が転がっていてドアも開けっ放しだった。
カルマの行動は、決して好奇心でも怖いもの見たさでもない。
ドアから、下着姿の女性が見えた。
カルマと一緒に誘拐されたメイドが、ドアから見えた。
ビールの缶ではだめだ。瓶はない。バリケードを作った際に出たと思われるブロック片を手に取った。
足音を立てぬように寝転がる男を乗り越え、並ぶマットレスの上を慎重に歩いて行く。
半裸の女性の肩を揺すって覚醒を促す。
彼女は薄暗い部屋の中で、ゆっくりとまぶたを開けた。
「ん……なに──」
カルマは慌ててメイドの口を塞いだ。ヴィランが起きればどうなるかと怯え、心臓が早鐘のように鳴り響く。
一方のメイドは、自身の口に手を当てるカルマを、驚愕の表情で見ていた。数舜で状況を察し、窓際で寝ているリーダー格と、ドア付近で酔っぱらっているナイフの男を確認した。
カルマは彼女を引っ張って外へ出ようとした。だが、メイドの足を酔っぱらっているヴィランが掴む。
「まてよぉ……まだ──え」
カルマは両手でブロック片を振りかぶり、思い切り男の頭へと叩き落した。
悲鳴が部屋に響き渡る。
主犯が目を開けると、部屋を出て行く女性と目が合った。
「おい! なにがあった!」
「ガキがぁあああ!! くそがぁああああ!!」
二人でカルマとメイドを追いかけるが──その必要はなかった。
「なん──で!?」
「ほーんと……金だけだねあんたって」
部屋の外では、メイドにカルマが腕を捻られて壁に押し付けられていた。
「じゃあ、私は顔洗ってくるから。あとあのオカマ野郎探してくるわ」
「頼むぜ」
女性は捩じりあげた腕を起点に、カルマを追ってきた男たちに押し付けるように投げていく。
額から大量の血を流す男は、怒り狂った表情でカルマの顔面を殴りつけた。
弾むボールのように床を転がったカルマは、鼻血を流しながら助けようとした女性の背中に手を伸ばす。
二人の間に、またも男が割って入った。
「ぶっ殺す!!」
「やりすぎるなよ」
カルマに馬乗りとなった男は、遠慮することなくカルマに拳を振り下ろした。
下着姿で裸足のメイドは、階段を駆け下りていた。
その顔には汗が張り付き呼吸が荒い。金は惜しいが、命には代えられない。
彼女は、逃げ出していた。
当初の計画では、八百万家からいくつか情報を盗む予定だった。それが狂ったのは数年前、モモの個性が《創造》であると判明したとき。
彼女はつい、仲間にそのことを自慢するように洩らしていた。
情報など売れて数億。だが《創造》は?
市場価値が一変するような神のような個性であり、素人が考えるような悪用方法がすべて使える悪魔のような個性でもある。
仲間の狙いはモモへと変更していくこととなる。
それを聞かされた彼女は、博打を打つことにした。
モモは無事で、仲間はヒーローに逮捕させ、彼女は身を隠すだけ。
彼女はモモのことが好きだった。
姉のように慕ってくれる妹のような彼女が。
偉ぶらず、メイド一人ひとりを尊重してくれる、優しいご主人さまが。
そのために、策束業を差し出した。
モモに慕われる、役立たずの無個性を。
「やってくれたな」
外に出た彼女は、道路で待ち構えていた仲間と対面した。
コンクリートの上で横たわるカルマの姿と、リーダーの持つカツラを見て、諦めるように笑ってしまう。
「あーあ」
乱れる髪をかき上げながら、女は不敵に笑いながら男たちを見る。
カルマの頭を踏みつけた男は、ナイフをメイドへと向けていた。
「説明しろ……!!」
「説明もなにも、わかるでしょ? あんたらが連れてきたのは、お姫さまじゃなくて女装趣味のオカマ野郎ってこと」
「身代わり用意したってことだろ!! なに考えてんだよ!!」
「──まだわかんないの? 本当馬鹿だな、お前って……」
その言葉は、きっと男に向けた言葉のはずだ。
なのに、メイドの視線はカルマへと向けられている。だが聞こえるはずがないのだ。
カルマがメイドに向けた、「逃げて」という言葉など。
「あははは、本当は、こんな生き方大っ嫌いだった!」
メイドの太ももが肥大化し、コンクリートを砕きながら縦横無尽に駆け出した。リーダー格の男が発砲するも、銃口すら追いつかずに翻弄される。
顔を押さえるナイフ男の死角から蹴りを飛ばして、男を逃がすことで銃の射線を切る。
メイドは盾のようにカルマを持ち上げ、叫んだ。
「金持ちってのは本当よ! 身代金でもなんでも要求すれば良いわ!」
「欲しいのは、無限に湧く金の卵だ」
乾いた発砲音とともに、カルマはコンクリートを転がった。視界には、太ももを押さえる女性の姿が映っていた。
血だらけの顔のまま匍匐前進で女性へと近づくと、背後から近寄ってくるヴィランに向けて、勘を頼りに石を投げた。
当たるわけもなく、それを見た女性はカルマの頬に触れる。
脂汗塗れのその笑顔に、なぜかカルマは見とれていた。
「無個性のくせに、ヒーローみたいだね──」
一発の、発砲音。
女性の額に穴を開けた銃弾は、そのまま後頭部から抜けていく。
「あ、わ、ああ、わあああ! わあああ!」
彼女の後頭部から溢れ出たソレを、カルマは慌てて戻そうとする。油に触れたような感覚とともに、ソレはボロボロと崩れていった。
「ふざけやがって! どうすんだよ! どうすんだよこれ!!」
発狂するカルマを蹴り飛ばし、女の胴体にナイフを何度も刺していく。
返り血で服を真っ赤に染めた男はリーダーを振り返り──動きを止めた。
下半身だけが、血だまりの中に立っていた。
そしてその下半身の上に座る、不気味な優男がこちらを見ていた。
「ああ──なるほどこれは想定していなかった」
「だ、だれだ……テメェ……!! なにしやがった!」
「うーん……。しまったなぁ、個性の入れ替えをしたばかりなんだよ」
「なんだってんだよぉー!!」
袋が破け、真っ赤な水が周囲に飛び散った。
男はカルマの元へと歩き出す。背後で下半身が倒れる音が聞こえてきた。
寝転んだまま頭を激しく振るカルマの頬を突く。口から泡を零し呻く少年に変化はない。
「もう大丈夫、僕がいる──」
男は、カルマの首を片手で締める。
数秒と経たぬ間に、カルマは気を失ってしまった。
◇ ◇ ◇ ◇
頬を叩かれる感覚で、カルマは目を覚ました。
白い天井、白い部屋、白いベッド。彼の腕には、点滴のチューブが付けられていた。呆然と周囲を見渡していると、一人の男性が目に入った。
カルマを起こした、柔和な笑顔を湛えた男性だった。
「おはよう、策束くん」
「──だれ……あ、ああ!!」
カルマは飛び起きて口元を押さえた。堪えきれず、嘔吐してしまう。手皿から胃液がシーツに零れていく。
折れた鼻も、裂けた唇も、蹴られた腹も、痛みを訴えている。それが、現実を突きつけているようだった。
「あの人──」
口にしてから、自分がメイドの名前すら知らないことに愕然とした。
「助けに! 助けに行かなきゃ!」
「ああもうダメダメ。みぃんな死んじゃったよ。残念だね。でも安心しておくれ。初めて人が死ぬのを見たんだ。苦しいだろう? でもきっとキミはこの事件で成長した。キミは幼馴染の女の子を守ったんだよ! すごい! まるでヒーローだ! おめでとう、僕はキミを祝福する!」
笑いながら、拍手を送る男性を見て、カルマは勝手に高揚していた。
カルマに投与されている薬液が向精神薬とも知らずに、男の薄っぺらい言葉に、感動すら覚えて涙した。
「ボクが……モモを……?」
「そうだよ!」
「無個性のボクが……?」
カルマの上がっていく頬を確認し、男性は満足するように嗤った。
彼は、無個性であることをコンプレックスに思っている。そのことに、まだ計画が頓挫していないことを確信した。
無個性がヒーローに成れるわけがない。
絶望が膨らめば膨らむほど、心は壊れやすくなる。
【あの赤ん坊がヒーローを目指すことは、予想できることだった。】
だが無個性だ。抑圧は歪む。狂った心はいつか壊れる。
問題は、本来であれば、そのときに発動するはずだった個性は発動してしまっていたことだ。重ね掛けしようにも、その個性はすでに入れ替えてしまっている。
男は、自身を追いかけてくる熱烈なフォロワーを思い浮かべていた。
最低最悪のアンチ。
最初は触れれば終わりだと思っていた。だが、そのたった数センチが詰められない。あのパワーは男にとって脅威だ。
「オールマイトめ……」
「オールマイト!? あなたはオールマイトとお知り合いなんですか!」
どこか焦点の合わぬ目を男に向けるカルマ。おそらく薬が効きすぎて正気を失っている。ここでの会話は記憶の片隅に残るかどうかだろう。
「ああ、そうだよぉ? 僕とオールマイトは親友なんだ!」
「すごい! すごい! ボクも──」
不意に、カルマから笑顔が消えた。
呼吸が荒くなり、指先が震えている。シーツに垂れるほどの冷や汗を額に溜めていた。典型的なパニック障害。
ヴィランの言葉が、彼の心に傷を残していた。
そのことを、カルマは自己分析できていたわけではない。
だが、彼は仮面を身に着けていた。
「──オレも」
唐突な一人称の切り替わりに、そして、薄っぺらい仮面をつけたカルマの様子に、男は楽しそうに笑った。
「オールマイトに会いたいな」
「あははは! ヒーローになったら会えるよ」
「そうしたら、あなたとも、また……会えます、か?」
質問しながら、カルマは白目を向いて倒れてしまう。
「あはははは。そのときは、友だちになろう。キミの実家なら、あははは、使い捨てにはしないさ」
──それから一年と経たぬ間に、自身の抱える組織・施設が一人の英雄に破壊しつくされるとも知らずに、男は笑った。
笑い声を聞きながら、カルマは安心して眠りに就いた。
◇ ◇ ◇ ◇
その日の夕方、カルマの両親は病院に来ていた。
通行人が保護した子どもが入院していると病院側から連絡があったためだ。
その翌日には、八百万家からの謝罪も行われた。
なぜ彼らに謝罪されているのか理解もできずに、むしろメイドを助けることができなかったことを謝ろうとし──カルマは気を失った。
過呼吸を起こし、てんかんのように口から泡を吹く様子は、誘拐のトラウマであることは間違いなく、聞き取り調査は難航を極めた。
そのうちに誘拐事件の話題自体が両家のタブーとなり、カルマはそのうちに日常に復帰するに至る。
それが一番なのだと、大人たちは勝手に納得してしまった。
──問題は、解決していないというのに。
「ごきげんよう、カルマさん! 大変お久しぶりですわね!」
「モモ──モモ、久しぶり」
半年近く自宅療養していたカルマは、モモの誕生日パーティーに参加した。
ずっと、ずっと会いたかった。
会ったらどんなことを話そうと考えていた。
カルマにとって、彼女は神に近い存在だった。
その彼女を無個性の自分が守ったのだ。
どれほど崇めてくれているだろう。
どれほど好きになってくれているだろう。
どれほど──
「もう! コンクールにもお正月にも来てくれないなんて! すごく寂しかったんですからね!」
ドレス姿の彼女は、怒りながらそう言った。
「ほら、ねえ! いらしてください!」
腕を引かれたカルマは、胸を押さえながらモモについていく。
──彼女はいま、なんと言った?
彼女は廊下に飾られたトロフィーと賞状を見上げて笑った。
「こちら! 最優秀賞をいただきましたの!」
「……なんで?」
「カルマさん?」
「聞いて、ないの?」
なんで、どうして、呼吸が、心臓が、耳鳴りが、頭が──痛い。
「どこかに……えっと、行ってらっしゃいましたの?」
痛みが強すぎて、彼はもう一枚の仮面をつけた。
「さすがですね百お嬢さん」
「──え……あの、業さん?」
「あとで映像を見せていただいてもよろしいですか?」
「は、はい。えっと、お母さまの書斎にありますの! 業さんの得意な題材でしたから、本当はずっと不安だったのですが、いらっしゃらなかったもので」
「それは申し訳ございません。母に言葉遣いを窘められ、祖父に弟子入りしておりました」
「そ、そうですか! とっても素敵ですよ!──でも、えっと、あの、私は」
「おや、こちらはヴァイオリンの? 金賞ですか、惜しかったですね」
「は、はい! でも印照さんの演奏もとても素敵でしたの!」
「そうでしたか。えっと、この半年の、いえ、一年くらい話す機会がありませんでしたからね。もっと話がしたいのですが」
「は、はい!」
「私も、ほら、敬語の練習がしたいですから」
「嬉しいです! あの! 私も最近紅茶の淹れ方を練習をしていまして」
「へぇ。それは楽しみですね。今日いただいてもよろしいのですか?」
つらつらと自身の口から零れる嘘に、カルマは驚かなかった。
自身の両親も、モモの両親も、誘拐事件を無かったことにした。
それはカルマを守るためでもあったし、モモを守るためでもあった。
理解したからカルマは話を逸らした。
本当に痛いのは、心だったのだ。
仮面をつけていれば、心はきっと痛くない。
ああ、鈍感でいられる。
「──ひひ」
ああ、笑えた。