◇一年A組◇出席番号十五番◇轟焦凍◇
戦争がどのような決着をしたとしても、轟家が一つになることはないだろう。
そのことが、こんなに寂しいことだとは思ってもいなかった。
そんなところまで、考える余裕などなかったから。
母のことを、どのように考えていただろうか。姉のことを、兄のことを……。燈矢という兄がいなくなったときに、どのように考えていただろうか──。
一緒の家に住んでいたのに、違う世界で生きていると思っていた。
父を恨み、父を否定するために力を揮っていた。
そんな自分を変えてくれたのは、緑谷だ。そしてA組のみんなが、自分の世界を広げてくれた。
違う世界に生きてなどいなかった。
単純に、世界が小さかっただけなのだ。目に映る範囲しか見ようともしていなかった。子どもによくある、自分が世界の中心だと思い込んでしまうほどに、世界が小さかった。
それがわかるだけでも、成長といえば成長だろう──。
だが、決戦は数日後だ。あまりにも、遅すぎた。
「手遅れ……なんだろうな……」
「諦めているんですか?」
背後を振り向くと、そこには毅然とした視線の八百万が立っていた。
「日本も、ヒーローも、諦めてねぇよ……」
「では、青山さんの件ですか?」
「いや、そっちは策束が──」
──言って、気づいた。
策束なら青山のことを守る。それは、確信がある。
だが、日本はだれが守る? ヒーローを支えているのはだれだ。
「策束が……いる……」
なら、自分は?
策束にすべてを任せて、自分は家族のことすら諦めているのか?
「緑谷は、死柄木を助けてぇって言ってた……。ああ、クソ……」
轟は悪態をつきながら、歯を食いしばって空を見上げる。
青山を助けたいと思ったのは、きっとA組全員だ。
「死柄木を助けたいなんて言うやつ……ほかにいねぇよ……」
日本をだれよりも諦めていないのは、策束だ。
なら──荼毘は? 燈矢兄は……?
「ありがとうヤオモモ」
感謝の言葉に八百万は首を傾げた。言葉が足りなかったのだと、轟は言い直す。
「俺、いま諦めてた」
「やっぱり……」
彼女の寂しそうな表情に八百万の挫折を知る。彼女も、どこかで心を折られていたのだろうか。
そんなこと、気にしたことなんてなかった。自分のことしか、考えていなかったから。
遅すぎた──。
「中途半端だな、俺は……」
「《半冷半燃》ですからね」
「そういうんじゃねーよ」
八百万は両手で口元を隠して笑っていた。いたずらが成功したかのように、目を細めてこちらを見ている。
珍しいその姿で、彼女が元気づけようとしてくれているのだと伝わってきた。
「燈矢兄を助けたいって思うの、きっと俺たちだけなんだろうな」
「エンデヴァーも、そうでしょうね」
「軽薄だと笑われるな」
「かもしれませんね。ですが、それがどうかしましたか?」
彼女は笑みを浮かべたまま、歩き出した。
「轟さんも、もうすこし、我がままになっても良いんですよ」
「日本をこんなにして、そんなこと許されねぇだろ」
追い縋った轟が見たのは、夕日に照らされた彼女の笑顔。
「許されますよ。業さんがいますから」
「──そうかもな」
策束なら。
それがどのようなおとぎ話のような荒唐無稽の、有り得ない話でも、なぜか実現しそうな気がする。
緑谷なら。
死柄木すらも、本当に助けそうな気がする。
◇一年A組 出席番号十六番 葉隠透◇
「私、やっぱりヤオモモには話したほうが良いと思うの」
「えっと……僕なんかがこんなこと言うのも、あれなんだけど……」
おずおずと青山が質問をしようとしたので、葉隠は怒りながら青山に向けて体当たりを行った。
バランスを崩す青山を無理矢理支えて、彼の腕に抱き着く。
「僕なんかって言わないのー!」
「でも──」
「でもじゃなーい! ウィー!」
「絶対使い方間違えてるだろそれ」
切島のツッコミに朗らかに笑う葉隠は、空気をすっかり入れ替えてから青山に続きを促した。
「んでー? どうしたの?」
「あのさ、策束くんって、耳郎さんに告白、したの?」
葉隠は頭を抱えて深く唸った。
決してロマンチックなものではなく、八百万の想いを踏みにじるような発言もあった。
だが、告白と言えば告白であるため、芦戸ともども頭を悩ませているところだ。
「策束、告白したこと覚えてないっぽいよね」
「朝びっくりするほど普通だったもんね」
「……ヤオモモ、距離近いよね?」
「わかる! あれはそういうこと!」
「策束ー! デリカシーなさすぎるー!」
葉隠は見えぬ顔をしわくちゃにしながら呻く。
ヤオモモの応援をするべきか否か。
「あ、えっと、透さ」
「うん、なぁに?」
芦戸が自身の口元に手の平を添え葉隠に向けた。すこし遠かったが、慌てて彼女の口元に耳を近づける。
「さっき、切島と、キスしてた?」
切島と、キス?
突然のフレーズに葉隠は動けなくなった。自分と切島であるはずがなく、そのような質問をしてくる時点で芦戸も違う。
となれば──消去法で!
「青山くんと切島くんってそういう!?」
「ええええ!? 違う! 違うの!」
ピンクよりも赤く頬を染めた芦戸の反応に、葉隠は頭を掻くことしかできなかった。
「違うなら、良いんだけど……。なんか、あたしも、策束に当てられたかなー……」
「え、それって──すごく綺麗ってことで、良いのかな?」
こう、月が綺麗ですねの、それで。
自分の頬に血が集まっていくのがわかる。見えなくて良かった。
芦戸は否定することもなく、赤くなった鼻の先を爪で搔きながらそっぽを向いた。
「ウィー! ウィー!」
「ああもうやめてよ透ー!」
顔を隠す芦戸の周りを駆けまわっていると、渦中の切島が声を出した。
「おら、もうおしまいだ。迎えが来たぜ」
「バスが来たよ!」
さきほどよりは明るい表情の青山を見て、葉隠もほぉと息を吐く。
「そうしてる青山くんのほうがキラキラだねー!」
「ウィ!」
今度は青山とじゃれつき始めた葉隠から視線を逸らし、芦戸は切島の横顔を見つめた。
二人を見て笑う切島は、思い出の彼よりもずっと成長していて──
とっても、綺麗な笑顔だった。
◇一年A組◇出席番号十七番◇峰田実◇
バスに乗り込んできた策束は、耳郎と視線を合わせると逃げ出すように一番後ろの峰田のところにやってくる。
やさぐれた峰田はわりと面倒臭いと定評があり、だれも隣に座らなかったからだ。
一直線で後ろまでやってきた彼は、耳まで真っ赤にして俯いている。
策束の肩に肘をついて、にやにやと笑う。
「策束よぉ」
「っんだよ……」
「告っちまったなぁ」
怒りか恥ずかしさから、微振動が肘から伝わってくる。どうやら道中で聞かされていたようで、状況を理解しているようだ。
「んでぇ? いつから好きだったんだぁ? んー?」
「声がでけぇよ」
小声で怒鳴る策束に、今朝方の策束の声のほうが余程大きかったと指摘したかったが、いまの状況はそれよりも遥かに面白い。
「我ながら、気楽なもんだ」
「いいじゃねーかよ、気楽にやろうぜー?」
不機嫌そうにこちらを見下ろしてくる策束に、峰田は指を振りながら対応した。
「あれだろ? 決戦が目の前で、クラスのだれかが死ぬかもって話だろ?」
──痛みは、知っている。
USJの訓練では指を齧られ、腹は割かれ、骨が折れるほど殴られた。
数日後、実戦でそうなれば死んでいたっておかしくはない。
「でもよ、オイラにとっちゃ決戦なんてどうでも良いんだよ。終わったらハッピー。だれも死ななかったらラッキー。どう?」
「どうって言っても……まあ、悪くないけど」
策束の表情に、峰田は膝を叩いて馬鹿にするように鼻で笑った。
「悪くない? 最高だろ! なんでそれがわからないんだよ」
「最高だよ。最高だけど──」
「んだよ策束……らしくねぇ。あー、らしくねぇな」
言葉に苛立ちが含まれている。自覚しながらも、どうしても笑い顔が剥がれ落ちていく。
らしくないのは、自分だ。
「だけどだけどって。それはオイラの専売特許だっての」
緑谷のような超パワーもなければ、策束のような覚悟もない。《I・アイランド》では逃げることを選択し、爆豪救出にも反対した。
理由は、保身のためではない。
怖いからだ。
もちろん死ぬのも、傷つくのも怖い。
だがなによりも恐ろしいのが責任を背負うことだ。
責任を受け取って、どうしたらいいのかわからないことが恐ろしい。
その恐ろしいことを、策束はすべて受け止めた。
そんなコイツが、幸せになることからは逃げだそうとしている。
「オイラたちは全員生き残って! 英雄としてモテモテになるんだよ!」
バスに響き渡る峰田の言葉に、女性陣が冷たい視線を送る。
会話の内容を聞いていない男性陣も似たようなものだったが、唯一、策束だけが峰田の覚悟を聞いた。
「なっちまうか、英雄……」
「なっちまおうぜ、英雄」
二人で拳を突き合わせ不敵に笑う。
だれかが死ねばきっと覚悟は崩れ去る。責任など、どうやっても取れるものではない。
乱戦だ、だれがどのような傷を負っても不思議ではない。だれが死んでも、おかしくはない。
それでも、逃げない。
全員生き延びることが峰田の覚悟だ。
◇一年A組◇出席番号十八番◇緑谷出久◇
最後の晩餐──その前日の食事は、緑谷と爆豪が担当することになった。買って出たわけではなく、爆豪は元々の食事当番であり、緑谷は抜けていた期間の補填として押し付けられただけだ。
それはまるで、日常のようだと錯覚してしまう平和な決め方だった。
「おい出久、策束どこ行った」
「寮から出て行ったわけじゃないよ」
朗らかに笑う緑谷に、爆豪は舌打ちした。
「心配なんかしてねぇよ!」
「ええ? だれもそんなこと言ってないよ」
「目が言ってんだよ!」
包丁を強く野菜に叩きつける爆豪から視線を外し、緑谷は台所から吹き抜けを見上げる。
大丈夫、どこにも行っていない。
もうきっと、A組は彼を独りになんてしない。
それは緑谷自身も思うところであり、クラスメイトから離れて自分だけで、などという考えは捨てていた。
人の温かさとか、彼らの優しさなどの話でもあるのだが、それ以上に自分一人の無力さを噛みしめたから。
それはきっと、策束も一緒だとは思うのだが──。
『──オレが全部、ぶっ壊してやる』
策束の覚悟が脳裏から離れない。
一転、昼間クラスメイトと笑い合っていた彼の姿に嘘や無理があるようには見えなかった。
だが、絶望の中から這い出した彼が、青山のために上げた言葉が、ただの乱暴な言葉を使っただけとは、どうしても思えない。
「かっちゃん、策束くんが戻ってくる前に、一つ良いかな」
「……言え」
「かっちゃんなら、決戦が終わったら、どうやって日本を再建させる?」
今朝方、青山と策束が語ったオール・フォー・ワンの目的にも重なることだ。
すでにこの日本が、『じゃあ道路の瓦礫を撤去しましょう』などというまやかしで立ち直るなどとは思っていない。
オール・フォー・ワンを拘束したとしても、ヤツの個性や組織に首を垂れる可能性はゼロではないのだ。
「国際社会の信用……。その回復が必須だ。世界から見れば日本は『持てる者』だから、弱者救済は欠かせねぇ。日本に金が無くても、他国には金をばら撒かねぇと信用が保てない」
緑谷は爆豪を二度見した。そんな策束のような意見が彼から飛び出すとは思ってもいなかったからだ。
「となると、政府は外交に付きっ切りになる。民間の建設業・運搬業がマストになんだろうな。あとは銀行だ。中央の銀行は無事だろうが、地方銀行は円安で潰れることもある。復興なんざ夢のまた夢。このままじゃ外国から食い物にされんぞ」
「えっと……そうなの?」
爆豪は大きく舌打ちして、鍋を振り回した。
「勉強ばっかしてっからそうなんだろうが!! 教科書のどこに日本の復興なんざ書いてあんだよ!!」
「歴史の教科書なら、日本の復興の歴史が書いてあるよ」
いつの間にか策束が戻ってきていた。エプロンを後ろ手で縛って、調理の進み具合を確認しつつ冷蔵庫から食材を取り出し始めた。
「地震、火災、戦争。どうやって日本が復興し続けてきたか書いてあるだろ。悪いもんじゃあないが、金の流れならそうだな、ボクに聞いてくれよ」
爆豪は鼻を鳴らして調理に戻った。
緑谷は策束から円安での日本の利益について話を聞き始めるが、それは歴史の授業よりもよほど息苦しいものだった。
◇一年A組◇出席番号十九番◇爆豪勝己◇
「日本の底値……。ようやく意味がわかってきた」
緑谷が頷きながら、策束の説明を聞き終えた。
野菜を鍋に入れる策束は、二品目に取り掛かろうとする爆豪に水を向ける。
「爆豪は良く理解してる。このままだと、戦争に勝っても日本は周辺国から支配されちまうよ。まあ、だけど、ふふ、それはオール・フォー・ワンが勝っても同じさ。アイツは二流だ」
「三流だろ」
「かもな。ボクだって超一流ってわけじゃないから、親父たちから言わせれば、オール・フォー・ワンは三流かもしれないね」
爆豪とて、為替と流通の勉強をし始めたのは雄英に入ってからだ。
全員に勝ちたいと思ったから、《価値》の意味を学び始めた。
結果──まだ遠い。
今朝方、青山と策束の話を聞いて、真っ先に思いついたのが戦争だった。それはヒーローとヴィランの戦いなどではなく、人と人が行う戦争。
現実に迫っている戦争の足音を、策束は一蹴した。
爆豪にとって勝利は結果だった。
なによりも重要なことであり、オールマイトは無敗だからこそあれほど称えられたヒーローだったのだ。
だが、ここまで破壊された日本において、平和だった世界において、その結果への注力は、あまりに無力なのだと噛みしめることとなった。
勝利は必須ではあるものの、最低条件だ。
爆豪は口角が上がっていくのがわかった。
自分は、理想のヒーローへ近づいた。
(勝つ──。んで、勝って、助ける)
今更──などとは思わない。
自分がここに立つのは、過程なのだから。
◇一年A組◇出席番号二十番◇八百万百◇
テレビの画面に、原稿用紙を握り締める口田の姿が映っている。
自他共に認める目立ちたがり屋の上鳴は、ふざける様子も学友を心配する様子も見せず、淡々と、しかし恐ろしいまでの熱量で原稿を読み上げていた。
「かっこいいね……」
耳郎が呟くと、周囲がなぜか噴き出した。クラスメイトの視線の多くが策束へと向く。
上品にレンゲでスープを啜る彼は、八百万にとって思い出の通りの人物だ。
その印象は、この一年でずいぶんと変わってしまったけれど。
震える手で、音もなくテーブルにスープを零し続ける策束に、台拭きを渡す。渋い顔でタオルを受け取った策束は、小声で八百万へお礼を言った。
「ありがとうヤオモモ……」
「どういたしまして」
あだ名で呼ばれ、八百万は頬を赤くする。正直に言えば、むかしのように名前で呼んで欲しいが、いまの形も悪くない。
「そういえば業さん、あとですこし話したいことが」
「──決戦の?」
「ええ。あ……ちょっと違うかもしれません」
すこし頬が熱くなる。
ちょっと違う。
彼女のなかで勝利は確定している。
それは、ナイトアイから聞かされている《予知》の結果だ。彼は勝利を口にした。嘘であるとは思わないが、なにかを隠されるのだと思う。
否、どうでも良いことだ。
八百万がナイトアイたちと練り上げた作戦は日本を救うだろう。
だが、それに対するリスクは、度外視している。
決戦を終えたあと、ヒーローは何人死ぬだろうか。
A組の教室で、空席は、いったいどれほど──。
そうなったときの責任を背負うのは、策束ではない。
ヒーロー公安委員会でも、ナイトアイでも、ほかのヒーローでも、根津校長でも、まして日本政府でもない。
八百万百が背負う。
それはきっとどこか呪いにも似た束縛で、離れ離れになっていた策束と自身を繋ぐものだと思っている。
死ぬかもしれない決戦で不安に思わないのは、ただ希望があるからだ。
将来に、希望を見出しているからだ。
◇一年A組◇出席番号十二番◇耳郎響香◇
日も昇らぬ早朝に、耳郎は一人寂しく昨日の汚れをシャワーで洗い流す。くわぁと欠伸を噛み殺し、それでも十分な睡眠によって心地よい気怠さを味わっていた。
一昨日は一睡もできなかったというのに。
その理由を思い出して、気苦労とは比例するように口角が上がっていく。
告白を──された。
子どもの頃に夢想していた告白とはずいぶんと隔たりがあったが、悪くない気分だった。告白してきた相手が策束であることも、悪くないと思った。
かと言って、自身が彼のことを好きか──それは非常に難しい質問である。
その自問に、寝起きで良かったと耳郎は安堵した。また眠れなくなってしまうから。
一晩悩んで答えは出ず、いまも、わからない。
最後には、いまはそんなことを気にする余裕などないと結論付けた。
決戦ではA組のだれかが死ぬかもしれない。その確率は自身、常闇、緑谷、爆豪が最も高く、次いで轟といった具合だろうか。
思い描くだけで暖まったばかりの指先が、氷でも掴んだかのようにかじかんでいく。
その思考を遮ったのは、だれかの話し声だった。
通路から見る空は、まだ陽が昇る前の薄暗い風景しか見えない。時間で言えば早朝五時だ。
だれだろう、そう思って耳を澄ますと、策束の──フェイカーの笑い声が聞こえた。
「あはは、良い商談ができそうですね。楽しみだ」
「策束?」
キッチンに椅子を出し、煮込む鍋を前に通話している策束に、なぜか声をかけていた。
敬語を使っていたからだろうか。だが商談という言葉が指す通りの状況ならば、基本的に策束の年下を相手にすることはなく、敬語を使うことは妥当のはずだ。
それすらも嫌がるなど、好いているどころか嫌っているではないか。
「失礼、クラスメイトが……。ではおじさま、また明日──。どうした耳郎」
「ごめん、邪魔しちゃった」
「いいよ、間抜けな取引相手だ」
「言い方悪いなー」
「事実さ。一番大切な質問をさぼりやがった」
「わかんないなー。策束の敵なの? その人」
「──ふふふ、あはは、そうだよ、くくく」
口元を抑え、大笑いしないように我慢している様子だ。
フェイカーのこともあり、彼女はその手の笑い声があまり好きではなくなっていたものの、まだ日の出前なのでしかたない。
話題を逸らすため、台所で弱火にかけられる鍋を指差した。
策束もそれに気づき電気を点ける。
突然の明るさに彼女は目を閉じ、たっぷりと時間をかけて目を慣らしていく。
「カレー?」
「正解。シチューとも悩んだけど、カレーのほうががっつり食えるだろ」
「まあね。今日の晩御飯はカレーか。葉隠聞いたら喜ぶよ」
言うと、策束は気乗りしないような間延びした声を上げた。
「これは夕食じゃなくて、明後日。決戦後に食べようかなって」
「あー、良いねー。手伝う? って、もうないか」
「いや、ルーを黄金比にする」
「あんまり聞かないよその単語」
くすくすと笑い、同時に、笑えたことに安堵する。
直接告白されたわけではないが、こちらは一晩中悩まされてなにをしていても集中できなかった。
市販のルーの箱を何種類も重ねていく策束に、耳郎は話題を切り出した。
「策束ってさ、ウチのこと好きなの?」
──絶対に、失敗した。
黄金比と名付けた陳列を崩して策束は崩れ落ちた。倒れ込んだ彼は錆びたブリキのように振り返り、唇を嚙みしめている。その鋭い眼光からは、「いまなの!?」と訴えかけられているようだった。
耳郎が鼻の頭を掻いていると、そのうちに策束が立ち上がって目を瞑って深呼吸を繰り返し始めた。
照れている場合ではなかった。明らかに告白されそうな空気感である。
決戦前日──止めるべきにもかわからず、こちらの興奮とは裏腹に、策束の瞳が理性を取り戻しつつある。
電気、点けなければ良かったのに。
お互い、顔が真っ赤に染まっている。
「好きです。耳郎響香さん」
「あの、それは……ありがとうございます」
気持ちの表明ではあるが、答えではない。
ひどく喉が渇いている。
「でも、ごめんなさい」
「はい」
「嫌いとかじゃないけど、いまはその気持ちに応えられない」
「はい」
「だから、決戦が終わったら、言うね」
「……フラグっぽくね」
「このタイミングで告るからじゃん!」
「ボクも予想外なの!」
二人で笑い合う。そのことに、感謝すらある。
調理を再開した策束は、何事もなかったかのようにルーを鍋に入れ始めた。
「ねぇ、ずるい質問していい?」
「おお」
「ウチのどこが好きなのか教えといてくれない?」
死んじゃうかもしれないから。
「んー……」
「悩まないでよ」
「耳郎って、結構口悪いだろ?」
「まあ、反省はしてるけど……」
「その口の悪さも許せちゃうのって、惚れた弱みなのかなって」
耳郎は噴き出した。
惚れた弱みなんて単語、自分に向けられるなんて思ったことなかったから。
「それにその口の悪さってさ、なんというか、オレを見てくれてるみたいで、好きだな」
「くれているみたいって、まったくもうさぁ」
個性は使わず、策束の頬を摘まんで引き寄せる。
非難の声は聞こえたが、無視してしまった。
よろめいた策束を抱いて受け止める。
肩に吐息が当たってくすぐったいと身を捩った。慌てて離れようとする策束の頭を、後頭部の髪の毛を掴むことで留めた。
あまりにもロマンスからかけ離れた蛮行だが、お互いの心音が強すぎてそんなこと気にする余裕はなかった。
「あんたのことだから、言ってたんだよ……」
策束は口が悪いなんて言ってくれたが、本当は違う。
策束に、理想のヒーローを押し付けただけだ。
策束業は耳郎響香にとって、ずぅっと【そう】だったから。
「がんばれ、ヒーロー……」
「耳郎もヒーローだろ」
「ウチのヒーローって意味」
途端、策束の心音がさらに早くなった。
口の中でもごもごと言葉を転がす彼の様子に、耳郎は笑いながら距離を取る。
熱が肩口から抜けて、さきほどまであった心の熱まで離れて行くようだった。
「湯冷めちゃうから、戻るね」
「おお」
──このとき、告白の答えをはぐらかしたままにしたことを彼女は生涯引きずることになるのだが、それはまたべつの話だ。
◇一年A組◇出席番号十番◇策束業◇
『やあ』
「……どなたでしょうか?」
『わかってるくせに。もう優雅くんはキミに接触したんだろう?』
「ああ、おじさまでしたか。ええ、どうも」
『つれないなぁ。キミたちにとっては良い商談だろう?』
「私には個性を返却し、あなたは《ワン・フォー・オール》を。ええ、実にわかりやすい。ですが、そんなもので私が心揺られるとでも?」
『嘘だろう?』
「……だとしても、テメェの首を取れるのなら個性なんぞくれてやりますよ」
『本当だ。面白いなキミは。むかしからね』
「知ったように語るなよ。オレのオムツでも代えてくれたっていうのか?」
『オレぇ? 私はどうしたフェイカー。クラスのところに戻って軟弱になっちまったのかなぁ。ブレブレだぜ』
「……で、わざわざ私に連絡してきたのは? ここは政府の中枢なのに」
『嘘だ。一人かな? そうだろうねぇ。優雅くんは嘘なんかついてなかったぜ』
「一人だけど、大声出せばヒーローたちが起きてくる距離ですよ」
『正直者は好きだよフェイカー。大声を出さないのは、キミにとってチャンスだからだろう? ほかのヒーローを出し抜くチャンスだ。もう、わかっているんだろう?』
「勝てば済むでしょう」
『あはははは、勝っても負けても結果は変わらない。わかってるんだろう? もう日本政府は、僕に屈する以外の選択肢はないんだよ』
「私がなんとでも──」
『見栄っ張りだなぁ。無理だよフェイカー。ヒーロー数人が踏ん張ったところで、日本は他国から攻撃を受ける。物理的に、経済的に、精神的に。それをキミが止められるのかい? たかが十六歳の子どもに? 無個性の人間に?……教えてくれないかなぁ、その作戦を』
「心を読めるならそのときに読めばいいじゃあないですか。今日は予定が詰まっているので、明日なら例の人物を連れ出せますよ」
『フェイカー……言い得て妙だね。本当のことだし、でも、嘘だろう』
「あなたが憎い。でも同時に【感謝】しているんですよ。それは……悲しいことに本当なんですよ」
『罠かな?』
「来てみれば良い。すくなくとも、緑谷と私はその場にいます。あはは、良い商談できそうですね。楽しみです。──失礼、クラスメイトが。ではおじさま、また明日」
耳郎を見送った策束は、さきほどの内容を咀嚼する。
際立ったのがオール・フォー・ワンの慢心だ。
会話に意味を見出し、相手の底を探ろうとする。そして、自分の地位を高めようとする。
彼が相手の嘘を見抜く個性を持っているというのなら、ただ一つの質問を行えば良かった。
「二流だな」
耳郎は本当に、最高だな。
彼女の素直さに惚れた。彼女は、一流のヒーローに成るだろう。
会話に嘘はない。
個性は欲しいし、だからって世界を犠牲になんてできるわけがない。緑谷も連れて行こう、《ワン・フォー・オール》は撒き餌だ。存分に食らいつくと良い。
罠かどうかなど、質問にもなりえない。
プライドなど捨てて、聞けば良かったのだ。敵なのか、味方になるのか。
だが、当然だ。無個性がヒーローに成れるわけがない。
だから、無個性が敵になるなんてありえない。
「本当、楽しみだよ」
ルーが溶け切ったことを確認してから消灯した。
香しい匂いが溢れ出るまえに蓋をしてしまう。
それはどこか、感情を押さえつける仮面にも似ていたせいで、くつくつと笑った。