──最初にその違和感を覚えたのは治崎だった。
「治崎! 早く治せ! 手遅れになる!」
爆豪の凹んだ胸部から手を放し、血で染まった右手を睨みつける。血と泥で汚れた手の平だが、そのことに対する嫌悪感はない。
だが、背中を突き刺すような不安に駆られ続ける。
「小僧は──策束は!?」
爆豪から視線を外し、周囲を見渡す。
この戦闘中に、視線を外して動画を見る余裕などない。治崎は自分の顔が汚れることなど気にせず、耳のイヤホンのチャンネルを弄った。
「ラブラバ!」
『個──使えな──たのね』
「策束はどうなった!!」
治崎は自身の手の平を地面へと叩きつける。個性は、発動しなかった。
電磁パルスで囲われた雄英高校は、通信すら遮断する電気の檻だ。それでも、ラブラバの言葉は予想がついた。
──個性が使えなくなったのね。
それが、どういう意味を指すのか。
負傷した爆豪を治崎の元まで運んだ緑谷は、彼の言葉を聞いて動けなくなる。
耳鳴りがして、歴代後継者の声は聞こえなくなってしまった。身体が熱を持ち、呼吸で取り込む空気すら熱く感じる。
治崎の個性が使えなければ、爆豪の心臓は──。
治崎の個性が使えないのは、策束の命が──。
ガンガンと頭を叩かれたような感覚のまま、緑谷は吠えながら死柄木へ突っ込んで行った。
その緑谷と入れ替わるように、治崎に声を掛ける男性の声。
「どけ……ヴィラン」
「エッジショット……」
治崎が顔を上げると、そこには折れた手足と血に塗られた疲れた表情で佇むヒーローの姿。本来であれば彼も《オーバーホール》で修復せねばらなぬというのに──。
エッジショットは左手で歪な九字印を作った。
「そう──どこにでも忍び込む、忍者ヒーロー」
指先から、《紙肢》を発動させて紐のような姿になっていく。
「人の身体なら幾度も忍び込み、熟知している。……諦めてたまるか」
顔を上げれば、倒れ伏す雄英生たちに、怒り狂って暴力を振るう緑谷出久が視界に入る。ヒーローたちとてだれも、諦めていない。
「ミルコ!! 足掻け!!」
もっと。もっと足掻け。
だれよりも諦めていないヒーローに。一番好きじゃないヒーローに、想いを託す。
「首だけになっても喰らいつけ!! 俺は受け入れない! いま止まった心臓は! 我々が決して失ってはならぬ命だ!!」
最後に、ヴィランから視線を逸らしてまで、こちらを気にするベストジーニストと視線を合わせた。
(あとは頼みます、袴田会長。俺が──この子の心臓になる!)
身体をすべて糸状にしたエッジショットが、爆豪の身体の中へと消えて行く。
個性を失った治崎が爆豪を引き摺ってその場を離れようとする。
死柄木が、楽しそうに爆豪を追いかけ始めた。
怒りに身を任せる緑谷はあしらわれ、しかし、その隙を逃さずに【手】から脱出したミルコが顔面に蹴りを入れた。
「そんなに捻り潰されたいか?」
「ぁあ!?」
捕らえられていた【手】に追いつかれ、右手が纏わりつかれる。その際に、口のように変化した指が噛みついてきた。激痛と──骨を折られる感触。
『足掻け!!』
右腕を千切りとられながらも、彼女は一撃を与え切った。
蹴り抜いた彼女は空中で反転し、失ったばかりの右手と、義手を壊されつくした左手を地面について、四つ足で走り出す。
ふらついて膝をついた死柄木を見て、ミルコは笑った。
「なんだよおい! 優しいな大魔王!!」
ベストジーニストがワイヤーを使ってミルコの傷口を塞いだ。
ルミリオンが《透過》した両手で死柄木の視界を塞いで、ミルコの道を作った。
(直進しかできぬ愚図だ。大きく振るえば問題は──!?)
声を頼りに繰り出された死柄木の【手】は、ミルコの失った両手を地面に突き刺すような急制動に対応しきれずに空振り。
「どこ見てんだあ!? 人間死ぬときゃ死ぬけどよぉ!!」
振り抜いた【手】を戻そうとしたが、身体が瞬間的に鈍くなる。
玄野の個性で、思考まで鈍くなったかのようだった。
「ありえん」
「──全獲りだっつーならそうするぜ」
死柄木は爆豪への印象を。
ミルコは自身のスタイルを曲げたことを。
奇跡的な会話の噛み合いともに、ミルコの渾身が繰り出された。
ああ──足掻くぜ。
「後悔!! 残して死んでらんねーからなァ!!」
一撃、二撃、三撃、四撃──。
彼女の両足からは骨を砕く感触が伝わってくる。そして、違和感も──。
死柄木の【形】が、変わっていく。
「良い加減にしろよゴルァ!!」
彼女の必殺の蹴りは最後まで放つこともできず、死柄木が左手を振るっただけで軽々と吹き飛ばされていた。
死柄木の形状の変化は、二度目だ。最初は巨大で破壊的な【手】。雄英校舎並みに広がり質量のある手は、あまりにも愚鈍だった。
彼の身体は、【最適な形】を求めている。
個性に適合する【形】。勝つための【形】。破壊する【形】。
雄英高校全体へと広がっていた【手】は、もうない。
ベストジーニストの目には、いまの死柄木の身体は守りに重きを置いたようだと思った。
細い印象を受けた死柄木の身体は、あご、胸部、すねなどが防御されるように両の掌を組ませたような形となっている。
左手だけがあまりにも異形。
巨大な手の平の指の先には、顔が五つ。見覚えもなく、死柄木かオール・フォー・ワンの所縁の者だろう。
そしてずいぶん……冷静になってしまった。
爆豪に執着したかと思えば、いまは緑谷へ視線を向けている。
「緑谷! 爆豪の治療は始まってる! 落ち着け緑谷!」
「でも! 心臓が!」
イレイザーヘッドが暴走しそうな緑谷を《抹消》で押し留めていた。
死柄木の──オール・フォー・ワンの狙いは、嫌なくらい的中していく。
波動が死柄木からの攻撃で吹き飛ばされ、フォローに入ったジェントルが受け止める。前線が、崩れた。
イレイザーヘッドが離れたということは、ファントムシーフの《抹消》効果が五分間もないということ。後衛も崩壊するだろう。
《オーバーホール》による即座の回復が失われた以上、ベストジーニストでは死柄木の足止めは不可能だ。
一撃一撃が必殺の域。さきほどから行っている《マイクロファイバー》での拘束も、影響を与えているようには思えない。
戦いが始まってからずぅっと消耗戦で、いまや戦える者は半分しか残っていない。
だからって、そんなものを一流は──ヒーローは言い訳にはしないんだ。
「デク! カウンターは気にするな! 私が防ぐ!!」
「はい!!」
単調な動きで走り出した緑谷に対して、イレイザーヘッドはすぐさま《抹消》を解除してファントムシーフの元へと走り出した。
「防ぐ? おいおい、ずいぶんと安請け合いだなぁ」
《黒鞭》の制御どころか、《ワン・フォー・オール》の制御すらままならない緑谷を迎え撃つ死柄木。ルミリオンがヴィランの視界を塞ぎ、ベストジーニストは繊維による拘束を行う。
──だが、さきほどのミルコと同様には行かない。
頭に血を昇らせた緑谷は、ミルコと同じ直線の動きではあるし、彼女よりも速い。
だが、もしミルコと緑谷が戦えばミルコが圧勝するだろう。
経験の差だ。技術の差だ。覚悟の差だ。
百年以上の戦いもこれで終わり。
どこか物悲しい気持ちを味わいながら、死柄木は左腕を振るって──空振りをした。
「──は?」
「かっちゃん!!」
ルミリオンを追い払った死柄木が見たのは、自身から脱兎の如く離れて行く《ワン・フォー・オール》の後ろ姿。
爆豪は伏したままだ。だが近くにいる治崎が、なにかの肉片を素手で掻き出すような動作をしている。
「弟を! 返せ!!」
「ぬぅぅぅぅぅうううう!!」
死柄木の攻撃をジェントルが《弾性》で防いだ。いつの間にか、周囲に《弾性》を張り巡らせていたらしい。
「今朝の紅茶はセイロンティーのブロークンオレンジペコー……。意味は、お分かりかね?」
「飛田ぁああ!!」
「おや、光栄だ。魔王に名前を覚えてもらえているなんて」
余裕の笑みを浮かべながら、ジェントルは生れたての子鹿のように怯えていた。その背中を叩き、ベストジーニストも魔王の前に立つ。
すこし遅れて、顔を血だらけにしたグラントリノも現れた。
「ちっと寝ちまってたぜ……」
「むむむむりなされるなご老人!」
「ジェントル、私とグラントリノでサポートする。できるな」
「ももももももちろんだとも!」
ヒーローとヴィラン。
地位も名誉も関係なく、ただ、世界を守るために立っていた。
「かっちゃん!」
緑谷が行きついたさきに見たのは、ピンク色のアメーバ状の【なにか】に包まれている爆豪の姿。とくに胸部の傷口を塞ぐように蠢く【それ】は、なにかの個性だと理解した。
「なんだこれは!」
治崎がそのスライムのようななにかを千切って捨てを繰り返すが、痛覚はないらしく、爆豪から離れることはなかった。
「治崎! かっちゃんは!」
「エッジショットが中にいる! これはどっかから入ってきやがった!」
「外部って、電磁パルスが!」
言いながら、はたと気づく。そもそもここは地上百メートルの戦場だ。非戦闘員は雄英高校関係者のみで構成されたメンバーしか乗り込んでおらず、このような回復個性見たこともない。
「ヴィランのだれかが!?」
「かもな……うぉ!?」
治崎が衝撃を受けて背後へ倒れ込んだ。
「エッジショット!?」
地面に転がった治崎の上に寝転がるエッジショットを見て、緑谷は慌ててアメーバを取り除こうと爆豪のそばで膝をつく。
その途端に、エッジショットの怒鳴り声が響いた。
「触るな!」
「え!?」
満身創痍は変わらずに、折れた足を引き摺るように立ち上がったエッジショットを、治崎が隣から支えた。
「あんたの個性か?」
「いや、わからん……」
「わからんって──」
「だが、治療している」
エッジショットの言葉に、緑谷と治崎が視線を合わせた。二人とも理解できずに当惑している。
「デク、戦線復帰、できるな」
「は、はい!」
「足掻くぞ」
「──はい!」
エッジショットは治崎から離れ、緑谷とともに走り出す。すぐに四人の英雄が肩を並べて戦い始めた。
「玄野、策束と連絡が取れるか」
「個性、使えないんだってな」
「あのガキになにかあったんだ。あとスライム。なにかわかるか?」
「さぁな。あーくそ……乱波の馬鹿もどこかに吹き飛ばされたきりだし……」
乱戦の最中、玄野は肋骨を何本か砕かれていた。歩くことも精一杯の様子で、爆豪とミルコを引き摺る治崎に付いて行く。
その途中──地面が砕けた。
「《崩壊》!? イレイザーはなにを──」
イレイザーヘッドが緑谷のもとを離れたことを知らぬまま、二人はファントムシーフたちに目を向けた。
そこには、見覚えのあるヴィラン【たち】。
「やられた!」
黒霧の《ワープ》の靄から溢れ出すトゥワイスが見えた。
ファントムシーフは押し倒され、死柄木の《崩壊》が発動してしまっている。巨大な【手】はすでに消えていたために無数の角度から繰り出される《崩壊》はなかったものの、初撃の威力が異なっていた。
おそらくは、内包された個性のいくつかを解放したのだろう。
それだけで、雄英高校は浮遊システムを失い傾きつつある。
「どうする、廻」
「さぁな。まったく、俺のぶんのロボットも作ってもらえば良かったぜ」
治崎の軽口に玄野は笑うが、二人とも目は笑っていない。世界の命運がこの場に掛かっているとするならば、天秤はもう傾いてしまったのだから。
◇ ◇ ◇ ◇
十分前──。
「アハハハハハ!」
高らかに笑うオール・フォー・ワンは、地に堕ちた英雄を見下ろしていた。
「商談成立だ策束業! 《シルバーバレット》の売り上げに貢献してやるぜ!」
右腕から黒い爪が伸び、空中に浮かぶドローンが一機捕まった。
引き寄せ、カメラに向けてとびきりの笑顔を向ける。
「見えているかなぁ視聴者諸君! 初めまして、僕の名前はオール・フォー・ワン。そして、【これ】が【策束業】だ」
ドローンのプロペラを砕きながら、カメラ側を地面へと向ける。
そこには、脱ぎ捨てられたフェイカーのコスチュームと、赤白い【動く肉片】が転がっていた。
「個性を複数与えるとね、どうしても肉体のほうが耐えられなくてねぇ。まあ、人間の限界がこの状態だと思ってくれよ」
「──ぁぁあああああ!」
「おいおいどうしたオールマイト。もう立つ元気も残ってないじゃないか。キミの生徒がこんなになっちゃったのに──さ!!」
オール・フォー・ワンが踏み潰すと、コンクリートとともに肉片が飛び散った。
それはパワードスーツの重さで身体を動かせずにいるオールマイトの目の前にも……。
爪の先ほどの小さな肉片は、筋肉の痙攣発作のように細かく震えていた。
まるで、まだ生きているかのように。
「殺してやる! 殺してやるぞオール・フォー・ワン!」
「おお怖い。──さて、デトネラットの社長が死んでしまったが……大丈夫。なぜって? 僕がいる!」
個性を使い、紐で吊るすように空中でカメラを固定したオール・フォー・ワン。彼は笑いながら、踊りながら状況を説明していく。
情報は、もうすべて【これ】から抜き取ったのだから。
「見てくれ【みんな】ぁ。これが人類の行きつく先だよ。
「もっとも、何世代もあとの話だけど。
「オールマイト、聞こえているかいオールマイト。発狂してしまったかな?
「──なら僕が説明するよ。
「これを見ているキミたちも心得ていてほしい。今後の人類に、《シルバーバレット》が必要な理由にも繋がるんだ。
「……オールマイトが代々引き継いできた《ワン・フォー・オール》は二つの個性だ。むかし僕が弟に与えた《個性を溜める個性》と、弟が持っていた元々の個性《個性を譲渡する個性》。この二つが合わさったのさ。
「オールマイトで八代目。緑谷出久で九代目。力を溜め続けた《ワン・フォー・オール》はたった数世代の【溜め込み】で強大な力を得た。
「そして、緑谷出久は受け取りの際、一年近く身体を鍛えることになった。
「なぜか。
「個性と筋力ってのはどうしても切り離せなくてねぇ。ある程度の肉体強度が必要なのさ。僕も難儀したんだぜオールマイト。たった数個の個性も弱者には扱えない。
「適性があればべつなんだぜ? でもそうそう転がってるわけじゃない。だから手っ取り早く、死体に大量の筋肉を繋ぎ合わせて個性を与えた。
「そう、脳無だよ。
「素体の筋肉量は、オールマイトの全盛期ともそこそこ戦える程度にまで筋肉を詰め込んで、ようやく四つ。まったく、本当にわりに合わない研究だったよ。
「失敗はどうなるかって? それが【これ】だよ。
「四肢を失い、考える力も無くし、人として生きることはできなくなる。身体が急激な変化に耐えきれず爆散してしまう者もいてねぇ。策束業は運が良いよ。
「でもこうなってしまっては《シルバーバレット》の針も刺さらないなぁ。
「……おめでとう、これでキミも憧れのヒーローに成れるぜ。結局、お前にはそれがお似合いなんだよ。
「さて、本題だ!
「失敗と言ったが、正確にはこれは人類の未来の形だ! 昨日までの、ね!
「今日は百年ぶりの人類の特異点。
「昨日までの世界とは全然違う!
「僕の個性は、他者の個性を奪い、与えることができる。そして【彼】の生み出した《シルバーバレット》は、個性を消すことができる。つまり、人類は個性を支配する時代に移ったのさ!
「そして人類は今日から僕が支配する。世界を壊したのは僕だ、礼など不要だよ」
それは、あまりにも悪辣なモノローグだった。
カメラを握りつぶすオール・フォー・ワンを眺めていたステインは、無理攻めする気などなく。ナイトアイ、オールマイトの順で自身が乗って来た全翼の飛行装置に乗せていく。
「降ろせ……ステイン……ヤツを……殺さなきゃならない!」
オールマイトの言葉に、ステインは答えなかった。
代わりにマシンの自動飛行装置を起動し、飛んでいく様を見送った。
「でぇ? 僕の獲物をどうしようって言うのかな、ステイン」
「ハァ……。人類の支配者を気取り、結局は民衆に媚びを売る間抜けか」
「媚び? どうしてそう見えるのかなぁ」
「用意された椅子にまんまと座った阿呆に、どれほど言い聞かせても言葉など足りないだろう」
オールマイトとオール・フォー・ワンとの距離は不十分だが、嗤い裂けた頬など気にしないヴィランに、これ以上の余裕はもらえない。
「僕が用意した、僕のための椅子だ。傅け、小僧」
「ハァ……。代わりに一つ教えておいてやろう。足元の策束はどこに行ったんだ?」
オール・フォー・ワンが眼下を見下ろすことはなかった。いまはただステインの心を読めばいいのだから。
「まさか……生きていた?」
「ああ、そうだ。どうやらヤツも本物だ」
本物のヒーローで。そして本物の狂信者だ。
魂の導きのままに生きる化け物。
「本物は、僕だよ!」
「お前の言葉は苦悩せず、与えられたものだけで生きてきた強者の余裕だ。与えられた椅子の座り心地は良いか? 安いんだよ」
オール・フォー・ワンがステインの腹を裂き、吹き飛ばすのに三秒とかからなかった。
雨音が一層強く聞こえてきた。
策束業。
人としての形を失い、思考を読むこともできなくなる瞬間まで確かめた。
内臓も骨も肉も血も脳みそも、個性因子の暴走によって細胞核が崩れて、ぐちゃぐちゃに混ざったスライムだ。
明確に殺したわけではなかったが、死ぬだろう。
死ぬ、はずだ。
「動くか……」
物陰に隠れたわけではないことは、足元から伸びる赤い点々から察していた。
真っ直ぐに、死柄木を目指している。
雄英高校を目指している。
「《高速移動》と《エアウォーク》も無くなってしまった」
無個性相手に大盤振る舞いしすぎたなと、彼は嗤った。
使い慣れた“コレクション”と、戦闘個性以外はほとんど手放してしまっていた。
だが、まあ、代替品の個性の使い方なんて無限にある。
「良いさ、もうこの身体は限界が近い」
オール・フォー・ワンは反転して、オールマイトを追いかける。
ステインの心は読んである。罠ではなく、真の英雄二人を慮って逃がしただけの行動だ。さすがに《サーチ》の副次的な効果までは理解の範囲外だったらしい。
「死にぞこないどもが」
治崎壊理を基にした《個性破壊弾》。そのワクチンから抽出した《巻き戻し》の個性因子から生み出された《巻き戻し薬》とでも言おうか。
その効果はあまりに劇的で、エンデヴァーやホークス、オールマイトたちが必死につけた傷など、もうこの身体には存在しない。
そして同時に、この薬には【限度】というものがない。
使ってしまえば最後、時間経過でこの身体が無くなってしまう致命的な副作用。
身長で言えばすでに青年期を巻き戻されて、少年期に近い。
(あと数度、戦闘していたら不味かったな)
だが、道中にもう敵はいない。
高速で飛行する全翼機を見つけ、空中から瀕死のナイトアイを突き落とした。高さで言えば二十メートル。確認することなく、死亡するだろう。オールマイトも直感しているのか、絶望と怒りの感情が伝わってくる。
──愉しい。
空中で足を掴めば、オールマイトはまるで虫が人間の手から逃れようとするように、ばたばたと藻掻いていた。
──愉しい。
オール・フォー・ワンはその状態のまま雄英高校へと進行方向を定める。
濃くなっていくもう一人の自分の感覚を味わいながら、愉しくて愉しくて、嗤って頬が裂けた。
「愉しいなぁ、親友」
「オール・フォー・ワン!」
後生大事に残していた左手のアーマー部分に手を添えて、自爆装置を破壊する。オールマイトもそれを察したのだろう、オール・フォー・ワンはもう一度嗤った。
「英雄らしく、死に方を選べるとでも?」
首を掴めば、絶望に震えるオールマイトと目が合った。心を読むまでもない。
「やっと出し切ったな。手負いのヒーローの恐ろしさは散々教わった。キミにはなにも果たせはしない。その表情を待っていた。キミが、最も嫌がるときだ」
四十年前のあのとき。
志村奈々を失ったときと同じ顔だ。
「今度は、逃がさないぜオールマイト」
風が、吹いていた。
◇ ◇ ◇ ◇
思い出したように呼吸をすると、脳が空気を吸うのがわかった。
血が巡る。
臓器の一つ一つまで行き届いているのがわかった。
鼓動が聞こえる。
それはまるで、胎内で初めて聞いた母の心音のようだった。
耳鳴りがあまりにもうるさくて、爆豪は治崎の声は聞こえていなかった。
周囲を見渡せばそこはあまりにも激変していて、自身の不甲斐なさに反吐が出そうだった。なにより──。
立ち上がると、粘着音とともに赤白いヘドロのような【なにか】が地面へ落ちた。
胸に手を当てる。
ボロボロのコスチュームをすこし捲れば、そこには大きな傷が見えた。痛みは背中に突き抜けるほどで、骨も内臓も破壊されている。
だが、塞がれていた。
皮膚も、胸骨も、きっと、心臓に空いた穴さえも。
「……あ?」
右腕が砕かれ、顔もすでに痛覚を失うほどの大怪我を負っている。
だから、痛いのだから、涙は、流して当然だ。
それなのに、粘液を留めきれずに形を崩しながらも、どこかへ向かうスライムを見て、涙が止めどなく溢れ出した。
「そっち……行きてぇのか……」
一言発するだけで、肺が悲鳴を上げるような激しい痛みを訴える。
でも、止めずにはいられなかった。
スライムのような【なにか】を抱きかかえたのだが、それは液体に戻るかのように爆豪の手の中から零れていく。
手の中に残ったのは、小さな、とても小さな、血のような雫。
だというのに、手の平の上ですらも、さらに進もうとしている。
零さぬようにと崩れ去った雄英校舎を背に、足を引き摺り歩き出す。
最後に残った一滴が、手の平から零れ落ちた。
──風が、吹いた。
そこでようやく、自身が雄英の空中要塞の淵に立っていたのだと自覚する。
眼下には、二つの光。
心臓が、大きく鼓動した。
行けと。
進めと。
命令するように。
「勝たなきゃ、な」
爆豪は、笑って飛び降りた。
ご愛読ありがとうございます。
物語は語り手を失ったため、この話はここで終わりとなります。
もうすこしこのヒーローを応援していただけるというのであれば、とても嬉しいです。