劇場版第3弾「ワールドヒーローズミッション」はチャプター1~7の更新となります。
ch.123は劇場版をなぞるだけになります。
ヨーロッパ州四十七か国の一つオセオン国は、近年観光地として脚光を浴び始めた。
ライン川に面するオセオンは工業と農業を主要産業にしていたが、世界的な治安悪化を伴うGDP低下により、新たな収入源を欲した。国は古き良きを捨てて首都計画を推し進め、ラスベガスの五ツ星ホテルですら見劣りするほどの豪華絢爛の建造物を用意。近代化を、そして未来を取り入れたオセオンは、ヨーロッパの中でも近年最も経済的に価値が増加した国の一つとなっただろう。
国自体はとても豊かになった。首都圏に土地を所有していた人たちは、開発後と前では比べ物にならない金銭を得ただろう。
──だが、誰も彼もがその波に乗れたわけではない。首都圏以外の多くの土地では過去のオセオンそのままに暮らしている。それどころか国の急激な舵取りについて行けず、貧富の差は広がり続けている。
オセオンの都心部では、国を河で分けることにした。正確に言うのならば【住む人間】を区別することにしたのだ。
【河の向こう側】に追いやられた、トタンですら錆に侵され、住むことすらできない空き家も多く立ち並ぶスラム街もその一つ。名前もなければ番地もない、ただの鉄橋の土台の土地。
地図にすら載らないその街の一角に、キャンピングトレーラーが何台も停まっていた。
もちろん、そちらも錆で至るところに穴が開いていることから、本来の役割が果たされるとは思えない。
そんなトレーラーは改造に改造を重ねられ、内側はまるで家のように板張りをされ、小屋のような造りになっている。
大人一人でも寝るには狭そうな寝具に、子どもが三人、密着しながら横になっていた。
その中で年長の【彼】は、天井から埃と錆の塊がはらはらと落ちて顔に当たる感触で目を覚ました。
ゆったりとした動きで、両耳にぎゅうと指を押し込んだ。暗い室内では、小さな影が同じような動作をしている。
「……ぅ」
小さな子どものうめき声が聞こえてきて、彼は慌てて妹の耳を自身の手の平で塞ぐ。
細い、そして高い音が聞こえてきたと思ったら、まるで地揺れのような振動で家が揺れている。
音は、耳の奥が痛くなるほどの大きさだ。
(……慣れたもんよ)
耳鳴りで若干クラクラとするも、その音はせいぜい十秒。……いや、もう一機? 連続で飛び去る飛行機を想像して、思わず舌打ちをしていた。
こっちの睡眠時間を含めた都合を、すこしでも考えてくれればいいものを──。
彼は妹の耳から手を離し、ゆっくりと寝床から抜け出る。
家の窓から飛行場の空を確認し、違和感を覚えた。
たったいま、安眠を妨げた飛行機は非常に小型なものだ。ジェットエンジンの音で十分に判別がつく。それが二機、三分と経たずに出立していた。
時計がないため憶測になるが、深夜一時くらいだろうか。
(……航行灯を消してる?)
夜目が利くおかげで、二機の飛行機が上昇している姿を星が隠れることで確認できた。
旅客機でも、貨物機でもない、小型の飛行機があんな危険な出立の仕方を……。
(ああ、やめやめ。寝よっと)
くわぁと欠伸をしてから、家族を起こさぬようにともう一度寝床へと入った。
それから飛行機には六度起こされたが、浅い睡眠はこの地域の住民にとっては慣れたものだ。
住宅地の真上を飛行機が飛んでいるのならまだ優しい。ここは飛行場の真横がスラム化した一角であり、滑走路から一番近い家など二十メートルと離れていない。
それに比べればだいぶマシさ。
それにトレーラーの住み心地は悪くない。
前の住人が残して逝ったトレーラーは木材でリフォームされているし、オーブンや冷蔵庫まで完備されている。冷蔵庫なんて日本製だ。オーブンは、まあ二回に一回は火が通らないけど……。
雨の日には家の中で傘を差す必要に迫られるくらい、なんでもない。雨水だって煮沸すれば飲めるんだ。トイレと風呂が無いのが難点ではあるが、みんな近くの林か海で済ませる。
このスラム街に野犬すらいないのは、人間たちが縄張りを張っているからだ。あるいは、食われているのかもしれない。
【彼】──ロディ・ソウルは身体を掻きながら朝食の準備を始めた。
至って簡素なものだ。パン、スクランブルエッグ、ヨーグルト。
衣食住の二つを捨てて、どうにかこうにか生活が成り立っている。【仕事】にありつけている間だけは、家族を守り続けられている。
取っ手の欠けたフライパン、木の板から作ったヘラ、いまにも割れそうな皿へ、油も敷いていないために焦げかけたスクランブルエッグを盛り付ける。
フライパンを洗うために流しへとおいて水を流し、ついでに顔を洗ってしまう。雨水だ、ボウフラが顔につくかもなんて心配は、疲れるのでやめてしまった。
疲れてしまっていた。
「……すこし……しんどい……な」
ロディは、自分自身が口にした言葉の意味が理解できなかった。他人の独り言のように、その音を聞いていただけだ。
だから、その言葉をなぞったとき、あまりの恐ろしさに両手で口を塞いだ。
滴る水に涙が混ざり合う。
(俺、いま……なんて言った?)
ひざから下がざらざらと崩れ去る感覚に襲われる。
いっそこのまま倒れてしまおうか──そう思っているとき、だれかがぶつかってきた。
「どうしたのお兄ちゃん」
「どうしたのー?」
ロディの身体に抱き着く妹と弟が、彼を満面の笑みで見上げていた。肘に絡みついてきた体重に負け、自然と両腕が口元から離れる。
叫び出しそうに歪んだ唇は、そのときはもう笑顔を張り付けていた。
床も、足も、ちゃんとある。家族に支えてもらっている。
「なんでもねぇよ! 飯食うぞ飯ー!」
兄の号令で歓声を上げる二人を見ながら、ロディはゆっくりと息を呑む。
吐き出してしまった分も、ゆっくりと吞み込んだ。
ロディは、たくさんの嘘で自分と家族を守ってきた。いや、守っていると思い込んでいるだけかもしれない。嘘をつきすぎて、そんなことすらわからなくなってしまっている。
「ロロ、ララ。そろそろ仕事行ってくっから、お前らはちゃんと──」
「「勉強しまーす!」」
手渡されたネクタイは、すこしでも兄の手助けに成りたいという願いだ。
(助けられてんなー、俺は)
嬉しくなって笑ってしまう。
「帰りが遅くなるようだったら?」
「「ごはん作りまーす!」」
自分だけじゃダメだと、弟たちも笑っていなければ【嘘】だと、口調を変えた。
「もしぃ、変なやつが声かけてきたもぉ?」
変質者のように自分たちを追いかけ始めた兄。その兄から笑って逃げ出す妹たちは、十分に距離を取ると質問に答えた。
「「絶対に無視しまーす!」」
スラムの子どもだ、暗いビジネスに成りえる。スラムに堕ちる近隣住民が、守ってくれるかなんて定かではない。
だからといって、二人を守ることは二人を生かすことにはなりえない。
二人には、自分の身は自分で守ってもらわなければならない。
家族は「よぉし」と声を揃えて、生きていくためのルールの確認を終えた。
「でも、今日はそこまで遅くならねぇと思うわ」
「やったー!」
ロディの懐からするりとピンク色の小鳥が飛び出して、妹と弟の頬を嘴で食んだ。痛かったのか、ララはイタズラを咎めるように笑いながら小鳥の名前を呼ぶ。
「ピノ」
ロディは戻ってきたピノを肩へ乗せ、スラム街を歩き出した。
スラム街の中心地に進めば進むほど悪臭はひどくなる。糞尿ならまだしも、吐瀉物の饐えた匂いなどこちらまで嘔吐しそうになるほどだ。河沿いのトレーラーはだいぶマシだよな、とロディは自分を慰めるように歩く。
──これも嘘だ。
スラム街の家はレンガとトタンが主な素材で、海が近いこのスラムではそのトタンすら錆がひどくて、どの家も傘が家の中にあるという。レンガになると水を掻き出すことも一苦労で、床は泥まみれになるなんて話も聞いた。それに比べれば──これは、本当かな?
すくなくとも、仕事というのは嘘だ。
嘘というか──、
ロディは舗装された道を歩きながら空を見上げた。隣国からの観光客を乗せるプロペラ旅客機が見えた。ジェットエンジンではなくプロペラであることがそれを物語っている。
ジェットエンジンと比べプロペラ機は、飛行高度、スピードともに半分程度だ。しかし燃費は三分の一。そして操縦は手動作業が多くなり、パイロットの技量で運転の質が全く異なる。滑走路も短くて良い。隣国相手の観光客相手になら、まさに主力と言えるだろう。
──仕事に戻ろう。
山の側面を削り出した住宅地に、スタンリークのバーがある。
「おっちゃん、仕事あるかい?」
店内こそ国旗や旗が飾られ、カラフルな家具も備え付けられ陽気なものではあるが、マスターの顔は陰気そのものだった。
それもそのはず、まだ昼前だ。昨晩の片付けと今晩の仕込みの時間。仕事なら店の手伝いでも名乗り出てくれれば良いのに──というのが、店主スタンリークのぶっきらぼうな態度の根本である。
ロディが三百ユール紙幣を二枚カウンターへ置くと、すぐにマスターは胸ポケットへとしまい込んだ。
仕事をする人間が金を払うとはどういうことか……。仲介手数料である。
背中を向けたままカウンター席へ座ったロディへ、マスターは告げる。
「……イースト三番通りの路地裏で受け取り、届け先は、サウスグローブのチャイナタウンのレストランだ」
「ギャラはいくらぐらい?」
「ケッ、お前が交渉できる立場かよ。黙って言い値でやってりゃいいんだよ」
ヨーロッパ語族の会話が理解できるのか、ピノはまるでロディの代わりなのかというくらいけたたましく鳴いた。ピヨピヨ。
そのロディはピノを手の平で優しく包んで静かにさせる。吠えたって意味はないし、せめてもの意趣返しとしては【仕事】を完璧にこなすまでさ、そんな内面を隠すように、口元を緩めて笑う。
店から出ると電柱に自転車がチェーンで括り付けられていた。この町で錆もない自転車なんて珍しいし、早朝にも近いこの時間、スラムの近いこの地区では人通りもまばらだ。
すぐにピノが楽しそうに自転車のサドルへ飛んでいくものだから、ロディとしてはしかたないという気持ちでチェーンのロックを外す。一つは四桁ロック、もう一つは鍵付き。
(二つも付けるなら店にしまえばいいのに、こんなところに【放置】するなんてなぁ)
ダイヤルのロックは感触で外し、鍵付きは針金を使えばすぐに済んだ。
乗ってすぐにわざとらしく警音器を鳴らすと、亭主のスタンリークが禿げ頭を光らせるように窓から身を乗り出して怒鳴る。
その遠吠えを聞きながら、ロディとピノの胸の靄は晴れた。
他人の不幸は、自分の人生をすこしでも幸せに見せてくれるから──。
スラム街からイースト通りに行くには、河に掛かった橋を渡るか、半日かけて川幅の狭い場所へ移動するか、渡し船に乗るしかない。渡し船には金がかかるし、仲介料を払ったばかりのロディとしては遠慮したいところだ。半日? 今日は早く帰るんだとロディは鼻で笑った。
となるとスラム街を横断するように掛かる鉄橋だが、問題はある。
スラム街の真上にある橋だからといって、スラムの人間も使えるようにと造られたわけではないということだ。
真っ赤な橋梁は二段構造になっており、上段は道路、下段はオセオンの地下鉄に合流する線路が通っている。上段には歩道もあるが、このままでは自転車を背負って橋脚をよじ登る必要が出てきてしまう。
ロディが選択した移動方法は、結局渡し船にした。河で違法の漁をしている船頭に自転車をプレゼントしてたった数分の快適な船の旅を手に入れた。
オセオン市へと潜り込んだロディは、観光客と一級市民たちの賑やかさを避け、裏通りで暇を潰すことにする。
太陽が真上にまで昇っているのに、それでも日陰になるような細い通路。入り組んだ裏通りでロディは壁に寄りかかってすごした。
(あの時間で依頼があったってことは、夕方とかじゃないと思うんだけど……)
不安はあるが、依頼主がわからない以上遅刻するわけにはいかない。
そもそも彼が引き受けた【仕事】もマフィア絡みだ。
受け取って届ける。
典型的な受け子だ。今回はイースト通りであるため、おそらくは盗品か現金、人間や希少動物という可能性もあるだろうか。これがオセオン空港であれば最悪だった。どの国の空港でも警察犬が吠える持ち込み物を運ぶような仕事になる。
──仕事。
自転車を漕ぎながら家族から受け取ったネクタイを指で弾いた。
サラリーマンだと嘘をついている。部下はいっぱいいるし、嫌な上司もいるんだと嘘をついている。パソコンなんて、この数年触れたことすらない。
麻薬を運んだこともある。顔中殴られて動けないような中年男性を運んだこともある。
それでだれかが死んだとしても、もう振り返らないことにした。
家族のためだ。
生きるためだ。
──このことを考えているとき、なぜかピノは姿を消していた。
一張羅のコートは、すでに丈も合っていない子ども用のものだ。ボタンは全部千切れて消えたし、袖口も細かく布切れになっている。
ズボンも裾が足らず踝まで見えているし、靴も靴底が【落ちない】ように布で縛っている。そしてそれぞれ当て布で穴だけは隠されているような、身綺麗とは言えない状態だ。
(こんな格好の仕事って……笑えるな。ロロとララは、いつまで信じるかな……)
もっと常識がついたら、彼らにも理解できてしまうだろう。
自分の兄が、ヴィランの手先になって悪さをしていることを。
(クソ親父……)
──限界は、近い。
二時間もそうしていただろうか。
昼時をすぎて腹の虫が鳴き始め、ロディがバーのマスターの禿げ頭を思い出し悪態をついたときだった。
大通りに繋がる路地から女性の悲鳴が聞こえてきた。
何事かと通路から顔を出すと、個性を使って通り抜けるリーゼントの男と目が合った。
「頼む!」
竜巻のように身体を捩じり上げて風を生み出すヴィランから、銀色のアタッシュケースが投げられた。
ロディはよたよたと受け取った衝撃に耐えながらもう一度通路を確認しようとしたが、すぐに裏通りが氷で覆われ、そしてリーゼントの男を追いかけるヒーローらしき影を見た。
(クソ、しくりやがったな)
となれば時間もない。ブツがなんなのかは不明だが、ヒーローの目的はロディが抱えているケースだろう。
後ろを気にしながら通りを抜けようとするが、途中ヒーローと目が合った。緑色のコスチュームでカールヘアの少年だ。間抜けそうな顔でロディを見ている。距離は十分、逃げさせてもらう。
(人間じゃなくて助かったけど、この軽さはなんだ? 宝石か?)
リーゼント頭には見覚えがあった。アフロのヴィランと一緒に行動するヤンキーだ。銀行を襲うような度胸はなく、宝石や高級時計のタタキをするチンピラである。
入り組んだ路地を抜けて、アパートとホテルで覆われた広場を抜ける。人混みを抜けたは良かったが、歩行者信号が赤になってしまい無理やり突っ切ると、急ブレーキを踏んだ車からクラクションが鳴らされた。
「カルシウム取れよな!」
運転手に手の甲を向けたピースサインを向けられたので、悪態とにやけ面で対応した。そのまま真正面のアパートメントの階段を駆け上がる。中華街に向かうなら、屋根の上が一番の近道だからだ。
「あっ」
トン、トン、と振動を感じて下を見れば、さきほどの間抜けそうなヒーローが階段の手すりで跳躍しながら近づいてきていた。
ピノが勇敢にも飛び上がったヒーローの顔へ体当たりをする。
「へへ、残念でした!」
哀れヒーローは高さ七階部分から地面へと落下。ピノと合流したロディは階段を上りきる。
屋根から屋根へ移動していると、ピノが警戒するように鳴き始めた。
振り返ると、緑色のコスチュームが目に入る。
「しつけぇなっ」
そんな粘りに敬意を払い、すこし本気を出そうじゃないか。
ロディは与えられた銀のアタッシュケースを円盤投げのように放り投げた。その勢いを殺さぬように、身体を大きく前へ倒し、前傾姿勢のまま加速する。
ビルの屋上の端に手を付いて前転するように身を投げ出した。
隣とのビルの距離およそ六メートル。空中でくるりと前転したロディは、余裕をもって隣のビルへと飛び移り、降ってきた鞄を受け止める。そのころには飛び移った衝撃は抜けていた。
それでも、なお走り続ける。
背後のヒーローが個性を使用してきたためだ。身体強化かと思いきや、黒い紐状が噴出され行き先を塞がれる。
ロディは、それらを余裕をもって見ていた。
前方の障害物に身を乗り上げ転がり、ヒーローの個性は次の障害物を使って射線を切り、その障害物は滑走して避ける。
看板のパイプを使ってフェイントをかけ、背面走りをしながらヒーローをおちょくる。
調子に乗りすぎたのか、運悪くも置かれていた椅子に座り、背後へ転がってしまった。
まだ相手は逃がす気はなさそうだ。
「そんなら!」
べつのアパートのベランダへと飛び降りて、いくつかの窓を叩く。反応したのは一つの窓だけだったが、急に開いた窓にヒーローは姿勢を崩していた。
追いかけっこは続く。
パイプを消防士のように滑り降り、ヒーローが追いついたと思ったらそこから建物をよじ登って、洗濯ロープを滑車のように使い対面の建物へと移動した。
階段の手すりを滑りながら振り返ると、あのヒーローの姿はない。撒くためにだいぶ遠回りをさせられることとなったが、ロディは勝ち誇った。
「この俺を捕まえようなんて、百万年早いっつの!」
ロディは頬と歩調を緩めて通りへと出た。ヒーローの影はないと背後を振り返りながら横断歩道を渡っている、そんな最中──。
彼の真上を走っていた高速道路から、急ブレーキが聞こえてきたと思ったら、明らかに事故の音が響いてきた。そして高速道路の防音壁が破れ、瓦礫が降り注ぐ。
あまりの出来事に一瞬で余裕を失くしたロディは、右へ左へと移動しながら前方へ跳躍した。降り注ぐ瓦礫に怯え、頭部を守るように身体を丸めてやり過ごす。
目を開けると周囲には瓦礫の山。もうすこし飛び込んでいれば頭が瓦礫に潰されていただろう。ピノも心配そうに鳴き声をかけてきたため、自分自身に言い聞かせるように声をかける。
「だ、大丈夫──あっ!」
握り締めていたアタッシュケースが──あった。瓦礫を避ける最中に手放していたらしい、転がっている銀のアタッシュケースを拾い上げ、ロディは走り出す。
「時間に遅れちまう」
焦燥に駆られた。荷物を受け取ってからすでに二十分は経過している。おまけにここから走れば二十分はかかるだろう。十分程度の道のりを四倍? 相手はマフィアだ、どうなるか、わかったものではない。
ロディは周囲を見渡し地下鉄へと走り出す。追われていないよなと周囲を見渡したタイミングで、屋根から降ってきたヒーローと目が合った。
あの緑色のコスチュームのヒーロー。
(しつこすぎる!)
「待て!」
「待って待って待って!」
制止する声を振り切って、いままさに扉が閉まりそうな地下鉄へと潜り込む。気疲れしてしまってピノとともに床に倒れ、呼吸を整えた。
ゆっくりと立ち上がり、心の余裕を取り戻す。地下鉄は進みだした、あとは適当な駅で降りればいい。
必要経費の申請はどこに出せば良いのやら。
「ろくでもねぇ日だな……。せっかくの一張羅が台無しじゃねぇか。それもこれも、全部あのヒーローのせい──あ……あんなヒーロー、ここらの管轄にいたっけ?」
肩に止まったピノが、とぼけ顔でロディから視線を逸らせた。
跳躍に黒い遠距離攻撃、おまけに子どもだ。見覚えも聞き覚えもなかった。
「まあいっか、もう会うこともねーし」
なんて、楽観的に物を言ったあと瞬きを一度だけ挟むと、ガラスを親指で擦ったような音が聞こえてきた。
音の方向を見れば、ガラス越しにこちらを睨みつけて来るヒーローと目が合った。
ロディは地下鉄という密室で、日本のヒーローの【デク】に追いつかれてしまった。
次の駅で降りた二人は、好奇の視線に晒されながら、問答を繰り返す。
適当に質問に答えるロディの視線は、電子時刻表と一体になって天井から吊り下げられた時計に集中していた。
現在、十一時二十六分。
(ここから出て五分、移動で十五分……。荷物を受け取ってから──ダメだ、完全に遅刻してる。ヤバい……ヤバいよな)
鞄の中身を見られてもアウト。このままこの場に拘束され続けてもアウト。
ロディの立場は、決して良い状況にあるとは言えなかった。
「なんで追いかけてくんだよ!」
「どうして逃げたの?」
「仕事で急いでたんだよ!」
「なんの仕事?」
「商談だよ、商談。こう見えても、やり手の営業マンなんだよ。仕事の邪魔、しないでくれるかな?」
誤魔化せるとは思ってもいないが、案の定ヒーローからケースの中身を見せるように要求される。
「いくらくれる? 見たいなら、金払うの当然だろう?」
「中身をたしかめるだけだから──」
「あんた、この国のヒーローじゃないよな?」
ヒーローの表情が引き攣り、ロディは鼻で笑った。
(バレていないと思ったのかよ。そんなアメリカ丸出しの発音、だれも教えねーっつーの)
「よその国で勝手にヒーロー活動していいわけぇ?」
言い淀むデクに、ロディはさらに言葉を加えた。聞き取れるのかと馬鹿にする気持ちを含めながら。
「権限もないのに、命令しないでくれるかなぁ? それとも、一方的に追いかけられて尋問されたって警察に通報するー? しちゃおうかなー?」
言い返させないヒーローに、ロディの自尊心は十分に満足した。
「わかってもらえて嬉しいよ。そんなにヒーロー活動したけりゃ、自分の国でするといい」
別れの挨拶を交わしたつもりだったのだが、デクはもう一度ロディに追いすがった。
「──待って」
「……まだなにか?」
「ケースの中を見るだけだから」
「見たきゃ金払え」
「払うから見せて」
「十万ユール」
「高すぎる」
妥協などできるはずがない。ロディはデクに掴まれた腕から逃れようと必死に力を籠めたが、彼の必死だ。しまいには、鞄を奪おうとする始末。
お互いアタッシュケースの両端を握り締めて力を拮抗させる二人だったが、先に手を離したのはデクのほうだった。ロディの頼もしき相棒、ピノがデクへと体当たりをしたためである。
結果、急に反発する力を失ったロディとデクそれぞれが大きく背後へと転がり、ケースは空中を回りながら駅構内の床に叩きつけられた。
カラカラと安い音を立てながら転がる音を聞いて、二人はすぐさま立ち上がってお互いを押しのけながらケースの元へ走っていく。
マフィアによる粛清だ、家が洩れれば家族にも被害が及ぶ。ここでヒーローに捕まってしまえば、あのリーゼント頭ともどもどうなるかわかったものではない。
(やばい! もし見られたら! やば──……い)
「「……え」」
二人の動きが同時に止まる。
転がったアタッシュケースはロックが外れてしまって、開いてしまっていた。
その中身は決して金銀財宝でも、高級腕時計でも、まして麻薬でもない。
書類と筆箱、そしていくつかの手帳が姿を見せていた。
デクが掠れる声でロディに問いかける。
「……宝石は?」
アタッシュケースの中身を聞かされたロディの未来は、非常に暗いものだった。
「本当にすみませんでしたー!!」
地元ながら、お世辞にも綺麗とは言えない駅の床に額をこすり付けるヒーローに、こんな状況でもロディは感動を覚えていた。
(すっげぇ! これがジャパニーズDOGEZA!──やってる場合か!)
周囲の視線を集めていることでロディは気を持ち直す。加えてすでに十一時半も過ぎている。
「まー、疑いが晴れて良かったよ。ヒーローだって間違いの一つや二つしちゃうこともあるっしょ……」
引き攣った笑みで、それでも声が震えないように努力しながら、ロディはアタッシュケースの中身に思考を巡らせる。
このヒーローはたしかに「宝石は?」と口にした。ケースの中身が見えたとき、隠されているかもと中身をひっくり返しながら確認したが、二人揃ってなにも見つけることができなかった。
デクとしては勘違いでロディを追い詰めたことを土下座で詫びているが、ロディはそうもいかない。たとえヒーローからどのような謝罪を受けようとも、マフィアに間違えた荷物を持っていく間抜けな運び屋など、控えめに言って殺される。
リーゼントのヴィランが奪う獲物を間違えたのか、それとも──。
(もしかして、あのとき?)
追いかけて来るデクから逃げ切って、高速道路の事故に巻き込まれたとき。
ロディの脳内には、舞い上がる土煙の中に【消えていく】アタッシュケースと、煙の中から【出てくる】アタッシュケースが映っていた。
死と捕まる恐怖とで忘れていたが、たしかにあのとき、ケースがまるで二か所にあるように感じていたのを思い出す。
(取り違えたー!?)
血の気が引いて汗が噴き出す。身体の震えは頭痛が原因か否か。
もはやヒーローなどどうでもいいと、ロディはそそくさと立ち去った。
(まずい! 早くあの場所に戻んねーと! でもケースあるか? だれかに拾われて中身見られたら確実にネコババされっだろ! 相手はヴィランだ! 失くしましたじゃ済まねーぞ! どうすんだ、どうすんだ俺ぇ……)
「あの!」
「──ひぃっ!?」
緊張しすぎて身体が強張り、頭にひっかけておいたサングラスが、目元までずり落ちて来る。ちらりと振り返るとデクが立っていた。ロディを心配して追いついてきたのだろう。
「身体、本当に大丈夫?」
「ああ!? なんでもねーよ!」
ヒーローに頼る。そんな選択肢は、ロディにはなかった。理由は──。
パトカーのサイレン音でもう一度身体が震えた。通りすがった警官だけならいいが、あきらかにロディを目標としているように、何十台と地下鉄の入り口に集まってきている。
(警察!? なんで!? 準備良すぎだろ!!)
「両手を上げてその場に伏せろ!!」
警官の怒声がロディに向けられる。いや、それどころではない。銀色に鈍く光る銃口もロディに向いていた。一つや二つではなく、警官隊が半円に組んでロディを狙っている。
パニックになったロディは、いつのまにか尻餅をついていた。
「お……俺……!」
ロディと警官隊の射線を塞ぐように、デクは庇うように前に出た。
──それでも、ロディの口から出たのは、【嘘】だった。
「俺っ、なんも盗ってねぇから!」
本当だ、信じてくれ、なにも盗ってない。ただの受け子だ、悪いことなんてしていない。嘘なんかじゃない。
「止まれー!!」
「許可は出ている! 撃てー!!」
ロディは真横を通り抜ける弾丸が見えた気がした。後ろを振り返ろうと考えるまでに、何発もの発砲音が聞こえてくる。
(いやだ、死ぬの、やだ──)
ロロとララの笑顔が脳裏に浮かぶ。
腹部に強い圧迫感を受け、そして浮遊した感覚に包まれた。
「前見て! 歯を食いしばって!」
それは、デクの声だった。
左手でロディを支えながら《黒鞭》でワイヤーアクションを現実にするヒーロー。ロディは感動より先に、発砲時のノズルフラッシュしか映らないことに絶望を覚えている。
さきほどのパルクールでの追いかけっこが児戯のような移動速度。人を一人支えているとは思えないほどに力強い。
デクも必死だ。《ワン・フォー・オール》を身に纏い、さらに《黒鞭》を使っての高速移動。おまけに自分よりも体格の良い少年を抱きかかえている。
警官隊が出揃った広場を抜けて、大通りの空中で振り子のように《黒鞭》をしならせる。
パトカーはすぐに追跡を開始したためすこしでも距離を空けたかったが、残念ながら集中力が先に切れた。
裏通りに逃げ込んですぐに《黒鞭》を解除して、停まっていたトラックの荷台へと着地する。トラック幌を突き破り、積んであった花をクッション代わりにしてしまう。
(まだ追ってくる!)
すぐにサイレン音が裏通りに響き渡り、《黒鞭》とフルカウルを同時発動。まだ《黒鞭》を扱えるようになって日が浅い。すでに限界は見えている。
デクは、オセオン国の市内のおおまかな地図は暗記済みだ。その中で距離を保てそうなルートは多くない。
裏通りを抜けると、そこは切り立った崖だった。市内を一望できる高度から、最適解を見つけて屋根から屋根へと移動を開始。
「ひゃぃぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
崖に設置されたフェンスぶつかったパトカーを皮切りに、次々と衝突してかたまりになっていくパトカーを見ながら、ロディが上げた奇声は歓喜か、恐怖か。
すくなくとも電車の天井に辿り着いた頃には、彼は精魂尽き果てていた。
「はぇ……はぇ……はぇ……死ぬかと、思った……」
からからと鳴る喉でどうにか呼吸を繰り返すロディ。
デクは警官がいきなり発砲をしてきたことに戸惑いを隠せずにいたが、ロディとピノとってはもはやどうでもいい。ちょうど行先はスラム街。家族を連れてスラムを離れることしか考えていなかった。
デクに発砲への心当たりを聞かれたが、ロディは昏い目で無視をした。強いストレスで外界を遮断している。ショック状態ではないだけマシだろうか。
電車は河を渡るため、高速道路と合流。車道が上段、線路が下段の見慣れた鉄橋へと差し掛かった。
──そして、追撃。
殺気を感じたデクが周囲を警戒すると、対岸より個性で放たれたと思われる矢を見つけ、すぐさま《エアフォース》での迎撃を選択。風ですら行先を変化させる軽い矢だ、《エアフォース》の強い風圧を受ければ、案の定、明後日の方へ飛んで行った。
「──っ!?」
デクがロディを抱きかかえてほか車両の屋根へと移動。さきほどまでロディが座っていた場所には、デクが弾き飛ばしたはずの矢が刺さっていた。
(追いかけてきた!?)
それどころか、その矢はあり得ぬ力で動かされているように、穴から抜け出そうとしている。
──さらにもう一射されたことを、フルカウルで強化されたデクの目は捉えていた。
(矢の個性! 追尾矢の、クロスボウ、弓、アーチェリー……だめだ、情報が足りない。警察と同じように彼を追ってる? それとも警察が?)
再び《黒鞭》での移動を開始したが、電車は遮蔽物としては使えなかった。追加で射撃された矢を避ければ、人が乗っていることなどお構いなしに車両へ矢が突き刺さっていく。
車両の中の悲鳴が、割れた窓ガラスから聞こえてきた。
デクは電車から離れて橋から飛び出した。
ロディは眼下に広がる青が、空なのか河なのかすらわからず運ばれるままだ。
「追いかけて来るー!!」
悲鳴を上げるロディを抱え、次々に襲い掛かる矢を避けるため《黒鞭》を遠慮なく使用。
塔の天辺よりも高く跳び、反対側へ落下。しかしそれも読まれて──、
塔の壁面へ着地した衝撃、度重なる高速移動、ストレスまで加わってロディが気を失った。途端にロディの重心がズレてデクの腕の中からずり落ちてしまう。
「しまった!」
矢を避けながらデクも落下し、車道に足を突くほどの紙一重でロディとアタッシュケースを拾い上げるも、さらに追撃は続く。
今度は、警察のパトカーだった。
追跡と個性による攻撃。
デクは諦め、ロディを抱えたまま橋から飛び降りた。
EURU(ユール)
欧州連合で流通している共通通貨。オセオン国の法定通貨かもしれないけど、ユーロがどうなったのかはわからないために共通通貨とする。ずっとユーロだと思ってた……。
ロディがバーのマスタースタンリークに渡した600ユールは、ユーロで計算すると9万円近くになります。空港を経由【しない】違法薬物の運び屋が20~30万円程度だと仮定すれば妥当な金額設定になるでしょうか。知識不足で考察が伸びませんでした。