2005年の年の瀬。
和樹は中学三年生になった。
中三の冬といえば、大抵の日本人は受験生として勉強に勤しんでいる時期である。
和樹も例に漏れず、第一志望である川神学園合格に向けてそれなりに勉強していた。
英語ができないだとか、数学が分からないだとか騒ぐ同級生と同じように、古典を覚えることに意味はあるのかと嘆きながら忙しなく過ごしている、とある放課後。
「るーらるるーらるすーさむしむず...」
すでに使われていない言語を覚えることに疑問を呈したところで、受験科目にある以上は覚えざるをえない。
古典の教科書を片手に、和樹は暗記用の歌を唱えながら帰路を歩いていた。
冬にしては暖かな日だ。
風一つなく、空は真っ青に染まる快晴。軌道が低くなってきた太陽が十分な熱を地球に与えてくれている。
こんな日は陽当たりの良い場所で昼寝でもしたいもんだと嘆息していた時。
和樹の前に、オレンジ色の道着を着た、とある無頼漢が立ち塞がった。
「貴様があの武神と並び立つという六角和樹だな? 俺は
有無を言わせず、男は和樹に飛びかかる。
が、教科書から目も離さず、和樹は男を一蹴した。
「む、無念......」
「矢武さーん!!!」
謎の喋る猫が男に駆け寄る。
そこで初めて、和樹は教科書から視線を外した。
「喋る猫......まぁ、そんなこともあるか」
驚く素振りを見せたのも一瞬。
すぐに興味を無くし、再び教科書に目を落とす。
ここ半年程、こういった輩が増えてきていた。
というのも、和樹と日々鎬を削っている川神百代が「武神」の座に襲名されたからだ。
世間での評価として「和樹と百代は同程度の実力ではあるものの、百代の方が強い」というものが下されていた。二人の決闘を百代が勝ち越しているから下された評価だ。故に、武神に挑む前に和樹を倒して景気付けようとしている輩も少なからずいるらしい。
中には純粋に和樹へ挑んでくる者もいるが、八割以上は対武神の前哨戦扱いをしてくる。そのことを、和樹はとても腹立たしく思っていた。
本来、向かってくる敵には礼節を以て応えるべきだが、今のような相手には見向きもせず叩き潰すといった無礼を働いている。先に失礼な態度を取ったのは相手だからという言い分だが、これは和樹が正しいだろう。
「六角和樹とお見受けする。鶴亀流・
「て、天さぁぁん!!!」(謎の白顔少年)
今日も今日とて平和である。
◇◇◇◇◇
場所は変わり、川神院鍛錬場。
いくら受験生とはいえ、修行も疎かにはできない。週に三回ほどはこうして川神院に足を運び、鍛錬に励んでいる。
今は、先の決闘擬きで逆に溜まってしまったフラストレーションを発散するため、百人組手を行っている途中だった。
「次」
ちょうど五十人目を投げ飛ばし、続く門下生に来るように言う。
和樹の実力としては、とうに師範代クラスを超えている。ただ、川神流を極めたわけではないため、院の中では門下生と同じ扱いだ。
それでも、現武神・川神百代と互角に戦える和樹との戦闘は得るものが多いらしく、ほかの門下生たちも喜んで組手の相手をしてもらい、時には指導を受けていた。
「次はアタシよ!」
門下生とはいえ、表では日本トップクラスの実力を持つ者が犇めくのが川神院だ。
そんな彼らを五十人も相手してなお、息すら上がっていない和樹に、薙刀を握りしめた川神一子が向かっていく。
組手と銘打たれているが、これは川神流の組手。空手とは違い、武器の使用が認められている。もちろん、刃の潰してあるもの限定だが。
一子は薙刀を軽快に振り回し、和樹の脳天目掛けて思いっきり振り下ろした。
刃引きされているとはいえ、まともに当たれば痛いでは済まない。当たり所が悪ければ死ぬことだってもちろんある。
だが、和樹に恐れなどの感情は一切見られない。一直線に向かってくる薙刀の腹を裏拳で弾き、一子の手首を左手で掴み、空いた右手で胸ぐらを掴んで、そのまま背負い投げの要領で地面に叩き付けた。
肺の空気が一子の意志に反して外に吐き出され、一時的に行動不能になる。
組手において、それで一子の敗北は決定された。
「甘い。直線的すぎる。っていうかワン子は勉強しろ。本当に川神学園落ちるぞ。はい、次」
軽く注意だけし、また次の相手を呼ぶ。
次は槍の使い手だったが、武器を蹴り上げ、無手になったところを掌底で吹き飛ばした。
「次」
もはやどちら側の荒行か分からない。
痛みで蹲る門下生の山を見ながら、師範代として組手の監督役をしていたルーは呆れたようにため息を吐いた。
◇◇◇◇◇
「ありがとうございました」
『ありがとうございましたッッ!!!』
百人組手が終わり、さらにもう一周も終わった後。
二百戦もすれば、さすがの和樹も汗くらい流す。それをタオルで拭き取り、道着から制服へ着替え、さあ帰ろうとしているところに、一子が駆け寄って来た。
「和樹、もう帰るの?」
「うん。体は十分動かせたし」
「ならアタシも途中まで一緒に行くわ! 走り込みしたいから!」
「お前はマジで勉強しろ」
「夜にやるわ!」
絶対寝るだろうな、と思いながらも、しぶしぶ一子の同伴を認める。
一子の鍛錬に対する情熱──否、百代の高みにまで至ろうとする妄執のような強い想いを和樹は知っていた。鍛錬を止めろとは強くは言えない。
和樹と別れるまで、一子も歩く。愛用のタイヤは浮き輪のように腰に据えていた。
そんな一子を横目に、和樹は古文単語の辞書を開く。
「和樹最近、隙があればそれ見てるわよね。面白いの?」
「いや全く。けど勉強はしなきゃだし」
「? 和樹頭いいし、そんなに頑張らなくても合格できるんじゃない?」
「まぁ合格くらいならね。けど俺、Sクラス目指してるから」
「えー!? なんで!?」
「まぁ、親友の頼みとか、いろいろあって」
和樹の親友、九鬼英雄の頼み、というよりは強要だ。
曰く、自分の友であるならSクラスにくらいなってみせろ、と。これは英雄のみならず、その姉、九鬼揚羽にも言われたことだ。
和樹は二人のことを憎からず思っているし、Sクラスになって損をすることはほとんどない。
加えて、京都にいる幼馴染みは一足先に高校生になったのだが、その幼馴染みから、西の武の頂点に立つ学校でSクラスに該当するクラスに入ったと連絡を受けていた。
それに負けるわけにはいかないと、今こうして励んでいるのである。
「うー...じゃあ高校では違うクラスになっちゃうのね...」
「ワン子もSに入ればいいんじゃね?」
「アタシが入れると思う?」
「やってみなきゃ分かんねーじゃん」
何事にも恐れず立ち向かい、諦めず努力できることが一子最大の長所だ。
「ま、ワン子はその前に合格だよね」
「わん......ご褒美ないとイマイチやる気が...」
合格が十分ご褒美だろ、と思いながら、物欲しそうな目でチラチラ見てくるワン子に嘆息する。
「ちゃんと合格したら一体一で修行付けてあげるよ」
「ほんと!? やったー! アタシ頑張るわ!!」
何がそんなに嬉しいのか、一子は、ブンブンと揺れる尻尾が幻視できるほどの勢いで喜びを表現する。
「ゆーおーまいしーん!!!」
その勢いのまま、一子は夕日に向かって走り出した。本当に犬のようだと、和樹はだんだんと遠ざかっていく一子の背中を眺める。
「...元気なのはいいんだけど、夜ちゃんと勉強できんのかな」
翌日、案の定疲労ですぐさま寝てしまったと言う一子に、和樹は本気で心配を露わにした。
オリ主くん、Sクラス目指すってよ。