あの頃のアナタはまだ、今ほど私を知らなくて。
それでも私は、アナタは、どうしてか気持ちを逸らすことができなかった。
「どうしたんだ、ボーッとこっちを見たりして」
「あ……いえ、別になんでも……」
放課後いつものように、トレーニング後に空き教室でトレーナーさんに珈琲を振る舞っていました。
カップを温め、サイフォンで淹れて、渾身の一杯をトレーナーさんにお出しする。
それが日々のルーティーンです。
それは決して、ただトレーナーさんを労っているだけではなく。
「このところ、時々上の空みたいに見えるよ。何かあった?」
「ん……あったといえばありましたし……けれど別に大層なことでは……」
「困り事ならすぐ言ってくれよ、いくらでも助けになるから」
アナタはすぐにそういうことを言う。
だから私は困っているんです。
自分の分の珈琲を口に運びます。
けれどアナタの隣だと、味なんて全然分からない。
折角淹れた渾身のブラックも、アナタの横ではすっかり甘くなってしまって。
会話が途切れ、再び私はこっそりとトレーナーさんを見ます。
美味しそうにカップを口に運ぶ姿を見ていると、それだけで心が満たされていきます。
カップを置いて笑顔で息を吐くアナタは、世界のどんな絵画よりも美しくて。
その姿が見たいばかりに、私は毎日珈琲を振る舞っていて。
不埒でしょうか。
イケナイでしょうか。
でも私は、これ以上は望みません。
私は不浄の身。
人ならざる者に取り憑かれている身。
私がずっとお傍にいては、トレーナーさんにもご迷惑をかけてしまいます。
だから……私はいいんです。
指導していただくこの数年間、隣に座って、こうして珈琲を淹れてあげられれば……。
その後はこの想い出を抱いて、どこかで静かに過ごしていられれば……。
「カフェ、寂しそうな顔してるよ」
「え……?」
トレーナーさんが私の長い前髪を掻き分けながら言いました。
そんなつもりはなかったのですが……私も大概、未練がましい女のようです。
「やっぱり。また何か考え込んでるだろう」
「……それは、私も思春期ですから色々と思うこともあります」
私は想いに気付いたとき、心に決めました。
この切ない想いは隠したまま、いずれアナタの元を去ろうと。
「そっか、ごめんな。変に踏み込もうとして」
「いえ……お気遣いいただけるのは、嬉しいです」
また、会話が途切れます。
少し気まずい空気に困り果てて、窓の外へ目を遣ると。
「あ……雪……」
白い結晶たちが、ふわりふわりと舞い降りていました。
もう今は年の瀬の十二月も後半に入り、恋人たちが心を躍らせる時期です。
クリスマス。
私にはあまり縁のないイベントですが。
ですがどうしても気になってしまって。
つい、口に出して聞いてしまいました。
「トレーナーさんは……クリスマスはどう過ごされるんですか……?」
聞いてから、しまったと思いました。
どうせ自分から何か言い出すつもりもないのに、聞くだけ聞いてどうするつもりなんでしょうか、私は。
これでトレーナーさんが言葉を濁したり、いい人との予定を楽しそうに話したりしたら……。
「クリスマスなあ……スーパーのチキンの売れ残りでも買って、一人で晩酌でもするかな」
「……よかった……」
「え? 酷くないか?」
「あっ、いえっ、その……」
安堵が口から出てしまって。
それを聞いたトレーナーさんは、少し悲しそうな顔をしています。
ごめんなさい、そんな意図はなかったんです。
慌てふためいて私は、取り繕うようにとんでもないことを呟いてしまいました。
「その……でしたらクリスマスの夜、私が何かお作りしましょうか……?」
「えっ、うちで?」
「……あっ……!」
クリスマス当日、トレセンではパーティが開かれます。
そのためキッチンなどを借りることはできません。
そうなるとご馳走するなら必然的に、トレーナーさんの部屋に……。
言ってからその状況に思い当たり、私は真っ赤な顔を伏せました。
「いえ、ご迷惑ですよね……忘れてくださ――」
私はいつものように、想いを内に閉じ込めて話を終わらせようとしたのですが。
トレーナーさんは目を輝かせて、私の手を取りました。
「迷惑なんかじゃないよ。カフェさえ良かったら、お願いしてもいいかな」
「あの……いいんですか……? 私なんかとクリスマスを過ごして……」
トレーナーさんの予想外の食いつき具合に、私は戸惑いました。
トレーナーさん自身も自分の行動が恥ずかしくなったのか、表情を少し赤くして手を放しました。
「わ、悪い、がっつくみたいに……これだからモテない独身男性は……」
トレーナーさんは必死に釈明していましたが、私の胸中はそれどころではありませんでした。
想い人に喜ばれ、手を取られ。
頬は火傷しそうなほどに赤熱し、生まれてこれまで経験したことのないような激しい動悸に、胸を押さえることしかできませんでした。
「そしたら……カフェ、クリスマスの夜……いいかな……?」
「……は、はい……」
恐る恐る訊ねるトレーナーさん。
恐る恐る答える私。
「……好物とか、ありますか……?」
「ムール貝とかタコとか、魚介は好きだな……」
「ふふ……ターキーとかではないんですね」
「それはそれで食べたいな。あと、ブッシュ・ド・ノエルとか……」
「ならお休みを申請して……朝から一生懸命準備しないと、ですね」
そんなことを話しているうちに、お互いに少しずつ照れや緊張も解れてきて。
二人で顔を見合わせて、小さく笑いました。
「あー、でも俺の部屋、煙草臭いかも。女の子は苦手だよな」
「いえ、私は気にしませんよ。喫茶店で漂っている煙の香りも嫌いではありませんから」
「そう?」
「トレーナーさんが吸ってるところ、どうせなら見てみたいです」
クスリと笑うと、トレーナーさんは少し困ったように。
学生、しかもアスリートの前で煙草はなあ……と頭を掻きました。
想い人の姿は、どんなものであっても見つめていたいんです。
「外泊許可を出しておかないと……」
「泊まってくつもりなのか?」
「……あっ……!?」
自然と、泊まるつもりになってしまっていました。
でも、仕方ないじゃないですか……。
聖夜に想い人の家へ招待されて、沢山の手料理を作ってご馳走して、食後は珈琲を淹れてゆっくりと団欒を……。
そんなの……そんなの、そのまま一緒に夜を過ごすと、思ってしまうじゃないですか……。
「えっと、その、ですね」
「でも確かに準備も大変だろうし、そのまま夕食食べたらハイさようなら、ってのも悪いな……綺麗な布団用意しておくから泊まっていくかい?」
「え? あ、はい……」
何故かすんなりと受け入れられてしまいました。
ただ口ぶりからすると、気になる異性に向けるような言葉ではなさそうで……。
安心すればいいのか、残念がればいいのか。
なんとも形容しがたい思いです。
ですが、それはそれで。
元より想いの成就を願っているわけでもないですから。
こんな幸せな偶然が訪れただけでも、私は感謝しなければいけませんでした。
「……うん、自制しろよ俺。変なことするなよ……」
「え、変なことって……?」
「い、いや何でもない! 安心してくれカフェ!」
慌てて取り繕うトレーナーさんを見て、私は少しだけ、期待を抱いてしまいました。
……もしかしたら……私の想いも、もう少しだけ夢を見てもいいのかもしれない、と。
そのとき、見えない隣人からトンと肩を押されました。
油断していた私は押されるままに、トレーナーさんに寄りかかってしまって。
慌てて姿勢を戻そうとしたのですが、トレーナーさんは何も言わず、静かに肩を抱いてくれました。
その労りが、ただの優しさなのか、私への想いなのかは分かりません。
けれども私の心はそれだけで静かに穏やかに、幸せで満たされていって。
「……楽しみです、トレーナーさん」
「うん、今年は暖かいクリスマスになりそうだ」
飲みかけの珈琲は冷めていましたが、一口飲むと。
砂糖もミルクも入れていないのに、温かく甘い味がしました。
学生時代の前日譚。
しっとりオトナなカフェも、学生時代は純情な乙女だといいなと思う学会の者です。
こちらが論文となります、ご査収下さい。