喫茶店『マンハッタン・カフェ』   作:fell@かぶとがに

3 / 5
あの頃の私はまだ、今ほどアナタを知らなくて。
あの頃のアナタはまだ、今ほど私を知らなくて。
それでも私は、アナタは、どうしてか気持ちを逸らすことができなかった。


マンハッタンカフェの純情

「どうしたんだ、ボーッとこっちを見たりして」

「あ……いえ、別になんでも……」

 

放課後いつものように、トレーニング後に空き教室でトレーナーさんに珈琲を振る舞っていました。

 

カップを温め、サイフォンで淹れて、渾身の一杯をトレーナーさんにお出しする。

それが日々のルーティーンです。

 

それは決して、ただトレーナーさんを労っているだけではなく。

 

「このところ、時々上の空みたいに見えるよ。何かあった?」

「ん……あったといえばありましたし……けれど別に大層なことでは……」

「困り事ならすぐ言ってくれよ、いくらでも助けになるから」

 

アナタはすぐにそういうことを言う。

だから私は困っているんです。

 

自分の分の珈琲を口に運びます。

けれどアナタの隣だと、味なんて全然分からない。

折角淹れた渾身のブラックも、アナタの横ではすっかり甘くなってしまって。

 

会話が途切れ、再び私はこっそりとトレーナーさんを見ます。

美味しそうにカップを口に運ぶ姿を見ていると、それだけで心が満たされていきます。

 

カップを置いて笑顔で息を吐くアナタは、世界のどんな絵画よりも美しくて。

その姿が見たいばかりに、私は毎日珈琲を振る舞っていて。

 

不埒でしょうか。

イケナイでしょうか。

でも私は、これ以上は望みません。

 

私は不浄の身。

人ならざる者に取り憑かれている身。

私がずっとお傍にいては、トレーナーさんにもご迷惑をかけてしまいます。

 

だから……私はいいんです。

指導していただくこの数年間、隣に座って、こうして珈琲を淹れてあげられれば……。

その後はこの想い出を抱いて、どこかで静かに過ごしていられれば……。

 

「カフェ、寂しそうな顔してるよ」

「え……?」

 

トレーナーさんが私の長い前髪を掻き分けながら言いました。

そんなつもりはなかったのですが……私も大概、未練がましい女のようです。

 

「やっぱり。また何か考え込んでるだろう」

「……それは、私も思春期ですから色々と思うこともあります」

 

私は想いに気付いたとき、心に決めました。

この切ない想いは隠したまま、いずれアナタの元を去ろうと。

 

「そっか、ごめんな。変に踏み込もうとして」

「いえ……お気遣いいただけるのは、嬉しいです」

 

また、会話が途切れます。

少し気まずい空気に困り果てて、窓の外へ目を遣ると。

 

「あ……雪……」

 

白い結晶たちが、ふわりふわりと舞い降りていました。

もう今は年の瀬の十二月も後半に入り、恋人たちが心を躍らせる時期です。

 

クリスマス。

私にはあまり縁のないイベントですが。

 

ですがどうしても気になってしまって。

つい、口に出して聞いてしまいました。

 

「トレーナーさんは……クリスマスはどう過ごされるんですか……?」

 

聞いてから、しまったと思いました。

どうせ自分から何か言い出すつもりもないのに、聞くだけ聞いてどうするつもりなんでしょうか、私は。

 

これでトレーナーさんが言葉を濁したり、いい人との予定を楽しそうに話したりしたら……。

 

「クリスマスなあ……スーパーのチキンの売れ残りでも買って、一人で晩酌でもするかな」

「……よかった……」

「え? 酷くないか?」

「あっ、いえっ、その……」

 

安堵が口から出てしまって。

それを聞いたトレーナーさんは、少し悲しそうな顔をしています。

ごめんなさい、そんな意図はなかったんです。

 

慌てふためいて私は、取り繕うようにとんでもないことを呟いてしまいました。

 

「その……でしたらクリスマスの夜、私が何かお作りしましょうか……?」

「えっ、うちで?」

「……あっ……!」

 

クリスマス当日、トレセンではパーティが開かれます。

そのためキッチンなどを借りることはできません。

そうなるとご馳走するなら必然的に、トレーナーさんの部屋に……。

 

言ってからその状況に思い当たり、私は真っ赤な顔を伏せました。

 

「いえ、ご迷惑ですよね……忘れてくださ――」

 

私はいつものように、想いを内に閉じ込めて話を終わらせようとしたのですが。

トレーナーさんは目を輝かせて、私の手を取りました。

 

「迷惑なんかじゃないよ。カフェさえ良かったら、お願いしてもいいかな」

「あの……いいんですか……? 私なんかとクリスマスを過ごして……」

 

トレーナーさんの予想外の食いつき具合に、私は戸惑いました。

トレーナーさん自身も自分の行動が恥ずかしくなったのか、表情を少し赤くして手を放しました。

 

「わ、悪い、がっつくみたいに……これだからモテない独身男性は……」

 

トレーナーさんは必死に釈明していましたが、私の胸中はそれどころではありませんでした。

 

想い人に喜ばれ、手を取られ。

頬は火傷しそうなほどに赤熱し、生まれてこれまで経験したことのないような激しい動悸に、胸を押さえることしかできませんでした。

 

「そしたら……カフェ、クリスマスの夜……いいかな……?」

「……は、はい……」

 

恐る恐る訊ねるトレーナーさん。

恐る恐る答える私。

 

「……好物とか、ありますか……?」

「ムール貝とかタコとか、魚介は好きだな……」

「ふふ……ターキーとかではないんですね」

「それはそれで食べたいな。あと、ブッシュ・ド・ノエルとか……」

「ならお休みを申請して……朝から一生懸命準備しないと、ですね」

 

そんなことを話しているうちに、お互いに少しずつ照れや緊張も解れてきて。

二人で顔を見合わせて、小さく笑いました。

 

「あー、でも俺の部屋、煙草臭いかも。女の子は苦手だよな」

「いえ、私は気にしませんよ。喫茶店で漂っている煙の香りも嫌いではありませんから」

「そう?」

「トレーナーさんが吸ってるところ、どうせなら見てみたいです」

 

クスリと笑うと、トレーナーさんは少し困ったように。

学生、しかもアスリートの前で煙草はなあ……と頭を掻きました。

想い人の姿は、どんなものであっても見つめていたいんです。

 

「外泊許可を出しておかないと……」

「泊まってくつもりなのか?」

「……あっ……!?」

 

自然と、泊まるつもりになってしまっていました。

でも、仕方ないじゃないですか……。

 

聖夜に想い人の家へ招待されて、沢山の手料理を作ってご馳走して、食後は珈琲を淹れてゆっくりと団欒を……。

そんなの……そんなの、そのまま一緒に夜を過ごすと、思ってしまうじゃないですか……。

 

「えっと、その、ですね」

「でも確かに準備も大変だろうし、そのまま夕食食べたらハイさようなら、ってのも悪いな……綺麗な布団用意しておくから泊まっていくかい?」

「え? あ、はい……」

 

何故かすんなりと受け入れられてしまいました。

ただ口ぶりからすると、気になる異性に向けるような言葉ではなさそうで……。

 

安心すればいいのか、残念がればいいのか。

なんとも形容しがたい思いです。

 

ですが、それはそれで。

元より想いの成就を願っているわけでもないですから。

こんな幸せな偶然が訪れただけでも、私は感謝しなければいけませんでした。

 

「……うん、自制しろよ俺。変なことするなよ……」

「え、変なことって……?」

「い、いや何でもない! 安心してくれカフェ!」

 

慌てて取り繕うトレーナーさんを見て、私は少しだけ、期待を抱いてしまいました。

……もしかしたら……私の想いも、もう少しだけ夢を見てもいいのかもしれない、と。

 

そのとき、見えない隣人からトンと肩を押されました。

油断していた私は押されるままに、トレーナーさんに寄りかかってしまって。

 

慌てて姿勢を戻そうとしたのですが、トレーナーさんは何も言わず、静かに肩を抱いてくれました。

 

その労りが、ただの優しさなのか、私への想いなのかは分かりません。

けれども私の心はそれだけで静かに穏やかに、幸せで満たされていって。

 

「……楽しみです、トレーナーさん」

「うん、今年は暖かいクリスマスになりそうだ」

 

飲みかけの珈琲は冷めていましたが、一口飲むと。

砂糖もミルクも入れていないのに、温かく甘い味がしました。




学生時代の前日譚。
しっとりオトナなカフェも、学生時代は純情な乙女だといいなと思う学会の者です。
こちらが論文となります、ご査収下さい。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。