渡されたライターに詰まった、重い香りの火つけオイル。
歳を重ねた私なら、きっとアナタの想いも受け止められるから。
窓から差し込む光を眩しく思いながら目を覚ましました。
毛布から出ると、やけに寒い。それが最初の感想。
「……そのまま寝ちゃったんだった」
全身の気だるさに気づくと、夜の熱が思い出されて。
改めて自分の姿を見てみると、それは寒いわけです。
ベッドの中には疲れた表情で毛布に包まり、寝息を立てている夫の姿がありました。
「ハードなトレーナー業で疲れてるのに、昨夜は無理をさせちゃいましたね……」
頬を撫でると寝言で名前を呼ばれながら手を握られ、少し引っ張られました。
全く、甘えん坊な旦那様。
そんな元トレーナーさんが愛おしくなって、ちょっと頬が緩んで。
けれどもここでまたベッドに潜り込んでしまってはお昼まで起きれないかもしれません。
心を鬼にして、優しくその手を解きます。
落ちていた夫のワイシャツを借りつつ最低限の衣類を着て。
二階の居住区から一階の喫茶店フロアへと階段を降りると、足元がみしりと軋んで。
木製の階段が鳴らす音は、この建物の年季を思わせます。
お店を始めるときに決めていました。
営むのは、その土地と人々と共に生きて、見守り続けてきた場所にしようと。
私の名声をご存知の不動産店からは好立地の新しい物件を強く勧められましたが。
静かに思いをお伝えすると、秘密の場所だったここをこっそりと教えてくれました。
朝の目覚めは、穏やかな一杯から。
お店に降りると、お友だちがカウンターに突っ伏してうたた寝をしていました。
「おはよう。何か飲む?」
軽く揺すって声をかけると、お友だちは片目だけ開けてこちらを見て。
そして眠そうに首を左右に振ると、再び目を瞑って微睡んでいきました。
夫もお友だちも、どちらかというと朝に弱い二人。
朝、一人でのんびりと一杯を嗜むのも日常の光景です。
サイフォンに水を入れ、アルコールランプに火をつけます。
沸騰するのを待つ間に、お店の換気をしようと窓を開けました。
窓際の低木の葉に朝露が煌めきます。
少し湿った冷たい空気が朝の訪れを告げるとともに、未だ少しぼやけていた私の意識を刺し覚醒させていって。
ふと店内の柱時計に目を向けると。
時刻は七時を回るか回らないか、といったところでした。
「少し寝坊しちゃった……飲んだらシャワーを浴びて、早くお店の準備をしないと……」
けれども、自分の時間も忘れずに。
開けた窓の枠上にカウンターから持ってきた灰皿を置き、煙草を咥えて火をつけます。
朝はマッチではなく、普通のガスライターで。
切れかけのライターはかちり、かちりと火を出し渋りましたが。
手のひらで風を遮り祈るように横車を回し押すと、小さな小さな灯火が点きました。
その僅かな火を受けて、煙草の先端が微かに赤くなります。
その小さな火を育てるように、大きく一息。
窓から少し身を乗り出して無味の煙を朝の空気とともに吸い込むと。
土が混ざった水や葉の香り、近隣の古い建物から漂うモルタルや錆の匂いなど、この住宅街の一角が私の胸の中へと入り込んできます。
私は、この穏やかで少し古い住宅街が好きです。
華やかさは時に煩さも感じますが、ここは喧騒とは隔絶されていて。
しかしところどころから伝わる人々の息遣いが、寂しさは感じさせなくて。
それらと、この朝の一服を通して一体になるのが私の毎日のルーティーン。
そうすることで夜を終えて、今日も私は私でいられる。
そんなことを考えていると、背後からみしり、みしりと階段を降りる音が聞こえました。
降りてきたのは部屋着を身に着けた夫。
「ふあ……おはよう、カフェ」
「おはようございます。今日は起きるの、お早いんですね……お休みなんだから寝てていいのに……」
「カフェが起きる気配がして目が覚めちゃってね。二度寝しようかとも思ったんだけど……」
「……さっき、起きてたんですか?」
「手を解かれちゃって少し寂しかった」
小さく笑って、夫はカウンターのサイフォンに目をやります。
釣られて見てみると、そろそろ沸騰しそうな様子でした。
「今淹れますね」
「ああ、まだ吸い終わってないんだろう? のんびりしてなよ」
そう言って夫はサイフォンのロートに、カウンター裏に置かれた缶から珈琲粉を入れました。
自分たち用に常備している深煎りのオリジナルブレンドです。
流石に何年も生業にしている私ほどではありませんが。
現役時代から私と珈琲を嗜んでいた彼が淹れる珈琲の味もなかなかのものです。
気遣いを嬉しく思いながら再び窓の外に目をやり、煙草と町の空気を吸いました。
徐々に陽も登り始め、窓を開けた頃に比べて少し眩しくて。
今日は快晴。私は少し苦手な天気。
けれど、嫌いではありません。
喫茶店が薄暗く落ち着ける空間なのは、外が照らされ輝いているからこそ。
漆黒の摩天楼が影たり得たのは、照らしてくれる光があったからこそ。
その光は今、眠そうな顔で、登ってきたお湯と珈琲粉をのんびりと混ぜていました。
「もう一杯分沸かそうか」
「いえ……それで足りるから大丈夫ですよ」
「俺も飲むけど、二人分には少なくないか?」
「まあまあ……」
短くなった煙草の火を消して。
カウンターへ戻りフラスコに珈琲が下がり切るのを待って、二杯のカップに珈琲を分けます。
冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、ブランデーとラム酒と砂糖も少し加えて。
「どうぞ、コーディアルです」
「朝からアルコールかい?」
「ほんの少しですよ……たまにはこんな休日もいいでしょう?」
窓の傍の席にカップを運び、灰皿をテーブルに移してからトントンと指で卓上を叩きます。
少し悪戯っぽく笑うと、夫も苦笑いしつつ向かい側の席につき、カップを口に運びました。
「はあ、甘いな……疲れが少し落ちた気がするよ」
「もっと欲しければおかわり、ご用意しますけど……」
「いや、のんびり飲むよ。開店時間は大丈夫?」
「昼からの営業にします……常連さんには申し訳ありませんが、モーニングはお休みです」
「なら安心だね」
私も一口、こくんと飲みます。
爽やかなオレンジの甘みの中に、ほろ苦いブランデーとラムの香り。
煙草の先のように、頬が微かに赤く灯るのを感じます。
夫が再びカップを口に運んだとき。
部屋着の袖がめくれ、腕が露わになりました。
そこには赤黒くくっきりと残る、複数の噛み跡。私が自分を律しきれず、本能のままに荒れた結果が刻まれていて。
痛々しいそれを見て、私はバツが悪くなりました。
「……昨夜はすみませんでした。腕、まだ痛みますか……?」
「少しだけね。ここのところ忙しくてなかなか帰れてなかったし、寂しかったんだろう?」
「一人で何年も過ごしていたときに比べれば、その程度は……」
カップを両手で包んで耳を伏せる私の頭を、夫は昔のようにぽんぽんと撫でてくれました。
「俺は素直なカフェが好きだよ」
「……正直、大切にされている担当の子に少し嫉妬してしまいました」
「よく言えました。荒っぽいカフェも嫌いじゃないよ。今日は店も手伝うから、一緒にゆっくりしようか」
「ええ……」
私ももういい大人なのに、この人の前ではどうしても幼くなってしまうときがあります。
きっと十年経っても何年経っても、子ども扱いされてしまう気がして、少し悔しくて。
伏し目がちに二本目の煙草に火をつけようとしているのは、僅かばかりの反抗心かもしれませんでした。
ですが、今度はいつものマッチでつけようとしたとき。
「ああ、ちょっと待ってくれ」
「なんでしょうか……?」
擦ろうとした手を止め、マッチをテーブルに置くと。
「これ、貰ってくれるかい」
彼のポケットから目の前に差し出されたのは、錆びた古いオイルライターでした。
蓋や外装のない、クラシカルな見た目のワンタッチ式。
発火部に少し迫り出すように刻印されているのは、鈍く黒光りする摩天楼。
「これは……」
「親父の形見で愛用してたんだ。昔、マンハッタンで買ったんだと。最近はあまり使ってなかったんだけど」
持ってみると、不思議と手のひらに馴染みました。
大きさのせいなのか、刻印されているシルエットのせいなのか……。
「でも、そんな大切なものを貰うわけには……」
「もう結婚もしてるのに今更何言ってるのさ」
笑われて思い出しました。
子ども扱いされて、つい現役時代の気分に戻っていましたが。
私はこの人の伴侶。
生涯、いつまでも隣を歩いていく相手。
だからこそ、こんなに大切なものを私にくれる。
胸の奥がぽかぽかと暖かくなっていくのを感じました。
「お袋ともそこで出会ったそうだ。カフェの名前といい、不思議な縁を感じないか」
「そうですね……このライターを私が持つのにも、何か意味があるような気がしてきました」
「だろう?」
また寂しくなったらこれで一服してくれ、と。
そんな夫の言葉に、そんなことしたら尚更寂しくなるじゃないですか、と内心思いました。
……ですが恐らく近い未来、私はその言葉の通りになってしまいそうで。
ライターの手入れをしながら彼を想う、自分の姿が脳裏をよぎります。
「今日は点けてもらっても良いですか……?」
「貸してごらん」
差し出した手から、夫がライターを取りました。
煙草を咥えて顔を突き出すと彼も上半身を乗り出し、火を灯します。
薄暗く少し埃臭い店内の一角が、にわかに明るくなりました。
鼻孔をくすぐるように漂うオイルの匂い。
小さくも激しい炎に混ざった新しい気配を感じながら、オイルライターの火と最愛の人の顔を重ねて見つめます。
私の視線に気付くと、彼は煙が立ち始めたのを確認して。
すぐにふいと目を逸らしてしまいました。
「くすくす……どうしたんですか、アナタ」
「すっかり大人なんだな、カフェも……表情にどきりとした」
最近はアナタも素直ですね。
そんなアナタが、私も大好きです。
何十年もの月日と愛しい人の想いが入り交ざった重い香りを、口から静かに吐きます。
それが伝播したのでしょうか。
見つめ合う互いの顔は、熟れ始めた果実のように少しだけ紅潮していて。
「……やっぱり今日はお店、お休みにすることにします」
「吸ったら二階に戻ろうか」
「ええ……そうですね……」
それはきっと、先程のアルカホールのせいだけではありませんでした。
しっとりオトナなカフェは、儚くも強いと思う学会の者です。
こちらが論文となります、ご査収下さい。