その姿は、私に懐かしい光景を思い出させて。
たまには火を消して、甘いひとくちと共に、ゆっくりと語らいを。
郊外の住宅地にある、小さな商店街の隅の隅。
そこに佇む年季の入った木造建築で私が営んでいるのが、喫茶店『マンハッタン・カフェ』。
地元の常連さんを中心に、のんびりと不定休の営業をさせていただいています。
「今日はもう……お客さんは来なさそうかな……」
通常の閉店時間よりは少し早い時間。
お客さんがはけたこともあり、閉めてしまうことにしました。
お友だちにドアの看板をぱたんとCLOSEに変えてもらいます。
自分の珈琲を淹れるためにコンロに火を点け、懐から一本の煙草を。
夫から貰ったライターで火を灯すと、オイル特有の重厚な煙が口内と肺を満たします。
仕事終わりに深くリラックスするときは、少し重めのひと口を。
たまにはシガーを試してみてもいいかもしれません。
葉巻は、少し重すぎるかな……。
などと思っていたとき。
カランコロンと音がしてドアが開き、制服姿の少女がおずおずと入ってきました。
「ええっと……お邪魔しまーす……?」
右目を前髪で隠し、短髪に後ろ髪だけが長い、見覚えのある少女。
確か、この子は……。
「って、CLOSEになってるじゃねーか!? スンマセン、俺帰ります!」
私とCLOSE看板を交互に見比べながら、早口でまくし立てて帰ろうとする少女。
つい、くすりと笑いが漏れてしまいました。
「大丈夫ですよ……どうぞ、こちらへ」
「いやでも、もう片付けとかしてるじゃないっすか」
「お一人くらい構いませんよ……折角ですから、今日最後のお客さんに」
「そ、そう言ってもらえるなら……」
学生さんに煙を吸わせるわけにもいかないので、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けます。
少女は店内をキョロキョロと見回しながら、如何にもこういったお店には慣れてない風で。
そんな若い様子に、再び笑みが溢れました。
私に促されてカウンター席に座ると、少女はそわそわと落ち着かない様子でした。なので……。
「甘いものはお好きですか?」
「へ? 嫌いじゃないっすけど……」
「ならこちらをどうぞ……残り物ですみませんが……」
差し出したのはアップルパイ。
行きつけの喫茶店のマスターに教えていただいたレシピで作りました。
「いや、えっと……実は俺、あんまお金が……」
「気にしないでください、今日はお代は結構ですから」
そして、私もカウンター内の椅子に腰掛けて、目線を同じ高さにして。
「……悩み事、よかったら聞きますよ」
「……スゲーっすね……なんで顔見ただけで、俺が悩んでるって分かったんすか……」
少女は頬をぽりぽりと掻きながら、驚いたように私を見ました。
そしてどう切り出そうかと暫く逡巡してから、ため息をつきながら言葉を続けました。
「俺、トレセン生なんすけど……相棒……あ、トレーナーと喧嘩しちまって」
「喧嘩……ですか」
「そうなんです、ダービーに出るか、オークスに出るかで……」
少女はひと口、アップルパイを口へ運びます。
ですが心ここにあらず、といった様子で、無言、無表情で噛み締めていました。
「俺はダービーに出たいって言ったんすけど、相棒はオークスの方が適正も勝率もあるって言って、互いに譲れなくなって」
少女はフォークを置き、再びため息をつきました。
「相棒が言ってる方が理に適ってるのは分かってるんです。俺がダービー出たいって言ってるのも、ただ単にそっちの方がカッケーって思っただけで。ファンのみんなとか応援してくれてる人のことも考えると、少しでも勝ちが狙える方に出るべきじゃねーかとは俺も思ってて」
ぽつぽつと語る少女の表情に、現役時代を思い出していました。
私は幸いにも適正と目標がそれなりに一致していたため、当時トレーナーさんと揉めたことはありません。
ですが、間に合わずに諦めた春のクラシック戦線のことを思うと、少女が抱える理想と現実の揺らぎが、どうにも他人事には思えなくて。
「ダービーで勝った先輩とかダービーを夢見てる後輩とか見て、俺もああなりてー!とか思ったけど……俺にはさ、そんな信念っつーか、覚悟みたいなものが本当にあるのかなって……相棒と喧嘩してからずっと、夜も頭から離れなくて……」
そう言いながら天井を仰ぐ少女。
目を瞑り、思いあぐねるように眉間にしわが寄っています。
ダービーに出るか、オークスに出るか。
それだけ聞くと唯一つのレースの選択に過ぎませんが。
彼女は今きっと、今後の自身のレース観にも直結する、重要な、大切な考えを巡らせていました。
そんな少女を見ていると、お節介かもしれませんが、どうしても、力になってあげたい気持ちが沸々と湧いてきました。
「……やっぱ俺、オークスに出るべきなのかな。ライバルみてーなヤツもいるし、やっぱりファンには少しでも高確率で夢を見せてやりてーし……」
そう言葉を続けながら、少女は諦めの色を浮かべました。
夢を追いかける若人が、最もしてはいけない表情。
私はそれを見て、どうにも放っておけませんでした。
「ちょっと待ってもらえますか……?」
帰ろうとしているのか、慌ててアップルパイに伸ばされた手を、そっと止めて。
疑問符を浮かべる少女の前で席を立ち、コンロで火にかけていたマキネッタを手に取りました。
ぽこぽこと音が鳴っており、丁度いい時間を迎えたことを教えてくれます。
火を止め、抽出された深く濃い色をした珈琲を、デミタスカップに注ぎました。
「どうぞ……エスプレッソです」
少量が注がれたカップを差し出すと、少女は少し渋い表情をしました。
「エスプレッソって滅茶苦茶苦いヤツっすよね? 飲めたらカッケーけど……」
「苦手でしたら……こんな風に」
傍らの小瓶から角砂糖を取り出します。
それをデミタスカップに、一つ、二つ、三つ……。
「ちょちょちょちょっとマスター!? そんなに入れたら甘くなっちまう!」
「ふふ……イタリアではこうして飲む方も多いんですよ」
「え?」
「さぁ……どうぞ……」
戸惑いつつも私に促され、まだ角砂糖が溶け残っているカップを手に取り、少女はひと口、こくり。
「……苦いけど、甘いっす」
一度カップをカウンターに置き、少女はしみじみと呟きました。
深い色をした液面に落ちた自身の影をぼうっと見つめています。
「格好良いですよね……深く濃いエスプレッソをくいっと飲む姿は」
私も、もう一つのデミタスカップに自分の分のエスプレッソを注ぎます。
私の角砂糖は一つ。スプーンで混ぜて軽く溶かし、溶け残りをすくって口へと運びました。
少女にもスプーンを渡し、目線で促します。
スプーンを受け取った少女も溶け残った砂糖を恐る恐る舐めると、僅かにですが表情が緩みました。
「……私はいいと思いますよ、『カッケー』でダービーに出ても」
少女が目を見開き、唖然とした表情で私を見ました。
「確かに私たちウマ娘の走りは、世間や記録に向けたものでもあります。ですがアナタの先輩や後輩もそうであるように、一番はアナタ自身のためなんですよ」
「でも、俺は先輩たちみたいに、ダービーに全てを懸けようと思ってるわけじゃ……」
「そこまでの信念が、いつも必要になるわけではありません……」
もうひと口、エスプレッソを口に含みます。
殆どの角砂糖が溶け入り、その味は熟年の大人の苦味から、若いファッショナブルな苦味へと変わっていました。
「勝てるとは限りません。勝率は下がるかもしれません。負けて失望されるかもしれません。アナタ自身、選択を後悔するかもしれません」
私はかつての現役時代、G1のゴールを駆け抜けたときを思い出しながら。
勝ったとき、負けたとき。喜びや悔しさを思い出しながら。
「ですがそんなことはダービーに限らず、これからアナタにずっとつきまとうんですよ……天皇賞だろうがジャパンカップだろうが有マ記念だろうが、展開を誤って負ければ批判されますし、走者自身もあのときこうしていれば、の繰り返しです」
つい、懐の煙草に手を伸ばしそうになってしまいました。
流石に学生の前で吸うわけにはいかず、自分を諫めて手を引きます。
「けれど、クラシックは一生に一度です。ダービーで負けようがオークスに出なかろうが、死んだり引退させられたりするわけじゃないんですから。それくらい、アナタの思いつきの我を通していいんです」
私たちは、傀儡ではないんですから。
私たちは、それぞれの想いを目指す、ただ一人のウマ娘なんですから。
「それに……『カッケー』というのは案外、他者に大きな夢を与えるものですよ……エスプレッソをスタイリッシュに飲む姿も、単車を颯爽と駆る姿も、憧れるでしょう……?」
「ッおぉっ!? そうだよな! 大型でバルバル排気音鳴らしながら走ってんのマジでカッケーし俺もぜってーいつか……!」
と、少女は興奮気味に声を上げてしまったのが恥ずかしかったのか、勢いよく立ち上がったものの、そのまますぐに赤面して腰を下ろしました。
「……ふふ……きっと、それがアナタの魅力ですよ」
「俺の魅力?」
「ええ……小賢しい駆け引きを抜きに、溌剌たる姿で走り抜ける……そんな真っ直ぐなダービー勝利を見せられて、魅せられない人はいませんよ、ウオッカさん」
「えっ、なんで俺の名前を知って……」
私が笑いかけると少女は返答しかけて、すぐに何かを察したように表情が変わりました。
私の顔とカウンター奥に架けられた店名看板を何度も見比べながら、あわあわと口を押さえます。
「『相棒さん』にはよく言っておきますから……私が走れなかったダービー、きっと取ってくださいね……?」
くすりと笑うと、少女は狐につままれたような表情で、再び顔を真っ赤にして俯いてしまいました。
「さぁ……アップルパイと珈琲、よく合いますよ……」
「……本当に、美味いっすね……」
改めて噛み締めたアップルパイは、今度はきちんと甘かったみたいです。
少女は複雑な表情をしつつも、次第に美味しそうな笑みを浮かべました。
「ありがとうございます……俺、やっぱりダービーに行くって、相棒に言います」
「ええ……頑張ってくださいね」
納得し、覚悟を決めた少女の表情を見て、私は安堵しました。
どんな星の下のめぐり合わせか、私のところへは時折、このような悩める子たちが訪れます。
そのたびに可能な限りの手助けをしてあげたいとは思うのですが、必ずしも思うようになるばかりではなくて。
今日はきちんと向き合えたようで、私は静かに息を吐きました。
「また悩むことがあると思います。そのときは、今日のエスプレッソを思い出してください」
「エスプレッソを?」
「イタリアのお洒落で格好良く見える人々も、苦いものばかり飲んでいるのではなく、実は甘い砂糖が大好きだ、ということを」
見かけと中身が伴わなければならないわけではない。
その人その人ごとに歩むペースがあり、それは何者にも侵される謂れはないこと。
そして大義名分は物事の本当の価値ではなく、アナタの思うように進んでいいこと。
言葉にはしませんでしたが、少女が嬉しそうにカップを眺める姿を見て、きっと伝わっていると確信できました。
「色々とありがとうございます。でも奢られるだけもなんだし、何かお礼とかしたいんすけど……」
「なら、そうですね……」
何がいいでしょうか。
どうせなら彼女のダービー出走を後押しできるような……。
あまり深く考えず、私はぽろっと口にしました。
「私に子どもが産まれたら……『カッケー』ダービーウマ娘として、ヒーローになってもらいましょうか」
すると少女は笑みを輝かせ、胸を張って叫びました。
「お、おおお……おおお!! ソレ、最高にカッケーじゃないっすか!! 俺、絶対勝ちますから!!!」
私が思った以上に、彼女の心に響いたようです。
そんな初々しい姿を見て、私も少し、胸が熱くなってきました。
この少女は、見る人を惹きつける。
あの人が担当しようと思った理由も分かる気がします。
「今度は金持ってまた来ます! それじゃあ!」
「ええ……またのお越しを……」
自前の満面の明るい笑顔を浮かべ、少女は外へ飛び出していきました。
それと同時に、背後からこそこそと忍び寄る足音。
私は呆れが混ざった息を吐きながら、振り向かずに声をかけました。
「……ちょっと大人げないんじゃないですか……『相棒さん』」
「うん……俺が悪かったな……」
申し訳無さげに現れたのは、トレセン学園でトレーナーを勤める夫。
私の元トレーナーさんでもあります。
「トレーナーとして実益に頭が行ってしまうのも分からないではないですが……彼女の想いをきちんと汲み取ってあげてください……」
「はい……はい……反省してます……」
しょぼくれた顔で俯く夫。
ですが、私の小さな怒りはそれだけではありません。
「それと……ちょっとこっちに来て、袖をまくってください」
「ん? 袖?」
歩み寄ってきた夫が、袖をまくって腕を私に差し出します。
私は一瞬夫の顔を睨むと、その腕を掴んで少し強めに噛みつきました。
「痛っ! か、カフェ!?」
いきなりの襲撃に驚いた表情。
しっかりと所有物の証である痕を残してから、私はもう一度恨めしく睨み、そっぽを向きました。
「……家に担当の子との痴話喧嘩を持ち帰るなんて……私がどんな気分だと思ってるんですか……」
「あ……」
やっちまった、といった表情で固まる夫。
許してあげません。
私はそれなりに嫉妬深いんですから。
そんな態度を露骨に見せると、夫は顔を青くして平謝りをしてきました。
「ごめん……ほんとごめん……」
そんな情けない姿を見ていたら、仄かな怒りもふっと消えてしまって。
代わりに、少しだけ意地悪な私がこっそりと現れました。
「なら、今日はいっぱい我儘を聞いてください」
「はい」
「美味しい夕食作ってください」
「はい」
「優しく甘やかしてください」
「はい」
「私以外の人の話をもうしないでください」
「はい」
「それと……」
私は、先程の少女の姿を思い出して。
少し羨ましく、あの頃が懐かしくなって……。
「……今日は寝るまで、私のトレーナーさんでいてください……」
「っ……」
服の裾を引き、まだ初心な少女だった頃を想いながら。
トレーナーさんのことを考え、日々動悸が収まらなかった頃を想いながら。
黄色い瞳で、愛しいトレーナーさんを見上げました。
トレーナーさんは堪りかね、照れを隠すように私を抱きしめて。
「……なら、今日はもう禁煙、アルコールもなしだね」
「ふふ……はい……」
流石にもう、制服や勝負服には袖を通せませんが。
当時の私服は、もしかしたらまだ着られるかもしれません。
そんな甘い想いを抱えてトレーナーさんと寄り添っていると、背後からドアが軋む音がして。
二人してそちらへ目をやると、鼻を押さえた先程の少女と、にやにやしているお友だちがこちらを見ていました。
「あ、えっと……マスターの妹さんが、忘れ物あったって教えてくれたんで……」
「お、おお……よお、ウオッカ……」
「相棒がフラフラしてたから追いかけてみたんだけど……ここ、相棒の家だったんだな……」
「こ、今後ともご贔屓に……」
「話に聞いてた通りいい人だな……相棒、奥さん大事にしろよ……」
「うん……忘れもんは明日渡すから帰っていいぞ……」
「おう……じゃ、また明日……」
少女は言葉少なに、再び去っていきました。
そんな姿を見送って、私は。
「いい子じゃないですか」
「うん……すごくいいヤツだよ……」
まだ距離感が掴めずドギマギしていたあの頃のように恥ずかしそうなトレーナーさんを、懐かしくも愛おしく見つめながら。
心の中でこっそり、少女に感謝していました。
アドバイスしつつも内心嫉妬もしちゃうカフェは可愛いな、と思う学会の者です。
こちらが論文となります、ご査収下さい。