朝方、黒いスーツと黒い手袋、黒い仮面という全身黒一色の格好をしたローランは片手に箱を抱えながら自身の家へ帰る為に足早に歩いていた
「フンフフン
アンジェリカとイナ、喜ぶだろうな
奮発して買った保管バッグもちゃんと機能してるし…熱々のパジョンを前にあいつら、涎を垂れ流すかもしれないな」
裏路地に買ったひとつの家、そこで待つ家族の様子を想像して父親たるローランの足取りは軽やかになる
鼻歌も混じえて早朝に帰ってパジョンと一緒に朝飯を用意してやろう、と意気込んでいると…どこからかピアノの音色が聞こえてきた
芸術に造詣が深くはないローランでも、その音色がどこか他のものとは違うことは理解した
その音色は途切れることなく曲を演奏しており、ローランが家へと足を進める度に大きくなっていく
嫌な予感が苗木のように芽生え、ローランの中で膨らんでいく
やがて不安に駆られるように早足だった足を回して走り出したローランは、9区に入るための関所の前に多くの人で溢れ返っているのを見つける
血を流し怪我をしている人も、体液を垂れ流し半狂乱している人も、暴れ狂い隣の人間へ暴力を振るう人も
狂気じみたその空間を、ツヴァイ協会の人間がなんとか抑え込んでいる
近くにいたツヴァイのフィクサーに声を掛けようとローランはその異様な空間へ近付いた
「な、なぁ、何が起きてるんだ?
9区に入りたいんだが…この状況は一体?」
「い、今9区に入ることは出来ません!正体不明の怪物が暴れています」
気の弱そうな青年がそう伝えるも、ローランは納得できない様子で問い詰める
「なんだよそれ…9区には俺の家があるんだ、家族もいる!頼む、一度家へ帰らせてくれ」
「そ、そう言われても無理です!今9区は厳重封鎖中で、上級フィクサーの到着を待っている状況なので…」
「どうかしたのカミュ」
のっぺらぼうな仮面を付けているローランの気迫に押されている青年の元へ、同じツヴァイの制服を着ている女性フィクサーが駆け寄る
「ジン…!助けてほしいんだ、この人が9区に入りたいって…」
「…大変申し訳ありませんが、9区には今ピアニストと認定された怪物が現れ、30万人もの9区の人が犠牲になっています
ご家族の身元を教えていただければ探して…あ、ちょっと!」
ローランは二人のフィクサーの静止を無視して人混みを掻き分け関所まで駆け出した
焦りから息が上がる、血が沸騰するよう、なのに手足はどこか冷たい
関所の入口のツヴァイフィクサーすら押し退け、封鎖されているゲートも黒手袋から取り出した剣で叩き斬ってしまう
ゲートが開けば、数段強い衝撃と共にピアノの演奏が聞こえてくる
背後で人々の狂騒が強まった気がするが、ローランにとって構うことではなかった
家の方へ駆けて暫く、窓ガラスが割れ壁にヒビが入り塀は崩れ去った彼の家が見えた
家の前に辿り着いたローランは仮面の奥で真っ青な顔になりながら手に持っていた保温箱を落とし、家の中へ入っていった
中は暗く、家の中に彼の家族の姿もない
逃げたのだろうか、という希望的観測は頭になかった
腐ってもフィクサー一家、それならどう動くのかは彼にはわかりきっていた
ローランは演奏の発生源へと向かう
心臓がドクドクと煩く、痛い
彼の家族は二人とも強い女だ、だから大丈夫、大丈夫と何度も頭の中で言い聞かせていた
崩壊した建物の影を進み、一際崩壊している空間へと辿り着いたローランは…目の前の光景を信じられずにいた
巨大なピアノ、それを奏でる多腕の巨人
そのピアニストの背後にて、力なく座り込みソレを見上げる家族の一人…イナの姿を見つける
「お…おい!イナ!大丈夫なのか!」
耳を抑え表情を歪ませながらイナへ駆け寄ったローランは、彼女に呼びかける
しかしイナは一点を見つめ、顔を青白くさせたまま動かない
「クソっ…なんなんだアレは…!」
イナの無事を確認したローランは、彼女が見つめるピアニストを見る
そのピアノは、よく見れば鍵盤や中の構成部品すら
30万、その命がピアノにされてしまったのだろうか
そして…ローランは周囲にもう一人の家族の姿が見えないことに気がつく
魂が抜けたようにピアニストを見つめるイナの視線に、ローランの心臓は一瞬止まったように感じられた
ローランもまた、ピアニスト…否、ピアノを凝視した
100m程先の、人で作られた鍵盤…その中に、見慣れた白銀の髪が見えた
「……は…?」
ローランは力が入らない足を引き摺りながら、ピアノへ歩み寄る
次第に見えてくる、ひとつの鍵盤…ひとりの人間
白銀の髪と黒いスーツは正しく彼の妻…アンジェリカの姿で、彼女の身体は大きな穴が開いている
微動だに動かないイナ、ピアノにされたアンジェリカ
歪な、気持ちの悪い演奏を続ける
ローランの理性はその瞬間、粉々に砕け散った
同時刻、9区に現れた怪物の討伐を命じられた特色…青い残響、アルガリアはツヴァイ協会のフィクサーから状況説明も受けずに9区へ入っていく
大切な妹、姪の住む場所である9区、その治安を守る…というよりもその大切な家族である者を保護する為アルガリアは音の発生源へと向かっていた
ずっと聞こえているピアノの音色、その演奏…それを聞いた瞬間彼は、「なんて美しい音色だろう」と息を吐いたものだ
それを間近で聞けるのは、一種の興味もあり…それが彼の全てを狂わせるなど当の本人は知る由もなかったのだ
「…これは」
アルガリアもまたピアニストの元へ駆け付けた時、その惨状を見てしまう
ピアノの一部となり怪物に叩かれ奏でられている妹の姿を
「………………は……?」
妹が、ピアノになっている
崩れた建物の上から見下ろしていたアルガリアが、最愛の妹の姿を見間違えるはずもなく
妹は確かにピアノとなり、音を奏でられている
「______」
その音色は、先程遠くで聞いていたものよりも確かにアルガリアの心を貫いた
美しく、軽やかで、まるで天使が降臨するかのような…賛美歌と讃えるべきその一曲をアルガリアは息を呑んで聴き入っていた
(アンジェリカ…ああ、アンジェリカ…アンジェリカ、アンジェリカ、アンジェリカ
まさか君が、君が音となり奏でられているなんて…嘘だ、嘘だと言ってくれ、いや、この音色は嘘じゃないんだ、この音は確かに君の音だ
君の、君だけが出せる音
なんて甘美で高潔で切なくて苛烈で…ああ…アンジェリカ…)
言葉を発せずにいたアルガリアは、離れた場所で呆然としているイナと…鬼神の如くピアニストへと迫るローランの姿も確認した
ローランはその手袋で周囲のピアノの音を消し去った
ピアニストは無音になったことで一瞬手を止め、その隙に彼はピアニストの手首を全て切り落とした
断末魔でも叫んでいるのだろうか
ピアニストは全ての腕を振り回し頭を抱えて鍵盤を乱雑に叩き散らしている
ローランは規則性を失ったピアニストに剣を突き立て、斬り裂いた
何度も
何度も
何度も
細切れ、とでも言うように切り刻まれたピアニストはやがて動きを止めた
そして、人間で作られたピアノもその形を保てずに崩落していった
雨が降り出した
優しい雨だった
どれぐらい時間が経っただろう
数時間かもしれないし、数秒かもしれない
ローランも、イナも、アルガリアも…ピアニストが死んでから動かなかった時が、ようやく動きだした
先に行動に移したのはアルガリアで、未だ心が戻らないイナの様子にアルガリアは顔色を変えることもなく一瞥し、崩壊したピアノへと足を進めた
ローランを横に通り抜け、人間の亡骸の山から鍵盤となって潰されたアンジェリカの遺体を掬い上げ、抱き上げる
「…アンジェリカ…」
アルガリアもまた目を見開き、無惨な姿となった妹を見つめた
アンジェリカを抱き抱えたまま死体の山から降りたアルガリアの前に、ローランが立ち塞がる
「…待てよ」
「どけよ、邪魔なんだ」
「どこへ連れていく気だ」
「妹を連れ帰るだけだ、お前は要らない」
「アンジェリカは俺の妻だ」
「アンジェリカが死んだのは誰のせいだ?
愛するなんて言っておきながら家族
その瞬間、両者による殺し合いが起きた
アンジェリカの亡骸を抱えたままのアルガリアを、ローランが一方的に殺しにかかっていた
ピアノの音が消えたことにより突入してきたツヴァイ協会のフィクサー達や上級フィクサー達に取り押さえられるまで、二人は殺し合いを止めることは無かった
…結果、ローランが抑えられた隙にアルガリアはアンジェリカの遺体を持ち逃げた
イナもローランと共に保護され、病院へと搬送された
……このピアニスト事件は、白夜黒昼と共に都市の歴史において凶悪な事件として刻まれることとなった