少女は、逃げたかった
魔女の呪縛から
青い残響の狂気から
積み上げた己の罪から
寄り添ってくれる苦痛から
逃げて、逃げて、逃げて…楽になりたかった
心を得て、ありもしない正義を掲げて、ひたすら走り続けた少女は…あの日、あの時、ピアノの音を前に脚を折った
今までのようにひたむきに走れず、崩れ落ち、ただ自分の罪を謝罪し続ける毎日
たった十年ぽっちの人生だが、少女にとって長く生き延びた人生…その中でとびきりの痛み
一度出来上がった大きな傷に…贖罪を求め更に傷を重ね、拡げていった
いつしか、苦痛以外の何もかもを感じることが出来なくなって…少女の心は壊れてしまった
逃げたかった
こんな苦痛から逃げ出したかった
けれど逃げることは叶わなかった
そんな矢先に舞い込んできた招待状と、そこで得られる本…それは、心が壊れた少女の目の前に落ちてきた一滴の希望だった
逃げられるかもしれない、そんな希望を胸に図書館に飛び込んできた少女は…気が付いてしまう
罪を自覚し、贖罪の為に更に罪を重ね…挙句の果てに逃げ出した、自分の醜さに
自分自身を嫌悪する、責任からの逃亡
元来の責任感の強さ故に引き起こされた自己嫌悪は…最悪な形で肥大化してしまった
…会いたかった恩人との再会
少女が心を得て幸福を自覚できるようになった、きっかけを作ってくれた
再会できて嬉しかった、生きていてくれた…その喜びが再び芽生えた瞬間、自分の醜さを思い出し、更に深い絶望へ叩き落とされる
一番尊敬する人に、一番醜い自分を見られてしまった…その瞬間、とうとう少女の中の何かが切れてしまった
唯一残っていた理性の糸、逃げたいという欲を押さえ込んでいた鎖
それが事切れた瞬間に…少女の自我は暴発した
その自我すら、紛い物の作り物かもしれない
魔女の花は檻となり、少女を閉じこめる
逃げ出すことは許されない、自分自身で囲いこんだ檻
飛ぶ鳥すら翼を封じられる鳥籠の中…少女は全てに怯えている
ああ、どうか、誰か私を赦してください
どうか、私を___
「触手一本沈黙!」
「こっちもあと一撃で無力化出来そうです!」
灰色の空の下、骨とスミレの大地の上
芸術の階の司書達はゲストである、ねじれかけたイナの接待をしている
スミレの檻に閉じ込められたイナと、その檻を守る四本のスミレの触手
各々がイナが保有する武器を駆使し、時には花の香りで司書達の精神に揺さぶりをかける
香りにより司書達に掻き立てられる…罪の意識
強い罪悪感が、司書達の心を追い込んでいく
「あぁ…クソッ」
「厄介な匂いっすね…」
カレン、オーウェンは罪悪感というものの経験が乏しいのか、あまり効いていない様子で触手へ攻撃を続けるが…カウレスとロイドは裏路地での記憶からか、攻撃が鈍くなっている
「大丈夫ですか」
「ハッ…これくらい、どうってことねぇよ」
「ならいいんです」
削り損ねた触手も、チームの連携で鎮圧する
強い罪悪感の香りは、ネツァクにだって作用している
しかし彼は、罪悪感を感じても…それが歩みを止める理由にならなかった
彼はとうの昔に悟っている
彼女への罪悪感は…彼女の祈りを歪めてしまった自分自身の問題
自分が自分を追い詰めてしまっていたことを
それを知っているから、彼は罪悪感に立ち向かえる
「よし、これで檻に近付ける…!」
「総攻撃ですね!うおー!」
「待て!早まるな!」
オーウェンが先行して檻に近付いた瞬間、ギョロりと檻の中のイナの目が彼を捉える
『アアァァ__________!!!』
耳が潰される程の甲高い悲鳴と共に、檻の花から黒い棘が伸びる
「危ねぇ!」
ロイドがオーウェンの首根っこを掴み、咄嗟に後ろへ引き上げる
鋭く長く伸びた棘はオーウェンの首や脚を掠め、生傷をつくる
更には…焼けるような痛みを引き起こす、毒が含まれている
「ぐぇぇええ!痛えっすチョー痛いです!!」
「無警戒に突っ込むからだ馬鹿!」
「これ、毒です…!」
「見たらわかる」
首と脚を押さえながら地面に倒れて悶えているオーウェンを横目に、スミレの檻を観察する
檻の棘は外側に伸びているが…それと同時に、一本内側に伸びていた
内側に伸びるということは、内側にいる者に突き刺さるということ
『痛い…いたい…苦しい…いやだ…こわい…』
檻の内側に伸びた棘はイナの腕を貫通し、緑色の血を流している
「自衛すると内側にも棘が伸びる仕組みか?」
「いや…外側に伸びたのとは別で、オーウェンを傷付けた直後に生えてきてたっすね」
「…ねじれは自我の在り方そのものです
罪悪…罪の意識、他者を傷付けると自らも傷を負う、彼女の精神性の在り方でしょう
諸刃の剣、と言う感じでしょうか」
分析した上で、ネツァクは考える
恐らく正攻法は…相手の攻撃を敢えて受けることで、相手にもダメージを与えること
こちらには幻想体の力で回復できるがイナは回復手段を持たない…どちらがより耐えられるかの我慢勝負になる
それが一番の攻略法
だがネツァクはそれを許容したくなかった
それなら、やはりなんとしてでも檻を壊して引き摺り出すしかない
「触手、活動再開しました!」
「また黙らせるしかないか…」
再び動き出した触手は、それまで使っていた「人間の武器」を捨て…檻同様の棘を伸ばして攻撃する
二本は無造作に全方向へ、二本は地中に潜み下から棘を射出する
少しでも掠めれば、檻の内側…イナに棘が突き刺さる
「きゃあ!」
カレンが防御できず、下から伸びてきた棘に肩を刺される
『わたしのせい…わたしがすべて悪い…』
二本目の棘に貫かれたイナは、譫言を呟き続ける
その様子に、痛みに晒され感情が高まったカレンは…
「そうです!私は貴方に殺されました!貴方のせいです!」
抱えていた鬱憤を吐き出した
「か、カレン先輩!?」
「おいおいキャットファイトは勘弁してくれよ…」
男達が困惑するのもお構いなしに、カレンは不満を叫び続ける
「L社の仕組みは詳しくわかりませんけど…貴方のもとに就いたのは入社初日の私でした
そんな新人の私を、貴方は案山子の盾にしましたよね…あれすっごく怖かったし痛かったんです!それを思い出してから社会科学の階に近寄れなくなったんですよぉ!あそこには仲良くしてくれた友達もいるのに…」
棘を叩き切って、怒りのままに触手を一本縦断する
「私は、変わった貴方を知りません…私にとってはずっと怖いレインさんのままですから…
貴方がそんなに苦しんでる事情なんて知りません!…自分がやったことに、被害者面だけはしないでください!
今の貴方より、あの頃みたいに堂々としていた貴方の方がうん倍もいいです!!」
「おお、言い切ったすね」
「カレン先輩かっけぇ~!なら俺も負けてらんないですね!」
オーウェンはE.G.Oページを取り出し、ポーキュバスの力を身に纏い、触手を一本破壊した
「見てくださいレインさん!あん時俺を殺した幻想体の力を、今度は俺が使えてるんです!
俺、L社で頑張ったんですよ!最終日まで生き延びれたんです!
たくさん痛いこと、怖いことあったけど…巣の中で安全で平凡な会社に入ったらこんな経験は得られなかったし…なにより、レインさんには会えませんでしたよね!
俺、今ここで…貴方とまた会えて嬉しいんですよ
また美味しいものの話、たっくさんしましょうよ!」
檻の中のイナの震えが微かに治まり、ゆっくりと頭が持ち上がる
視線は確実に司書達に向けられており、残る触手の動きも鈍くなっている
「効いてるみたいっすね、どうするっすか?」
「じゃ、次俺が行くわ」
懐に隠していた煙草に火をつけ、煙を灰いっぱいに吸い込むカウレスを、カレンとオーウェンが不満げに眺める
「あ!接待中に吸うなんていけないんですよ!」
「私達は毒ですごく痛いのに…」
「ガキ共に先越されちまったんだ、あとは俺らの番だ」
カウレスは自身の拳の骨を鳴らし、拳から噴き出る炎で周囲のスミレを燃やす
業火のリウ協会のコアは、やけにカウレスに馴染んでいる
「花相手ならよく燃えんだろ、来いよメンヘラ女…全部燃やしてやる」
針鼠のように棘を鋭く伸ばす触手に急接近し、カウレスは全ての棘を紙一重で回避する
そのまま触手を鷲掴みにし、拳の炎で燃やし尽くす
『あつい、あつい、あつい___!』
燃やされてもなお、掴まれた場所から短く大量の棘がカウレスの掌を貫く
肉も抉られ骨も砕かれ、毒が神経を過敏にさせ痛みがより強く脳髄へと走っていく…なのにも関わらず、カウレスは汗ひとつ流さず涼しい顔で触手を燃やし続ける
「おいレイン、俺はお前が大っ嫌いだった
お前には力があるのに、それを誰かに守ることに使いやしねぇ…自分さえよければそれでいい、身勝手さに心底腹が立った
けどな、お前だけだった…変わったのは
俺は何も変われなかった、情けねぇ
けどよぉ…俺は今心底嬉しいぜ
ああ、オーウェンの野郎みたいにまた会えて嬉しい~って話じゃねぇさ
今のお前が、俺と同じように情けないザマになってることがだ
随分、人間らしくなったじゃねぇか、ロボット女」
触手だけでなく地上に広がる周辺の花まで燃やし尽くしたカウレスは、拳の中に残った燃え滓を払う
「あーいてぇ」
「カウレス先輩、こわ…」
「私達まで毛先が燃えたんですけれど…」
カウレスの手を貫いたことにより、檻の中ではイナが複数の棘に刺されている
「ふ、ざまぁねえな」
「カウレス…やっぱり貴方とはわかり合えそうもありません」
「最後のは俺っすね、行ってきます」
ロイドはハナ協会コアのネクタイを緩め、深く溜息を吐いた
(…言うなら、ここしかない…か)
イナへの告白攻めにより彼女の精神にゆさぶりをかける中、ロイドは彼女に暴露するものは特段なかった
つくづく自分の薄情さに嫌気が差しつつも…たった一つだけ言うべきことがあった
触手が迫る中、ロイドは一歩も動じず、ただイナを見据えて…
「俺、アンタのことが好きだ」
そう、言った
「ひぇー!?」
「マジすかロイド先輩!」
「おお、いったな」
「………は…?」
司書達誰もがそれぞれ野反応を見せる中、イナの方も驚きのあまり触手の動きすら止まってしまった
気まずそうに頬を搔きながら、ロイドは続けた
「最初はただ冷たい機械みたいな女だな~とか思ってたんすけど、一切逸らすことのない目とか…容赦のないところとか、まぁ、惚れました」
『_________』
「だからこそ…まぁ、なんというか
アンタはこのままでいいんすか
このままねじれちゃって、ボロボロに傷ついて、俺らも殺して…いいんすか?
アンタはアンタの好きな人がいるんでしょ
このままだと、誰も幸せになれないっすよ」
幸せ、幸福、充足感?
そんなものは生きている限りもう二度と訪れない
失った幸福と、償いの日々…あらゆる過去が眩しくて痛いから、楽になりたい
そのためには…目の前にいる、あのひとを、殺さなくてはならない
それを突きつけられたイナに迷いが生じる
『……貴方になにが…わかるというの…』
「わかんねぇっすよ、アンタの身に何が起きたかなんて
だって、まだ聞いてねーし
けど…アンタの親父さんからも、大切な娘だってことは聞いてるっすよ
置いていったこと、後悔してるんですってよ
…そうだ、一発と言わず、五発は殴ってやりましょーよ」
後にも先にも行けなくなったイナの心を表したかのように、触手は動けないまま…ロイドに切り刻まれ、散っていった
『あ……あぁあ……』
どうすればいいのかわからなくなった彼女に、司書達が歩み寄る
様々な感情をぶつけられ、逃げることにすら迷いが生じた少女は…怖くなったイナは、ただひたすら誰もを近寄せないように
『こないで……見ないで、話しかけないで、聞かないで…あっち行って___!!』
檻が、イナの悲鳴に呼応する
大地から縦横無尽に槍の如く黒い棘が伸びていき、瞬く間に司書達を取り囲む
「ネツァク様!」
ロイドは指定司書の背中を押して、棘の森の隙間へ逃がす…その瞬間に司書補達を無数の棘が貫いた
一人逃れたネツァクが、串刺しになった司書補達を案じるも…棘の向こうではイナの悲鳴も聞こえてくる
「お前ら…!」
「お膳立てはしてあげました
あとは、頑張れ…っす」
痛みに苦悶の声をあげる者もいれば、先へ進むように鼓舞する者もいて
動けるのはネツァクだけ
「痛い痛い痛いぃ…!自傷行為に私達を巻き込まないでって文句言ってきてください〜っ!」
「ネツァク様に後は託します…!」
ネツァクは一人で進むことにした
向かう先はゲストの元、棘の原をひた走り…辿り着いた、檻まであと一歩のところ
檻の中で無数の棘に曝されている、腐ったスミレに覆われ緑色の血を垂れ流す…英雄の姿
それを目の当たりにしたネツァクは、悔しさと怒りと無力感で胸の内が複雑になりながらも、檻に触れようと手を伸ばした
『やめてください』
歪んだ彼女の声が静止を懇願する
『…ネツァクさん…なん…ですよね…
…あいたかった…いきていてくれて…うれしかった…でも………こんなすがた、みられたくない…』
緑色の血液は、まるで前世の自分…ジェバンニが投与されたコギトのようだとネツァクは思う
ねじれかけた、イナの姿…きっとこのままでは自らを傷つけ過ぎて、死んでしまうのだろう
あの頃…死にたくて死にたくて、自殺を図ろうとした自分のように
それだけは絶対に認められなかった
「なあイナ、話をしよう」
『はなせることはなにもありません…ごめんなさい…ごめんなさい…』
「お前は何に謝ってるんだ、俺を見て、話してくれ」
『ぜんぶ、わたしの、わたしのせいなのに…わたしは…にげて…』
「真面目で健気なお前のことだ、全部が全部お前だけのせいじゃないんだろう」
『じゃあ…じゃあ、あなたがゆるしてくれるんですか…!?
わたしのせいなのに…さいごまでだれもゆるしてくれなかった…!
ローランも…アルガリアも…!じゃあ、もうだれにゆるしてもらえればいいんですか…!』
イナの泣き声が虚しくピアノに掻き消される
悲壮感溢れる、止まない雨のようなピアノの音
「…それは、誰かがお前に「赦さない」と言ったのか?」
『…………』
「お前が罪を犯したっていうんなら、誰かを悲しませたっていうんなら…お前のその苦しみは、罪に見合ったものなのか?」
『…わたしは…』
「お前は、何のために赦されたいんだ」
何のために
その問答は、いくつか自分でも行ってきた
何故、自分は赦されたいのか
…アンジェリカを死なせたから?それは原因であり、理由にあらず
赦されたとして…どうなりたいのか
それは…
『…また…いっしょに…わらいたかった…
でも…もう、何をやっても…あの頃の家族はかえってこない…
なのに私は…身勝手に赦されたくて…贖罪のために、罪のない人達を殺しました…
結局…もう私は…どこにも逃げられないんです…』
諦めたように項垂れるイナは、虚無に包まれる
あんなに逃げたかったのに、罪悪感に苦しんだのに…自分は今、檻の中にいる
誰かを傷つける度に痛みが返ってくる、そんな檻の中
きっとこの苦痛は、生きている限り逃れられない…生命としての業なのだろう
それなら…それならば
今の彼女に思い浮かぶ、自由になる方法はただひとつ
『ネツァクさん…私を…』
_______殺してください
その瞬間、ピアノの音が止まった
少女の声が嫌に透き通っていて、心の底からの願いなのだと理解した
苦しみに耐えきれず、終わりを選ぶ……イナという少女が、レインという人造人間が、その選択肢を選ぶことがどれほどの決断か…ネツァクは、痛いほどに理解してしまった
幸か不幸か、彼の手は檻の格子の隙間を通って彼女の首へ届く
そうでなくても、檻の内の棘に全身を貫かれている彼女はそのうち息絶える
……さぁ、君はどうする?
イナという少女を
生かすか
___殺すか