「ねじれが…戻っていく…」
スクリーンに映るスミレ色が消え去る光景を眺めていたアンジェラは、信じられないとでも言いたげに呟いた
図書館が今まで接待してきたねじれは二人だが、そのどれもが元の状態に戻ることなく終わっている
ねじれかけたイナの姿は左半身をスミレで覆われていたが…その紫の花は枯れ、割れた肌の裏…黒い表面だけが残っている
完全に戻っている、とは言い難いが、少なくともそれ以上ねじれ現象が進むことは無さそうだった
ただ、それでも不満は残る
これは接待であり、イナはゲスト
命の奪い合いをして本にしなければならない
彼女はきっと、青い残響に刺さる武器になり得るのだから
「はぁ…やっぱりネツァクに任せるんじゃなかったわ」
「そうだな…こうなることは目に見えていたはずだが」
アンジェラの傍らに立つローランも、黒い手袋で拳を握る
「…何をするつもり?」
「自分の家族を捨てた責任は、果たさなきゃだろ」
接待は、まだ終わっていない
ゲストと司書を隔離する舞台はまだ開放されていない
それは…まだ、ゲストに抗う意思があるということ
ローランは、わかっていた
責任感の強いイナが、多くの過ちを犯し…それを自覚した時、どう行動するか
他者へ命の終わりを委ねる程に心が落ちてしまった、そんな彼女が命を奪われなかった…とするならば
心が追い込まれ、これ以上行き先を見失った彼女がとる行動は、恐らく…
「悪いなアンジェラ
俺も、あの子のこと諦めきれないんだ」
ローランは、とあるページを取り出した
紫の涙のページ…それは、以前アンジェラがたった一枚だけ抽出できた、「時空を飛ぶ能力」を保有するページ
ただ、限定的かつ範囲は狭く、しかも使い切りの効果…だがローランはこの時を見越してか、そのページを惜しまず使った
未だ隔離され、他の階の司書は入ることが出来ない…接待中の芸術の階へ
ネツァクは油断していた
あと三歩、あと二歩…自分よりもずっと早いイナの行動に、どう足掻いても間に合わない
目の前で、好きなひとが、自ら命を絶とうとしてる
彼の脳裏にはかつて想っていた女性が浮かぶ
血の風呂の中で息絶えた、あの人の姿が
手を伸ばす、ほんの指先ひとつ届けさえすれば、まだ間に合うかもしれない…
しかし、落ちていた剣を拾い上げ、首に添わせたイナの行動の方が早く…首に刃が食い込み、赤い血が流れる
先程までは緑色だったはずの、赤い…赤い血が
「イナッ!!」
「……っ」
彼女の顔は怯えていた
当たり前だ、本来イナはレインシリーズ…
生への執着は都市に生きる人間の誰よりも強く、それ故に自ら命を絶つことなど、本来なら有り得ない
それでも自害の道を選んだのは…そうしなければならないと感じたのは
これ以上、この幸福な気持ちを失いたくないから
イナは剣を引く、ネツァクの手は指は、僅か一センチが届かず…
「何やってんだこの、バカ娘!!」
突如頭上から聞こえた怒号と共に、イナの体は黒いシルエットに取り押さえられた
「ぁぐっ!」
「なっ…は、ろ、ローラン…」
本来ここにいるはずのない総記の会の指定司書、ローランが現れ、イナの上に乗っている
剣を握る手を抑え、身動きの取れないように
「悪いネツァク、邪魔するぞ」
「ろ…ローラン…どうして…どうして邪魔するんですか!」
「そりゃ、するだろ」
「私が憎くないんですか!邪魔じゃないんですか!
私のせいで……あの人は死んだのに…どうして死なせてくれないんですかっ…!」
イナも負傷してる、だが火事場の馬鹿力という諺もある通りに、負傷してるとは思えない力でローランを押し退けようとしている
だがローランにも意地がある、ここで力負けするわけにはいかなかった
「憎くないと言えば嘘になる
だが…俺がお前を捨てたのは、憎みたくなかったから
俺が手を汚すのに…お前を巻き込みたくなかったからだ」
「は…そんな…そんなはず…だって…私のせいで…」
「彼女は自分の意思でイナを守った…その覚悟を、俺は否定したくないんだ
そして、彼女が守ったお前を…大事な娘を、喪うわけにはいかないんだ」
イナの頭と手を押さえる腕に力が篭もる
大切だからこそ、ここで殴ってでも止めないといけない
家族だから…少なくは無い時を共にした、父と娘だから
「これは俺のエゴだ、俺の傲慢だ、イナがどうしたいかなんて関係ない
自殺なんて馬鹿な真似、絶対にするな!」
「…なんで…なんで……」
イナの体から、力が抜ける
念の為剣を奪い、ローランはイナの上から退いた
「…イナ、覚えているか?あの詩
私の魂が深淵の底を彷徨う時にも、苦痛はいつもそばに座り私を守ってくれた故」
「……どうして、苦痛を恨むことができましょう…」
「…苦しい時に一人にしてごめんな
オリヴィエに頼んでたんだが、アイツが家に行った時にはお前がもういなかったって…
俺が弱かったから、イナにまで最悪の道を歩ませてしまった」
背を抱きイナの体を起こすも、彼女は俯いたままその表情を見せない
だが、優しい父の手の感触に、少なくとも…舌を噛むことも出来ない様子
「イナがあの野郎を信頼してるのは知っているが、あれはもうダメだ
アイツはお前を死ぬまで追い詰める…現に今そうなってる」
「…それは…私が、赦してほしいって…お願いしたから」
「アイツはお前を赦すつもりなんてハナからないんだ、庇う必要も無い
イナも、アイツから逃げてきたんだろう?
今こそ、ネツァクが言った言葉を言う時じゃないか?」
イナが初めて顔を上げた
絶望に染った暗いスミレ色の瞳は、一歩離れた場所に立つネツァクへと向けられた
「…イナ」
不安そうな顔は、機械だった頃には想像もつかない程に人間的で…
その時、イナは気がついた
ネツァクの顔立ちは、どこかで見覚えがあるものだった
記憶力のいいクローンであるはずのイナがハッキリと思い出せない記憶貯蔵の奥の奥…片隅の欠片
それは彼女が生まれる前から存在していた…遺伝子に取り残されたもの
オリジナルが遺していたかった、宝物の記憶
たった一欠片の細胞で複製されるクローンにまで記憶されているそれは…幼いオリジナルが研究施設で迷った時に見つけた、とある病室にいた青年
緑色の髪と、気怠げな胡桃の瞳、活力のない病弱そうな肌
オリジナルが青年の名前を呼べず…砕いて呼んだ、「ジェニー」という渾名
ネツァクがそのジェニーに、よく似ている…否、彼女の視覚情報で較べてみれば、ほぼ一致している
「…ジェニー……なんですか…?」
驚きの余り、イナは声に出して問い掛けていた
ネツァクが少しだけ、目を見開いた後…吹き出すように笑った
「はっ…今更気がついたのか?」
「なん…え…貴方は…とっくに気付いて…?」
ネツァクの反応にたじろぐイナの掌の上に、彼は自身の傷だらけの手を乗せた
「とーっくの昔に知ってたさ
ジェバンニの病室に迷い込んだ小さな女の子が…魔女によって複製されたもの、そのうちの一人が君なんだろ」
「そん…な……それじゃあ、私は…オリジナルの感情が…でも、それは…」
混乱するイナを落ち着かせるように、ネツァクはいつも以上に緩やかな声で彼女へ言葉をかける
「大丈夫だ、イナ
俺はジェバンニから作られたけど、ジェバンニ本人じゃない
それは君も同じ…レインから生まれたけど、レイン本人じゃない
俺は君がレインだから好きになったんじゃない…君が君だからだ、そこだけは絶対に違わない」
「…私が…私だから…?」
きっかけは単純だった
ネツァクによる意地の悪い質問から、イナは…レイン575は思考することを覚えた
それまで母の命令通りに、生存本能に従って生き延びていた、そんなイナが思考を覚え、世界を取り巻くあらゆる構成要素を認識できるようになった
他者の感情、人生、夢…自分と他人以上に、多種多様な人間がいることで世界が成り立っていることを知った
そしてそれは、イナ自身も同じ
無数のクローンのひとりでも、彼女は他のクローンとは明確に確立された自我を持っていた
ねじれが発現したのが、何よりの証拠でもある
誰かを守るために笑って死にに行ける…その勇気は誰にも持てるものではない
イナがイナだから出来たことであり、そんなイナだからこそ…ネツァクは想い続けてきたのだ
自分だけでも、覚えていられるように…
「オーウェンが死んだ日、君は今まで何とも思っていなかった誰かの命が失われる瞬間に苦しみ、泣いたじゃないか
その痛みを知って、今度は誰かを守ろうとした
…その結果、あの日、多くの職員が守られた
俺はあの日の選択を後悔してる
俺が君を頼ったから、君は死んでしまった
…けど、それと同時にあの選択を大切に思っている
君は自分の命よりも、より多くの誰かを救った…命の価値を比べてしまえばキリはないが、そんなもの関係なく、君は目の前の誰かを守った
それが、俺は誇らしい」
「…」
「他のレインとイナの明確な違いだ
君は痛みを知り、心を知り、他人を見るようになった…人間になったんだ
今は、積み重なった苦痛に耐えきれなくなっただけ…けどイナはひとりじゃない
ローランとか…その、頼りないかもしれないが俺もいるから
だから、死なないでくれないか…君が死ぬと、俺が悲しいんだ」
人は、ひとりで生きてはいけない
自分以外の何かと関わって人生は続いていく
それが続く未来に繋がることもあれば、心を潰すほどの苦痛に繋がることもある
生きてほしいと願われることも、死んでくれと呪われることもあるだろう
ましてや、自分で自分を呪うことだって
自分自身を呪った時、自分自身を殺そうとした時…残された者達は、どれほど苦しむか
大切な人が死ぬことで得る苦痛を、イナは誰よりも知っているはずだった
「…私、生きてて、いいんですか…」
「良いか悪いかなんて、誰にも決められないんじゃないか
生きたいと願うこと…生きていてほしいと願うこと、そこに善悪なんて無いだろ
イナの命は、誰のものでもない…君だけのものだから
でも、俺は君が死ぬのは嫌だな」
「………ほんとうに…貴方って、ずるいひと…」
振り返ってみれば、以前からそうだった
先に質問したのはこちらなのに、それに対して質問で返してくる意地悪さも
注意に対して適当に流したり、苦手なものに対して得意げに見せつけたり
ずるいくせして、あの会社の中できっと、人が死ぬのを直視出来ずに苦しむくらい…誰よりも優しい、そんなひと
それが、ジェバンニという青年から造られたネツァクという人工知能であり…イナが心底惚れた、ただひとりのひとだった
彼女は暖かくなっていく頬に涙を流す
もう、イナは自分を殺すつもりはない
しかし
「…でも、ごめんなさい…ネツァクさん…ローラン…みんな…」
「うん?いきなり謝ってどうしたんだよ」
黙認していたローランが、イナの顔を覗き込んでは心配そうに眉を顰めた
イナの顔が、みるみる青ざめていき…なにかに怯えるように手が震え出した
「…私の命は、もう、私のものじゃなくなってしまったんです」
イナが、青い光に包まれる
嫌な予感がしたローランとネツァクだが…強くイナの手を掴もうとも、無意味だった
「……助けて、ください」
瞬間移動…まるで魔法のように、イナは瞬く間に芸術の階から姿を消した
「残念だったねアンジェラ、あの初期型を本に出来なくて」
「…」
アンジェラ以外がいないのを見計らい、ヴィオラは姿を現した
その言葉は皮肉的で、それでいて本当に同情しているようにも見える
アンジェラはそんなヴィオラの言葉に不満を飲み込みながら大きく溜息を吐き出した
「まぁ…いいわ、接待の過程でも感情の増幅による光の抽出は出来たもの
十分な成果は得られた、と言えるわ」
「そう、光は最低限のノルマ分集められた…それに伴い、
この意味、わかるね?」
ヴィオラは普段の胡散臭い笑顔ではなく、珍しく冷たい無を浮かべている
そう…図書館の「光」を求めている者達がいる
図書館は招待状を介して入ることが出来る異空間だが…それが実体化したということは、招待状が無くても
光を求める者達は、きっとこの時を待っていたのだろう
「来たよ…不躾なノックと共に、最悪な奴らがさ」
図書館の入り口は轟音と共に吹き飛んだ